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2008年4月に作成された投稿

2008年4月29日 (火)

ゴルフの起源につき

ゴルフがセント・アンドリュースで楽しまれはじめるより前のことにつき、触れてみます。

定年退職する前、北フランスのベルギーとの国境に近い、進出したばかりの日本の自動車メーカーの工場に勤務していました。日本から大勢のトレーナーさんが現地のメンバーの指導に来ていましたが、現場の通訳だった僕は、トレーナーさんたちからゴルフを教えてもらい、その難しさと楽しさを知るようになりました。

ベルギーにはきれいなゴルフ場が沢山あり、フランス側には、住んでいた町から高速道路で15分のところに牧場に接した美しいゴルフ場がありました。覚えたての頃、夜勤明けで昼ごろ目を覚ますと、ひとりでこのゴルフ場へでかけたものでした。

前夜に雨が降ったり、まだ雪がところどころに残っていたりする日には、そのゴルフ場でフランス人たちが長靴を履いてラウンドしている姿をよく見かけました。まるで畑の中を歩くような恰好でプレーしています。それは、紳士のスポーツと言われているイメージとは、かなりかけ離れたものでした。

日本にいる時、僕は若くて自分で金を稼いでいなかったこともあって、ゴルフに対してはむしろ悪感情を抱いていました。スポーツとはどこか粗野でしかも大衆的でなければならないものと思い込んでいたものでしたから、ゴルフなんて金持ちのお遊びじゃないかと。国土の狭い日本で広い場所をとり、会員権に法外な金を払い、さらに高いグリーンフィーを払わなければできないゴルフなんて。金持ちだけが遊べ、大抵のサラリーマンは、仕事の一部としてか、単にエリート意識を満足させるためにやってるだけじゃないか。真にスポーツというに値しないと思っていたものです。自分でやってみて、こうした見方が、多分に偏見に過ぎないことがわかりましたが・・・。

その北フランスのゴルフ場でみた光景は、僕が抱いていたゴルフのイメージを大幅に変えるに十分なインパクトを持っていました。長靴を履いて、雨の日の晴れ間にちょっとそこらを散歩してくるといった気軽な感じで「この人たちはゴルフを楽しんでいる。彼らがラウンドのあとクラブハウスで地ビールを傾けながら仲間同士でふざけあう様子はまことに楽しそうでした。

その地方は昔フランドルといいました。ブルゴーニュ公国の領土になった時代もあったし、現在の北フランスとベルギー、オランダまで広がっていました。

いつだったか、長い冬が明け、春の日差しが暖かく射していた日曜日、工場の仲間と近所のウオーキングにでかけたことがありました。ゴルフ場の近くの村を通り抜けたとき、テニスコートくらいの広場で、村の若者たちが十人ほど、ちょうどバレーボールのようにふた組に分かれ向かい合って、堅そうなボールを手のひらで打ち合って遊んでいたのです。

「ああ。ジュ・ドウ・ポームだ。」とっさにパリのチイルリー公園の西端にある小さなオーカー色の建物を思い出しました。大革命の頃、ここの遊技場に人々が集まって重要な決議と宣言をしたのでした。その遊技場で行われていたのは、テニスとバレーボールの合いの子のようなもので、堅いボールを手の平で打っていたことから「ジュ=ゲーム」「 ポーム=手の平」と呼ばれていました。村の若者たちは、昔どおりのパフォーマンスでゲームの保存をしていたのでした。

現代スポーツの起源を探ると意外に面白いことが発見できます。スペインとの国境近くバスクのバイヨンヌにはシステラの博物館があって、昔使った道具が展示してあります。その中に、まるで昔、貧乏だった日本の少年たちが親に作ってもらった手製のミットやグローブそっくりの布製の手袋があります。システラはテニスと野球の起源とも言われています。

いまや世界中の民衆が熱狂しているサッカーは、村と村とで農民が太陽を奪い合う象徴的な祭りに起源を発している。サッカーボールは農民にとり、かけがえのない太陽のシンボルだと。それで、ヨーロッパの民衆は、あんなにもサッカーに熱狂し強いのだ、と言う説があります。

ゴルフの起源につき。羊飼いが持っていた杖で地面の石ころを叩いて飛ばしたのが始まりだとか、いろいろ唱えられています。ブラッセルの美術館は16世紀フランドル派の絵画の宝庫ですが、ここには冬景色の中の氷の上でアイスホッケーをして遊ぶ子供や村人たちの絵が幾つも壁に掛けてあります。

あるとき、僕はゴルフ雑誌で、オランダに「コルフ」という名の村があり、こここそがゴルフの発祥地だとする記事に出会いました。フランドル地方の漁民たちが、木製の硬く平たいボールを長い柄で打ち合って、町の家々のドアを標的にぶつけて遊んでいた。そして、そのボールが昔の漁船の中から発見され、英国へ輸出されていたことがわかった、とありました。

しばらく経ってから、こんどは本格的なゴルフ大陸起源説に出会いました。1099年、日本の頼朝が鎌倉幕府を開く100年程前に、ノルマンデイーは、ソンヌ川の河口、サント・ヴァレリーから数百隻の船が英仏海峡を渡り英国のハスチングに上陸し、たちまちロンドンを占領しロンドン塔を建てます。ウィリアム征服王の英国上陸作戦です。このとき、ウイリアムに従って沢山のフランドルの領主が家臣をともない英国に渡りました。征服を達したあと彼らは英国やスコットランドに住み着きます。彼らが日常を楽しんでいたゲームを現地の英国やスコットランド人に教え、それがスコットランドにゴルフの発祥地としての栄誉を与えることとなったのだと、おお筋こういう説でした。僕は、この説は歴史の裏付けがあり、工場近くのゴルフ場で見た、フランドルの人たちのゴルフの楽しみ方から見ても、案外、的を得ているのではと思うのですが、皆さんはいかがですか?



