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2009年1月に作成された投稿

2009年1月29日 (木)

楽器の思い出

投稿者: 叢林亭 : http://www.sorintei.com

学生時代からの友人に笛を作る話をしたところ、いつ頃から作ろうと思ったかという質問が返ってきた。その時はとっさにフルートを習い始めた時すぐそう思ったと答えたが、これにはかなり誇張がある。

興味を持ってクヴァンツやベームの本を買い、フルートの歴史を調べたり、漠然とこの形がシンプルで美しい楽器を作れたら幸福だろうと思ったりもしたのは事実だが、銀の合金など金属の加工が出来る筈はないとすぐに悟ったことも確かだった。

Flutecadre フルートがベームによってキーが付けられ、どんな調子の音階にも対応でき、金属の管を使うことにより、オーケストラの他の楽器に負けずにコンサート・ホールの隅々にまで音が通るようになったのは比較的近代のことであり、それまでは木管だったと知ったのも歳をとってからだった。

高校の同窓のご夫妻にバロック・フルートを見せてもらったのは、十年ほど前のことだった。パリのガルニエのオペラ座でグリュックのオルフェの「傷ついた妖精の踊り」がバロック・フルートで演奏されるのを息を詰めて聴いたのは、つい二年前のことだ。

父が若いころ尺八をやり、準師範までいったという話を子供心に覚えていて、息を使って鳴らす管楽器というものをやってみたいと思ってはいたが、先生について習おうと思ったのは五十を半ばも過ぎ、時間と家計に余裕ができてからのことだった。 

小学校の二年生のことが記憶に焼き付いている。どういうわけか、その日は午後のすべての時間を割いてクラスの全員が各人持ち寄った楽器を演奏することになっていた。前もってそのことは知らされ、楽器を持たない生徒は借りるなり買うなりして持ってゆくことになっていた。家には楽器はひとつも無かった。

父は出来たての会社に移ったばかりで給料が遅配ということがよくあったらしい。僕は楽器を持たずに学校へ行った。音楽教室が始まって小一時間も経った頃、和服姿のお袋が学校の玄関に現われた。胸に紫の風呂敷に包んだ楽器を抱えていた。それは透明ニスを塗った白い木が並んだ木琴だった。母親はなんとかお金を工面して、木琴を買い、ぎりぎり間に合うよう学校まで持ってきてくれたのだった。

そんなことがあったためか、僕には「音楽は金持ちがやるもの」という偏見がずっと巣食っていた。ある程度裕福でなければピアノなど買えはしない。小中学校を通して持っていた楽器はハーモニカと木琴だけだった。

小学生だったか中学生になっていたかは覚えていないが、夏祭りや縁日の夜店などで売っている鮮やかな赤と緑の輪が入った竹の笛を見たかして、見よう見まねで笛を作ったことがある。竹に穴を開けて、唄口の手前にコルクで栓をすれば笛は鳴り、割と簡単に作れるものだとその時知った。それは横笛だったが、縦笛も見た記憶がある。同じような簡素な竹の頭部にリコーダーと同じような窓とエッジが切ってあり、その唄口の前後に赤と緑の絵の具が塗ってある。その色と形が鮮やかに甦る。気道と口栓はなかった気がするが息を吹き込む部分がどうなっていたか覚えていない。

中学の思い出がある。それは習字の時間だったが後ろの席の女の子が見たことも無い黒い鉄の塊を文鎮代わりに机の上に置いた。好奇心から「なに? それ?」と訊くと女生徒は「ピアノの枠よ」と多少自慢げに、いっぷう変わった文鎮を撫でながら答えた。

「へーえ。きみんち、ピアノがあるの。ずいぶん金持ちなんだね。」というようなことを僕は彼女に言った。その言葉を彼女はイヤミを言われたと受け取った。次のホームルームの時間、彼女と仲の良い女友達が、「男の子の中に、女の子にイヤミを言う人がいます。」と手を挙げて先生に言いつけた。「だれです。そんなことを言うひとは? 」と先生はみんなを見まわした。

言いつけた女生徒は「本人はわかって反省しているはずですから、名前を言わなくてもいいと思います。」と言い、それきりになったのだが、恐ろしいことに、それは僕のことだと、その時はっきりと感じたのだ。それまで気が付かなかったことが、いっそう自己嫌悪に陥らせた。

高校の入学祝いにギターを買ってもらった。教則本を頼りに毎日弾いてばかりいたので曲が弾けるようになるのと交換に、学校の成績がどんどん落ちていった。大学受験に失敗して、悩ましい日々を送っていた頃、東大の仏文科に入り、言語学をやると言っていた幼馴染が、ある日遊びに来て、ギターの音は嫌いだと言った。生徒会誌に発表した僕の文にギターに触れた一節があるのだが、あんな通俗なことはやめて、もっと高尚なものを目指すべきだと暗に批判したのだった。Guitercadre

大学で最初に親しくなった原は、首に掛けたハーモニカを吹きながらギターを弾いた。ボヴ・ディランに傾倒していて、シンガーソングライターになるのだと言い、実際いくつかの曲を作っていた。卒業後、彼は若くして心筋梗塞で逝ってしまったが、僕は、その原が教えてくれたコースを辿り、北欧からスペイン、イタリアを回ってフランスに入った。

パリに着いて最初に置いてもらった家が音楽一家だった。ご主人がバイオリンを弾き、奥さんが声楽をやり、毎週一回知人を自宅に呼んでコンサートを開いた。長男のベルトランはストラスブールのコンセルバトワールでフルートを選択している。普段は居ないのだが夏休みに帰って来た。

ある暑い日のこと。「練習をしなくちゃ」と僕が置いてもらっていた向かいの部屋でフルートを吹き始めた。傍で聴いていていいというので僕は数時間の間、ベルトランが上半身裸でバッハを吹くのを聴いていた。僕には楽器の練習をそんなまじかに聴くのは初めてだった。強烈な印象を受け、それからは、フルートという楽器が、妖しい魅惑を秘めて心の底に棲むようになったのだ。

ベルトランは純金のフルートを持ってると自慢し、見たいかと訊いたが僕は断った。銀だろうが金だろうが楽器の値段で音楽の良し悪しが決まるわけではないと思ったし、心の底にブルジョワに対する反感とコンプレックスがあって、金のフルートなど見て溜息など吐いてたまるかと感じたのだ。

パリへ来て最初にベルトランの吹くフルートの演奏を聴いたことは、それから25年以上経って、時間と家計に余裕が生まれた時に、自分でもフルートを吹いてみたいと望んだこととつながっている。

