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2009年2月に作成された投稿

2009年2月23日 (月)

タイムカプセル

投稿者: 叢林亭: http://www.sorintei.com

「光陰矢の如し」という言葉がある。光は日、陰は月。時間は矢の飛ぶごとく早く、いったん過ぎ去った月日は二度と戻ってこない。ということの譬えである。

「日月は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり。」芭蕉は奥の細道をこの見事な言葉で始めた。

英語にもTime has wings. とか  Time flies like an arrow. とかの似たような表現がある。

60歳を過ぎると誰しもこのような感慨を抱くらしい。高校時代からの畏友は年賀状に「時間」についての言葉を送ってきた。

時間というものが在るとして、人間は一様に直線的に飛び去る矢とか、旅人とか水の流れとか、とにかく移りゆくもの、流れて去ってゆくもの、と感じている。

「現在」というのは確実に感じられる。「過去」はそれよりもっとぼやっとした霧に包まれたようなもの。「未来」となるともっと不確実なものと感じる。未来はひょっとして無いかもしれないが過去は確実にあった。

ふつう現在が飛び去って過去になると感じられ、上の矢の譬えのように今から過去に向かって飛び去る。しかし、確実に感じられる今から見ると過去の方から現在に向って飛んできたと言った方が良いように思う。飛んできた矢:「私」は過去には無く今確実にここにある。「私」は母親の胎内で受精した瞬間から現在の方向に飛んできて今ここに居る。その間、飛んでいた60年の時間と空間は失われ戻ってこない。

タイム・カプセルに乗ると時間を過去に遡ることができる、という。昔、私がそこに居た時間と空間に戻ることがほんとうに出来るであろうか?できるとすれば時間というのは他の物質と同じように物理的な実体といえるが、そのような時間は存在しない。過ぎ去った時間は永久に失われたのである。

前回、佐伯祐三の最後のアトリエをクラマールに訪ねたことを書いた。このアトリエの建物:空間はその時確かに在った。が、佐伯祐三とその家族は無く、僕と友人の祐造が居ただけであった。祐三がそこで絵を描いた時間は失われた。

そのアトリエも壊されて今は無く、僕と祐造の記憶の中にだけ在る。ここで言う記憶とは脳細胞に残された物質的な記憶だけのことでは無い。祐造も僕もその場に身体ごと居た。佐伯祐三が居た建物の中に佇んで、祐三が絵に命を捧げて死んだという事実を想い呆然とした。記憶は三次元の身体の中にも残っている。身体ごと、その時間と空間を生きた。それは今ある僕の身体の一部になっている。

「三つ子の魂、百まで」という諺がある。幼少期に習い覚えた事、癖は死ぬまで変わらない。僕は四歳と五歳の二年間を祖母とふたりきりで田舎に暮らした。65歳になろうとする今でも、その時の経験が今の生き方を左右している。

僕は六十年前にその時を生きた。だから、それは脳細胞の記憶だけでなく、身体中に刻印された生の一部だ。すべての生物の細胞は生きながら入れ替わるから、身体に感覚や体験として刻まれた記憶はなんらかの形で継承されるらしい。

僕の幼児期の記憶はすべて視覚的なものばかりだ。聴覚に残っているものはごくわずかに祖母の特徴のある声だけだ。二年間ふたりきりで暮らすうち、祖母は丹頂鶴の描き方を教えてくれた。頭のてっぺんが赤い図形化された鶴の絵だが、それを繰り返し描いた。絵を描く楽しさを祖母から教わった。

人間の記憶は、ある場面の中に居た筈の自分を客観化して第三者として見ることができる。今も、幼児期に暮らした家の様子を覚えているし、その六畳ばかりの狭い部屋に祖母とともに居る幼児の自分を想い描くことができる。

思春期のもやもやした心の悩みは今思い出すことはできない。理想を求め、高みに達したいと希求した胸の高揚や野心や情熱は今はどこへいったやら、少しも蘇ってこない。そんなこともあったなという感慨くらいで再現はできない。それが過去:過ぎ去った時間、失われた時なのだろう。

タイム・カプセルに乗った場面を想像して絵に描いてみたが、青春期の江ノ島らしきTimecapsel 景色が見えたほかは、恋していた彼女が傍に居るくらいで他に何も見えなかった。脚元の波は動いている筈なのに、遠くから見ると停まって見える。飛行機から海岸線を見る時も同じように浜に打ち寄せる波が停まって見える。

タイム・カプセルに乗って時間を遡れば、昔の場面に戻れるというが、僕は信じない。

時間とはそういう実体のあるものではなく、個々人がそれぞれの内面で感じるものでしかない。

物理的な時間があるだろう、という。地球の自転や公転をもとに一日を24時間、1時間を60分・・・と決めた。大昔の中国では水で時間を測ったらしいが、時計というものが発達して、振り子やゼンマイや水晶や原子の振動を利用して時間を計っている。

イスラムの国や中国では今だに太陰暦を保存しているが、グリニッジ標準時間はさすがに世界的になった。どのコンピューターにも時計が組み込まれている。2008年と2009年の境目に1秒だけ天体時間と原子時間のズレができたとか騒いでいた。

時間というものが流体のように途切れなく流れるものというイメージがあるが、実際は時間を計る時計は振子を使った柱時計にせよ、水晶の振動を使ったデジタル時計にしろ、進むと停まるの組み合わせで測っている。

ゼノンの「飛んでいる矢は停まっている」と「アキレスはいつまでもカメを追い越せない」の逆説は、時間と空間を無限に分割するという考えを基にして立てた論法で、ある意味で現在も時計を使って時間を分析しているのだ。

タイム・スタデイで動作を分析し、時間を当て嵌めるやり方は、①持続する運動を分割する。②分析した動作に割り当てる時間は物理的、社会的時間である。というふたつの問題点がある。

上の節に時間は各人が内面で感じるものと書いたが、人間の生物学的、生理的、心理的時間と社会的、物理的時間との違いというものについて人々は早くから気が付いていた。これは「浦島太郎」の話があることからも納得できる。

竜宮城で幸福な時間を過ごした浦島は、せいぜい二三日と信じて陸に戻ると何十年という歳月が経っていた。人間の主観的時間というものと、天体の運動を基にした物理的時間というものが、昔からズレていたのかは疑問だ。農耕牧畜生活をしていた時代は人間の寿命、脈拍、睡眠、食欲、生理と自然の時間とは、そんなに隔たりのあるものではなかったのではないかと想像する。

産業革命以降の現代になって人間社会は夜も生産を続け、人間の生物学的条件に変換を強制するような生活条件を生み出した。生産手段を持たない労働者が直接この変換に適応せざるを得ず、生産手段を私有するパン屋とか家具職人とかはある程度マイペースで仕事ができる。

自由業、芸術家になると更に違ってくる。ピカソは夜寝床に就いてからもデッサンや小品を描き続けたといわれるが、巨匠にとって残業時間がどうのという話は笑止千万だろう。「三度のメシより本が好き」とか「寝食を忘れて」あることに熱中する人は沢山いる。

現代の社会組織は分業を作りだしたし、分業なしでは複雑な工業製品や大規模プロジェクトは実現しえない。しかし、西洋の個人主義を基礎に置く社会組織では、ひとりひとりが分担、掌握する仕事を、ひとつひとつ確実に間違いのないよう片づけてゆくという仕事のやり方が基本となる。すべての人が間違いなく分担をこなせばうまく行くはずの分業社会は実際は間違いだらけで最終消費者たる市民がツケを払わねばならない。それは何故だろうと考えてみた。

西洋の仕組みは、理論的にはうまく行くはず。ひとりひとりが間違いなく仕事ができる、という前提があるために、チェック機構が出来ていない。エラーがあるのではないかと疑うことが人格を傷つけることと混同されている。そのため上流、下流の仕事には口を出さない。チェックをしないという慣例が西洋の組織にできてしまった。

リーマン・ブラザースの破綻は同僚がやってることが危ないと感じながら口出しをしなかった分業の行き過ぎの結果と言うことができる。今回の世紀の金融、経済危機はテーラー主義の終焉というよりは、西洋の近代が生み出した合理主義と、分業という労働組織の欠陥を露呈したと言うことができる。冷泉彰彦氏の「アメリカモデルの終焉」はこの問題についてのより詳細な分析があり深い示唆を与えてくれる。

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2009年2月20日 (金)

エコール・ド・パリ - その4

投稿者: 叢林亭:http://www.sorintei.com

エコール・ド・パリに属するのか定かではないけれども、パリを描いた画家としてユトリロと佐伯祐三の名が自然と浮かんでくる。

ユトリロはアルコール依存症から脱け出させるために母親が絵を描かせたという変わった動機で画家となった。もう半世紀も前、銀座で初めてユトリロの絵を見た時、「じつにいい。なんと心に沁みる色だ。」と思った。「パリがこんなに味わい深く、情緒に満ちた街なら是非行ってみたい。」と誘惑に駆られたものだった。