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2008年4月28日 (月)

いつか見た風景

ヨンヌ川が緩やかにカーヴし、対岸の樹木の茂みが曲った川の先を隠してしまう。川沿いに数軒の家が並んでいる。その光景を見たとき、僕は「これは、どこかで見たことのある風景だ・・・」と思いました。

デジャ・ヴュというのはシュールレアリストたちが広めた言葉でしょうか。ある光景を見たとき、これはいつか、どこかでみたことがあるという印象を抱く。そういった心理現象をデジャ・ヴュと呼んだ。その光景を過去世で見たことがるからで、どこかで見た印象を持つのは、過去世の記憶が甦っているのだ、と輪廻転生に関係づける議論を読んだこともあります。過去世のことゆえ、いつ、どこでだったかは思い出せない。ただ既視感だけを抱くのだ・・・と。

Yonnecopy ヨンヌ川を見てデジャ・ヴュの印象を抱いたのは、過去世においてではなく、れっきとした現世で見た記憶が甦ったからでした。その記憶はすでに半世紀を隔て、半ば過去世の記憶になりかけていたとも言いうるのですが。

駅から「別所」と呼ばれていた川っぷちの小さな家まで馬が曳く馬力に乗って行ったのを覚えています。四歳の時の事ですが今でも荷台に揺られながら見たその時の光景は心の底にしっかりと残っています。でこぼこした白っぽい土の細長い道が曲がりながら畑の斜面に消えている。

その家は小川の淵に建っており、川の上に張り出した縁側から、対岸の土手、その向こうに広がる畑や田んぼ、そして眼路の果てに低い山並みが青くかすんで見えました。六畳か八畳一間に台所と風呂場だけの小屋のような家に祖母とふたりきりで二年間暮らしたのでした。

東京のそれも新宿は花園神社の向かいの病院で生まれた僕が何故こんな田舎で暮らしたのでしょうか?それはやはり戦争のお陰と言わねばなりません。終戦の一年前に生まれた次男の僕は、戦後の食糧難の時代でもあり、すぐ後に生まれた妹ふたりを抱えた母親の手に余ったのでしょう。兵庫県の姫路から、日本海側の山奥へ入った八鹿という田舎に預けられたのでした。

家の前の小川は岸辺を熊笹やネコヤナギに覆われ、緩やかな弧を描いて目路の果てへ消えてゆく。ヨンヌ川と規模こそ違え、同じ光景が記憶の底に刻まれていたのです。

小川の土手には春先になるとネコヤナギが銀色のニコ毛に蔽われた芽をふくらませ、蕗のとうが顔を出しました。蕗のとうの後にはツクシを摘みました。祖母は蕗のとうもツクシも煮て食しました。ほろ苦い味を覚えています。ほかに土手に生える細い竹を切り、村の少年が作った杉鉄砲も覚えています。杉の小さな実を詰めピストンを押すと、ポンと音がして杉の実が飛び出しました。

それは、「ふるさと」の歌詞のとおり、夢は今もめぐる、忘れがたきふるさとです。しかし、今はもう失われた、僕の記憶にだけ留まる日本の原風景です。

「ふるさと」想い涙ぐむ。犀川をこよなく愛した室生犀星は、なぜ「ふるさとは帰るところにあるまじき」と詠ったのでしょうか?数年前、帰京した折、日本のふる里に行ってみたくなりました。変わり果てたふるさとを見れば幻滅を味わうだけだよと人にも諭され、幼年時の故郷はやめて犀星の故郷、金沢を訪れました。帰途、白川郷へ寄りました。そこには、まぎれもない日本人のふるさとがありました。同じ宿にアメリカ人が居て、ご主人がもてなしに焚いてくれた囲炉裏の火を煙たがり目をこすりながら部屋を出て行ってしまうなどのハプニングもありましたが。土と木と水の棲家、深い落着きと安らぎを味わうことができました。

よしや、うらぶれて、異土のかたひとなるとても、帰るところにあるまじき。

異郷で落ちぶれ果て、乞食になったとしても故郷には帰るべきでない。ここまで唄った犀星は故郷へ帰ってどんな仕打ちを受けたのでしょうか?犀星記念館も訪ねましたがしかと納得がゆきませんでした。生まれ故郷なのだからと期待と甘えを抱いて出版をあてにして帰ったが、待っていたのは冷たいあしらいだけだった。それだけのことだったのでしょうか?同じような失望を味わったことのある僕が理解できたのはそれくらいでした。それだけのことなら、なにもあんなにまで恨むことはなかろうに、とさえ僕には思えたのでした。

祖母の庇護のもと田舎で暮らした僕は充足した幼年時代を過ごせたと思います。一方で、両親から、とりわけ母親から遠く離れて田舎におかれたことは、常にある欠落感を抱くように育ってしまったと思います。常に遠くの母親を恋しく思う。母恋し、女性思慕を常態とする心的形成がなされてしまったと思っています。