僕は音楽に関しては人並み以下と解っているし、楽器はときどき楽しみに吹ければ良いと思っている。洋楽で人前に出られるわけがないし、ましてやモダン・フルートを作ることなど問題外だ。

だが、木や竹を使った楽器なら。そう考えたのは、自分で何かを作りたいという欲望が抑えきれないほど昂まったからである。フランスに住んでいても日本人でありたい。画家の藤田嗣治がそうだったように、僕も日本人としての独自性を活かすようなことをして最後の社会生活に充てたい。

そう思ったとき、和楽器の尺八と篠笛にゆきついたのは論理的な帰結みたいなものだった。

「ふるさと」という歌に唄われている光景を、最近の若い日本の人たちは、もはや想いうかべることができないかもしれない。僕らが子供だった半世紀前には、「ふるさと」に唄われたとおりの光景がまだあった。

四歳と五歳の二年間を兵庫県の山奥で祖母とふたりきりで暮らした。祖母の愛情に護られ、静かな田舎で僕は、ゆったりした時間の流れに身を任せながら、このうえなく幸福に暮らすことができた。

冬は赤い南天の実が白い雪に映え、春は小川の土手で土筆や蕗のトウや蓬を摘み、夏は膝までの浅い水に浸り、盥の舟に乗ったり、水面を泳ぎ渡る青大将に石を投げたりした。

そうした小川の畔に生える笹で杉鉄砲を作ってくれる村の若者がいた。鉄砲を作る笹は細かったが、若者は太く節の間の長い篠竹をみつけて笛を作った。それは、ぼんやりと霞のかかった記憶の底に隠れている光景で、若者の顔や姿も思い出さないが、その単純素朴このうえない笛の音は、幼かった僕に、自分で作った笛が鳴る喜びの予兆を与えたのだった。

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2009年1月28日 (水)

篠笛1号

投稿者: 叢林亭: http://www.sorintei.com

昨日は「篠笛1号」の唄口と指孔の第一孔から三孔までを拡げた。ドリルで小さめに開けておいた穴を切り出し小刀で少しずつ削り広げていった。

昨年の秋、黒竹を使って試作した時は、小穴からいきなり大きな径のドリルで穴を広げた。切れ味の悪い大径ドリルの刃が竹の皮をひっかけチリリと音がして幅1ミリほど甘皮がめくれた。めくれた皮を切除はしたが、表皮のめくれは結局、隣の指孔まで広がって二つの孔の間に1ミリ幅のミゾが走った。穴を全部開け終わり、筒の内側にニスを塗ったとたん、パキッと音がして笛の縦半分が割れてしまった。ニスの湿気とともに割れを誘発した要因は、このわずか1.5センチほどの長さの表皮の無い溝だったに違いない。

こんどは本番なので慎重を期した。穴あけの位置にマスキング・テープを貼ってバリを防いだ。材料の竹は「目白」で買った、油抜きと乾燥が済み笛づくりの準備が整った三本の雌竹のうちの一本で、長さが425ミリあった。管頭に当てる太い部分に節が付いていたのでこれを切り落とし、管尻の方も節の直前で急激に太くなっていたので切り落とすと、全長が403ミリになった。

切り出し小刀は浅草橋の刃物店で買った中位の値段の握りと鞘のついたものだ。さすが、数かずの名刀を産んだ刀鍛冶の伝統をもつ国だけのことはあるわい。切れ味が違う。竹の繊維方向は当てるだけでスイスイと切れる。横方向は無理に力を入れるとガリリと刃こぼれさせてしまいそうだ。Fueencours1

「心静かに、急がず、焦らず。」という穴あけのアドバイスがあった。注意を集中し、慎重に削り始める。小刀が滑って手を切らぬよう、笛と手の位置を確かめながら、はじめは怖ごわ刃を立ててゆく。先週作った作業箱がさっそく役に立つ。10回も削ると、刃がしっかり穴に入り、竹の肉に噛み込んでさえいれば、おかしな方向に力を入れない限り、滑るものではないと解った。「心静かに」の状態が保てるようになった。

絵や書もそうだろうが、笛づくりも、心をあることに集中する時の至福を感じる。眼と手を働かせるだけで何もかも忘れ、ひとつことに精神を集中し続けられる気持ちの良い時間が過ぎてゆく。特権的時間というのだろうか。スケッチや水彩画を描いているときはもっと単純な幸福を感じる。小刀を使う笛の穴開けには手を切るリスクが多少の緊張を伴うが、絵を描く時と同じ至福を感じる。

僕が篠笛を作ろうと決める直接のきっかけとなったのはネットに公開されている何人かの方々のホームページを見つけたことだった。この方々には本当に有難く感謝している。上のアドバイスもそこから頂いた。いずれこの方々と連絡がとれたらリンクを掲載させて頂きたいと願っている。

笛作りでは調律が一番難しいだろうことは最初から予想できた。今回東京で仕入れてきた材料には節のない十分な長さのものは全部で15本くらいしかなく、それらを全部使ってこの一年で音程のとれた笛が作れるようになればシメタものだと思っている。

Shinobue1cadre 篠笛の見本に、「目白」で「八本調子・七穴」を一本購入してきた。チューナーで確認すると、第一孔のみ解放した状態が 5D。 順次指孔を解放してゆくと、 5E, 5F, 5G, 5A, 5B ときれいに音程がとれている。

ホームページ takamizusan-sisimai で公開されている「管尻から各孔の中心までの長さ」の表の「7穴ドレミ音階C」と「目白オリジナル」の八本調子とを比べてみた。管尻からの距離は異なるが、唄口を合わせると各指孔の位置がぴたりと合う。八本調子は「7穴ドレミ音階C」とほぼ同じ作りなのだ。

第1号に選んだ竹は管尻内径14ミリ、管中央の外径約21ミリとかなり太めなので、その分、穴の位置を唄口寄りに開けねばならないだろうと予想した。

唄口も指孔も最小の穴から削って徐々に拡げてゆく。チューナーで音程を確かめながら孔の位置を変えて行くことができるからだ。そのことの大切さをはじめて理解できた。最初の確認では、第一孔解放がBと Cの間をふらつき、第一 + 二孔解放は C# だった。その後、唄口を11X10ミリまで大きくし、第三孔も 10X9ミリまで大きく削った。第二、三とも唄口の方向へのみ削って大きくした。その結果、第一孔解放がC、第二孔まで解放がD、第三孔まで解放がEフラット と鳴るようになった。D も E も 20セントほど低い。