Utrillo3 それはユトリロのアルコールで濁った眼が捉えたパリの古壁や石畳や教会の屋根や街路樹などの深みのある色と、やはり酒のせいで動かなくなった手が風景の中に描き込んだ、不器用な人物の後姿だったりしたが、どれも、このうえなく哀愁を帯び、郷愁に満ちた風景を作りだして、思春期の鬱病に沈んだ心にじんと沁み入った。

京都や奈良、ローマなど栄枯盛衰を嘗めつくした古い町には、長い歴史のシミが町の壁にも染み込んでいる。華やかな商業主義のパリでなく、人間の悲哀と喜びが古い壁に沁み込み、喜怒哀楽を包み込んでくれる街。

佐伯祐三もそういうパリを描いた。なんでもない道に開いた建物のの扉、広告塔、エSaeki6 スカルゴと呼ばれていた公衆トイレ。パリの街のどこにもある、ありふれた物を対象に、深い色彩と、奔放かつ洗練された筆致で味わい深い絵を沢山描いた。

若い命をひたすら美の女神に捧げ、身も心も燃焼し尽くして死んだ。僅か30歳。パリ滞在期間は二回を合計して二年半だけだった。それだけの間に、あんなにも沢山の傑作を残した。佐伯祐三も、ゴッホ、モジリアニと並んで、自らの美の創造に命を賭け、途中で病に倒れた悲劇の芸術家のひとりである。

Saekiverdin  「僕は純粋か?」と佐伯はよく友達に訊いたそうだ。パリで知り合った畏友「祐造」は、字こそ違うものの、同じ「ゆうぞう」の名を持つこともあり、佐伯祐三を崇敬していた。一日野外で立ちっぱなしで絵を描いて疲れた身体を、屋根裏部屋の板張りの床に敷いた布団に寝転んで休めながら、佐伯祐三の伝記を取りだしては、僕に向かって、よくこの夭折した画家のことを語った。

佐伯が最初のパリ滞在で住んでいたというモンパルナスの裏道にも行ってみた。二年2 間の滞在中に佐伯は「郵便配達夫」や「ロシアの少女」などの人物画も残す。

1 二年滞在した後、佐伯は健康上の理由で家族に説得され、日本へ帰る。落合と目白の間に住みアトリエも造るが、日本の風景は絵にならないと、ふたたび、家族を連れ、パリに戻る。

そして、それからの僅か半年ばかりの間、ほとんど毎日大きなキャンバス一枚を描き上げるといった激しさで、憑かれたように絵を描き続けた。すでに結核を病んでいたので、このような心身の酷使に耐えられる筈がなく、結核菌が脳に昇って精神に変調をきたし、森の入口で首を吊ろうとして倒れているところを友人に発見される。ほどなく、パリの北東の郊外にある、ヴィル・エヴラール精神病院に収容され、そこで息をひきとるのである。

佐伯と家族が最後に暮らしたアトリエがまだ残っているかもしれない。探しに行こう。ある日、祐造が言いだして、秋の日和に二人してクラマールを訪れた。京都や奈良を思わせる古い土塀に脇を挟まれた坂道を下ると、果たして、祐造の記憶する番地には草茫々の荒れ果てた廃墟が残っていた。

僅かに開いた門を押しあけ雑草が生い茂った庭に入ってみると、敷地の奥に写真で見たとおりの平屋の小さな家が廃屋になって立っているではないか。扉も窓も朽ちて崩れ落ち、床にはガラスの破片や塵芥が積もっているが、まぎれもなく、佐伯祐三がアトリエ兼住まいとして使った家だ。

1975年のことだから、それより47年前に佐伯はここに住み、アトリエに座り人形やSaekicaferesto 野外で描き切れなかった絵の仕上げをしたのだ。むろん家具調度など跡形もないが、建物は、ほとんどそのままの姿で残っていた。床に立ち、庭の木の間に射す陽の光が下草を照らし出す様を眺めながら、半世紀前の画家の息遣いが、そこここの壁の内から聞こえてくるような気配を感じていた。夭折した画家が、まぎれもなく、ここに暮らした。その過ぎ去った時間と画家の不幸な最後に想いを馳せ、言葉も無く僕らは呆然としていた。

家の軒には木を彫りぬいた軒飾りが並んでいた。僕はとっさの判断で、やがてこの家は壊されるだろう。家主にとって、日本人の夭折した画家が住んでいたことなど、感慨を誘うほどの重要さを持つまい。ましてや、腐りかけた軒飾りなど。記念に一枚貰っておいたところで責められはすまい。佐伯祐三という画家を愛する人たちが持っていてこそ、この板切れが意味を生じるのだ。そう考えて、一枚を剥がし持って帰った。

数年後、独りでこの場所を訪ねたが、廃墟は跡形もなく姿を消し、敷地一杯にコンクリート製のマンションが建っていた。

畏友祐造は日本に帰り、幾つか転勤を重ねて苦労していたが、今は札幌の某私大の美術部の学部長になり、忙し過ぎて自分の絵を描く時間が無いとこぼしている。二年前、この北ブルゴーニュに夫人と遊びに来たので、引越し荷物の間から見つけ出した佐伯の最後のアトリエの軒飾りをお土産に渡した。日本に在ってこそ意味があるのだし、佐伯祐三という画家をこよなく愛す者が持っていてこそ意味があるのだから。

日本人にはファンの多い佐伯祐三がフランス人にはほとんど知られていないのは何Saekipub故かと考える。いろいろ理由はあるだろうが、ひとつは佐伯のスタイルが伝統的な洋画とは相当離れているからだろうと思う。

Fujita はギリシャ以来の裸体画を描いた。ちょうど佐伯がエヴラール精神病院で死んだ頃、藤田は得意の白い肌をした裸婦像を沢山描いていた。ふたりの画家の間に交流はなかったらしい。

佐伯はパリに着いたばかりの頃、里見勝三に連れられてヴラマンクに会 ったが、野獣派の巨匠から「アカデミック !」と一喝されショックを受けた。以来、佐伯のスタイルは変わってゆくのだが、晩年の絵は、早描きのせいもあるが、奔放な筆遣いがそのまま残る、色とテクスチャーが美しい、カリグラフィーのようになってゆく。

Saeki8

ボリュームや立体感を追及する西洋絵画の伝統から外れている。だが二次元の平面に三次元の立体感を感じさせる技法を追及してきた西洋絵画は現代になって方向を転じる。従来の手法を想像世界に押し詰めたのが、ダリのような超現実主義。フランスの国境に近いスペインの港町カダケスに隠遁したダリは愛妻の絵とキリストの超リアルな三次元の世界を幻想させる絵を描いた。僕は藤田の晩年の宗教画は、ダリと共通したところがあると思っている。ヴィリエ・ル・バクルに終の棲家を見つけた藤田も君代夫人との静かな晩年を半ば幻想の世界に過ごした。

麦畑にカラスの群れが舞う、ゴッホの最後の絵は小林秀雄の文とともに有名だが、ピストル自殺を計った画家は死の直前、やはり「彼岸」を見てしまったのだろうか?

佐伯祐三の晩年の絵は、ポラックなど戦後のアメリカの現代画家に通じるところがあるし、現代絵画は、フォーヴ以後、マチス、クレー、ミロ、カンジンスキーなど三次元に見せかける努力を放棄して、いちようにグラフィックな色彩と形の追及に進む。

ゴッホが「彼岸」を見たとしたら、佐伯の末期の眼は禅画のような肉を削がれた精神という本質だけの人間の姿を捉えているように感じる。

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2009年2月17日 (火)

エコール・ド・パリ - その3

投稿者: 叢林亭 : http://www.sorintei.com

思春期に見た映画が、その後の人生を決めるということがある。

僕にとってそれは、「モンパルナスの灯」だった。

モジリアニの晩年を描いた、ジャック・ベッケル監督の映画で、悲劇の画家を、ジェラール・フィリップが演じた。僕が見たのは高一の時だから1960年のことだ。ジェラール・フィリップが映画よりも、むしろ舞台俳優として、当時のフランス演劇界を代表する不世出の名優だったということは後で知った。コメディー・フランセーズでコルネイユの「ル・シッド」を演じた時のLPレコードを買って大事にしていた。3

Jphilippe2 映画の原題は「Montparnasse 19」で1958年の製作だ。白黒のこの作品をヴィデオやDVDで探したが、フランスでは絶版で入手が難しい。昨年、日本でDVD が出た。