祖母は僕に丹頂鶴の描き方や、風呂の罐に薪を焚きつける、薪の燃やし方を教えてくれました。ともあれ、幼児の僕は、祖母と二人きりで過ごしたその田舎の生活を充足し満ち足りた時代として記憶しました。

中学に入る頃まで、新宿の周辺には到る所に空地がありました。東京大空襲の焼け野原の跡で、家がまだ建ってなかったのです。子供のぼくらは、空地を横切って学校へ通い、帰ると夕飯まで、そこで馬跳びや水雷艦長をして遊びました。家の裏には公園があり、地続きの墓地がありました。公園の一角の貯水池には、夏になると銀ヤンマや鬼ヤンマが飛んできました。墓地との境に、ケヤキの大木が五六本立っていて、濃い灰色の肌をした幹に登り油蝉を捕まえました。そんなふうに大都会の中にも自然がありました。

もっと心に残る風景。小学校や中学の遠足で、よく秩父や多摩丘陵に行きました。雑木林に囲まれ、緩やかな傾斜の山里にひっそりと農家が建っている。武蔵野の面影が残るそうした風景を強いノスタルジアとともに僕は愛しました。それはそこはかとないある悲しみを伴ったノスタルジアの感覚なのですが、思春期の僕の心に絶えず甦りました。後年、印象派の絵を見るに及んで、シスレーやピサロが同じような人里と自然の入り混じる郊外の光景を描いているのを知りました。

そうした自然が次第に失われて行く。緑が豊かだった家の周囲もいつのまにか旅館が建ち、アスファルトが土を覆い、鉄筋のビルが空間を埋め尽してゆきました。それは何かの欠落感として僕に他を探し求める。よく言えば「他への憧れ」ですが悪く言えば今ある状況からの逃避の希求となってゆきました。

青春時代のかけがいのない友人に山男がいて、一旦ドロップアウトしながらも力強く意思を貫き、建築家として良い仕事を沢山しています。思春期の頃、同じように街には住めない、と思っていた。都心で生まれながら都会への非適応症となった僕は、東京を脱出し、遠くの異国を放浪して歩く夢を密に抱き始めました。なにをきっかけとしたか、思い出しませんが、フランスで街頭絵描きになり、パリから南へ画架を担ぎながら歩いて旅を続ける夢を見たのです。願望は、まだ漠然としていましたが、パリでまず、テルトル広場などで街頭絵描きになる。それから放浪の旅を始め、南下を開始する。パリから歩くとなると、4・5日歩き続けて、ちょうど、いま住んでいるここらあたりで、ああ疲れた。この辺が限界だ。意気地のない都会生まれは、もうここらに落ち着くか、となってしまったに違いないのです。すると、今、住んでいるここの場所を、15歳の頃、かなり具体的に想念の裏に抱いていたということになります。

人間は深層心理でいつかこうしたいと秘かに念じていることがあり、偶然の積み重ねのようでありながら、知らずしらずその願望を実現する方向を選んでいるのではないか。「ふるさと」を想いながら、最近、そんな感慨を抱いています。 今の僕のふるさとは、フランスはヨンヌ県のピュイゼ地方にあります。詳しくはホームページ:http://www.sorintei.com をご覧ください。

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2008年4月24日 (木)

直線と自然の線

この地方の家の屋根には軽い「そり]があります。雨が多く勾配が急な瓦屋根はどっしりした重厚感があります。直線に軽い「そり」を持たせ軽快感与える。そんな審美感が「そり」を生んだのだろうと理解していますが、ご専門の方で「屋根のそり」は何故出来たかご存知の方は教えて下さい。Photo_2

ギリシャのパルテノン神殿の柱は真っ直ぐでなく、軽いふくらみを持っている。エンタシスです。14・5歳の頃、このエンタシスが遠く大陸を渡り朝鮮半島を経て奈良の法隆寺まで伝わったと知ったとき大変な感動を覚えました。柱にはふくらみを持たせた方が遠目にはより真っ直ぐ美しく見える。古代から神殿や伽藍を建立した建築家たちは、人間の審美感の秘密を知っていたのでした。

村や町は郊外に発展し広がってゆく。スプロール的にという言葉は無計画にどんどん都市が広がってゆく様を示すらしいですが、ふつう自然に出来た町は道は曲がり屋並みが複雑に入り組んでいます。ある道を進むとどこへ辿り着くかわからず、思いがけない処へ出たりしてそれがおもしろい。様々な形態の家が好き勝手な方向を向いて見通しを遮っています。

19世紀までのパリもそうした街でした。とりわけシテ島を囲む古い界隈は。そこに都市計画の大ナタを振るったのが、オスマン男爵でした。ルイ・ナポレオン・ボナパルト(皇帝ナポレオン3世)の下でセーヌ県の知事だったオスマンはアルファン、ベルグランなどエンジニアの協力を得て、パリの衛生面と美的改善の大計画に着手します。いたるところに公園、下水道、貯水池を作り、真っ直ぐで幅の広いグランド・アヴェニュを通します。むろん複雑に入り組んだ古い界隈の家は壊されました。

シャンゼリゼ、オペラ、リヴォリなど直線の大通りを中心に整然とした街並みがパリを華の都に変貌させます。パースペクテイヴの利いた都市美が確かに生まれました。道が直角に交差するニューヨークと違って放射状に広がっています。

