屋根職人の道具
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投稿者「叢林亭」:http://www.sorintei.com
親方が現場主任のリュシアンを連れて挨拶に来たのは、長い冬が明け、雪割草が白い顔をのぞかせた3月も中旬のことでした。「来週から始めるから・・・。」そう言い残して二人は帰ってゆきました。
しかし、リュシアンが実際に二人の若い衆を連れて現われたのは、それから2週間後のことでした。「田舎に用事ができて行かねばならなかったので・・・。」リュシアンは一応言い訳をしました。この際、1・2週間の遅れなど取るに足りない。1年と3か月待ったのだから。
いよいよ、スレート屋根の葺き替え工事です。どうやって葺くのか?シャトーの広大な屋根やノルマンデイー地方の民家で垂直の壁をスレートで葺いてあるのを見るたびに興味をかきたてられました。
最初の2週間は、足場を組み、古いスレートを剝して降ろし、傷んだ垂木を取り換え、小舞を打ち付けて行く準備作業に費やされました。
リュシアンが連れてきた二人の若い衆は、ひとりはずんぐりとお相撲さんのように肥ったロマン、もうひとりはリュシアンの息子でした。後に亜鉛板の加工になると親方の息子が来ましたが、大抵は、初めの三人が朝9時頃やってきて、昼休みを1時間取り、夕方4時には片付けて帰ってゆきました。週35時間の法律を順守しているのです。親方の事務所は同じヨンヌ県でも北の端にあり、60km離れています。「実作業の時間が短くてね・・・。」リュシアンが複雑な笑いを浮かべながら言いました。
スレート(フランス語でアルドワーズ)は天然の粘板岩で、泥土が川底に堆積し圧力を受けて出来た変成岩の一種です。薄板状に割れやすく、昔は子供が筆記用の石盤として学校へ持って通いました。最近では、ちょっと田舎風のレストランが趣を出すのに、その日のメニューをアルドワーズに書いて客に見せます。
リュシアンたちが持ってきたスレートは長方形の規格のサイズに切られたスペイン産の黒味が勝ったものでした。フランスではロワール河の河口近くのアンジェ周辺で採れるアルドワーズが最高級とされ、晴れた夏の日には青灰色の美しい輝きで屋根を際立たせます。しかし、最近は採り尽くしたといわれ、値段が高い。予算に限りがあったけれども、天然産がいいという家内の要求を容れ、親方はスペイン産を購入していたのでした。
「小舞と小舞の間隔は11センチだよ。」最後の日にリュシアンは余った200枚近くのスレートを親方に内緒で譲ってくれ秘法を伝授してくれました。長方形のサイズは32cmX22cmですから縦方向の約3分の1です。
スレートの止め方は2種類あって、上辺近くに穴を開け頭の平たく大きな釘で止めるのと、小舞に打ち込んだピンに下端を引っ掛けて止める方法があります。屋根の稜線部は別ですが長方形のスレートの縦3分の2を、横半分を重ね、ちょうど魚の鱗のように葺いてゆく。露出して雨を受ける部分は全体の6分の1でしかないのです。あとは縦横とも2重に重なり合っていて接合部から侵入する雨を下に流します。
ようやく3週目に入ってスレート葺が始まりました。まず屋根の稜線部から葺いてゆきます。面と面の接合部で、ここがいちばん難しく、職人の経験と技が求められる作業です。「面と面の接合部が直線である」と単純に言っても現実は曲がったりでこぼこがあり、それを見分けながらカンと経験で雨が浸入しないよう葺かねばなりません。稜線部のスレートは写真のカッターで台形に切り揃えます。これはすべてリュシアンがやりました。
この記事はゲストハウス「叢林亭」に関するものです。http://www.sorintei.com をご覧ください。
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請求書は見積書とビタ一文違わない金額でした。これが、良心的で信頼のおける親方の評判を得ている所以だろうと了解しました。
家内が言うには、この親方はコンパニオンなのだと。門外漢の外国人には解りにくいですが、フランス人には、この一言ですべてを表わすような意味深い言葉のように聞こえました。昔勤めていた会社が建設業だったこともあって、この言葉を耳にしたこともあり、関係機関を訪れたこともありました。
コンパニオン・デ・ドウヴォワールという組織がフランスにあります。主に建設分野の教育・研修機関で、全国の企業から徴収する研修税を財源に、若者に技術と職業倫理の教育を施しています。その基本精神は、中世の石工の同業組合、フラン・マッソン、つまりフリーメイソンに起源を発しているといわれています。最初にできた本部はロンドンで、正規派と呼ばれ、パリの本部(グラン・ロッジュ)は非正規派と呼ばれ別名フランス大東社(Grand Orient de France )とも呼ばれますが、今日でも隠然たる影響力を政界に及ぼしている。フランス大革命に主導的な働きをなし(処刑された会員も多いらしいですが)、1789年の人権宣言の表紙にはシンボルマークの眼が見開いている。アメリカの1ドル紙幣にある「万物を見通す目」です。NYの自由の女神像はフランス系フリーメイソンの贈り物だという。モーツアルトが会員だったというし、アメリカの歴代大統領の14人が会員です。
すこし飛躍しました。フランスの建設業界では今日なお、この伝統的な教育システムで腕を磨き職を身に付けた人が多い。飛躍ついでにいうと、建設業はフランスの外貨の稼ぎ頭です。昔からの名門ゼネコンに加えて、ブイグやヴィンチなどが中東や中国で活躍しています。
中世からの徒弟制度の色合いを多分に残した教育制度。親方を中心に弟子が寝食を共にして修行する。現代工業化社会にこうした人間的な一人一人の個性を重んじる教育制度が残っている。魅力的で大いに興味を惹かれました。最近の若い人は嫌がって大企業の現代的な組織を好む。しかし、現代工業化社会とはT型フォードの流れ作業生産方式に始まって、すべてを規格化し、どの部品も置き換え可能なシステムを意味します。
ちょうど、フランスでは、今年がパリ五月革命の40周年にあたり、テレビで特集をやっていますが、僕が日本で学生だった頃は、学校が規格品人間を大量生産する工場に成り果てたことへの抗議と反抗が爆発し、バリケードやゲバルトが荒れ狂った時代でした。
コンパニオンでは全国の優秀な親方を訪ねて地方巡業をする。卒業制作を発表し、一人前の腕を認められると職人として全国に通用する。パリ市庁舎の裏にコンパニオンの本部があり、南西郊外のヴァレ・ド・シュヴルイユには緑に囲まれた広大な敷地にクーベルタン財団のアトリエがあります。ここでロダンや、パリのオペラ座を飾るブロンズ像を鋳造したとのことでした。とにかく、その教育・研修の施設と組織はすばらしいと感じました。
コンパニオンとフラン・マッソンについて、見聞きしていたのはその程度のことですが、屋根職人の親方がコンパニオンと聞いて、おおいに興味が沸きました。瓦屋根で待たされたにかかわらず、も少し技術を要するスレート屋根の葺き替え工事も同じ親方に頼んでみようと決めた次第でした。