調律しながらの穴開けは、まだ始まったばかり。ひとつの問題は管尻の長さをどうするかである。モデルの八本調子に比べると1.5センチ長いし、takamizusanのドレミ音階C に対しては全長が2ミリ短い。7穴全部開けて音程を確認したあと、音程が合えばそのままにする積り。合わなければモデルの八本調子に近づけ1ミリずつ短く切って調律しようと思う。自作1号は管の径が太い。径の太さと第一孔と管尻の距離が、音程とどう関係しているかを知ることも課題のひとつだ。  

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2009年1月26日 (月)

トラとクロ その2

投稿者:叢林亭 : http://www.sorintei.com

東京滞在中に上野で「藤田嗣治展」を観る幸運を得た。この名前ばかり有名で実態があまり知られていない画家への認識を新たにし、やはり偉大だと敬意を抱いた。デッサン力がすごい。白い陶器のような肌の裸婦と猫を沢山描いた藤田だが、優しく優雅で家庭的な反面、野性を保っているところが面白いと猫(と女性)の二面性について言及があり、実に本質を突いていると感心した。

Kuroetseri2copy トラに比べてクロはやんちゃで人懐こい。どこか爬虫類や芥川龍之介が描いた河童みたいな印象を与えた。シッポが銛の形をしていれば小悪魔そっくりだった。大きくなった今でもクロにはどこか甘えん坊なところと野性的なところがある。そのうえ、怖がりで食いしん坊で怠け者で、都会派の退廃貴族的な一面を持っている。Kuroetoiseau2

黒猫は凶を齎すからと忌み嫌う人が多いらしいが、アラン・ポーが好きだった僕は、むしろ、その神秘的な気配に魅力を感じた。彼の傑作短編「黒猫」に魅せられた人も多いだろう。

トラは田舎の野武士みたいで、昼寝していてもガバッと即刻目を醒ます。撫でてやると「ご飯ですよ」の合図と勘違いし、跳び起きて、餌の皿に急行する。いちど、二階に寝ていて、庭で数匹のオス猫が例の白の雌ネコにラブコールを放った。家に籠りがちで病的なまでにネコ嫌いの白はギヤアーと無粋な悲鳴をあげた。

「なんだ なんだ。けんかか・・・。」二階に寝ていたトラは 悲鳴を聞きつけるや どどっと階段を駆け下りてきて 踊り場の窓から 腰と肩をいからせ 鋭い目つきで 庭を 見下ろした。まるで ネコ同士のイザコザはオレが仲裁してやる。喧嘩ならマカシトケみたいな表情だった。

しかし そのトラも 三匹のメス猫は苦手らしかった。三匹が前からこの家の住人だったこともあるが 美人ネコは トラには年増だし、一番年下のネコは幼すぎる。シロネコがちょうど 同年齢だが、これがちょっと病的なネコギライ。下の庭のリラの木にトラがいちど三匹のメスネコに追われ、這い上って逃げたことがある。

Img_2402 トラには少し大きめのパニエ(寝床)とケッス(プラスチック製の箱で、中に顆粒状の吸湿剤を入れたトイレ)を買ってやった。大いに気に入った様子で楕円形の縁一杯に四肢を伸ばしたり、仰向けになったり、寛ぎきって寝ていた。目を醒ますと、後ろ脚を一本ずつ伸ばして、ストレッチをしてから出てゆく。スポーツ選手そのままで可笑しかった。

足もとにじゃれついてくるクロはまだよちよち歩きの子猫で、はじめは二日に一回くらいしか顔を合せなかった。そのうち夜など窓の下に来て、入れてくれと鳴くようになった。トラが居ることだし、最初は入れてやらなかった。その頃はまさかクロが三匹のメス猫と同じ家に棲んでいるなど、想像もしなかったので、てっきり迷い子か捨て猫だと思っていた。ある晩、あまりに執拗に鳴くので、とうとう根負けして家に入れてやった。

藤で編んだ小さな丸い籠を見つけると、その中へ入り丸くなって眠るようになった。トラが帰ってくるたび、クロを書斎に避難させていた。クロも承知らしく、おとなしく書斎のソファで寝ていた。Pannier3

クロが来たことで知った猫の習性がある。毛布などのフカフカした敷物の上に乗ると頭を下げ真剣な表情で前脚をオイチニオイチニと交互に踏むのである。まるでブドウの収穫のあと樽に詰めた房を足で踏むように。また牝牛の乳を絞る時のように。幼い猫は母猫の乳房を両手で交互に押えて乳の出を促すのであろう。その記憶が習性として残っているようだった。柔らかい布団や毛布の上でひとときその動作をセレモニーのように続けた後、押さえた場所を中心にぐるりと一回りしてから横たわるのだった。この習性は成長して六キロ程にも大きくなった今も変わっていない。

クロの特徴は子猫の頃から驚くほど大きな音で胸をゴロゴロと鳴らし満足感を表現することだった。鳥のように喉の奥でグルルーと鳴いたりした。

トラとクロが共棲するかと思われる時期が半年ほど続いた。

Kurojeunecadreクロはたちまち大きくなり ふらふらしていた脚腰もしっかりし あどけなさを残す若ネコになった。

木登りが得意で カミサンが 遊んでやると 近くの木に 駆け上った。Surpomcadre2

「みて みて。ぼく こんな 高いとこまで のぼれるよ。」 ひょうきんさに カミサンが喜んで 手を叩く。 ますます 調子に乗って 上へ登り 降りるのがむずかしくなったりした。

クロは歩いているとよく、人の踝を両方の前脚を丸くからめ掴まえて遊ぶことがあった。前脚を器用に使うのだ。おもちゃのリスやネズミの縫いぐるみを両手で抱くように抱えて遊んでいた。そのくせ、歩くときは、まるでパリコレのマヌカンみたいに、後ろ脚と腰を振りながら歩く。小鳥や他の猫を見つけては頭と肩を下げ、地面を這うように、すり足で近寄ってゆく。「Ninja」って名もいいな。 カミサンと名前について話した時、「忍者」がいいとも言った。

できればトラと末永く共棲してほしい。そうカミサンも思ってることが解っていた。しかし、正直なところ夫婦ふたりが食べて行くだけでも精一杯なのだから、エサ代や医療費が心配だった。トラは飼い主がいるようだし、クロは孤児みたいだから、飼うとしたらクロか? いや、やっぱりトラの方がいい、と迷っていた。どちらかを追い出すことなど出来ず自然に任せるしかないかと思っていた。

トラジと対で「クロジ」がいいか。名前を考えた時、夫婦で始めた民宿、B & B、ゲストハウスが「黒字」になってくれればいい。凶を持ち込むかもしれない黒猫が福を齎してくれるかもしれない。そんな「験」をかつぐ意味も込めてふたりで「クロジ」と決めた。普段は、最初、呼びやすい「チビクロ」。そして今はただの「クロ」である。