第二帝政時代のフランスは産業経済が活気に満ち植民地を広げるなど大発展時代だったので、金に糸目をつけずこのプロジェクトに膨大な予算を注ぎ込みます。オスマンの途方もない会計と批判され、終には失脚するのですが、都市計画を施されたパリは残ります。

19世紀のパリは1830年の7月革命、1848年の2月革命、1851年12月のクーデタと革命や反乱が相次いだ時代でした。ナポレオン3世とオスマンがパリの都市計画を強力に推し進めた真の意図は美観もさることながら、政治的な理由だったと言われています。革命家や暴徒の巣窟だった古い界隈を取り壊し、バリケードを築いても軍隊が鎮圧し易いように見通しの良い幅の広いアヴェニュを作ったのでした。

余談ながら、このナポレオン3世は最後に普仏戦争でプロシヤの捕虜になってしまいます。幕末の日本でフランスは幕府を支持し、徳川慶喜にナポレオン3世のように皇帝になったら良いなどとアドバイスし、軍資金の援助まで約束します。当てにした小栗上野介はフランスに使者を派遣しますが、使者が着いた時には、ナポレオン3世は捕虜になり、プロシヤ軍がパリ近郊まで攻めよせていた時で、徳川どころではなくなっていました。パリ・コンミューンが起こります。騒乱のパリで帰りの旅費も持たずに来た使者は途方に暮れたことでしょう。薩長を支持した英国と明治以後日本はビジネスで関係を深めて行き、フランスはどうも口先だけで当てにならんという悪評はこのあたりに淵源を発しているようです。

少し脇道に逸れました。オスマンのおかげでルーヴルのカルーゼル凱旋門からコンコルド広場のオベリスク、エトワール広場の凱旋門。さらにミッテランの時代にデファンスのアーチを結ぶ、距離にしておよそ5キロほどの直線のパースペクテイヴが実現しました。

都市計画の中心は直線です。平城京、平安京がモデルとした、唐の長安も碁盤目の都でした。スプロール的に成り成りになって出来た街ではなく、人間の意志が関与した、意識の中で設計されたコンセプトに基づいて作られた街です。

ここで、ちょっとだけ飛躍をお許しください。直線というとどうしても幾何の公理を思い出してしまうのです。「点とは位置だけあって大きさがない。点と点を結ぶのが直線で、直線とは距離だけあって幅がない」というのがユークリッド幾何学の公理です。

高校へ入学していきなりこの「公理」に出会った少年は、それまで先生の言うことはすべて真理として鵜呑みにしていたのに、どう魔がさしたのか、ちらとこの「公理」に疑いを挟んだのでした。「大きさのない点」だって?「幅のない直線?」「いったいそんなものが現実にありうるだろうか?」というのがこの少年が生まれて初めて抱いた「みんなが認めていること」に対しての大胆な疑問でした。すこし小説仕立てにしてみましょうか。

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「大きさのない点なんてありえない。幅のない線なんて引けない。そういう疑問が突然わいてサ。おもいきってガニハチに質問したんだ。そしたら、それは、キミ、愚問だよ、っていいやがんの。ひとがまじめに考えて訊いてんのによ。バカにしてやがんだ。」
「それは、ちょっと。考えすぎってやつじゃないかな。」
「でもさ、じっさい、大きさも、面積も、長さもなくって、位置がしめせる?なにもないってことは空、虚無ってことで位置がどこだかわかんないじゃないか。虚無と虚無を結ぶ線は無限に引ける。あるいは、まったく引けない。その、どっちかじゃないのかな。」
「幾何の公理の点とか線とかは、抽象的なもんなんだ。じっさいに点と線を紙や黒板に描くのとはわけがちがう。と、いうか、じっさいの点や線を抽象化したもんなんだな。わかる?抽象化って。」
僕自身、言いながら、弟の言ったことを省みて、なるほど、そういう考え方もできるな、ひょっとして賢二の考えは数学史上の大発見につながるかもしれないな、などと、ちらっと考えもした。だが、公理というのは、そもそも、それ以上、証明も議論もしようのないことを、これは、こういうことにすると出発点で決めてしまうためにある。賢二の言い分は、やはり、難癖とか、屁理屈とか、いちゃもんに近い。
「オマエ、ちょっとへんなとこに、必要いじょうに厳密で正確な考えをあてはめようとしてるんじゃないの?公理は、いろいろ、ごちゃごちゃ、言っても、決まりがつかないから、こうする、こういうことにするって決める、キメゴトなんだぜ。紀元前三百年ごろ、ギリシャのユークリッドが、そう決めてから、だれも疑問をさしはさまなかった、疑問をさしはさむ余地のないもんなんだ。」
「でもサ。点て、この、まるポチのことだろ。線て、すうっと、まっすぐな線。いちばん硬い芯の鉛筆で、できるだけ芯をとんがらせて引いても太さはできるよ。」
賢二は手にした鉛筆で空中に線を引いた。
「太さがあるのは、だから現実の線。いま、空中に引いた線にはないだろ、太さが…。想像の線なんだから。公理で決める線は、あたまの中だけに存在するって考えたらいい。つまり、イデアなんだ。」