工事の見積りが届いたのは、瓦屋根の工事が終わって間もなくのことでしたから2006年の1月の中旬でした。「予算がこれしかないので、この金額に収まるよう見積ってください。」すこし恥ずかしくもあり、小声でいうのを親方は無言で聴いていました。その依頼通りの金額で見積りが届きました。しかも、アンジェ産でないとはいえ、スペイン産の天然スレートを使っての値段です。文句なしにOKのサインをして送り返しました。
しかし、それは試練の始まりでした。パパーンパーン。モーツアルトの魔笛の序曲で3度音が鳴り響きます。フリーメイソンの入所式の試練の合図だという説があります。発注から1年と2か月が経過しても、いっこうに連絡がありません。雨が降るたびに、試練が降りかかりました。雷が三つ鳴る。さあ、たいへん。雨漏りがはじまる。屋根裏に空き缶、バケツ、ポリ容器と、ありとあらゆるウツワを並べ、風向きによる漏水箇所の微妙な変化に合わせ容器を移動しなければならない。大雨の日には容器に溜まった水を集めると、3杯も4杯ものバケツの水を降ろさねばなりませんでした。ついには家の部屋の壁に雨水が浸入し、まっ白くきれいな壁が茶色に変色し、シャンピニオンが生えだす始末です。
「なんで、こんな辛い思いをしなけりゃならないのか?」コンパニオンに信頼を寄せたばかりに、こんな試練を享けねばならない。「信頼をいいことに、どこまでつけあがるつもりなのか?」怒りが込み上げ、なんども家内と言い争いをしました。うちひしがれ、しまいには、なるようになれと投げやりになりながら、それでもいつかは来てくれる筈だと、難破船の甲板で塩水に打たれながら救助を待つ難民のように、一縷の望みに希望を掛け待ち続けたのでした。
ここで取り上げているのはフランスはヨンヌ県の叢林亭の工事です。詳しくはサイト: http://www.sorintei.com をご覧ください。
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瓦屋根の葺き替え工事をしたのは2006年の1月のことでした。その夏、発注した時に「いつ来てくれる?」と訊くと「10月」という返事でした。その頃はまだパリ近郊のアパートに住んでいたので、工事の間はどこへも行かず田舎の家に住まないといけないねと家内とも話し合いました。
しかし、10月が来てもいっこうに知らせがありません。事務所に電話すると、秘書の女性しかおらず、スケジュールについては親方しか知らないとまるで子供のような返事です。やっと親方を捉まえ、「10月と言ったじゃないか」と詰め寄ります。「それは、予定の話で、工事いうもんは予定通りゆくためしがないんですよ。」まるで現場を知らない客を非難するような言い草です。「いま抱えてる大きな現場で問題が生じて、現場主任の手が離せないので、もうしばらく待ってほしい。」
それからも何度催促の電話を掛けたことでしょう。そもそも、この親方を選んだのは家内が昔住んだ町の古い家をこの親方が買い、顔見知りだったということと、市役所から信頼を得て仕事を貰い、この地方のあちこちで屋根を修復している良心的な職人だという評判からでした。
「旅行にも行かずに待ってるんだよ。工事の間は家に泊まらないといけないから、いつごろになるか教えてほしい。」「留守でもかまわないですよ。工事はやれますから。」
瓦屋根は路地に接し、市役所に申請して路地に足場を組む許可を取ってありました。「冗談じゃない。足場を組み、屋根をぽっかり開け、まるで、泥棒さん、入ってくださいと招くようなもんじゃないか。」あちこちで空き巣や強盗のニュースが絶えないきょう日です。「ああ、そうか。」親方の答えはまるで他人事でした。
「現場主任をひとり雇わなくちゃいけないな。近いうち見つけるから、しばらく辛抱してください。」個人住宅の工事の伝統的発注の仕方は見積書にOKとサインし送り返すだけです。納期に関し、なにも条項がなく、業者の都合に全面的に任せる形です。見積金額の有効期限だけは3か月と記され、業者の都合で工事が遅れる場合は、物価上昇に因る損失は業者が負うと但し書きがついているので、いくら遅れても、完工後の請求書は見積金額どおりなんだなと了解していました。
「明日、行くから。」正月の気温が零下7℃の寒い日に電話が掛ってきました。待ちわびていたことなので四の五の言わず、その日のうちに家を移りました。翌朝小型トラックで現場主任のマルセルと若い見習いが二人ちゃんと姿を現わしました。その週は毎日が、氷点下の日で、鼻水が氷り、雪がちらつくなどし、一日は田舎の道の路面が凍結し、三人は来ませんでした。その一日を除いては毎日、朝と午後、熱いコーヒーを出して元気づけ、職人さんたちは陽気に冗談を飛ばしあいながら働いて、正味5日で瓦屋根の葺き替え工事は無事完了しました。
ここでいう田舎の家とはフランスはヨンヌ県の叢林亭のことです。詳しくはhttp://www.sorintei.comをご覧ください。
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前回は長さの単位について書きました。重量の単位のキログラムはいまだに現物を原器としています。キログラム原器もフランスにあり、日本の筑波にある複製はほんの少しだけ重さが違うらしい。指紋の重さに相当するコンマNミリグラムの誤差があるとのことです。
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風薫る五月です。
バナーの写真をライラック(リラ)に変えました。
今日は、おすすめブログとサイトのご紹介をさせて頂きます。
このブログとWeb site : www.sorintei.com が出来たのも、次の方々のご助力のお陰です。
1) 手作りお菓子のレシピに創意工夫のセンス溢れるMme Soleil の人気ブログ。
レシピのほかに書評をいつも読ませて頂いています。
http://bonappetit.exblog.jp
2) フランス語で日本の庭園、植物の紹介を続けている準植物学者ソフィーのサイトとブログ。
日本語はもちろん読み書きできます。前回は60種もの桜を紹介。脱帽です。コメントをあげて下さい。
http://jardinsbotaniquesjaponais.blogspot.com
http://www.jardinsbotaniquesjaponais.fr
3) 奈良の東大寺の脇でプチ・ホテルを20 年以上経営しているベテランご夫婦の気品溢れるサイト。
ブログは奈良に住む人でなければ書けない旬のオリジナルな情報の宝庫です。
http://www.naraclub.com
http://naraclub.blogspot.com
4) 日本の主要都市とニューヨークでも開かれるシルクフラワーを使ったオブジェの創作教室の美しいサイト。
http://www.inseason-ny.com