さっそく買おうとしたが、まてよ、いま見直したら失望するに違いない。そう思い直して見送っている。 DVDで見直さなくても、主要な画面は今でもありありと思いだすことができる。白黒の靄がかかったような画面が却って記憶の中から湧き出たようで郷愁をそそるのだ。

Hastings2 愛人の英国人ジャーナリスト、リリー・パルマーが演じるベアトリス・ハスチングスのところにしけ込み、「濡れ事」(この言葉がナニを意味するということもこの映画で知り、初心な僕の心臓は高鳴った)の後、酔っぱらいの画家がクダを巻くシーンがある。ジェラール・フィリップの鼻にかかったダミ声が、いまでもはっきりと甦る。

今は再開発されてビルが建て混んだモンパルナス駅の南側や東側は、かつては庶民的な丈の低い建物が並んでいた界隈で、二十世紀の初頭、モンマルトルから移り住んできたピカソはじめ、世界各地から集まった芸術家たちがアトリエを構えた。

Falguiere3 Fujita も、シテ・ファルギエール( Cite Falguiere ) というアトリエ兼安下宿に、モジリアニ、スーチン、それに献身的な画商のズボロスキーと隣り合わせて住んでいた。ベッケルの映画には藤田は名前すら出てこない。近藤史人氏の本「藤田嗣治」で、1918年にみんなで南仏に旅行したと初めて知ったのだった。

若い画学生に交じってモジリアニはデッサン教室に通う。国立のボザール(芸大)でAnoul_aimee2はなくモンパルナス界隈に今もあるカンパーニュ・プルミエールだとか、グランド・ショーミエールだとかの私立の絵画学校だろう。売れはしないながら、いっちようまえの画家であるモジリアニには先生も一目置いている。習うというより、モデル を雇う金が無いから教室にデッサンしに来るのだ。そこで出会ったのが清純なジャンヌ・エビュテルヌ。アヌーク・エーメが演じている。

ふたりに恋が芽生え、まだ二十歳そこそこのジャンヌは両親と住んでいて、その建物の入口で最初の抱擁を交わすが、官吏の父親は、貧乏絵描きとの結婚を許さない。

Roronde1 絵に激しい情熱を燃やしながらアルコールにも溺れるモジリアニは既に健康を著しく害している。結核だった。ドイツとの間に戦端が開かれ、絵描きの他にも、ヘミングウェイなどの作家、レーニンなどの革命家もカフェ・ドーム、ロトンド、セレクトなどのカフェに夜ごとたむろし、芸術や文学の革命論議に熱を上げていた時代だった。アンドレ・ブルトンの「シュールレアリズム宣言」も出た。

画家の健康を気遣うズボロスキーの世話で南仏(映画ではカンヌ) に旅行する。両親の制止を振り切って、家出同然に恋人を追いかけてきたジャンヌ。束の間の幸福をふたりは味わう。やがて、パリへ戻り、ふたたび創作と貧乏との闘いが始まる。

やはり、ズボロスキーの努力が実り、モジリアニの初めての個展がパリの画廊で開催された。歩道に開かれた大きなウィンドウを飾る裸体画を覗き見て、「うっ」と声を挙げ、スキャンダルーと喚きだすパリのブルジョワ婦人たち。やがて警官が来て、即日展示会を閉めるよう言い渡す。

Jeanne_hebuterne4 貧乏と孤独に耐えながら、恋人のジャンヌをモデルに絵を描き続けるモジリアニ。

アメリカの富豪がモジリアニの絵を買い上げるというニュースを持ってズボロスキーが飛び込んでくる。二人して絵を何枚か抱え、富豪が泊まっている豪華ホテルの部屋を訪ねる。

広いスゥィートに大きなトランクを幾つも並べ、帰り支度に大わらわの太ったアメリカ人が出てくる。芸術を理解してなさそうに見える実業家と言葉を交わすうち、画家は、こいつはコマーシャルの図案に自分の絵を使いたいのだと悟る。ズボロスキーが止めるのも聞かず、モジリアニは捨て台詞を残し、部屋を飛び出してしまう。通りがかったテーブルの皿の中の角砂糖かボンボンを腹の足しになると言いながら掴み取りポケットに入れる仕草が、腹は減ってもプライドは捨てぬ貧乏画家の根性を表わしていて良かった。

ジャンヌは妊娠する。お腹の子供に栄養を与えたいにも、晩飯を誂えるお金が無い。画家はデッサンを掻き集めて近所のカフェーに売りに行く。「デッサンいかがですか・・・デッサン。」

Cafe_dome4nuit 夜も客で混み合うドームあたりのカフェの椅子の間を縫いながら、デッサンを売り歩く画家の額は汗で濡れ、声は熱で擦れている。一枚も売れず仕方なく霧にかすみ、濡れた敷石道を疲労困憊しふらふらした足取りで家へ向かう。その画家のうしろを密かにつける男がいる。Lino_ventura4_2 

男は手にしたステッキで自分の肩をトントンと叩き、何事か待ちあぐねている様子である。が狙いは外さないと自分にその仕草で言いきかせているようでもある。目つきは獲物に狙いを定めたジャッカルのように鋭い。クールな利に敏い画商モレルを演じたのは、ギャング映画でお馴染みのリノ・ヴァンチュラだった。やがて、画商が狙ったとおり、熱でフラフラのモジリアニは路上に倒れる。

画商はすかさず画家のアトリエに駆けつけ、ドアを叩く。「絵を買いたい。売ってくれ。」最愛の伴侶が行き倒れになったのも知らず、ジャンヌは画商の求めるままに次々と絵を出して見せる。「これも買いたい。これも欲しい。これも・・・これも。」

アトリエに在った絵をほとんど残さず買った画商にジャンヌは感激して言う。「あの人が知ったら、どんなに喜ぶでしょう。ほんとに長い間・・・ながい、長いあいだ、認められなかったのですから・・・。」

翌朝、愛人が警察病院で行路病者として死んだことを知ったジャンヌは両親の家の6階の窓から身を投げ自殺する。

映画と実際とが錯綜したが、Jeanne_hebuterne1最後に、本物のジャンヌ・ユビュテルヌとモジリアニの写真が見つかったので載せておこう。Jphilippe1 どちらも俳優に勝るとも劣らない美人と美男である。

モジリアニの葬儀はモンパルナス墓地で行われた。「プリンスの様に埋葬してほしい」というイタリアの家族の意思で立派なものだったという。葬列に加わった藤田嗣治は、画家の死を見届けるやアトリエに殺到した画商たちが、ひとりとして葬儀に出席していないことに憤慨したという。

ふたりはモンパルナスの墓地に仲良く並んで眠っている。

映画「モンパルナスの灯」は最初、マックス・オフェルス監督のメガフォンで撮影が開始された。しかし、オフェルスの急死により、「現金に手をだすな」の監督、ジャック・ベッケルに引き継がれた。ベッケルは脚本の大幅な変更を迫り、怒った脚本家が自ら名前を削ってしまった。

元の脚本がどんな筋書きだったか、今は知る由もないが、僕はベッケルの作った映画に文字通り身も心も揺さぶられた。15歳の思春期、自我に目覚めたばかりである。人生が始まったばっかりで、世の中がどんな仕組みになっているかなど皆目わかっていない、純情ひとすじの少年が、こういう映画を見るとひとたまりもない。

少年は、そして日本人は悲劇が大好きであり、悲劇に弱いのだ。ころりと、いってしまうのである。生前はまったく世に容れられず、死んだ途端、名声と値段がはねあがる。ゴッホが最も極端な例だが、モジリアニの作品を見る時も、画家の悲劇的な生涯に想いを馳せ、絵の中に感情を投入してしまう。この画家がポピュラーな人気を保つ理由のひとつはそこにあろう。Film_modig2

数年前、同じモジリアニの晩年をテーマに、新作映画が出た。DVD を買って観たが感動はひとつも沸かなかった。霧がかかった半世紀前の白黒の作品の方が貧しい芸術家が美の創造に情熱を傾け、命を懸けた純粋さが感じられて遥かに優れていると思った。

十五歳の感受性ばかりで生きていたような少年は、ベッケルの「モンパルナスの灯」を見て、「いつか必ずパリへ行こう」と密かに心に決めたのだった。そして新宿の街を興奮冷めやらぬ脚を運びながら、「フランスへ行って街頭画家になろう。モジリアニのように行き倒れになってもいい。しかし、(モレルのような)画商だけには絶対になるまい」と心に誓ったのだった。