その晩は、親父が出張から帰ってきて、久しぶりに家族揃っての夕食となった。そこでも賢二は、まだ心残りらしく、幾何の公理への疑問をもちだした。
「そりゃあ、オマエの質問のほうがオカシイ。あげ足とりというか、ヘリクツだね。」
 オヤジはタンブラーの水割りをステイックでゆっくり掻きまわしながら、賢二の疑問を冷たく切って捨てた。
 「じゃあ、つぎの条件を満たす直線を引けって問題が出たときに、答えの直線に幅ができたら公理に反することになるよね。だれも正解を書けないってことじゃないか。」
 親父にやり返す賢二に、さすがに理屈小僧だと僕は感心した。
 「ぼくはいままで真理っていうのは現実と対応するもんだと思ってたよ。ニュートンの法則だって、アルキメデスの定理だって現実にそのとおりだから真理なんでしょ。存在しえないことを公理にするなんてウソを前提におくようなもんじゃないのか。」
「現実にはありえないかもしれないが、こういうものとすると決めることが公理なんだ。」
オヤジは今度は大きなボールにお袋が山ほど作ったポテト・サラダを手皿に採りながら、ゆっくりと話しだした。
「ギリシャ以来、人類が認めてきた数学だ。オマエのちょっとしたヘリクツなんかで公理がくつがえるわけがない。先生だって、いちいち取りあげてられんから愚問とかたづけたんだろうよ。公理というのは現実の点や線を抽象化したもんなんだ。ケンジももう高校生になったんだから抽象的思考ということができてもいいころだな。理屈をこねまわさないで、すなおに考えてごらん。現実にはありえないようでも、頭のなかには大きさのない点、幅のない線が思い浮かべられるはずだよ。」
オヤジはポテト・サラダの固まりを器用に箸に乗せると大きな口を開けパクッと放り込んだ。

「人間はみな・・・」
モグモグとサラダを咀嚼する間、親父の言葉が途切れた。
「イデアというものを持っている。・・・」(モグモグ)
「理想とでも訳すのかな・・・。」
ゴクッと今度は大きく突き出たオヤジの咽喉仏が動いた。
「現実をこの理想に近づけようとする努力が人間の営みだ。工学の工の字は現実を示す下の線と理想を示す上の線とを結んでいる。」
賢二を親父は丸く開かれた両目で正面から見つめながら箸で空に工の字を書いた。
「これをやる仕事がエンジニアだな。」
 親父がこんなふうに出来の悪い息子に優しく説明を与え、自分の考えを子供に披露するのはめずらしいことだった。賢二は頭の中にイデアの点と線を思い浮かべようとしたらしかったが、ふたたび泣き笑いの顔を親父に向けて言った。
 「やっぱりわかんないよ。大きさや太さのない点と線なんて思い浮かべらんない。」

皿のトンカツにソースを掛けながら親父は続けた。
「それと、だ。オマエが疑問を持つこと自体はけっして悪いことじゃない。いままでは、学校の先生のいうなりにしてればよかった。けれども、思春期になると教科書や先生の言うことに疑問をもつ。親に反抗する。子供の純心さを脱して、自我というものが頭をもたげるんだね。思春期の自我の目覚め、反抗期というやつだ。ナマイキになるんだな。しかし、だれもが疑わずにいることを、ほんとうかと疑う精神、それはそれでたいへん重要なことだよ。
懐疑する心というのは科学の母胎でもある。ガリレオは太陽が地球を回るとだれでもが信じてることを疑ってかかった。ただ、なんにでも懐疑的ということは長い人生を生きてゆくうえで、つらいことだ。自分で自分の人生をむずかしくするんじゃないかと父さんは心配だよ。人生には、自分で頭を使って考えることはもちろんだが、あるていど世間がみとめてる決め事を受け入れなければ生きてゆけなくなることが沢山ある。また、決断しなければならないことがしばしばある。懐疑ばかりしていちゃあ決断はできないからね。」