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フランスでゴルフをする時ついてまわる問題に距離の表示があります。
「1番ホールはパー4で435メートルですよ。」
「メートル?弱ったな。狂っちゃうな感覚が。ゴルフはどこでもヤードなんじゃないの?」
「中野さん。フランスはメートル法の発祥地ですからね。」
「そうだったかね。えーと。ヤードに換算すると幾らかね?」
フランスでゴルフを始めた僕の方が特殊なのかもしれませんが、日本だって道路標識はすべてメートルなのに、なぜゴルフだけヤードなの?と逆に訊き返したくなります。この練習法ならドライバーの飛距離が「300ヤードは軽く飛ぶ」ようになると。日本でゴルフを語る時はヤードを使わねば始まらない。
フランスの田舎の畑の中の一直線の高速道路をドライヴします。速度制限の標識に110/130とあります。「マイルですかキロですか?」と中野さんがまた質問を発します。「やだなー。いまどき、全世界どこいったってメートルじゃないんですか?」「アメリカもカナダもマイルだよ。フランスだけ特殊なんじゃねーの。」
そうかな。そんなはずないと調べてみました。やっぱり中野さんが間違ってました。パリへ着いたばかりの頃、もう30年も昔の若かりし頃ですが、好奇心も旺盛だったので、メートル原器なるものを見に行きました。ブローニュの森を抜け、セーヌ川の橋を渡り、セーヴル焼の工場の近くの建物の中にそれはあった。白金90 % イリジウム 10%の合金で出来ている原器はガラスの箱に厳重に保管され、金の延べ棒なんかよりよっぽど貴重に見えた。ふうむ。これが世界中の定規の元になった原器かと感慨に打たれたのを覚えています。
フランスでメートル法が提唱されたのは200年以上も昔、大革命の翌年の国民議会でタレーランによります。何をもって1メートルとするか、それがすごい。「地球の北極点と赤道までの経線の距離の1000万分の1」が定義です。そんな昔、どうやって測ったんだろう?という疑問が当然沸きます。「ダンケルクとバルセロナの距離を三角測量し、計算で出した・・・。」とあります。
そうして決めたメートルも中々普及せず、1837年に1840年以降はメートル法以外の使用を禁じ、違反した者には罰金を課すと法で定め、ようやく普及し始めたそうです。フランス国内でさえこの体たらくですから、ましてや外国では・・・。
日本でも僕が子どもの頃はまだ尺貫法が残っていました。敷地や建物はもちろん、お酒は一升だし、お米は五合、距離も尺と里が日常使われていました。学校ではメートル法を習っていた僕らでも、特にお相撲さんの体重は貫目でないとピンときませんでした。栃錦は34貫、鏡里、吉葉山40貫。これが120キロと言われるともう日本の国技たる相撲ではなくなってしまう気がしました。そこへゆくと、ボクシング、プロレスは「白のコーナー、xxx。○○パウンドー」とコミッショナーの威勢のいいマイクの声が場内に轟いてこそ、さあ、いよいよ始まるぞ・・・と心臓がドキドキした。
1875年パリでメートル条約が17カ国の代表の署名を得て締結されます。
日本は1884年のメートル原器製作を機に加盟し、1889年に22番目の複製を貰います。日本にこの原器が到着したのは翌年のことでした。
それから今日まで普及に大変な時間が掛っています。
尺貫法が廃止されたのは1921年。そして1959年になって、土地、建物の表記を除き、メートル法を完全実施する法律ができ、全国実施されたのはなんと、1966年4月1日からのことに過ぎません。原器到着から76年も経っています。
いかにプラチナで作ってあるといっても人工物では気象条件、経年変化が避けられない。そこで1960年の総会で物理現象に基準を置くように変えられます。
「クリプトン元素が発する橙色の光の真空中の波長のxxxx倍」なんという精度でしょう。さらに1983年には「1秒の光の伝わる距離のxxx分の1」と定められます。光の速さは1秒に30万キロメートル、地球を7回り半だよと子供の時教わりましたから、ほぼそれが基準になったわけです。
はじめに戻りましょう。ヤード・ポンドを使っているUSAと英国が本場で、フランスが特殊なのか。調べたら、とんでもない、とわかったのです。
1875年パリで締結されたメートル条約にはUSAはなんと最初から原加盟国として署名しています。法律上はUSAでさえ、メートルが正式単位なのです。頑固おやじがたくさんいて、フランスが決めやがったメートルなぞ使えるか。それが実情だから、慣習上の単位(Customery unit )としてマイルとかフィートとかヤードの使用を認めているだけなのです。
ヤード・ポンド法というのは日本だけの呼称のようです。英国人はさすがにImperial unitと呼ぶそうです。その英国でさえ、1995年に国際単位、つまり、メートル法に移行し、2000年にはヤード・ポンドの使用を禁止さえしているのです。ただし、一部を除いて、とある。これがくせものなのです。ゴルフはヤードのままだろうし、航空宇宙分野では、ヤード・ポンドなしで仕事はできないそうです。USAでもアメリカンフットでメートルは使わないでしょう。しかし、いまや世界中でヤード・ポンドの使用を禁じていないのはUSAとミャンマーとリベリアだけだそうです。
それじゃあ、フランスが提唱したメートル法が全世界に普及し、めでたしか。フランス国内ではメートル法さえ知っていれば問題ないかというと、そうはゆかないのが、この度量衡の複雑なところです。
フランスの、それも日常市民が触れる分野で、今もって、歴然とヤード・ポンドが使用されています。配管のパイプの径、ボルト・ナットのサイズ。それを締めるスパナの口の幅、これらが公然とプッス(親指のこと、つまりインチ)で表示されているのです。日曜大工で水洗トイレのバルブを取り換えようと定規でサイズを測る。家にはミリ・センチ単位の定規しかありません。店に行くとフランス製でもみんなプッス表示です。伝統なのでしょうかね?昔ぼくらが横綱の体重をキロで言ったら相撲じゃなくなると感じたように。ネジ山の切り方にはインチとミリとが混在していて、ややこしいこと極まりない。これが実情です。
慣習だ。と言ってしまえば、それまで。僕らでさえ、朝市で野菜を買うとき、シャンピニオン(きのこ)を指して「ユヌ・リーヴル・シルヴプレ」と言ったりします。その方が 「ツウ」じみてかっこいいから。そういう心理が働いていると思います。500グラムくださいじゃ、化学の実験くささがある。いまだ「法律違反だぞ。」と言われたためしがありません。ポンドのフランス語訳がリーヴルですが、昔からの単位でパリでは489.5グラムだったそうです。粋がるにも、10グラムばかり損をする覚悟がいるわけです。
フランスの田舎に住むと昔の単位を使わされます。暖炉で燃やす薪を注文するときはステール(stere=1m3)、体積の単位です。ゲストハウスのホームページ:http://www.sorintei.com をご覧ください。