Kuromatatabi クロに思春期が来て、昼夜メスネコを探して出回り食事も喉を通らない日々が続いた。げっそりと瘦せ細り、たまに帰ってくると、熱があるらしく四肢をブルブルと痙攣させていた。札幌の安田君が送ってくれた「マタタビ」を与えたところ、はじめは興味を示さなかったが、やがて熱中し、前足で抱き抱えて齧るようになった。それから数日後には食欲も回復し、恋煩いもすっかり治ったようだった。  

 高い所から跳び下りた拍子に足に釘を刺しビッコをひいていた。獣医さんに麻酔を注射され手当てしてもらったが、麻酔で足腰が立たなくなった状態から必死で起き上がろうとする様子にクロの生命力の強さを感じた。それから二週間と経たないうちにまたビッコをひきだした。こんどは足の裏のクッションとなる膨らみが裂け出血していた。

こんなふうに何度も獣医さんのところへ連れてゆくうちに、憐みんから発した情が育って、すっかり家族の繋がりができてしまった。

クロはトラを、はじめのうち怖がり、尊敬もしているのか近くを通る時も遠慮がちに壁際を歩いたり、トラが餌を食べる様子をテーブルの脚の陰に隠れて見ていたり、バリバリ音をたててキャッツフードを食べる様子に驚きの目を見張っていたのだが、次第に度胸がつき、ある日、トラが餌を食べている背後から忍び寄り、鼻をつけて尻尾の匂いを嗅いだ。トラが牙を剥いて怒ったのは、この時が初めてである。

それからはトラはクロを意識しだし、自分の牙城が危険にさらされてToraetkuro3いると感じ始めたらし い。カミサンが近寄り手を出すと、腹から唸り声を発して怒りを表明するようになった。

そして、とうとう、ある日、トラが見ている前でカミサンが台所のガラス戸を開け、クロを入れてやると、グウウウと唸り声を残したまま出て行ってしまった。それから半年以上経つが、トラは姿を見せない。

飼い主が引っ越しして連れて行ってしまったんだろうとか、車に轢かれてしまったのかとか、畑や牧場にはネコ嫌いが居て、猟銃で撃ったり、餌に毒を盛って殺してしまうという噂があるから、もしかしたら、死んでしまったかもしれないね、と話している。

野原や牧場を歩き回るのが好きだったトラは、いつも首の周りにチックと呼ばれるアヅキ大のダニの化け物みたいな虫をぶら下げて帰って来た。チックは秋口の枯れ草のなかに居て僕も刺されたことがあるが、そのまま抜き取ると銛のような形の針が肌に残ってしまう。乙型をした小さな釘抜きみたいなのに引っかけ回して抜くのだが、首のまわりを探りながら抜いてやると気持ち良さそうに眼を閉じてじっとしていたトラの姿が懐かしい。

今はクロだけが日に何度か出入りした後、夜遅くに台所のガラス戸をカリカリと引っ掻いて開けてくれと合図をし、夜食を食べたのち、眠りに就く。明け方の四時頃、枕元へ来て、喉の奥でか細く鳴き、ペットの縁に爪を立て引っ掻くので僕が起きることになる。トラはかなり大きな声で鳴いたが、クロは明瞭な声では鳴かない。

まだ暗いうちに、庭に隣接したとトタン屋根に眠っている三匹の雌猫に会いに行くのだ。三匹とも実は不妊手術がしてあって、いくらクロが口説いたりモーションをかけても反応がゼロなのだ。それどころか白とチビには牙を剥かれ引っかかれたりする。年上の猫とは一番仲が良い。カミサンはクロが病気になったのは不妊手術がしてあるとは知らずに三匹の雌猫を追い回したお蔭だと言った。

クロの都会児的な振舞いから僕とカミサンはてっきりパリの人が車で連れて来て、途中家から抜け出て、うちに迷い込んだに違いないと話していた。ところがトタン屋根の家主のセバスチャンが語るところによれば、田舎道で足もとにじゃれついてきたので拾ってきたのだという。三匹の雌猫と同じ家に飼われ始めていたのだ。

Toraji1 トラはそのことを知っていたのだろう。庭は三匹の雌猫のテリトリー。でも、この家の中は俺の牙城だと信じ幸福そうだった。それが、信頼していたマダムが手づからクロを入れたのだ。カミサンが「トラがわたしに向かって唸り声を挙げる」と不思議がっていた訳だ。信頼を裏切られ一人だけの城を侵され悔しい唸りを挙げながらクロと争いもせず、自分から出て行った。トラは体は逞しく気持ちの優しい猫だった。

投稿 : 叢林亭 :http://www.sorintei.com

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2009年1月23日 (金)

トラとクロ

投稿者: フランスは ピュイゼ のB & B : 叢林亭 http://www.sorintei.com

先週は、いよいよ笛作りの準備に作業箱を作った。そして「篠笛第一号」の制作にとりかかった。

Box1 唄口と指孔の位置を決め、錐とドリルと切り出しナイフで小さな穴を開け、管の内側にカシュー塗料で下塗りを施した。細い竹の先端に布切れを巻きつけ筒内の塗布用の棒も三本作った。

笛のカシュー塗料が乾くのを待つ間、トラとクロについて書いておこう。去年の今頃までは二匹いた猫のことである。

今回の東京滞在は18日間だった。初めの一週間はフランスのことなど考えずひたすら東京の下町を歩き回り、庶民の味を楽しんだ。二週目の中頃から、ふいに家内の顔とクロの姿が目に浮かんだ。

台所のガラス戸を開けると腹を空かせたクロが全力で走ってくる。仔犬みたいに見える。その一心不乱な姿に愛しさを感じる。ブログとホームページにクロの絵を使った。写真よりは絵の方が生き生きとした感じが出るのはなぜだろう。

本名は「クロジ」という。そのいわれを語るのに二年ほど遡ろう。

ここへ引っ越した当初、庭に随時、5・6匹の猫が出入りしていた。どこの家の飼い猫か野良猫かも見分けがつかなかったが、しばらく経つうち、うすうす見当がつきはじめた。猫たちは、家の庭に用足しに来るのである。猫は犬と同様テリトリーの標に尿を掛ける。その臭いはかなりきついので、見かけ次第、小石を投げて追い払っていた。

中の三匹は前の家主の飼い猫で、家主の若夫婦は二キロほど離れた畑に広大な土地を買い、Gite rural を始める計画で、何軒かの建物を建てた。まだ、うちの庭に接した小さな土地にトタン屋根の家を持っていて、去年までマドレーヌという 94歳になる婆さんが独りで住んでいた。養老院に入るのを嫌って家族とも離れ独り暮らしをしていた。彼女は腰を悪くしていたが、言語明晰で驚くほど元気だった。去年の春、夜中に転んで、ひとりで移動が困難になり、遂に養老院に入らざるを得なくなった。家主のセバスチャンは若い間借り人に貸す積もりらしく、毎日内装工事をしに来る。