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ケン坊、わかる?抽象的な思考・・・ずっと前にオヤジが言った。あんとき、ケン坊は点と線が想い浮かべられないって困ってたが。いまは、できるようになったのか?」
「まあね。点とは位置だけあって大きさが無い。位置は在る。大きさが無い。在ると無いだ。ぼくは、まず大きさの無い点なんて存在しえないと直感した。それを論理的に整理してみた。」
賢二が真顔になって話し始めた。これはちょっと静聴しないといけないなと僕は耳をかたむけた。
「まず、位置とは何か?空間でモノが占める場所だろ。モノというとすでに大きさを想定するから、いまは忘れて、とにかく場所だ。つまり、空間でのある広がり、大きさを前提としてる。だから、『位置がある』はいい。」
賢二は僕を見て頷いた。僕もつられて頷き返した。
「つぎに、大きさが無い。大きさが無いってことは無だろ。虚無だ。虚無は存在しないってことと同義だ。存在しないモノ、ここでモノというと矛盾があるから、虚無という。虚無によって位置は示せるだろうか?虚無とは何も無いことだから、位置も無い。つまり、虚無によって位置は示せない。大きさの無いモノで位置は示せない、となる。」
「ふうん。よく、そこまで考えたね。」
僕は感心したことを正直に表わした。
「で、やっぱり大きさのない点は考えられないってことなんだね。」
僕は念を押した。賢二は自分の懐疑を推し進めた。やはり意固地なんだ。
「そうだよ。ここまではまだ序の口さ。ぼくはまた、『位置だけあって大きさが無い』という表現が不正確なのかとも考えた。言い方をより正確にして『点とは、位置を示す、限りなく無に近いシルシ』と言い換えればすむのか?限りなく無、ゼロに近くてもゼロではなく在るのだから、『無い』とは違う。折衷的だけどちょっとだけマシかもしれない。大きさが無い、幅が無いというと、出発点が無になって幾何ぜんたいが虚しいものになるだろ。・・・
『無』とは何も無い虚無だ。虚無にゼロという名をつけて、〇という記号を与えた古代インド人はすごいね。
『在る』と『無い』は、今世紀のだいじな思想だよ。フランスに、ちびでスガ眼のサルトルという哲学者がいた。彼は思想をまとめて『存在と無』という本にした。五センチくらいもある部厚い本だよ。図書室でみつけて、最初のページだけ読んだけど、とても続けて読む気力はないって感じて棚に戻した。でも、彼は自分の思想を通俗化した小説を書いたんだ。『存在』について一生懸命考えてるロカンタンていう高校の教師がいる。ベンチに座って考考えれば考えるほどわからなくなって、そのうち目の前のマロニエの樹の根っこがゆがんで見えだすんだ。それで、吐き気を感じて『存在』というのは『吐き気』のことだって結論するのさ。『嘔吐』ってのがこの小説の題名だよ。」
ここで賢二ははじめて笑顔になって僕を見た。嘔吐という小説のことは僕も聞いたことがある。賢二はまだ続けた。
「はじめに言ったように、幾何の公理は二律背反の代表だ。在って無い。あるけど無い。無いけど在る。日本の憲法第九条みたいじゃないか。軍備は持たないけど自衛隊は在る。無いけど在る。在って無きがごとくが自衛隊である。
ぼくはサルトルのような、カントのような思弁をつきつめてゆく根気がない。けど、完全な体系として二千年以上にわたって学ばれてきた幾何の公理に矛盾があるって気がついた。日本国憲法も矛盾の見本だ。この世は矛盾だらけとみんな言うけど、ほんとだってわかった。それだけでも、考えた甲斐はあったよ。」
賢二が救われるのは、数学の反動として、文学や、美術、政治へと心を傾けていったことだった。
「おれはフランス文学が好きだけどね。カミユの異邦人。あれ、ちょっと、むずかしいだろ。まだ。」
「太陽がまぶしいからってアラブ人を殺しちゃう。なんか単純すぎるみたいけど。」
「あれも人間の不条理ってことの具象化なんだよ。ケン坊、ほんとにわかるの?抽象とか具象ってこと?」
 「わかるよ。絵でいえばクールベの絵が具象でピカソやマチスなんかの絵が抽象画ってんだろ。ピカソが描いた肖像画あるよね。ぼく、退屈な授業のあいまに女の子の顔を観察するんだ。じっさいあんなふうに見えるよ。好きなコの、前から見た顔と横から見た顔をくっつけるとピカソになっちゃうんだ。」
 「ケン坊、好きなコがいるのか?」
 「まあね・・・。」と賢二は口許に恥じらいを浮かべて眼を伏せた。
「ピカソの絵はぼくの趣味に合わない。女性像なら、ボッチチェルリみたいのが好きだ。すなおに美しいって感じるもん。」賢二がニキビ面をほころばして言った。
「ヴィーナスの誕生な。そうか。やっぱり絵も具象じゃないとだめなのか。抽象的なイメージは好きじゃないんだな。モンドリアンとか、カンデインスキーとか。」
「モンドリアンはつまらない。カンデインスキーは色彩がきれいだし、形もおもしろいけどね。現代画家じゃあ、モジリアニがいいな。ボッチチェルリを思わせるとこがあるし。色がいいだろう。人物の顔や姿が感情をかきたててくれるもん。ぼく、点と線のイデアはもてなくても、女性の理想像は心に描けるよ。」
「はっはは。イデアがもてる、もてないは、対象によるってわけだ。」
僕は賢二が膝に置いたままの本を手にとって表題を読んだ。
 「エル・ハジ。縛られたプロメテ。むずかしそうだね。えっ、これ・・・。ホウトウ?ホウトウ・ムスコって読むのか?」
 「ふふ。ぼくが、いまなりかけてる。放蕩息子。」
 賢二は口の端に自己卑下のゆがんだ笑いを浮かべて、ホウトウをゆっくり発音した。こんな表情の弟を見るのは初めてだった。賢二はいつも模範生で無邪気な笑顔を浮かべ、だれからも可愛いがられていた。この時は、まだどことない純情さが漂ってはいるものの、なにか初めて作る自己卑下の表情を楽しんでいるようなところがあった。
 「よっぽど文学に凝ってんだね。図書室に通いつめてるようだけど。」
 もと新聞部員の僕には情報がどこからともなく入ってきて、校友誌のコラム欄の担当に、図書の借り出し数が一番多いという理由で賢二が選ばれたことを知っていた。
 「冬の図書室はガスストーヴに暖められた本がいい匂いをたてるんだ。」
 弟は本の匂いに何かを嗅ぎ取り、それに引き寄せられて図書室に通うのかも知れなかった。今になって僕が思うに、賢二はこの時すでにのちの彼の青春を決定づけるあることを漠然と胸の底に感じていたのではないか。この時の賢二が、言葉を探りながら洩らした言葉を僕は忘れないでいるのだ。
 「このジイド全集の装丁、いいだろう。きょう、昼休みに、図書室でこれを手にとったとき、なにか遠い異郷への憧れみたいなものがこみあげてさ。なんてったらいいか。そう、たとえば、グラスに入った赤ぶどう酒の透明なルビー色・・・。そういう赤がはっきりと眼にうかんだんだ。・・・それと、たとえば、いつか外国へ行って教会のステンドグラス・・・、赤や青や緑の焼き絵ガラスを見たとしたら、きっとこんな感じにとらわれるんじゃないかって・・・。気高いものにたいしての崇敬の念、ていうのかな。胸がしめつけられて、厳粛な気持ち。そんなものを感じたんだ。それでこの丘のチャペルを思い出したってわけさ。このチャペルは、いっちゃわるいが、おもちゃみたいで、こっけいだけどさ。まあ、それなりに西欧の雰囲気は味わえるからね。この本を、ここへ来て読んだらいいだろうなって思うと、待ちきれなくなって・・・。ガニハチの授業、すっぽかしちゃったんだ。」
 脇に並んで腰を降ろした甲斐があった。賢二は、本の装丁にかこつけて、ここにいる理由を朴訥に打ち明けたからである。確かに、その本は淡いベージュの手触りが柔らかな紙のカバーに赤と青の繊細な唐草模様が施してあり、手にとっただけで、遠い西欧への憧れが僕の胸にも湧き上がってくるのだった。