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ゴルフがセント・アンドリュースで楽しまれはじめるより前のことにつき、触れてみます。
定年退職する前、北フランスのベルギーとの国境に近い、進出したばかりの日本の自動車メーカーの工場に勤務していました。日本から大勢のトレーナーさんが現地のメンバーの指導に来ていましたが、現場の通訳だった僕は、トレーナーさんたちからゴルフを教えてもらい、その難しさと楽しさを知るようになりました。
ベルギーにはきれいなゴルフ場が沢山あり、フランス側には、住んでいた町から高速道路で15分のところに牧場に接した美しいゴルフ場がありました。覚えたての頃、夜勤明けで昼ごろ目を覚ますと、ひとりでこのゴルフ場へでかけたものでした。
前夜に雨が降ったり、まだ雪がところどころに残っていたりする日には、そのゴルフ場でフランス人たちが長靴を履いてラウンドしている姿をよく見かけました。まるで畑の中を歩くような恰好でプレーしています。それは、紳士のスポーツと言われているイメージとは、かなりかけ離れたものでした。
日本にいる時、僕は若くて自分で金を稼いでいなかったこともあって、ゴルフに対してはむしろ悪感情を抱いていました。スポーツとはどこか粗野でしかも大衆的でなければならないものと思い込んでいたものでしたから、ゴルフなんて金持ちのお遊びじゃないかと。国土の狭い日本で広い場所をとり、会員権に法外な金を払い、さらに高いグリーンフィーを払わなければできないゴルフなんて。金持ちだけが遊べ、大抵のサラリーマンは、仕事の一部としてか、単にエリート意識を満足させるためにやってるだけじゃないか。真にスポーツというに値しないと思っていたものです。自分でやってみて、こうした見方が、多分に偏見に過ぎないことがわかりましたが・・・。
その北フランスのゴルフ場でみた光景は、僕が抱いていたゴルフのイメージを大幅に変えるに十分なインパクトを持っていました。長靴を履いて、雨の日の晴れ間にちょっとそこらを散歩してくるといった気軽な感じで「この人たちはゴルフを楽しんでいる。彼らがラウンドのあとクラブハウスで地ビールを傾けながら仲間同士でふざけあう様子はまことに楽しそうでした。
その地方は昔フランドルといいました。ブルゴーニュ公国の領土になった時代もあったし、現在の北フランスとベルギー、オランダまで広がっていました。
いつだったか、長い冬が明け、春の日差しが暖かく射していた日曜日、工場の仲間と近所のウオーキングにでかけたことがありました。ゴルフ場の近くの村を通り抜けたとき、テニスコートくらいの広場で、村の若者たちが十人ほど、ちょうどバレーボールのようにふた組に分かれ向かい合って、堅そうなボールを手のひらで打ち合って遊んでいたのです。
「ああ。ジュ・ドウ・ポームだ。」とっさにパリのチイルリー公園の西端にある小さなオーカー色の建物を思い出しました。大革命の頃、ここの遊技場に人々が集まって重要な決議と宣言をしたのでした。その遊技場で行われていたのは、テニスとバレーボールの合いの子のようなもので、堅いボールを手の平で打っていたことから「ジュ=ゲーム」「 ポーム=手の平」と呼ばれていました。村の若者たちは、昔どおりのパフォーマンスでゲームの保存をしていたのでした。
現代スポーツの起源を探ると意外に面白いことが発見できます。スペインとの国境近くバスクのバイヨンヌにはシステラの博物館があって、昔使った道具が展示してあります。その中に、まるで昔、貧乏だった日本の少年たちが親に作ってもらった手製のミットやグローブそっくりの布製の手袋があります。システラはテニスと野球の起源とも言われています。
いまや世界中の民衆が熱狂しているサッカーは、村と村とで農民が太陽を奪い合う象徴的な祭りに起源を発している。サッカーボールは農民にとり、かけがえのない太陽のシンボルだと。それで、ヨーロッパの民衆は、あんなにもサッカーに熱狂し強いのだ、と言う説があります。
ゴルフの起源につき。羊飼いが持っていた杖で地面の石ころを叩いて飛ばしたのが始まりだとか、いろいろ唱えられています。ブラッセルの美術館は16世紀フランドル派の絵画の宝庫ですが、ここには冬景色の中の氷の上でアイスホッケーをして遊ぶ子供や村人たちの絵が幾つも壁に掛けてあります。
あるとき、僕はゴルフ雑誌で、オランダに「コルフ」という名の村があり、こここそがゴルフの発祥地だとする記事に出会いました。フランドル地方の漁民たちが、木製の硬く平たいボールを長い柄で打ち合って、町の家々のドアを標的にぶつけて遊んでいた。そして、そのボールが昔の漁船の中から発見され、英国へ輸出されていたことがわかった、とありました。
しばらく経ってから、こんどは本格的なゴルフ大陸起源説に出会いました。1099年、日本の頼朝が鎌倉幕府を開く100年程前に、ノルマンデイーは、ソンヌ川の河口、サント・ヴァレリーから数百隻の船が英仏海峡を渡り英国のハスチングに上陸し、たちまちロンドンを占領しロンドン塔を建てます。ウィリアム征服王の英国上陸作戦です。このとき、ウイリアムに従って沢山のフランドルの領主が家臣をともない英国に渡りました。征服を達したあと彼らは英国やスコットランドに住み着きます。彼らが日常を楽しんでいたゲームを現地の英国やスコットランド人に教え、それがスコットランドにゴルフの発祥地としての栄誉を与えることとなったのだと、おお筋こういう説でした。僕は、この説は歴史の裏付けがあり、工場近くのゴルフ場で見た、フランドルの人たちのゴルフの楽しみ方から見ても、案外、的を得ているのではと思うのですが、皆さんはいかがですか?
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ヨンヌ川が緩やかにカーヴし、対岸の樹木の茂みが曲った川の先を隠してしまう。川沿いに数軒の家が並んでいる。その光景を見たとき、僕は「これは、どこかで見たことのある風景だ・・・」と思いました。
デジャ・ヴュというのはシュールレアリストたちが広めた言葉でしょうか。ある光景を見たとき、これはいつか、どこかでみたことがあるという印象を抱く。そういった心理現象をデジャ・ヴュと呼んだ。その光景を過去世で見たことがるからで、どこかで見た印象を持つのは、過去世の記憶が甦っているのだ、と輪廻転生に関係づける議論を読んだこともあります。過去世のことゆえ、いつ、どこでだったかは思い出せない。ただ既視感だけを抱くのだ・・・と。
ヨンヌ川を見てデジャ・ヴュの印象を抱いたのは、過去世においてではなく、れっきとした現世で見た記憶が甦ったからでした。その記憶はすでに半世紀を隔て、半ば過去世の記憶になりかけていたとも言いうるのですが。
駅から「別所」と呼ばれていた川っぷちの小さな家まで馬が曳く馬力に乗って行ったのを覚えています。四歳の時の事ですが今でも荷台に揺られながら見たその時の光景は心の底にしっかりと残っています。でこぼこした白っぽい土の細長い道が曲がりながら畑の斜面に消えている。