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エコール・ド・パリ - その2

投稿者: 叢林亭 :http://www.sorintei.com

モジリアニは好んで人物を描いた。すべて身の回りの普通の人。

Beatrice_hastings3 友人、隣人、愛人(左ベアトリス・ハスチングス)・・・。

いや、普通より貧しい人を沢山描いた。掃除の少女。Modigliani5jpg ジプシーの少女。画家のスーチン。生活を助けてくれ自らも窮死した画商のズボロフスキー。これらの絵を見ていると、画家が絵筆を進めながらモデルと交わした話し声が聞こえてくるようである。

それらの人間はすべて、一個の控えめな、富と名声とは無縁な、一見寂しそうにさえ見える、が、それぞれが深い情感を湛えた表情をもって描かれている。例外的にポンパドール夫人とか有名人の肖像もあるが、ほとんどは肖像を残したいなどとは思いもよらなかったに違いない無名の人々である。画家の方がある情感を掻き立てられ、それをモチーフとして人物を描いたという感じがする。

モジリアニの絵ほど見る者が感情移入をそそられる絵は他に無い。人物画というわれわれが親しみやすいモチーフということもあるが、絵の中の人物は眼を青く塗りつぶされ、こちらを見てはいず、見るひとであるこちらが絵の中に入り込んで行く誘惑にそそられる。

独特な形と色が一層見る者に、深い情感を掻き立てる。茶色がかったオレンジや深い緑や青の混色や黒が多いが、ゴッホやセザンヌの描いた人物像と違って、どれもわれわれの心の奥深くにある情に直接訴えかけ瞬時に沁み入る。

黄色い肌の藤田が「偉大な乳白色」を駆使して透き通るような白い肌の裸婦を描いたModigliani6jpg のと対照的にモジリアニの描いた裸婦はみんな茶色がかったオレンジ色の肌をしている。ズボロフスキーの骨折りでやっと実現した初の個展も、裸婦が猥褻であるとして当局から即日閉会させられた。初期立体派の影響を受けたモジリアニの裸婦像は、しかし猥褻というような生臭さとはほど遠い、健康な人体の温かみを感じさせながらも形象化が行き届いた裸体画である。

前回、1918年4月からズボロフスキーの世話でモジリアニが藤田やスーチンとともに南仏のカーニュヘ旅行したと書いた。近藤史人氏の「藤田嗣治ー異邦人の生涯」によれば、この時、画家たちは晩年のルノワールのアトリエを訪れる機会を得た。

大成した老画家はモデルと画家を乗せた床全体が太陽の動きに合わせて回転するような豪華なアトリエでリュウマチで動かなくなった手に絵筆を括りつけて仕事をしていたが、モジリアニに向って「君は絵を描いている時は幸福かね ?」となんども訊いたという。しまいにモジリアニは腹を立て、「キレイなケツはきらいだ」と言い捨てると、ドアを激しく閉めて出て行ったという。

「人間臭さ」、「人間の真実」を描こうとしたモジリアニにとって、「絵に描いたような」ブルジョワ家庭の、幸福ではちきれんばかりの少女達を描いて社会的に成功したルノワールの言う安っぽい「幸福」などという言葉が受け入れられる筈がなかった。

人間の悲惨、栄光、歓喜、哀愁、孤独、愛、嫉妬、憎しみ、死・・・西洋の絵には、こうした人間のさまざまな魂の状態が描かれていて、やはり「人間臭い」と感じる。

人間は自然の一部という認識が東洋人には知らずしらずのうちにあって、人物をこのような魂の状態とともに表現することは得意ではない。人物や裸婦を描いて独自の世界を作り上げることができた日本の洋画家は、藤田を除いて、僕が知る限りでは宮本三郎くらいしかいない。

ピカソの初期の絵には、上にあげた人間の様々な魂の状態が素朴に捉えられ表現されている。モンパルナスでは、モジリアニはピカソと出会うたびに強烈なライバル意識を燃やしたらしい。

モジリアニの人間臭さを考えるにつけ、最近は、やはりこの画家がイタリアの出身であること。さらにユダヤ家系で遠い祖先には、「エチカ」で有名な哲学者・スピノザがいるということと関係があるのかと思う。倫理学は哲学の中で最も人間臭い学問ではないか。

東洋には無い、あくなき人間の追及という流れが、ユダヤ・キリスト文明の根底にあるのだろう。人間の追及は「神」の追及に通じる。なぜなら、神さまは土塊で人を形どり、鼻の穴に命の息を吹き込み、「其像(そのかたち)の如くに人を創造(つくり)たまへり。」と創世記にはあるからである。

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2009年2月16日 (月)

エコール・ド・パリ - その1

投稿者 : 叢林亭 :http://www.sorintei.com

Boiteverti 上野の「藤田嗣治展」でかわいい小箱を売っていたので道具箱にする積りで買って帰った。藤田が即興的に蓋に女の子の絵を描いた青い箱である。晩年の画家はこれに糸や針を入れ針箱として愛用したという。

「偉大なる乳白色」を発明し、それを用いた「裸婦像」によって一躍パリ画壇の寵児となった藤田は、仕事師であり、絶えず手を動かして物を作っていなければ気のすまない homo faber だった。

認められるまでの八年間、明日のパンを買う金もない赤貧洗うがごとくの貧乏生活をしていた時代もあった。トレードマークのおかっぱ頭は床屋代を節約するため邪Fujita4 魔な前髪を自分で切って生まれたものだし、洋服を仕立てればプロはだしだったという。

ミシンを前にご満悦の写真もある。晩年に見つけ終の棲家としたヴイリエ・ル・バクルの家は内装といい調度品といい、すべて画家自身のデザインと手製だった。パリに残したアトリエのミニチュアも作ったし、三階のアトリエではライフワークとなったランスの教会堂を飾るフレスコ画の習作を続けた。

昨年暮れの東京滞在中、誘惑を感じた美術展を沢山やっていた。箱根で「佐伯祐三展」。上野では「フェルメール展」と「藤田嗣治展」。渋谷で「アンドリュー・ワイエス展」。千葉で「雪舟展」をやっていた。結局、藤田とワイエスしか見られなかった。

上野公園に着くと「フェルメール展」の方に人気があり行列ができていた。暫く迷った末、「藤田嗣治展」へ入った。フェルメールより藤田に僕の人生との深い関わりを感じたからである。パリで成功を収めた唯一の日本人画家。フランスに帰化し、カトリックの洗礼を受け、フランスに骨を埋めた人。名前ばかりが有名で実は余り知らなかったこの画家の作品と生涯、特に晩年の姿を、この展覧会は見せてくれた。

行方不明とされていた四枚の大作が修復され世界で初めて公開された。それを見たことも良かったが、個人的に僕は以下のことをこの展示で知ることができた。

① 藤田は天性のデッサンの才能の持主だったこと。有名な「輪郭線」について藤田はこう語っている。「絵を描く前に、物体と自分と一体になって ----直観で描いてゆく。つまり、訂正したり、思考したりした線でなく、直観から生まれた線の方が的確にして無限に深い。そして観者の心に訴えるところが多いと思う。」

Van_dongen2 カジノ・ド・パリでヴァン・ドンゲンと準備も無く舞台に立ち、観客の前で、ドンゲンが裸婦を藤田が猫を描いて見せ、15分で同時に終わり喝采を浴びた話もある。

藤田の少女像にしろ、裸婦にしろ、「うむ、たしかに、こういう表情をしたフランス女性がいる。」と感じ入らせるだけの的確さをもった線で表現されている。線ひとつで人物や猫を表現することがどれだけ難しいか、少しでも絵を描いたことのある人なら知っていFujita3 る。ほんの0.5mm の線でも、引き方ひとつで、表情ががらっと変わってしまう。

レンブラントのエッチングを僕は若いころ日本で見て、やはり天才だと思った。一筆書きのような線で人物やライオンを、しかも版画だから左右反対に描いたのである。

レンブラントの人物は描線ひとつとっても、あくまで人間的という感じがする。ユーモラスであり温かみがあり、しかも堂々としている。一方、藤田のデッサンは勝るとも劣らないが、やはり、どこか東洋的である。阿修羅像や如意輪観音といった日本の仏像を思わせる線が出ている。

上の①に書いたようなデッサン論を実行できた画家はフランスではドガくらいではないか。マネは古典的だし、モネはもっと不器用だ。藤田が尊敬したダ・ヴィンチも一筆書きはあまりしていない。対象をやはりマッスとして捉えようとするから何本も線を引く。

ランスにシャペルを作ると決まった時、藤田は建築家の仕事もした。全体のコンセプトに始まり、細部の詳細設計まで画家自身がやったとは知らなかった。「偉大」のひとことに尽きると思った。若いころのヒョウキンさばかりが人々の記憶に刻まれているこの画家の誠実、絵に生涯を掛けた生きざまを知り、脱帽。尊敬する。