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「われ思う。故にわれ在り。」デカルトの有名なテーゼですが、ほんのチラと浮かんだ疑問に捕えられ、受験に大切な数学を、毛嫌いしてしまった少年賢二は、父親が予想した通り、その後の人生をかなり辛い思いをしながら生きねばなりませんでした。「自分で考えた」ことだったから、少年には、多少その考えが的外れだったとしても、重大に思え拘泥したのでしょう。

「人間は考える葦である。」と言ったのはデカルトと同時代人のパスカルでした。神が居るか居ないか、証明はできない。居るか居ないかわからないなら、居る方へ賭けよう、と賭けの論理で神を信じる方を選んだのもパスカルでした。

これに対してデカルトは懐疑主義を貫いたと思います。「神が居るか居ないかわからない。世界の根源が精神か物質か、わからない。が、確かなのは、私が考えている、ということだ。だから、その確かなことから出発しよう。」それが、このコギト・エルゴ・スムの意味するところだったと思います。パスカルは信仰に入り、デカルトはあくまで哲学者として考え続ける道を選びました。

デカルトは近代合理主義の父のように扱われ、物質世界を分析し、原子物理学や量子力学など現代科学の発展の基になった考えを築きました。歳をとってから賢二もデカルトが始めた解析幾何学をもっとやっとけば良かったと後悔しています。

東洋には「身心一如」といういい言葉があります。デカルトのコギトは西洋で発展し過ぎて、何事もエゴが第一でなければ始まらないような近代を生み出してしまいました。人間の意識が外界である自然を対立物と見做し、これを分析して終いには人間の意志に従わせようという方向へ行ってしまいました。

しかし20世紀にはいって、西洋の思想家たちも、近代合理主義の行き過ぎを反省し、アマゾンの原始林に住む未開民族の研究から、人類学などが生まれました。遠くインデイアンやマオイの血を引くわれわれ日本人は、意識が肥大化するまえに、われわれは考えるから在るのではなく、肉体的にまず在るから考えるのだと本能的に知っています。

ただ、デカルトを擁護するために、彼は人間機械論を主張したのではなくて、「わからないことには手をつけずにおこう」というごく謙虚な立場をとっただけでした。物質は大きさがあって眼に見え分割できるから物質と空間を対象に思考を重ねたのでした。デカルトからロックへと受け継がれた、近代合理主義の流れは、デモクリトス以来の唯物論と見做されてしまいます。人間が唯物論では満足できないことは、ソ連の崩壊などで歴史が証明したとおりです。唯物論というイデオロギーは、その主張とは逆に極めて形而上的で精神的な哲学だと思います。未来の理想社会のために自己に犠牲を強いることは人間の極めて精神的な行為です。日本の神風特攻隊の悲劇と共通するところがあるように思います。

パリの都市計画からとんでもない方向へ発展してしまいましたが、都市と田舎を比較するこのブログのテーマに戻るならば、都市を作る基本は直線であり、自然の線は不定型なものだ。自然のなかで人間の作った構築物だけが水平や垂直方向の直線を描いていると言えると思います。田舎に住むとこのことが明瞭にわかります。

ニューヨークの市街はこの直線の極端な例だし、ブロードウェイ・ブギウギと題されたモンドリアンの抽象画も直線で描かれています。筆の個性的なタッチが見え、すぐにモネとわかる印象派の絵と比べてどちらにより親しみを覚えるでしょうか? 田舎に魅力を感じる方は是非、ホームページ: http://www.sorintei.com をご覧ください。

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2008年4月14日 (月)

パリとフランスの田舎

投稿者: ゲストハウス「叢林亭」: http://www.sorintei.com

Stgermain 都市計画を基に、幾何学的な整然とした街並み。そういうパリの姿に驚嘆を感じるのは、自然を完全に支配してしまった人間の美意識と統制の意志に対する驚きだろうと思います。自然の代表としてセーヌ川をみれば、パリのセーヌ川の護岸工事は、たまに増水で河岸の道路が水を被るくらいで、石とコンクリートで両岸を固め、まるで運河みたいに見えます。