その家は小川の淵に建っており、川の上に張り出した縁側から、対岸の土手、その向こうに広がる畑や田んぼ、そして眼路の果てに低い山並みが青くかすんで見えました。六畳か八畳一間に台所と風呂場だけの小屋のような家に祖母とふたりきりで二年間暮らしたのでした。
東京のそれも新宿は花園神社の向かいの病院で生まれた僕が何故こんな田舎で暮らしたのでしょうか?それはやはり戦争のお陰と言わねばなりません。終戦の一年前に生まれた次男の僕は、戦後の食糧難の時代でもあり、すぐ後に生まれた妹ふたりを抱えた母親の手に余ったのでしょう。兵庫県の姫路から、日本海側の山奥へ入った八鹿という田舎に預けられたのでした。
家の前の小川は岸辺を熊笹やネコヤナギに覆われ、緩やかな弧を描いて目路の果てへ消えてゆく。ヨンヌ川と規模こそ違え、同じ光景が記憶の底に刻まれていたのです。
小川の土手には春先になるとネコヤナギが銀色のニコ毛に蔽われた芽をふくらませ、蕗のとうが顔を出しました。蕗のとうの後にはツクシを摘みました。祖母は蕗のとうもツクシも煮て食しました。ほろ苦い味を覚えています。ほかに土手に生える細い竹を切り、村の少年が作った杉鉄砲も覚えています。杉の小さな実を詰めピストンを押すと、ポンと音がして杉の実が飛び出しました。
それは、「ふるさと」の歌詞のとおり、夢は今もめぐる、忘れがたきふるさとです。しかし、今はもう失われた、僕の記憶にだけ留まる日本の原風景です。 「ふるさと」想い涙ぐむ。犀川をこよなく愛した室生犀星は、なぜ「ふるさとは帰るところにあるまじき」と詠ったのでしょうか?数年前、帰京した折、日本のふる里に行ってみたくなりました。変わり果てたふるさとを見れば幻滅を味わうだけだよと人にも諭され、幼年時の故郷はやめて犀星の故郷、金沢を訪れました。帰途、白川郷へ寄りました。そこには、まぎれもない日本人のふるさとがありました。同じ宿にアメリカ人が居て、ご主人がもてなしに焚いてくれた囲炉裏の火を煙たがり目をこすりながら部屋を出て行ってしまうなどのハプニングもありましたが。土と木と水の棲家、深い落着きと安らぎを味わうことができました。 よしや、うらぶれて、異土のかたひとなるとても、帰るところにあるまじき。 異郷で落ちぶれ果て、乞食になったとしても故郷には帰るべきでない。ここまで唄った犀星は故郷へ帰ってどんな仕打ちを受けたのでしょうか?犀星記念館も訪ねましたがしかと納得がゆきませんでした。生まれ故郷なのだからと期待と甘えを抱いて出版をあてにして帰ったが、待っていたのは冷たいあしらいだけだった。それだけのことだったのでしょうか?同じような失望を味わったことのある僕が理解できたのはそれくらいでした。それだけのことなら、なにもあんなにまで恨むことはなかろうに、とさえ僕には思えたのでした。 祖母の庇護のもと田舎で暮らした僕は充足した幼年時代を過ごせたと思います。一方で、両親から、とりわけ母親から遠く離れて田舎におかれたことは、常にある欠落感を抱くように育ってしまったと思います。常に遠くの母親を恋しく思う。母恋し、女性思慕を常態とする心的形成がなされてしまったと思っています。 祖母は僕に丹頂鶴の描き方や、風呂の罐に薪を焚きつける、薪の燃やし方を教えてくれました。ともあれ、幼児の僕は、祖母と二人きりで過ごしたその田舎の生活を充足し満ち足りた時代として記憶しました。 中学に入る頃まで、新宿の周辺には到る所に空地がありました。東京大空襲の焼け野原の跡で、家がまだ建ってなかったのです。子供のぼくらは、空地を横切って学校へ通い、帰ると夕飯まで、そこで馬跳びや水雷艦長をして遊びました。家の裏には公園があり、地続きの墓地がありました。公園の一角の貯水池には、夏になると銀ヤンマや鬼ヤンマが飛んできました。墓地との境に、ケヤキの大木が五六本立っていて、濃い灰色の肌をした幹に登り油蝉を捕まえました。そんなふうに大都会の中にも自然がありました。 もっと心に残る風景。小学校や中学の遠足で、よく秩父や多摩丘陵に行きました。雑木林に囲まれ、緩やかな傾斜の山里にひっそりと農家が建っている。武蔵野の面影が残るそうした風景を強いノスタルジアとともに僕は愛しました。それはそこはかとないある悲しみを伴ったノスタルジアの感覚なのですが、思春期の僕の心に絶えず甦りました。後年、印象派の絵を見るに及んで、シスレーやピサロが同じような人里と自然の入り混じる郊外の光景を描いているのを知りました。 そうした自然が次第に失われて行く。緑が豊かだった家の周囲もいつのまにか旅館が建ち、アスファルトが土を覆い、鉄筋のビルが空間を埋め尽してゆきました。それは何かの欠落感として僕に他を探し求める。よく言えば「他への憧れ」ですが悪く言えば今ある状況からの逃避の希求となってゆきました。 青春時代のかけがいのない友人に山男がいて、一旦ドロップアウトしながらも力強く意思を貫き、建築家として良い仕事を沢山しています。思春期の頃、同じように街には住めない、と思っていた。都心で生まれながら都会への非適応症となった僕は、東京を脱出し、遠くの異国を放浪して歩く夢を密に抱き始めました。なにをきっかけとしたか、思い出しませんが、フランスで街頭絵描きになり、パリから南へ画架を担ぎながら歩いて旅を続ける夢を見たのです。願望は、まだ漠然としていましたが、パリでまず、テルトル広場などで街頭絵描きになる。それから放浪の旅を始め、南下を開始する。パリから歩くとなると、4・5日歩き続けて、ちょうど、いま住んでいるここらあたりで、ああ疲れた。この辺が限界だ。意気地のない都会生まれは、もうここらに落ち着くか、となってしまったに違いないのです。すると、今、住んでいるここの場所を、15歳の頃、かなり具体的に想念の裏に抱いていたということになります。 人間は深層心理でいつかこうしたいと秘かに念じていることがあり、偶然の積み重ねのようでありながら、知らずしらずその願望を実現する方向を選んでいるのではないか。「ふるさと」を想いながら、最近、そんな感慨を抱いています。
今の僕のふるさとは、フランスはヨンヌ県のピュイゼ地方にあります。詳しくはホームページ:http://www.sorintei.com をご覧ください。
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この地方の家の屋根には軽い「そり]があります。雨が多く勾配が急な瓦屋根はどっしりした重厚感があります。直線に軽い「そり」を持たせ軽快感与える。そんな審美感が「そり」を生んだのだろうと理解していますが、ご専門の方で「屋根のそり」は何故出来たかご存知の方は教えて下さい。
ギリシャのパルテノン神殿の柱は真っ直ぐでなく、軽いふくらみを持っている。エンタシスです。14・5歳の頃、このエンタシスが遠く大陸を渡り朝鮮半島を経て奈良の法隆寺まで伝わったと知ったとき大変な感動を覚えました。柱にはふくらみを持たせた方が遠目にはより真っ直ぐ美しく見える。古代から神殿や伽藍を建立した建築家たちは、人間の審美感の秘密を知っていたのでした。