「猫は土地になつくから」と若奥様のクリスチーヌが言い訳のように言い、マルチーズ二匹だけ連れて行き、三匹のネコは置いて行ったのだった。

後で三匹は姉妹とわかったのだが、一番年上が美人で丈夫、霜のおりた寒い朝も負けずに庭を検証に回る。一番年下は、夏の間、丈高くなった草の窪みでいつも昼寝をしていた。真ん中の白猫は病気なのか家に籠りがちで、ネコ嫌い。他の猫が近寄るとギィヤーとけたたましい悲鳴をあげる。

そうした三匹とトラは一緒に居た。というより、向かいの公園から、うちの庭を縦に突っ切って路地側の中庭の奥にある、元「救急車の運転手」の家へ寄っていたらしいのだ。

いつも悠然と歩く。最初見たころは、やせ細って、ゆっくり歩くので、のろまじゃないかと思った。一度、投げつけた小石が脇腹に当たったが、平然として、のっそりと歩き続けた。他の三匹の雌猫なら、一目散に裏口の、ネコドアから、家に駆け込むところだが。

ある日、トラが野鼠をくわえ、早足で庭を横切った。がりがりに痩せていたので、ひもじい思いでネズミを捉えたのだろうと不憫に思った。カミサンに満足に餌をもらってないようだから何かあげようじゃないかと、その日から、、ハムなど、あり合わせの肉類やスーパーで買った安い鶏のキモだのを与えた。適量を知らなかったので一度に大量の生レバーを与え全て食わしてしまったことがある。「ウワーウ、ウワーオ」とその日の夕方、大声で泣き叫び、カーテンの裾にレバーを嘔吐した。

その日以来、少しはネコについて学び、キャッツフードという便利なものをスーパーで売ってることも知った。トラはウサギの入ったのが好物で、バリバリ盛大な音を立てながら食った。

Tora1 若いトラは痩せて脚が長く美貌だった。てっきり雌猫とばかり思い込んでいた。顔と胸元が白く、口のあたりがピンク色で色気があった。歩く姿がいかにも優雅なので「ミス・サンファルジョー」と呼んでは喜んでいた。青味がかった灰色の縞模様の入ったトラネコで、胴が長くエジプト猫の血が入っているのかもしれなかった。吊り上った金色の眼が大きく黒く縁取りがあって妖艶な感じがした。「ブリジット・バルドー」だねともカミサンに言った。

成長するにつれ、後ろのタマが膨らみ、前脚も湾曲してガニマタになった。その代わり、体全体が引き締まり、筋肉質のアスリートな体格になった。2メートルはある門扉に軽々とひと跳びであがる。

Tora3はじめのうちは週に二三度寄るだけだった。そのうち餌を食べた後昼寝をするようになり、夜も泊ってゆくようになった。眼が光に敏感なのか前足で隠して寝ていることがよくあった。

やがて冬が来た。風邪をひいたらしく台所のガラス戸から入ってくると椅子に前脚を折って座り、苦しそうな息使いをしていた。全身の毛がけば立ち、薄眼を開けてこちらを見ているではないか。苦しいからどうにかしてと訴えられてる気がした。カミサンは僕より憐ぴんの情が濃いから、すぐ獣医のところへつれてゆこうと言う。この村に獣医はなく、10キロ離れた隣村まで車に乗せて行った。

獣医さんによれば、野原や牧場にはネコに大敵の風邪のヴィールスが蔓延しているという。猫にとってこの風邪は重病なんだそうだ。ネコのエイズもあり、特に牡猫は喧嘩で得た傷口からエイズが感染して死ぬことがあるという。ワクチンの注射を奨められたので打ってもらった。来年もう一度打たないと真の効き目がでないらしい。

こんな風にしてトラは次第にうちの住人になるかのようであった。二晩、三晩と連続して泊ってゆくようにさえなった。明け方に出してくれと小さく鳴き、枕もとに来て手で顔の近くを叩いたりした。こっちもトラがその気なら飼いネコにするつもりでいた。

しかし、二三日泊ってはフッと居なくなる。また数日空けてはフラッと現れる。まるで「寅さんだね。」と僕は家内に柴又の「寅次郎」の話をした。子供のころ耳にした朝鮮の民謡の「トラジ」も蘇った。トラジは桔梗の花のことだそうだ。色っぽい顔を桔梗に見立ててもよし、トラネコだし、平凡だけど簡単だから「トラジ」がいいかとカミサンの承認を得て、命名した。

近所の牧場に狩りに行くようだった。雨の日など脚から腹にかけて泥だらけにして帰ってくることがあった。二日ほど姿をみせなかった後、遠出をしてきて何も食べていなかった様子で、上がり込むなりエサの皿に顔を埋めて貪り喰った。どこかで宿敵と決闘したのか鼻頭に引っ掻き傷をこしらえ、良い形の耳が裂け、白い胸毛を鮮血で汚して飛び込んできたりもした。

朝、寝ているうちから、窓の下へ来て、鎧戸の外からニャアオとはっきり通る声で鳴くので二階からもよく聞こえた。昼まで寝て、午後にはどこかへ帰る日が続いた。カミサンの観察によると、来ない日は大抵が日曜日で、飼い主が勤めに出ず家に閉じ込めるから、来たくても来れないのだろうと推察した。

Torafacecadre 耳に刺青で住所と電話番号を入れると飼い猫になるのだとカミサンは言う。異存はなかったが、やはり気になるのは、トラにはほぼ間違いなく他に飼い主が居るということだった。元「救急車の運転手」の家には雌猫が居て、いつも数匹の子猫を産む。どうやら子猫を知り合いに別けてあげるらしいのだ。トラもそこで産まれ、誰かに貰われたらしい、とカミサンと類推した。そうなら飼い主と話をつけてから耳に刺青をしなければならない。どうやって見つけるか。元「救急車の運転手」さんに聞けばいっぺんでケリがつくのに、対人恐怖症の気があるカミサンは、あの男にはいっぷう変わった気配があり、近づきになるのが嫌だという。ふたりしてトラの出て行った跡をつけることまでした。

クロが現れたのは、こんなふうな時期で、もう少しでトラがうちの住人になるといった頃だったのだ。ちょうど門の工事を始めた6月の初めだった。庭の隅に屋根の吹き替え工事に使ったスレートの切れ端の黒い山があった。もうじき作る予定のガレージの屋根を葺くために取っておいたのだ。