そして、最後まで日本人であろうとし続けたことも。戦争画を描いて戦後、責任をとらされそうになったが、外国で暮らした人間なら誰でも持つ、普通の愛国心の発露だったと僕は、藤田の感情をとても良く理解できる。自分が出来る絵をもって祖国の危機に供した。

藤田が祖国の人々から誤解され裏切られたと感じたことが祖国を捨てフランスに骨を埋める原因になったに違いないが、この問題は、今後も僕の中で自問が繰り返されるだろう。ただひとつ言えることは、幾多の戦争協力画家よりも、遥かに優れて阿鼻叫喚の地獄絵を表現する力をこの画家は持っていた。闘争や死を見つめたことは晩年の宗教画に深みを与えている。

Modigliani2_2 もひとつ、こんど新たに知ったことは、藤田がモジリアニと親しく付き合っていたということだった。パリに着いたばかりの頃の藤田の習作にはモジリアニの影響が見える。

第一次大戦が始まり、ドイツ軍の大砲の音がパリまで聞こえ始め、島崎藤村はリモージュに疎開する。藤田は、1918年4月から、ズボロフスキーZborowski1_2 (右下の絵)の手配で、南仏のカーニュに旅行している。

Jeanne_hebuterne2_2 このときの同行者は、モジリアニと彼の新しい恋人、ジャンヌ・エビュテルヌ(左の絵)、

                  

   スーチン(右下の絵)、Soutine4_2

ズボロフスキー、それに藤田夫人だった。

Kisking モンパルナスでの貧乏生活の時代、余裕のある友達が供する食事の席で、モジリアニはキスリング(左の絵)と決まって喧嘩をし、仲裁に入るのは、いつも藤田であったという。

上の四枚の肖像画はいずれもモジリアニの作。

モジリアニについては、思い入れがあるので次回に書く。

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2009年2月13日 (金)

笛1号ができた

投稿者: 叢林亭: http://www.sorintei.com

笛1号ができた。失敗!と投げ出すところだったが、ぎりぎりの危機一髪で救われた。笛の方から出来てくれたのだった。Shinobue2cadre 調律が不完全なので、完成とはいわない。

孔を大体開け終わった段階で、「ひび割れ!」を発見。ごく、小さな、表皮だけだが三か所、孔と孔の間の皮に細い線が走っていた。

昨年の試作の時に、割れたので、今度はマスキング・テープを貼り、切り出し小刀で少しずつ慎重に孔を大きくしていった。竹の径が太いので、孔はすべて唄口寄りに削った。7つの指孔全部と唄口を大体開け終わり、試しにチューナーで確認してみるとほぼ希望通りC音基調のドレミ音階になっていた。

シメシメ。ほくそ笑んだのも束の間、顔が引き攣った。マスキングテープを通して縦に鉛筆で引いた中心線と平行に、もう一本の縦線が見えるではないか。「もしや・・・。」テープを剥がしてみると、「やっぱり」。表皮に細いひび割れが入っていた。

切り出し小刀で削った。竹の繊維方向に削るときは、気持ちよく、すいすい削れる。だが、繊維と直角に刃を動かすと、カリリッと音がして、小刀の鋭い刃がこぼれる危惧を覚えた。そういう場面が数回あった。が、刃が毀れると思ったのは、間違いで、竹に亀裂が入っていたのだ。

Trouscadre 力を入れすぎたか?刃を立て過ぎたのか?寝かせて、繊維を斜めに切れば良かったと気がついたが後のまつり。

仕方なく、孔と孔の間を糸で巻くことにした。亀裂を広げない予防策で、見てくれが悪くなるし、音色も篠笛らしくなくなってしまうかもしれないが、背に腹は代えられない。糸巻きの練習と思ってやった。2号笛では藤を巻く積もりだ。

もともとの材料の竹が篠笛としては太すぎるので、糸を巻いた後の外観は能管、龍笛のようになった。第一号はかくして、篠笛と能管のハイブリッドになった。

以下、製作中で気がついたこと、失敗と諦めかけた笛がどうして鳴るようになったのかを箇条書きする。

① 一、二、三、四孔が小さすぎ形が悪いので小刀で削り直した。

Utakuchicadre_2 さらに、唄口の切り口がなめらかでなかったので、各指孔の仕上げと一緒にサンドペーパーを丸め孔の切り口を磨いた。絶対に触ってはいけない唄口を、うっかり、磨き過ぎて拡げてしまったのが失敗のもとだった。

② 糸を巻いた後、吹いてみると、せっかく鳴っていたのが、第四孔以下、まったく鳴らなくなった。

③ 管尻の長さが疑問だったので、約1.5cm切り落として短くした。しかし、多少鳴りが良くなった気がする程度で、大きな成果は得られなかった。

④歌口が大きいと音は大きくなるが息が沢山要り、低音が出しにくくなると集めた資料から知った。

⑤ いくら息を強く太く吹いても鳴らない。もう絶望的。第一号失敗!と諦めかけた。その時、shinobueno-tsukirukataのサイトの次の文を思い出し、もう一度注意深く読んだ。これが、結局救いとなった。imaginenosekai さんありがとう。

「笛の鳴りが悪い場合は、唄口の切り落としを垂直にし、ヤスリで管壁を削り、切り落としの部分に奥行きを作ると鳴りが良くなる。」

はじめ、「奥行を作る」とはどういうことだろうと頭を捻った。唄口を覗くと、楕円形の長軸方向の切り口の内側の肉が膨らんでいるのが見えた。これを削って、ついでに管の内側の壁を削ってフトコロを広げてみようと思い立った。Utakuchicote

やってみると効果テキメン。鳴るではないか。よしこれだ。救われたゾ。喜びがこみあげ、ガリ棒と丸棒ヤスリで、唄口部分の前後の壁全体を力を入れて何度も削った。

竹の内側の肉は柔らかくてどんどん削れる。管壁が薄くなった感じが手に伝わってくる。
尺八の管の内側には微妙なテーパーが切ってあって、これが音色と鳴りの良し悪しを決定するので、この作り方が製管師の腕の見せどころ。とても大事で難しい技術だとどこかで読んだ事を思い出した。

Kanjiri3cadre_2 篠笛も笛なのだ。一緒じゃないか。もうひとつ、この竹の管尻が急速に細くなっていることが鳴らない原因かも知れない。そう推理して、管尻の内側も削ることにした。吹き方によって甲音(カンオン)とさらに高い音が鳴っていたからである。

結果は上々だった。笛は管の内側の形状がすべてといってもいい。失敗しかけたおかげで、とても大事なことを学んだ。

⑥ カシュー塗料で管の内側を塗るとさらに鳴りが良くなった。

⑦ 指孔の前後と管頭と管尻に巻いた糸は白く汚れが目立つので、管の内側と同じカシュー塗料で「たいしゃ色」に塗った。これは、装飾。音色に大きな影響はないようだ。

⑧ 最後に唄口の頭寄りに反射壁を詰めた。コルクの栓を入れ、いちばん鳴りが良い位置に決め、隙間にマスキングテープを縦に半分に切って巻き、きっちりの径にしてからボンドで止めた。

⑨ ちょうど良い太さの木の丸棒を5ミリ厚ほどに切って先端に詰め、糊が乾いたあと小刀で出っ張りを丸い形に削った。これにも同じ色のカシュー塗料を二度塗った。Tete 仕上がりは、ちょうど清朝の帽子という格好になったが、一号は見栄えより鳴るだけで我慢とした。

チューナーで、各指孔を開いてゆき、順に確認したところ以下のようになった。

(数字は管の尻からの順番を示す。1は第一孔のみの解放で基準音。以下2は第一と第二の両方の孔の解放を意味する。)

0: (筒音) Bb、   1: C#,   2:Dメリ または Eb,   3:E

4: F#,      5:G または G#,    6: A,      7: B

以上のようにかなりズレがある。でも、鳴らなかった笛が自分で鳴るようになったから不思議だ。管の内壁を削っただけで鳴らない笛が鳴るようになった。笛作りの面白いところだ。諦めないでよかった。

第一号笛のデータ: 全長38.5cm、 外径:唄口部分から中央まで:22.4mm、管尻部分:20.5mm、  管尻の内径:14.5x15mm、

唄口の大きさ:12.4 x 14.19mm、  第3孔: 9.3x10.4mm、

他の指孔の平均の大きさ:8x7mm。

次は七本調子を作る予定です。 (以上、 2月12日記す。)

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2009年2月 8日 (日)