村や町は郊外に発展し広がってゆく。スプロール的にという言葉は無計画にどんどん都市が広がってゆく様を示すらしいですが、ふつう自然に出来た町は道は曲がり屋並みが複雑に入り組んでいます。ある道を進むとどこへ辿り着くかわからず、思いがけない処へ出たりしてそれがおもしろい。様々な形態の家が好き勝手な方向を向いて見通しを遮っています。
19世紀までのパリもそうした街でした。とりわけシテ島を囲む古い界隈は。そこに都市計画の大ナタを振るったのが、オスマン男爵でした。ルイ・ナポレオン・ボナパルト(皇帝ナポレオン3世)の下でセーヌ県の知事だったオスマンはアルファン、ベルグランなどエンジニアの協力を得て、パリの衛生面と美的改善の大計画に着手します。いたるところに公園、下水道、貯水池を作り、真っ直ぐで幅の広いグランド・アヴェニュを通します。むろん複雑に入り組んだ古い界隈の家は壊されました。
シャンゼリゼ、オペラ、リヴォリなど直線の大通りを中心に整然とした街並みがパリを華の都に変貌させます。パースペクテイヴの利いた都市美が確かに生まれました。道が直角に交差するニューヨークと違って放射状に広がっています。
第二帝政時代のフランスは産業経済が活気に満ち植民地を広げるなど大発展時代だったので、金に糸目をつけずこのプロジェクトに膨大な予算を注ぎ込みます。オスマンの途方もない会計と批判され、終には失脚するのですが、都市計画を施されたパリは残ります。
19世紀のパリは1830年の7月革命、1848年の2月革命、1851年12月のクーデタと革命や反乱が相次いだ時代でした。ナポレオン3世とオスマンがパリの都市計画を強力に推し進めた真の意図は美観もさることながら、政治的な理由だったと言われています。革命家や暴徒の巣窟だった古い界隈を取り壊し、バリケードを築いても軍隊が鎮圧し易いように見通しの良い幅の広いアヴェニュを作ったのでした。
余談ながら、このナポレオン3世は最後に普仏戦争でプロシヤの捕虜になってしまいます。幕末の日本でフランスは幕府を支持し、徳川慶喜にナポレオン3世のように皇帝になったら良いなどとアドバイスし、軍資金の援助まで約束します。当てにした小栗上野介はフランスに使者を派遣しますが、使者が着いた時には、ナポレオン3世は捕虜になり、プロシヤ軍がパリ近郊まで攻めよせていた時で、徳川どころではなくなっていました。パリ・コンミューンが起こります。騒乱のパリで帰りの旅費も持たずに来た使者は途方に暮れたことでしょう。薩長を支持した英国と明治以後日本はビジネスで関係を深めて行き、フランスはどうも口先だけで当てにならんという悪評はこのあたりに淵源を発しているようです。
少し脇道に逸れました。オスマンのおかげでルーヴルのカルーゼル凱旋門からコンコルド広場のオベリスク、エトワール広場の凱旋門。さらにミッテランの時代にデファンスのアーチを結ぶ、距離にしておよそ5キロほどの直線のパースペクテイヴが実現しました。
都市計画の中心は直線です。平城京、平安京がモデルとした、唐の長安も碁盤目の都でした。スプロール的に成り成りになって出来た街ではなく、人間の意志が関与した、意識の中で設計されたコンセプトに基づいて作られた街です。
ここで、ちょっとだけ飛躍をお許しください。直線というとどうしても幾何の公理を思い出してしまうのです。「点とは位置だけあって大きさがない。点と点を結ぶのが直線で、直線とは距離だけあって幅がない」というのがユークリッド幾何学の公理です。
高校へ入学していきなりこの「公理」に出会った少年は、それまで先生の言うことはすべて真理として鵜呑みにしていたのに、どう魔がさしたのか、ちらとこの「公理」に疑いを挟んだのでした。「大きさのない点」だって?「幅のない直線?」「いったいそんなものが現実にありうるだろうか?」というのがこの少年が生まれて初めて抱いた「みんなが認めていること」に対しての大胆な疑問でした。すこし小説仕立てにしてみましょうか。
***** ***** ***** ***** ***** *****
「大きさのない点なんてありえない。幅のない線なんて引けない。そういう疑問が突然わいてサ。おもいきってガニハチに質問したんだ。そしたら、それは、キミ、愚問だよ、っていいやがんの。ひとがまじめに考えて訊いてんのによ。バカにしてやがんだ。」
「それは、ちょっと。考えすぎってやつじゃないかな。」
「でもさ、じっさい、大きさも、面積も、長さもなくって、位置がしめせる?なにもないってことは空、虚無ってことで位置がどこだかわかんないじゃないか。虚無と虚無を結ぶ線は無限に引ける。あるいは、まったく引けない。その、どっちかじゃないのかな。」
「幾何の公理の点とか線とかは、抽象的なもんなんだ。じっさいに点と線を紙や黒板に描くのとはわけがちがう。と、いうか、じっさいの点や線を抽象化したもんなんだな。わかる?抽象化って。」
僕自身、言いながら、弟の言ったことを省みて、なるほど、そういう考え方もできるな、ひょっとして賢二の考えは数学史上の大発見につながるかもしれないな、などと、ちらっと考えもした。だが、公理というのは、そもそも、それ以上、証明も議論もしようのないことを、これは、こういうことにすると出発点で決めてしまうためにある。賢二の言い分は、やはり、難癖とか、屁理屈とか、いちゃもんに近い。
「オマエ、ちょっとへんなとこに、必要いじょうに厳密で正確な考えをあてはめようとしてるんじゃないの?公理は、いろいろ、ごちゃごちゃ、言っても、決まりがつかないから、こうする、こういうことにするって決める、キメゴトなんだぜ。紀元前三百年ごろ、ギリシャのユークリッドが、そう決めてから、だれも疑問をさしはさまなかった、疑問をさしはさむ余地のないもんなんだ。」
「でもサ。点て、この、まるポチのことだろ。線て、すうっと、まっすぐな線。いちばん硬い芯の鉛筆で、できるだけ芯をとんがらせて引いても太さはできるよ。」
賢二は手にした鉛筆で空中に線を引いた。
「太さがあるのは、だから現実の線。いま、空中に引いた線にはないだろ、太さが…。想像の線なんだから。公理で決める線は、あたまの中だけに存在するって考えたらいい。つまり、イデアなんだ。」
その晩は、親父が出張から帰ってきて、久しぶりに家族揃っての夕食となった。そこでも賢二は、まだ心残りらしく、幾何の公理への疑問をもちだした。
「そりゃあ、オマエの質問のほうがオカシイ。あげ足とりというか、ヘリクツだね。」
オヤジはタンブラーの水割りをステイックでゆっくり掻きまわしながら、賢二の疑問を冷たく切って捨てた。
「じゃあ、つぎの条件を満たす直線を引けって問題が出たときに、答えの直線に幅ができたら公理に反することになるよね。だれも正解を書けないってことじゃないか。」
親父にやり返す賢二に、さすがに理屈小僧だと僕は感心した。
「ぼくはいままで真理っていうのは現実と対応するもんだと思ってたよ。ニュートンの法則だって、アルキメデスの定理だって現実にそのとおりだから真理なんでしょ。存在しえないことを公理にするなんてウソを前提におくようなもんじゃないのか。」
「現実にはありえないかもしれないが、こういうものとすると決めることが公理なんだ。」
オヤジは今度は大きなボールにお袋が山ほど作ったポテト・サラダを手皿に採りながら、ゆっくりと話しだした。