その黒い山に二つの金色の丸い眼だけが動くのが見えた。かさこそと音がすると、黒い小動物が横のリラの木にパっと跳びついてよじ登った。とたんに、どさっと音がして小動物は黒い山の中へ落ちた。近寄ってみると仔猫が這い出てきて、足にじゃれついた。まだ生まれたてで、後ろ脚もおぼつかず、よちよち歩きだった。それが、クロとの出会いだった。

投稿者: 叢林亭: http://www.sorintei.com

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2009年1月15日 (木)

益子訪問

こんどの帰郷の目的のひとつに陶芸の町、益子の訪問があった。Saint-Fargeau から3キロほどのところにある小さな古城 Ratilly を陶芸家の濱田庄司が訪れたことがあると知ったからである。濱田庄司はバーナード・リーチ、柳宗悦などと民芸運動を起こしたことで有名で、日本の人間国宝第一号でもある。

東大駒場の近くにも民芸館があるが、益子には庄司のアトリエと登り窯、それに地方の民家を移転させた住居が保存されている。博物館といわずに参考館と呼ぶのは庄司の遺志を継いでのことらしい。

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妹ふたりが数年前流行りに乗って数度訪れ詳しいというので連れて行ってもらった。

氷雨の降る寒い日で訪問者もまばらだった。 SL が走っているには驚いた。

展示してある庄司の作品もさることながら建物の床、柱、框などに使ってある木材の、厚みといい艶といい杢目のなんと重厚で美しいことか。

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木以外にない、木独特の肌合いと温かさ、落ち着いた質量感。石油製品、プラスチックなどの新建材では持ちようがない味わいだ。

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この茅葺屋根の荘重かつ親しみある味わい。おそらく江戸時代の庄屋の家などを移築したのだろうが、白川郷の合掌造りと並んで日本の民家の代表として大事に保存して欲しいと思う。

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益子の陶芸市の盛況ぶりをインターネットの映像で見たことがある。粘土を捏ねて誰もが割と手軽に作品を作れるところに人気の秘密があるのだろう。しかし、いったん値をつけて売るとなると市場の論理と景気に左右されてしまうのでいつまでも盛況であり続けるわけにはゆかないらしい。

陶芸もそうだが、華道、茶道、書道、日本画、尺八、長唄、三味線など日本には昔から家元があり師匠がおり、お弟子さんが「おっしょさん」について修行するという伝統がある。司馬遼太郎によるとこれらの起源はすべて弘法大師、空海にあるということだが、それはさておいて、師匠の家に女中として住み込みながら芸を盗むといった戦前の芸の伝承の仕方が民主主義の世の中になってから礼金と交換にノウハウを授かるというビジネスに変貌してからも最近は若い人たちに復興の兆しがあり、それどころか欧米をはじめ外国人が日本の伝統芸能に興味を示し、尺八作りでもネプチューンというアメリカ人が日本人に教えている時代である。

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工場で作られた規格品にあきたらず自分独自の物を求め、また規格化されえない世界を探している傾向の現れとみている。

一方で一段進んだロボットが日本では作られ始めた。階段の上り下りの補助をしたり人間と会話ができ、言いつけた作業をこなしてくれるロボットが実用化されている。

工場では作業の規格化ということがやかましくいわれるが、これは機械でもできるやり方、ロボットが作業可能なやり方を追求していることに他ならない。

何十万、何百万回と繰り返し作業を飽きずにロボットは続けることができる。定形化された繰り返し作業ほどロボットに向いている。摩耗や汚染による通電不良などを除いてロボットは決められた作業を正確に繰り返す。重量物の運搬や危険を伴う作業をどんどんロボットに替ってもらえば良い。現にボデーの溶接ラインは今ではほとんど自動化されている。

流れ作業の非人間的側面を戯画化したチャップリンのモダンタイムス以来、自動車工場の組立ラインが繰り返し作業による非人間的労働の代表のように見られているが、1時間ごとに持ち場を変わったり、重量物をロボットに運ばせたりして、できる限りの人間的な自動化が進んでいる。自動化が進みすぎると機械につきものの故障が起きた時、ライン全体が停まってしまうので、人間の叡智を備えた自動化という意味で「自働化」という字をあてるのがトヨタ流だが、ロボットの性能が進化すれば組立ラインでも今人間がやっている大部分の作業をロボットがとって替わる時代がくるだろう。ただワイヤー・ハーネスだのゴム・パッキンだのの柔らか物は当分ロボトには無理というのが大方の意見である。

人間の眼、手と指と皮膚が持っている触覚。それらに代わるセンサーの開発がロボットとともに進められている。手工芸家たちは、材料を手で触り、その触覚を頼りに目と記憶を働かせながら、押したり引いたり、まわしたり削ったりを、小刀や道具を使い最適な力加減を加え、経験と相談して按配しながら加工してゆく。

プレス・ショップで働いたことがある。最新の巨大なトランスファー・プレスが稼働するショップに型保全という昔ながらの職人さんたちが重要な役割を担って仕事していることに驚いた。

ブランキング・ラインから出たスチールの板がプレスに入り加工されて出てくる。その平面や曲面の凹凸を掌で撫でて不具合の可否を探る。職人さんの慣れた掌の感触は100分の1ミリほどの凹凸を感知するのである。

型の刃の部分の摩耗や破損の修理にベテランの職人さんの腕が不可欠なのだが、一人前の仕事ができるまでに最低5年は掛るという。日本から出張してきた職人さんが若いフランス人の養成をするのだが、大抵は辛抱が無く、少し仕事を覚えるとより良い条件で他所へ行ってしまうことがかなり深刻な問題だった。そこで若い合理的知性の持ち主のフランス人のエンジニアが、こんな職人作業は時代遅れであり必要ない。三次元をミクロン単位で記憶できるコンピュター付の研削機械に使用前の形状を記憶させておき壊れたり摩耗した部分を肉盛りした後、機械で削れば良いではないか。職人の経験など不要だ、と主張した。

しかし、彼の意見は現場をまったく理解していない頭だけの議論で、材料と型との運動・熱力学の理解を欠いた机上の空論であるとして退けられた。型保全の職人さんたちは依然として小型の研磨器(ベビーサンダー)を手に型の上に数時間しゃがみ込んで、経験とカンを頼りに数十トンある型の保全を続けている。

工場の大部分の故障や不具合は要因が複合的で、パラメーターが多すぎ、コンピューターが処理仕切れない。人間の感覚と経験に基づく判断は、コンピューターを超えている。 ロボットが進化して感情を持つまでになったAI というスピルバーグ監督の映画があった。