時間研究 -最終回

投稿者 : 叢林亭 : http://www.sorintei.com

2月 5日の投稿記事:「二宮尊徳とジョルジュベス」の中で、ドアガラスのサプライヤー、 サンゴバンが順立をやっているかのように書いてしまったが、これは筆者の間違いで、後に北フランスにあるトヨタの工場の組立ラインで仕事で得た知識との混同だった。

15年前のルノーでしかもサプライヤーが天と地を逆さまにしたままガラスを納め、ラインの車の流れ通りに部品を並べる順立をする筈がなかった。前の記事のそこだけを直しては、既に読んだ方に申し訳が立たないので、項を改めて書くことにする。他にも言い足りないところが相当あるので、この際まとめて最終回としたい。

改善結果がデイレクターが出した30%に達せず15%に終わった理由には、主に以下の点があげられる。

* WF を適用できれば、理論的には速さに違いの25%の改善ができるはずだが、組合は最後まで、WFの適用を拒んだ。ルノーの工場には会社側が厳しい速度の作業を一方的に押し付けるのを防ぐ意味で組合側にも時間研究の専門家が居る。妥協案としてWFではなく、MODAPS というオーストラリア で開発された比較的新しいPTS法の採用が提案された。

* 日本人コンサルタントが提案し、従業員にも喜ばれたのは、作業改善よりもむしろロジステイックの改善だった。ライン脇の部品の置き方が、水平方向に広がり、オペレーターがパーツを取りに行くための移動距離が長く時間が掛る。作業分析をして無駄を見つけるのだが、「移動のロス」というのは一番大きくこれを短縮するだけでもかなりの改善効果が得られる。パーツラックの改善をし、水平方向から垂直方向に発想を転換して、オペレーターが歩く距離を縮め、ともすると二人のオペレーターの動線が交差してぶつかり合うことさえ生じていたので、一人のオペレーターの作業間口を狭くし、ドアと一緒にラインを遡って作業をすることを原則禁じた。

2ドア用、4ドア用のウインドウが巾数メートルに渡って床にじかにパレットに立てて、しかも天地が逆さまに置かれていたので、まず天地を普通の置き方にして納めるようサプライヤーに要求し、それからライン脇で、車の流れの順番通り、部品を並べる「順立て」をしてはどうですかとアドバイスをした。

トヨタではほとんどの部品が、このようにライン脇で「順立て」され、オペレーターは一番手前に置いてあるパーツを順に取ればよく、探さなくても良いようになっている。

* 日本ではWFの速度で作業していた日産の社長のカルロス・ゴーン氏が社長を兼ねている現在のルノーでは、どんな作業時間の決め方をし、どんな標準を使ってるのか興味あるところである。

* ルノーの改善プロジェクトに参加していた間に、僕は個人的にあるエンジニアと話をする機会を得た。彼は長年ルノーに勤務し、テーラーに発し、アメリカで発達したさまざまな生産技術 (ここでは全部をまとめて IE と呼んでしまおう)の手法にも通じていたが、その年にはもう定年退職するという、いわば老境にあった。彼が漏らしたのは、標準化に対する批判的な意見だった。

* オペレーター各人が自らの身体的特徴を把握した上で最もやり易いと感じる動作で作業をした方が、標準作業というようなお手本を決め、作業手順や動作までを強制されてやるよりも速くできる、とその老エンジニアは長年の経験から導き出した結論のように言った。

* 個人主義が発達し、「自由」という概念が、歴史的、社会的に根付き、重要度を占めている西欧の社会では、個人の身体の動かし方まで(会社が)介入するのは「人権」にも触れるデリケートな問題であること。

* 産業革命と資本主義が遅れて発達したロシアと中国に共産主義革命が起こり、ドイツ、イタリア、日本にはファシズムが起こった。いずれも全体主義社会で個人がその所属する国家なり会社なりに犠牲を払うことが要求され、個我を滅却できる者が英雄視されるという風潮を生んだ。

* 東洋的な職人芸、名人の仕事のやり方の伝統があって、工場でも「カンとコツ」に頼り、言葉やデーターとして客観化されていない、いわば神秘のベールに包まれた技術の世界と労働組織に、西洋合理主義の光を当てた。日本における初期の「改善」と「合理化」には肯定すべき功績があった。

* しかし合理主義が行き過ぎては、弊害が起こる。「これ。君の仕事。僕の仕事じゃない。」分業が行きすぎると官僚主義の弊害が起こる。「隣の人が困ってたら助ける。」「同僚に迷惑をかけたくない。」狭い土地に人間がひしめき合う日本の地理的社会的条件から本能のように自然身につけた叡智が職場倫理と結びつき、「分業のカベを破れ」とかIEの手法としてスローガンに掲げられることが比較的楽に抵抗なく受け入れられる。日本企業の生産性の高さは、こういったところにもよるのではないか。

* 話を「時間研究」に戻そう。動作分析は作業を観察するところから始める。人間の眼というのは不思議なもので、同じ運動を繰り返し見ていると、はじめは速すぎて細部がわからなかった動作がゆっくり見えてくる。

そう、高速度カメラで撮影するのと同じだ。ゼノンの「飛んでいる矢」もゴルフのショットのヘッドがボールに当たる瞬間を超高速度カメラで捉えた映像も、猛烈なスピードで移動している物も停って見える。

* トヨタの名古屋から指導に来た人に作業研究のやり方を訊いたことがあるが、動作分析はヴィデオで撮影しストップウオッチなど使わないという返事だった。ヴィデオには各映像にコンマ何秒の単位で時間が表示されるものがある。

* 「アキレスと亀」: 理詰めでは誤謬のないように見えるゼノンの論理も良く読んでみれば誤りがみつかる。「パラドックス」と呼ばれる所以は、そもそも結論が現実と合わないからである。ゼノンは、おかしいのは前提においた「一ではなく多である」というピタゴラス派の仮定の方だと言いたかった。前提が間違っているから結論がおかしくなる、と逆説を使った。空間は多ではなく分割できない「一」であるとしなければこのようなおかしなことが起こると言いたかった。

* だれもがゼノンの「パラドックス」の結論を聞いて「おかしい」と思う。現実と合わない。だが同時に、だから前提である「一ではなく多である」という説が間違っているとまでは感じられない。ゼノンの論理にも無理と飛躍があるのではないかと感じる。

* 単純に、われわれが知覚をとおして日常的経験から得られる「アキレスと亀」の競争のイメージを記述するとこうなる。

亀は重たい甲羅を背負いながら、甲羅の端から得た出た短いヒレのような平たい足でえっちら、おっちら、少しずつ進んで行く。一方のアキレスはトロイ戦争に出陣するPhoto_3 や一気にギリシャを優勢に導くほどの不死身で俊足の英雄である。トロイ軍の豪傑ヘクトルを斃すが、パリスの放った矢が唯一の急所、脚の腱に刺さり、アキレス腱の名を残して死んでしまう。亀と競争した時はまだ無事だったらしい。

俊足の英雄の走る速さは、100メートルを9.69秒で世界新を出したウサイン・ボルトと競争しても勝つほどではないか。オリンピックもギリシャが起源だから英雄に華を持たせよう。

* ゼノンの論理には誤りがある。「アキレスが亀に追いつくには・・・亀の出発点に達しなければならず、達した時には亀は先に進んでいるから、さらに先の亀の出発点に到達しなければならない。以下同様にアキレスが通過しなければならない点は無限にあり、有限の時間内に無限に触れることは不可能。だから亀に追いつけもしなければ追い越すこともできない。」

ここは無限回の論理操作と時間的な無限との混同がある。論理操作:「考えをいくらでも続けることができる」ということから時間的な無限:「いつまでたっても追いつけない」という結論に飛躍がある。

数学的にも有限の項を無限に集めた級数の和は有限に収まることがあるそうだ。アキレスが亀の居た地点に達するまでの時間は何度繰り返しても有限であり、これらをすべて合計してもやはり有限の時間しか経過しない。

イメージに戻ろう。運動というのは高速度カメラで撮った「飛んでる矢」が瞬間的にある位置を占めているように見えるから飛ばないと言うだけで、実際は各瞬間も矢は移動を続けている。

アキレスは亀に追いつくまではもちろん追い越せはしないが、無限に分割し得る空間を「あっ」と言う間に飛び越え、追いついた瞬間、もう追い越している。 革ヒモつきのサンダルを履いたスマートな脚は、よちよち歩きの亀を瞬時に跨ぎ越してしまう。

Copy グラフを使って考えても明らかだ。縦軸に距離、横軸に時間をとって、亀とアキレスの出発点に差をつけておく。アキレスはスタート後猛烈な勢いで加速しカーヴは亀に追いつく直前で急角度に上昇する。このカーヴは亀の斜線より急勾配だから、二本の線はある点で交じわる。すなわちアキレスは亀に追いつき追い越す。