そういうパリの、人工的な都市計画による整然とした美意識が隅々まで行き届いた美だけがパリの魅力だろうか?いや、そうではない、と僕は30年パリとその近郊に住んでみての結論として考えます。逆に、パリが多くの人々に愛されるのは、パリがあちこちにどことなく田舎の風情を漂わせている街だからにほかならないと。

たとえばモンマルトルのテルトル広場。あの広場をを囲む家々は田舎風ではありませんか?さらにサンジェルマンデプレの教会の裏の道。もっと言えば、イタリア広場に近いトルビアックの界隈。苔むした屋根や蔦やブドウや藤が這い伝わる壁を持った民家が鉄筋のビルに押しひしがれながら頑張っている。そんなパリの一郭を見るとき、どんなに急いでいても、「おや。これは、いいな」と立ち止まってしまうほどの、なんともいえない親しみと「ここち良さ」を見る者に抱かせる。そういう魅力をそれらの光景が持っている。

牽強付会を恐れずに言うなら、それは、都会に残る田舎の風情がわれわれの心の奥に仕舞われた光景を思い出させ、親しみの感情とともにノスタルジアを抱かせるためではないのか。

とりわけ僕はサンジェルマンデプレの裏道のアベイ通りの光景にこうした魅力を感じました。この道の突き当たりにある画廊のサーモンピンクの壁と茶のヴァリエーションが美しい屋根。素焼の小さな長方形の瓦をぎっしり敷き詰めた屋根は色もさることながら、その勾配とゆるやかな「そり」が僕になんともいわれぬ、そこはかとないノスタルジアを感じさせ、その魅力にとりつかれたのでした。

パリに着いたばかりの頃、道端に立ってここの風景をスケッチし、8号のキャンバスに油絵に描いてみた。この絵は30年たったいまも完成していませんが、この光景を美しいと感じる人は僕だけでなく、沢山いることがわかりました。

この画廊の古い瓦ぶきの屋根が持つ勾配と、その稜線の緩やかな「そり」を何よりも美しいと感じたのですが、それと同じ色と「そり」を持つ屋根が、ブルゴーニュには沢山あると知った時、僕は喜びで胸が満たされました。そうか、あの家は、この地方のスタイルの家だったのだ。それから、僕は、何故こうした古い屋根にノスタルジアと親しみを覚え、美しいと感じるのか考えてみました。

それらのどっしりとした屋根の重みと勾配と「そり」は、なんのことはない、日本の方々にあるお寺の屋根が持つ美しさにほかなりません。そうした屋根を美しいと感じ、その「そり」に親しみを抱く僕は、日本で育ち、物心つく中学生くらいの頃から、修学旅行なんかで、法隆寺だの東大寺だの薬師寺だの、日本の古都の伽藍の屋根がもつ美しさに親しんでいたからだろう、と思います。

パリの魅力が人工の都市空間に自然を完全に取り込んでしまったところにあるとすれば、フランスの田舎の魅力は、平凡ですが、自然に和むように建物があり、人間の生活の営みが自然に従っているところにあるといえましょう。

パリでは、セーヌ川の治水と護岸工事、ブーローニュの森、ヴァンセンヌの森はじめ、至る所にある公園とスクエア、そして言うまでもなく、マロニエやプラタナスやアカシアやトネリコなどの見事な並木道が人工的な石とガラスと金属の町並みにうるおいを与え、人間に親しみやすい景観を与えている。

反対に田舎は、ゆるやかな起伏の大地に、牛や馬や羊が草を食み、谷あいに寄り添うように人家の集落が見え隠れする。こうした風景は、主体はあくまで自然の側にあるということを否応なく呑みこまさせてくれる。

セーヌ川とロワール河を比べてみましょう。セーヌ川は上流に調整池を幾つも持ち、大雨で増水の危険があると他の川に水を流してしまう。そうまでしてパリを守らないと地下鉄が水没したら一大事だからでしょう。石とコンクリートの護岸工事は、これが自然の川かと疑わせるほど、しっかりし過ぎていて、水も運河を流れるように単調均一です。

Photo 一方のロワール河は、フランス第一の大河でありながら調整池やダムを一切持たない。自然のままを保護しようと環境派の市民団体が常に目を光らせています。唯一の例外は流域に幾つもある原子力発電所ですが、もはや家庭電力の七割をこれに頼っているフランスでは環境保護団体も受容せざるを得ないのでしょう。河川敷が広く、護岸工事も土手くらいです。夏の渇水期には水位が下がって川底の砂洲が方々にできます。船は遡れず、そのかわり鮭が上流まで遡ります。そうこの河は、日本の川に似ているのです。幼いころから多摩川に親しんできた僕は、どうしてもロワール河の方に親しみを感じ、この河をみるたびにほっとします。

Sorinteitoit2 ロワール河とブルゴーニュ地方を結ぶ中継点。ピュイゼと呼ばれる、かつてはパリへの木材の供給地であり、セーヌ川の支流、ロワン川とヨンヌ川の水源地でもある地域に、僕は住み、このたび、ゲスト・ハウス「叢林亭」をオープン致しました。

ロワールのお城めぐりにもブルゴーニュのワイン畑巡りにも行きやすい所に位置しています。ぜひ「叢林亭」のホームページ : http://www.sorintei.com をご覧ください。

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