名人の筆の動きをロボットに覚えさせ、名人の書と同じように書かせることはできるだろう。チェスのチャンピオンとコンピューターが対戦することがある。ストラデイバリウスのバイオリンをロボットが複製する日が来るかもしれない。だが、それを超える名器を作ることはありえない。またそう思いたくないのが人情だろう。ロボットが人間の技量を超えてしまったら、それは人間の芸というものの終焉を意味するし、悲しいことだ。人間はいつまでも機械よりは優れていると思いたい。

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2009年1月11日 (日)

変貌を遂げた東京

千葉さんはパリへ着いたばかりのころ知り合った日本人のひとりである。オペラ通りの屋根裏の僕の下宿があまりに貧しくひどいのに同情してくれ、エッフェル塔が天窓から見える下宿を世話してくれた。それが縁になって今も親しくしている安田君という画家の友達ができ、彼が縁結びとなって、しばしば寄食させてもらった師井夫妻宅で家内と出会い結婚した。いわば千葉さんは僕の人生の岐路で舵取りをしてくれた人なのである。

千葉さんにはその後も大変お世話になっている。東京へ帰ると超多忙の合間を縫って会ってくれる。今回は「Roppongi Hills」だった。20年以上昔Vancennes の病院で産まれた娘さんが、ここの有名なビルのオフィスで仕事をしているというではないか。まったく予想外のことだったが彼女が招待券をオフィスから取ってきてくれて屋上へ上がることができた。

Tokyotourbay冬の関東地方は晴天が多く気持ちが良い。曇り続きの北ブルゴーニュとは打って変わって眩しく陽光が射し気温が18℃と春の陽気だった。この日も晴天で四方が良く見渡せた。

「摩天楼」とニューヨークに林立する超高層ビルのことを昔呼んだ。フランス語でも天を掻く( Gratte -ciel ) という。それが何十と聳えている。東京タワーが低く見える。

東京は変わってしまった。昨年の秋ル・コルビジェの「伽藍は白かった」を読み始めたのだが、高校の頃、兄がロンシャンの教会堂の話を熱心に語っていたので、ずっと違った思想とスタイルを目指した建築家とばかり思い込んでいた。読み始めて彼がニューヨークの超高層ビルに対し讃辞を呈しているのを見て驚いた。

前川国男氏がコルビジェの弟子で、そのまた弟子に都庁を設計された高名な建築家が居られ、パリにも「私はその名高い建築家と兄弟弟子なのよ」といわれる方が活躍されている。変わり果てた眼下の東京を見渡しながら思ったのはそのことだった。

夜中にはっと眼が醒める。床が揺れている。緊張感で体が硬くなる。若いころは地震恐怖症だった。千葉さんによれば、これらの超高層ビルは新規に建設される場合3分の1は住居に充てなければならない、というから随分沢山の人が高い所に暮らしているわけだ。日本の建築界は地震を克服する技術を開発したのだ。

しかし僕は変貌した東京をもはや自分の故郷とは感じなくなっている。僕の情感の奥深く記憶とともに眠る幼少から親しんだ東京の片隅の光景は跡形もなく消滅してしまったからだ。

2007年の暮れには、生まれてから20歳まで過ごした西大久保の土地と大久保小学校周辺を訪ねた。どこにも昔の面影は残らず全く違う町に変貌してしまっていた。

この日、千葉さん夫妻と別れたあと、新宿中学校と名を変えた、かつての大久保中学を訪ねた。毎朝登校時そこを駆け上った西向天神の階段はそのまま残っていた。校舎は立派になり鉄の柵と門が閉じていて近寄りがたい感じがした。学校の裏側一帯の住宅地が昔と変わらず地味な落ち着きを保っていたのが僅かな慰めだった。

小学校も中学も、いまや木造校舎からピアノの音が漏れ、「仰げば尊し」の合唱が聞こえてくる・・・映画にあったようなイメージとは全くかけ離れた姿になってしまった。

外国に暮らし歳を重ねるにつけ記憶にのこる歌や童謡が自然口をついてくる。僕は、そうした歌を戯れにフルートで吹いてみたのだが、和楽器で吹いてみたくなった。篠笛をこれから作る。ドレミの音階が出せるように指孔を開けるつもり。

横笛もいいが僕の口には縦笛の方が合っていそうな気がする。それでリコーダーを始めた。いずれはこんど新木場で買ってきた楓や桂やサクラの木で作るつもり。

本当はオーボエの音に魅せられている。いつぞや母校のオーケストラがシャンゼリゼ劇場で公演した時。最後にひとりのオーボエ奏者が静寂のなかを「荒城の月」を吹いてくれた。それは本当に涙がでるほど心に沁み入る演奏で、隣の席に居た僕よりフランス生活が長い女性など静かに頬を拭っていたほどだ。

今の東京には住みたいと思わない。僕は64歳になるが、もっと年老いて、もし日本へ帰ることがあり住めるとしたら日当たりの良い房総のどこか田園と海が見える場所がいいなどど夢見ることがある。

60年代から70年代の初め変貌し始めていた東京にすでに暮らしてゆけない不適合な自分を感じて逃げだしてきた。小学校や中学の遠足で行った多摩丘陵など雑木林に囲まれた畑の中に農家がぽつんと一軒だけ建っている、そうした武蔵野の面影を残した風景をいいなとそのころから感じていた。今の東京には稀になってしまったが、フランスにはそうした風景と通じ合うところが今も残っている。シスレーやピサロが描いたパリの郊外は今は変貌してしまったが、フォンテンヌブローとヌムールのあいだには、かつての多摩丘陵に感じたと同じ情感を湧かせてくれる田園風景が残っている。それらの風景がいいのは、都市と農村のはざまで、自然を征服しつくしていず、自然の営みに合わせて暮らす人間というものを感じさせてくれるからではないかと思う。

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2009年1月 8日 (木)

ブログ再開

長い間更新をしなかった。門柱の化粧タイルを注文したが店員が発注を忘れ、入荷までに6週間も待たされ、しかも手が足りないとかで止む無く自分でリヤカーを牽いて工場まで取りに行った。そのことについて書こうと思っていた。その逸話をきっかけにフランス人のサービス意識の低さ、テーラー方式に対する反発と抵抗、さらにフランスでは品質、価格、納期のうち特に納期に関しての意識が遅れ、プロセス毎のチェックをないがしろにしているためにデリバリーにミスが多く、そのため最終消費者たる市民がどれだけ迷惑しているかを書く積もりだった。