「追いつくためには途中の通過点に達しなければならない。」このテーゼも間違っている。追い越すという行為は、目標である亀の現在の位置こそが対象であり、そこへ一秒でも早く到達することが問題であり、途中の通過点などどうでもよい、結果的に、何秒でこれらの通過点を過ぎましたなどと、あと追い越すために何キロあるとかの目安、手段として利用するにすぎない。脱水症状を起こさないようコップで水を補給するなどといった場合のみに通過点が問題にされるだけである。マラソンの全コースの長さに比してコップの大きさは点とみなし得るが、実際のコップには大きさがある。掴みそこねたら給水もできない。

線は無限の点に分割できるのか?ユークリッド幾何学の点と線の「公理」が高校へ入ったばかりの数学の最初の時間に出てきて、「学校とは真理を教えるもの」「真理とは現実のありのままの姿」だとばかり思い込んでいた少年は、「疑ってはならない公理」が現実と違うことに衝撃を受け、そんな「ありもしない架空の決めごとを出発点にして成り立っている幾何学」、その兄弟の代数、微分、積分学というものとの関係を完全に断ってしまった。

つい先日、レオナルド・ダ・ヴィンチが「点とはありうるかぎりのものよりさらに小さいものであり、線はその点の運動によって作られる。線の極限は点である。」とその手記に書いていたことを知って「さすが」と思った。ユークリッドの「公理」が「点とは位置だけあって大きさのないもの」だとか「線」は点と点を繋ぐ「距離だけあって幅がないもの」などと、「無」であることが存在することなど、どう想像力を働かせても理解できない定義をして平然としていることと比べて、ダ・ヴィンチはしっかり現実と概念の違いを把握した定義をしているわいと感心した。

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2009年2月 5日 (木)

二宮尊徳とジョルジュ・ベス

投稿者 叢林亭 : http://www.sorintei.com

かれこれ15年も昔の話である。

ルノーのサンドヴィル工場といえば、つい最近、1000人の人員削減が報道されたから、名前を耳にした方もおられるだろう。Le_havre_2

セーヌ川の河口と、ル・アーヴルという港町の間の平坦な地に広大な工業団地があ る。サンドヴィル工場はその中にある。

ドア・ラインの改善を依頼されたのはこの工場だった。当時で既に工員の平均年齢が43 歳。ルノーの中で一番生産性の低い工場と担当の女性ディレクターは言った。

日本に招かれ日産の社長となって建て直しをしたゴーン氏はシュバイツァー社長を引き継ぎ、今やルノーと日産の社長を兼任している。

「とうとうやるか・・・。」日産に凄腕を振ったゴーン氏のことである。一番生産性の低い工場を放っておくわけがないな・・・、とニュースを見て思った。

ドアラインは組立工場の中にあり、メインラインに付属するサブラインの中でも一番大きい。全長が30mほどある。床と天井の間を走る直線状のコンベアに固定されたハンガーの左右両側にドアが吊り下がっている。

ドアが流れてくる順番は、メインラインの車の流れと同期化されている。塗装工場でボデーと一緒に塗装された車は一旦ドアだけ分離されドアラインに流される。部品が全て組みつけられてから再びメインラインに送られボデーと合体される。

車種はラグナだったが、大きく3ドアか5ドアか、ウインドーの開閉が自動か手動か、などが記された指示票を、まずオペエーターは見て、新たに入ってきたドアに取り付けるべき部品を知る。3ドアなら大きな2枚が左右両側に下げられ、5ドアならフロントとリアの4枚のドアが2つのハンガーに左右二枚づつ下げられて入ってくる。メインラインのスピードとドアラインは差があり、バッファーがその間の調整をする。

Photo_2 ラインの中央は1.5m位の幅のコンベアがハンガーと等速で移動している。オペレーターはコンベアに乗ればドアと一緒に移動する。パーツを取りに行くときはコンベアから外れ、固定床の廊下を横切り、ラインに沿って並んでいるラックの所へ行く。必要なパーツを手に取ったら、またコンベアに乗りドアと移動しながら組み付ける。その作業を繰り返す。

一人のオペレーターはパネル、ガラス、ドア・ミラーなどの大物はそれ一つだけ、細かい部品ならば平均3つほどのパーツを組み付ける。一つのハンガーの両側に一人ずつオペレーターが付き、一直で30人ほどが作業をする。

ルノーのプロジェクトの最高責任者は、まだ40歳になるかならないかの若い美人の女性デイレクターだった。ポリテクニック出身のエリート・エンジニアで、生産技術、ロジスティックなど幾つかの部長を兼任し、取締役候補だった。言い忘れたが、生産技術はフランス語で、メトッド(methode)、デカルトの「方法叙説」( Discours de la methode)と同じ、「方法」、つまり「作り方」のことである。

彼女は、この工場は伝統的にCGT, CFDT など組合が強く、はじめは工場長も、このプロジェクトには反対で説得に数年を要した。やっと合意を取り付けたが、いくつかの条件付きで改善をやって欲しい、と言った。

① 組合との合意でラインで作業するオペレーターをヴィデオで撮影しない。
② 現状のラインは直30人もオペレーターが居て過剰である。人員の30%削減を目標にして欲しい。

ルノーは本社から改善チームに5人出してくれた。日本側のコンサルタントは、もと日産で、この分野で仕事をしてきた二人のエンジニアだった。二人は、前もって、改善によりラインを外されたオペレーターには必ず他のポストに就かせ、決して解雇はしない、と全員に約束して欲しいとデイレクターに頼んだ。

ヴィデオで撮影ができないために、古典的な作業観察から始め、要素作業に分解し、ストップウオッチで時間計測をし、動作分析をし、ムダを見つけ、改善を施し、それぞれの動作に WFの時間を当て嵌め、タクトタイムに余裕が生じたら、他の作業を持ってきて組み入れ、全体の作業を編成しなおした。実行可能かラインで検証したのち標準作業とした。

結果は15% の改善しかできなかった。デイレクターは失望と困惑を隠さなかった。部下から、彼女の「お勉強」のために無駄な時間と金をたくさん使ったと非難された様子だった。

この時代すでに、ルノーの取締りに日産出身の日本人が居るという話を聞いた。Kaizen2 「Kaizen」という標語は工場のあちこちに貼ってあり、その成果の報酬を個人やグループに与えるためのルノー独自の計算式まで持っていた。

結果として4.5人を減らすだけに終わったが、動作改善だけでなく、ライン脇のパーツの置き方、ロジステイック面で、オペレーターがより楽に作業できるように改善をやった。

例えば、ドアガラスはライン脇の床の上に、どういうわけか、すべて天地が逆さまに、パレットに並べられていた。オペレーターは、ガラスを取り出すために、毎回、腰をかがめ、運びながら天地をひっくり返す作業をしなかればならなかった。

パレットを腰の高さの台に乗せ、せっかく順立てされ、並べられたガラスを、そのまま運んでドアに組み入れられるよう、天地を普通の置き方に変えて欲しい。そうサプライヤーい注文し、変えさせたらどうかとアドバイスした。

ロジステイック担当は、ガラスはサンゴバンから買っているが、大会社なので、うちの言うことをすぐには聞いてくれないとこぼしていたが、相当粘って、最終的には要求を容れてもらった。

改善の話が長くなったが、具体的に書かなければ解りにくいだろうと思ったからで、本当は、時間研究と動作研究についてもっと具体的に書こうとしたのだが、15年以上昔のことであり、資料はとってあるのだが探し出すには時間がかかり、記憶が曖昧になってしまって正確を期しえない。

改善はオペレーターが毎日そこで仕事をし、一番良く知っている職場を、楽に楽しく仕事をしながら効率が上がるように、作りかえることでもある。それぞれが気づいたことを持ち寄って、発案し、作り変えることに意味がある。

人は誰しも、他人から強制されてやるよりも自分からやることに喜びを見出すものだ。自分で発案から実現までをやると、職人や芸術家が感じると同じ自分が作った物、すなわち作品に自己を投影でき、喜びが生じる。ナルシシズムと共通なものがあるのだろうが、労働の疎外からの解放に少しは繋がる道が開けるのではないかと思う。だが、改善=「人減らし」という極端な誤解は今でもある。

ベルトコンベアに乗った流れ作業が非人間的だと批判され、労働の疎外からオペレーターの解放を狙って、ボルボが、実験をしたことがあった。4・5人のグループで初めから完成まで車を作る喜びをオペレーターが味わうことのできる島方式の作り方をやった。しかし、採算に合わず、このやり方は放棄された。