「ギリシャ以来、人類が認めてきた数学だ。オマエのちょっとしたヘリクツなんかで公理がくつがえるわけがない。先生だって、いちいち取りあげてられんから愚問とかたづけたんだろうよ。公理というのは現実の点や線を抽象化したもんなんだ。ケンジももう高校生になったんだから抽象的思考ということができてもいいころだな。理屈をこねまわさないで、すなおに考えてごらん。現実にはありえないようでも、頭のなかには大きさのない点、幅のない線が思い浮かべられるはずだよ。」
オヤジはポテト・サラダの固まりを器用に箸に乗せると大きな口を開けパクッと放り込んだ。
「人間はみな・・・」
モグモグとサラダを咀嚼する間、親父の言葉が途切れた。
「イデアというものを持っている。・・・」(モグモグ)
「理想とでも訳すのかな・・・。」
ゴクッと今度は大きく突き出たオヤジの咽喉仏が動いた。
「現実をこの理想に近づけようとする努力が人間の営みだ。工学の工の字は現実を示す下の線と理想を示す上の線とを結んでいる。」
賢二を親父は丸く開かれた両目で正面から見つめながら箸で空に工の字を書いた。
「これをやる仕事がエンジニアだな。」
親父がこんなふうに出来の悪い息子に優しく説明を与え、自分の考えを子供に披露するのはめずらしいことだった。賢二は頭の中にイデアの点と線を思い浮かべようとしたらしかったが、ふたたび泣き笑いの顔を親父に向けて言った。
「やっぱりわかんないよ。大きさや太さのない点と線なんて思い浮かべらんない。」
皿のトンカツにソースを掛けながら親父は続けた。
「それと、だ。オマエが疑問を持つこと自体はけっして悪いことじゃない。いままでは、学校の先生のいうなりにしてればよかった。けれども、思春期になると教科書や先生の言うことに疑問をもつ。親に反抗する。子供の純心さを脱して、自我というものが頭をもたげるんだね。思春期の自我の目覚め、反抗期というやつだ。ナマイキになるんだな。しかし、だれもが疑わずにいることを、ほんとうかと疑う精神、それはそれでたいへん重要なことだよ。
懐疑する心というのは科学の母胎でもある。ガリレオは太陽が地球を回るとだれでもが信じてることを疑ってかかった。ただ、なんにでも懐疑的ということは長い人生を生きてゆくうえで、つらいことだ。自分で自分の人生をむずかしくするんじゃないかと父さんは心配だよ。人生には、自分で頭を使って考えることはもちろんだが、あるていど世間がみとめてる決め事を受け入れなければ生きてゆけなくなることが沢山ある。また、決断しなければならないことがしばしばある。懐疑ばかりしていちゃあ決断はできないからね。」
***** ***** ***** ***** ***** *****
「ケン坊、わかる?抽象的な思考・・・ずっと前にオヤジが言った。あんとき、ケン坊は点と線が想い浮かべられないって困ってたが。いまは、できるようになったのか?」
「まあね。点とは位置だけあって大きさが無い。位置は在る。大きさが無い。在ると無いだ。ぼくは、まず大きさの無い点なんて存在しえないと直感した。それを論理的に整理してみた。」
賢二が真顔になって話し始めた。これはちょっと静聴しないといけないなと僕は耳をかたむけた。
「まず、位置とは何か?空間でモノが占める場所だろ。モノというとすでに大きさを想定するから、いまは忘れて、とにかく場所だ。つまり、空間でのある広がり、大きさを前提としてる。だから、『位置がある』はいい。」
賢二は僕を見て頷いた。僕もつられて頷き返した。
「つぎに、大きさが無い。大きさが無いってことは無だろ。虚無だ。虚無は存在しないってことと同義だ。存在しないモノ、ここでモノというと矛盾があるから、虚無という。虚無によって位置は示せるだろうか?虚無とは何も無いことだから、位置も無い。つまり、虚無によって位置は示せない。大きさの無いモノで位置は示せない、となる。」
「ふうん。よく、そこまで考えたね。」
僕は感心したことを正直に表わした。
「で、やっぱり大きさのない点は考えられないってことなんだね。」
僕は念を押した。賢二は自分の懐疑を推し進めた。やはり意固地なんだ。
「そうだよ。ここまではまだ序の口さ。ぼくはまた、『位置だけあって大きさが無い』という表現が不正確なのかとも考えた。言い方をより正確にして『点とは、位置を示す、限りなく無に近いシルシ』と言い換えればすむのか?限りなく無、ゼロに近くてもゼロではなく在るのだから、『無い』とは違う。折衷的だけどちょっとだけマシかもしれない。大きさが無い、幅が無いというと、出発点が無になって幾何ぜんたいが虚しいものになるだろ。・・・
『無』とは何も無い虚無だ。虚無にゼロという名をつけて、〇という記号を与えた古代インド人はすごいね。
『在る』と『無い』は、今世紀のだいじな思想だよ。フランスに、ちびでスガ眼のサルトルという哲学者がいた。彼は思想をまとめて『存在と無』という本にした。五センチくらいもある部厚い本だよ。図書室でみつけて、最初のページだけ読んだけど、とても続けて読む気力はないって感じて棚に戻した。でも、彼は自分の思想を通俗化した小説を書いたんだ。『存在』について一生懸命考えてるロカンタンていう高校の教師がいる。ベンチに座って考考えれば考えるほどわからなくなって、そのうち目の前のマロニエの樹の根っこがゆがんで見えだすんだ。それで、吐き気を感じて『存在』というのは『吐き気』のことだって結論するのさ。『嘔吐』ってのがこの小説の題名だよ。」
ここで賢二ははじめて笑顔になって僕を見た。嘔吐という小説のことは僕も聞いたことがある。賢二はまだ続けた。
「はじめに言ったように、幾何の公理は二律背反の代表だ。在って無い。あるけど無い。無いけど在る。日本の憲法第九条みたいじゃないか。軍備は持たないけど自衛隊は在る。無いけど在る。在って無きがごとくが自衛隊である。
ぼくはサルトルのような、カントのような思弁をつきつめてゆく根気がない。けど、完全な体系として二千年以上にわたって学ばれてきた幾何の公理に矛盾があるって気がついた。日本国憲法も矛盾の見本だ。この世は矛盾だらけとみんな言うけど、ほんとだってわかった。それだけでも、考えた甲斐はあったよ。」
賢二が救われるのは、数学の反動として、文学や、美術、政治へと心を傾けていったことだった。
「おれはフランス文学が好きだけどね。カミユの異邦人。あれ、ちょっと、むずかしいだろ。まだ。」
「太陽がまぶしいからってアラブ人を殺しちゃう。なんか単純すぎるみたいけど。」
「あれも人間の不条理ってことの具象化なんだよ。ケン坊、ほんとにわかるの?抽象とか具象ってこと?」
「わかるよ。絵でいえばクールベの絵が具象でピカソやマチスなんかの絵が抽象画ってんだろ。ピカソが描いた肖像画あるよね。ぼく、退屈な授業のあいまに女の子の顔を観察するんだ。じっさいあんなふうに見えるよ。好きなコの、前から見た顔と横から見た顔をくっつけるとピカソになっちゃうんだ。」
「ケン坊、好きなコがいるのか?」
「まあね・・・。」と賢二は口許に恥じらいを浮かべて眼を伏せた。