内容について突き詰めてゆくうち、だんだん書くのが嫌になった。そういうところに住んでいるのも自分の選択だし、そういう結果を招いたのも結局は自分の責任だからである。お客がどれだけ大切か、納期を守ることがいかに大切か、ましてや買うといって来たお客の注文を忘れちゃったなどとプロ意識の無さも甚だしいと立腹したり、それじゃいかんじゃないかと、ミスを犯して謝りもしないフランス人に、教えを垂れたくなったのだが、その必要もないか。垂れたところですぐには彼らは変わらないだろうし、変わらなくて困るのは結果が返ってくる自分なのだから。いずれは自分で悟るであろう、と達観することに決めた。それというのも、かく言う自分は、納期だコストだと気に掛けず泰然としているこの国の風土に魅力を感じているからこそ、フランスに住んでいるのではないか、と正直に考えたからである。

とりわけ、ここの田舎、ピュイゼには陶芸家や彫刻家、民芸品を作り青空市で売って生計を立ててる人など職人さんが沢山住んでいる。彼らは一様に工場で生産された物、工場の生産方式が嫌いなのだ。つまり規格品が嫌いで規格品を造るための規格化された仕事が嫌いなのである。

自動車の組立ラインでは作業者の足の位置を床にペンキで印して繰り返し作業にバラつきが出ないようにしている、などと聞いただけで彼らは嫌悪感に顔を歪めるだろう。

僕とて彼らの思いが解らないわけではない。それどころか、アーチスト、それが叶わなければせめて職人になりたいと夢見た青春時代。その想いが根底にあったからこそ、こんなフランスの田舎くんだりに住んでいるのではないか。もう生計を立てるために自己を犠牲にすることは止めよう。貧乏さえ覚悟できれば暮してゆけるのだ。僕も自分で物を作ろう。さしあたっては版画を作り、余暇に竹と木で笛を作る。

インターネットのサイトに笛作りを公開している人が日本には何人か居る。その誠実かつ謙虚な笛づくりの情熱には胸を打たれるだけでなく楽しさが伝わってきて自分でもやってみたくなってしまうのだ。リコーダーやバロックフルートなど洋楽器をミニ旋盤で硬い木を削って作っておられる人の博学には実に頭が下がる。篠笛、尺八の作り方を公開されている方々も皆さん洋楽の経験のある方で、笛作りの難しいところ、調律をしながら指孔を少しずつ広げてゆくなど、素人の僕には、そこを教えてもらうことがどんなに有難いかという急所を外さず懇切に解説されている。そういったブログを発見すると、日本って素晴らしいなあ・・・と素直に感じ入ってしまうのだ。文化や教養や余暇が確かに成熟してるなと感じる。

尺八に関してだけでも、今まで製管師の経験と勘だけに頼り、門外不出とされていたの内径の微妙な変化の付け方を、だれにもできるような方法を考案し、公開している方がすくなくとも三人おられる。

僕はそれを読んで、これならおれにもできるとたちまち尺八づくりの情熱をかきたてられてしまった。冬は竹刈りに絶好のシーズンだというし、房総の竹藪へ行って真竹堀りからやりたくなった。年末、いてもたってもいられず、というのはああいう思いを言うのだろう。思い立ったが吉日と東京へ帰った。埼玉県で工場経営をしながら尺八づくりをされ教室も開いてるMTさんのところへお邪魔をし、手作りの中から手頃なものを選んで貰い買って帰った。

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いきなり尺八は無理なので、まず篠笛から手掛けることに決め、材料の竹と道具を蔵前と浅草橋で買った。

そして運の良いことに、新宿西戸山の「横笛研究会」の昨年最後の月例会に見学者として一日参加させて貰うことができた。この会の人たちは皆自分で篠笛に始まって能管、龍笛を手作りでこしらえて吹き年に何回かは能楽堂などを借りて演奏会を開いている。上の写真は遠方に住む会員が郵送してきた製作過程の能管を見ながらコメントを与える砂川氏とそれを囲むメンバー。左の黄色いシャツを着て腕組みをした方が一番古い会員で27年続けておられるという。この日は最後にこの方の叩く太鼓に合わせ「おひゅあーひゅう・・・おひゃあひい・・・」と能管演奏に必要な暗譜の稽古をした。春の演奏会に向けての準備と見うけた。

尺八と横笛についてはまた別の機会に書く。

フランスへ帰った日のこと。Gien と Parisを結ぶ電車の本数が減らされるという噂は出かける前に聞いていた。Lyon 駅に夕方の5時に着き、両手に28キロと15キロの荷物に加え、入りきらない冬物ジャケットと空港で買った土産物の袋を抱え、身動きとれないまま9時までGien に停まるはずのNevers 行きの電車を待った。少なくとも3本はあった筈がいつまで待っても一本も表示が出ない。

背中に Informations と染め抜いたシャツを着たお兄さんが二人、クリスマス客でごったがえす地下の通路でサービスに勤めていた。Nevers 行きの電車は今晩ありますか? 訊いてみたがだめだった。上の階にInformations があるからそこで訊けという返事。荷物があって身動きできないんだ。ちょっとのあいだ見ててくれる? ダメもとで訊くとニベもない返事。荷物を放っとくと危険物として爆破されてしまうよとぬかしやがる。結局、9時発のMontargis 行きの電車に乗り、終点で運良く来たタクシーを捉まえ50キロ走ってGien駅前に残してきたマイカーまで辿り着いた。

1週間後、電車でパリまで行き初めて解った。電車の発着の駅が Gare de Lyon から Paris Gare de Bercyに変っていたのである。Lyon 駅でいくら待っても電車が無かったわけだ。発着の駅そのものが変わってしまうなど想像を超えていたのだ。

それにしても・・・、とまた、無駄と知りつつ思う。日本だったら、これだけの変化を利用客に周知してもらうため数ヶ月前からポスターなど駅に貼って広報に努める筈だ。変わったのが12月の14日からで、僕が出かけたのが12月5日だったから、たったの9日前。窓口の駅員さんは知っていた筈だが、発着駅が変わるなど匂わせもしなかった。

法律や政令などもそうだが、変わることについて知るべく努力しなければならないのは市民の方であって、なにごとにつけお上がすることを市民が右往左往、八方手を尽くして知っておくよう努めねばならないのである。

日本もかつて国鉄の時代はそうだったのかもしれない。民営化がなって市民へのサービスは良くなったのだろう。それにしても、東京の地下鉄のホームの清潔なことよ。どこもピカピカと光り、塵一つ落ちていないではないか。比べるにRoissy から乗ったRER の車輌の薄汚なさ。落書きだらけで臭いさえするではないか。どうしても嘆かわしい!!! と感じてしまう。こんな時は、独り言で「ラーメン食べるう・・・。」と言うことにしている。 La men table !!!

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