「ピカソの絵はぼくの趣味に合わない。女性像なら、ボッチチェルリみたいのが好きだ。すなおに美しいって感じるもん。」賢二がニキビ面をほころばして言った。
「ヴィーナスの誕生な。そうか。やっぱり絵も具象じゃないとだめなのか。抽象的なイメージは好きじゃないんだな。モンドリアンとか、カンデインスキーとか。」
「モンドリアンはつまらない。カンデインスキーは色彩がきれいだし、形もおもしろいけどね。現代画家じゃあ、モジリアニがいいな。ボッチチェルリを思わせるとこがあるし。色がいいだろう。人物の顔や姿が感情をかきたててくれるもん。ぼく、点と線のイデアはもてなくても、女性の理想像は心に描けるよ。」
「はっはは。イデアがもてる、もてないは、対象によるってわけだ。」
僕は賢二が膝に置いたままの本を手にとって表題を読んだ。
「エル・ハジ。縛られたプロメテ。むずかしそうだね。えっ、これ・・・。ホウトウ?ホウトウ・ムスコって読むのか?」
「ふふ。ぼくが、いまなりかけてる。放蕩息子。」
賢二は口の端に自己卑下のゆがんだ笑いを浮かべて、ホウトウをゆっくり発音した。こんな表情の弟を見るのは初めてだった。賢二はいつも模範生で無邪気な笑顔を浮かべ、だれからも可愛いがられていた。この時は、まだどことない純情さが漂ってはいるものの、なにか初めて作る自己卑下の表情を楽しんでいるようなところがあった。
「よっぽど文学に凝ってんだね。図書室に通いつめてるようだけど。」
もと新聞部員の僕には情報がどこからともなく入ってきて、校友誌のコラム欄の担当に、図書の借り出し数が一番多いという理由で賢二が選ばれたことを知っていた。
「冬の図書室はガスストーヴに暖められた本がいい匂いをたてるんだ。」
弟は本の匂いに何かを嗅ぎ取り、それに引き寄せられて図書室に通うのかも知れなかった。今になって僕が思うに、賢二はこの時すでにのちの彼の青春を決定づけるあることを漠然と胸の底に感じていたのではないか。この時の賢二が、言葉を探りながら洩らした言葉を僕は忘れないでいるのだ。
「このジイド全集の装丁、いいだろう。きょう、昼休みに、図書室でこれを手にとったとき、なにか遠い異郷への憧れみたいなものがこみあげてさ。なんてったらいいか。そう、たとえば、グラスに入った赤ぶどう酒の透明なルビー色・・・。そういう赤がはっきりと眼にうかんだんだ。・・・それと、たとえば、いつか外国へ行って教会のステンドグラス・・・、赤や青や緑の焼き絵ガラスを見たとしたら、きっとこんな感じにとらわれるんじゃないかって・・・。気高いものにたいしての崇敬の念、ていうのかな。胸がしめつけられて、厳粛な気持ち。そんなものを感じたんだ。それでこの丘のチャペルを思い出したってわけさ。このチャペルは、いっちゃわるいが、おもちゃみたいで、こっけいだけどさ。まあ、それなりに西欧の雰囲気は味わえるからね。この本を、ここへ来て読んだらいいだろうなって思うと、待ちきれなくなって・・・。ガニハチの授業、すっぽかしちゃったんだ。」
脇に並んで腰を降ろした甲斐があった。賢二は、本の装丁にかこつけて、ここにいる理由を朴訥に打ち明けたからである。確かに、その本は淡いベージュの手触りが柔らかな紙のカバーに赤と青の繊細な唐草模様が施してあり、手にとっただけで、遠い西欧への憧れが僕の胸にも湧き上がってくるのだった。
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「われ思う。故にわれ在り。」デカルトの有名なテーゼですが、ほんのチラと浮かんだ疑問に捕えられ、受験に大切な数学を、毛嫌いしてしまった少年賢二は、父親が予想した通り、その後の人生をかなり辛い思いをしながら生きねばなりませんでした。「自分で考えた」ことだったから、少年には、多少その考えが的外れだったとしても、重大に思え拘泥したのでしょう。
「人間は考える葦である。」と言ったのはデカルトと同時代人のパスカルでした。神が居るか居ないか、証明はできない。居るか居ないかわからないなら、居る方へ賭けよう、と賭けの論理で神を信じる方を選んだのもパスカルでした。
これに対してデカルトは懐疑主義を貫いたと思います。「神が居るか居ないかわからない。世界の根源が精神か物質か、わからない。が、確かなのは、私が考えている、ということだ。だから、その確かなことから出発しよう。」それが、このコギト・エルゴ・スムの意味するところだったと思います。パスカルは信仰に入り、デカルトはあくまで哲学者として考え続ける道を選びました。
デカルトは近代合理主義の父のように扱われ、物質世界を分析し、原子物理学や量子力学など現代科学の発展の基になった考えを築きました。歳をとってから賢二もデカルトが始めた解析幾何学をもっとやっとけば良かったと後悔しています。
東洋には「身心一如」といういい言葉があります。デカルトのコギトは西洋で発展し過ぎて、何事もエゴが第一でなければ始まらないような近代を生み出してしまいました。人間の意識が外界である自然を対立物と見做し、これを分析して終いには人間の意志に従わせようという方向へ行ってしまいました。
しかし20世紀にはいって、西洋の思想家たちも、近代合理主義の行き過ぎを反省し、アマゾンの原始林に住む未開民族の研究から、人類学などが生まれました。遠くインデイアンやマオイの血を引くわれわれ日本人は、意識が肥大化するまえに、われわれは考えるから在るのではなく、肉体的にまず在るから考えるのだと本能的に知っています。
ただ、デカルトを擁護するために、彼は人間機械論を主張したのではなくて、「わからないことには手をつけずにおこう」というごく謙虚な立場をとっただけでした。物質は大きさがあって眼に見え分割できるから物質と空間を対象に思考を重ねたのでした。デカルトからロックへと受け継がれた、近代合理主義の流れは、デモクリトス以来の唯物論と見做されてしまいます。人間が唯物論では満足できないことは、ソ連の崩壊などで歴史が証明したとおりです。唯物論というイデオロギーは、その主張とは逆に極めて形而上的で精神的な哲学だと思います。未来の理想社会のために自己に犠牲を強いることは人間の極めて精神的な行為です。日本の神風特攻隊の悲劇と共通するところがあるように思います。
パリの都市計画からとんでもない方向へ発展してしまいましたが、都市と田舎を比較するこのブログのテーマに戻るならば、都市を作る基本は直線であり、自然の線は不定型なものだ。自然のなかで人間の作った構築物だけが水平や垂直方向の直線を描いていると言えると思います。田舎に住むとこのことが明瞭にわかります。
ニューヨークの市街はこの直線の極端な例だし、ブロードウェイ・ブギウギと題されたモンドリアンの抽象画も直線で描かれています。筆の個性的なタッチが見え、すぐにモネとわかる印象派の絵と比べてどちらにより親しみを覚えるでしょうか? 田舎に魅力を感じる方は是非、ホームページ: http://www.sorintei.com をご覧ください。
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