労働者の疎外からの解放を掲げたマオイストと無政府主義が合体した極左組織がフランスで活動した時代があった。

サンドヴィルの工場の入り口には、花に囲まれて小さな石碑がある。そこには、Georges Besse (1927 -1986) と刻まれている。フランスに原子力産業を確立し、ルノー公団の総裁を務めたエンジニアの名前だ。

Action_directe4 1986年11月17日、それまでの国営公団ルノーを経営不振から立て直し、民営化に向け献身的な努力を続けていた総裁・ジョルジュ・ベスは、極左組織「アクション・デイレクト」のテロに会い、暗殺されてしまった。

パリのモンパルナス墓地と並行して、とねりこの並木が美しいエドガー・キネ通りがある。その通りの自宅に住んでいたジョルジュ・ベスは、その夜もいつも通り運転手に送って貰ったが、自宅の門の数メートル手前で車を降り歩いたところを、木の影に隠れ待ち伏せしていたテロリストに銃殺されたのであった。撃ったのは女性で、今Louisrenault_2 も獄中にいる。

「フランスで改善をやるのは命がけなんだよ」と冗談混じりに、日産を退職してコンサルタントになった二人に、僕は言った。日本では、社員がもっと素直だし、みんなで改善をやって職場を良くしてゆこうという意識が自然と出てくる。そのような風土があり、職場に倫理観が根付いている気がする。それは、なんなのだろうと昔から考えていたのだったが、近頃、昔のことを思い出すことが多く、小学校の記憶を辿っていてふと気がついた。それは、校庭の隅に「二宮金次郎」の古い石像が立っていたことだった。

戦後間もない頃で、先生方も、「二宮尊徳」のことなど、話題にすることは稀だった。偶に「二宮金次郎」の話を聞いても、子供の僕らは、背中に薪を背負い、本を読みながら歩いてなんかいると、石につまづいて転んじゃうよなどと冷やかし半分の笑いを浮かべながら聞いたものだった。

歳を取ってから知ったが、「二宮尊徳」は江戸時代に活躍した、コンサルタントのはしりのような人で、普段は田舎で百姓をしながら暮らしていたが、たびたび幾つかの藩に嘱望され財政の立て直しをしたのだそうだ。

橋川文三の書いた本(「昭和維新史試論」九、地方改良運動)を学生時代の友人に貰って読んだのだが、戦前の日本には、地方の市町村で自主的な行財政改革の運動があったという。その運動(報徳運動)と日本の方々に「二宮尊徳」の像が建てられたことと関係があるということだった。

これは、現在の日本企業の生産性の高さとも関係する興味ある話なので、もっと調べ考えた上で別の機会に書きたいと思う。

自分で発案し段取りをし、物を作ることがなぜ、人間の喜びとなるのか?

笛を作ったり絵を描いたりしながら、そんなことを考えている。

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ゼノンの逆説 - 時間研究 その3

投稿者 : 叢林亭 : http://www.sorintei.com

PTS法は建設工事の見積りなどにも使われている。自動車の修理や定期点検の料金表を作る時にも、この手法があるから前もって実際と大差のない金額が算定できる。今日の我々は知らず知らず、この手法のお世話になっているのである。

車の5万キロ点検には、オイル交換、ブレーキ点検、フィルター交換など、行うべき作業項目が決められているし、それぞれの作業に、メカニシャンが要する時間が標準時間として決められているから、メカニシャンの人件費+オイル代+諸経費で料金が出せる。

公共事業、ビルの建設工事の入札にも、工事を行う前から、金額が見積もれるのは、建設会社が各種工事の標準を持っているからである。それぞれの作業に要するマンアワーが幾らと、データの蓄積があるから積算ができる。

自動車工場の組立ラインでは、モデルチェンジや増産、減産など生産台数の調整Photo が必要になり、ラインの編成変えをやる時も、現場がもっている標準作業書や標準時間をベースに行われる。

僕は一度だけ、現場でタイムスタディーをやり、PTS法を使った組立ラインの改善プロジェクトに参加した経験がある。その時、作業を観察し時間をストップウォッチで測り、動作を分析し、無駄を排除し、それぞれの細分化した動作にWF の時間を割り当てた後、もう一度、ひとまとまりの連続した作業手順に組み立て直すのだが、それぞれの動作の合計時間、いわば机に座り紙の上で計算で出した標準作業時間が、動いているラインで実際に作業して貰った時間より、ともすると長くなったという予期に反した結果が出ることがあった。

F1renaultcopy 僕は、そのことにひどく興味を持ち、時間や運動を分析して扱うことと、人間が肉体と気を使って、動きながら行う一連の作業、つまり現実の運動のダイナミックスとでは、どこかに違いがあると気づいたのだった。

そして、この問題意識は、西洋では遠く古代ギリシャから、東洋では「心身一如」という言葉として昔から考えられてきたということに思い当たった。

みなさんは、①「飛んでいる矢は停まっている」。②「アキレスは亀を追い越せない」というゼノンのパラドックスをご存じだと思う。紀元前450年頃、ギリシャのエレア派の哲学者が唱えた逆説は、それぞれ以下の論理で成り立っている。

①「飛んでいる矢も各瞬間には一定の位置をしめている。一定の位置を占めているものは、その瞬間停まっている。矢の始点から終点までの時間は、その間の瞬間から合成される。したがって、飛んでいる矢は停まっている。」

②「亀より後の位置から、俊足のアキレスが出発する。アキレスが亀を追い越すには、まず亀の出発点に到達しなければならない。そのとき、いくら足の遅い亀でも、少し先に進んでいる。以下同様にして、アキレスは常に亀の居た位置に到達してからでなければ先を行く亀を追い越せない。アキレスと亀を隔てる距離、直線的空間が分割できるとするならば、この分割は無限に可能な筈だから、有限の時間に無限の点に触れることはできない。よって、アキレスは亀を追い越せない。」

2500年の間、いろいろな哲学者が、この逆説をめぐって頭をひねってきた。この一見、間違っていないように思える論理が現実と大きくかけ離れているのは、前提や論理のどこかに誤りが隠されているからだろうと、懸命になって、ゼノンの詭弁を見抜こうとした。

20世紀初頭のフランスの高踏派の詩人ヴァレリーも魂を悩ませたらしく、アレクサンドラン(12音節の定型詩 )「海辺の墓地」で、こう唄っている。

Zenon ! Cruel Zenon ! Zenon d'Elee !
M'as-tu perce de cette fleche ailee !
Qui vibre, vole, et qui ne vole pas !
Le son m'enfante et la fleche me tue !
Ah ! le soleil...Quelle ombre de tortue
Pour l'ame,
Acille immobil a grand pas !

ゼノンはこの逆説を「真の実在は一でなく、多である」と説いたピタゴラス派に反対し「真の実在は一であって、多ではなく、また分解もし得ない」と説いた師のパルメニデスを弁護するために唱えた。

このゼノンのパラドックスは、時間と運動、有限と無限、直線と点、抽象と具象、概念と知覚、実在と認識など哲学の根本的テーマについて考えることの僕にとっての出発点となった。

いろいろな意見の中で、W. ジェイムズの概念に対する知覚の優位を説く意見と、ヴァレリーと同時代人のフランスの「生の」哲学者ベルグソンの「運動そのものは持続であって分割不能である」という言葉が解りやすくて好きだ。

これひとつだけの例で、西洋の分析的手法、西洋合理主義の終焉を言うには飛躍がありすぎるが、アメリカのビッグ3 が経営破綻に陥ったことと、全くの無関係ではありえないとも考える。

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2009年2月 2日 (月)

動作研究: 時間研究 その2

投稿者: 叢林亭: http://www.sorintei.com

フレデリック・テーラー (Frederick Winslow Taylor , 1856 - 1915) は、ベスレヘムPhoto 製鋼所に職工として働いた時の体験と、職長になった時の責任から、゛一日の公正な作業量゛の必要を痛感し、初めてストップウォッチを工場の作業現場に持ち込み、「ズク運び作業」、「ショベル作業」の研究を行い、ついに1910年「科学的管理法の原理」を出版した。テーラーの行った研究は「時間研究( Time Study )」と呼ばれ今日でも有効なものである。

テーラーとほぼ同時代、レンガ工だったギルブレス( Frank B. Gilbreth 1868-1924)は職人の動作が各人勝手な方法で行われていることに注目し、唯一最Frank_guilbreth 善の方法があるはずだとしてレンガ積みの作業を徹底的に追及し、材料(レンガ、モルタル)、と用具 (鏝、モルタルを入れた箱)、作業位置(ワークと作業者の位置関係)を研究した結果、工法を工夫さえすれば、従来の数倍の速さで楽にレンガが積める事を証明した。彼は研究をさらに推し進め、人間の動作を 17 の「動素」に分け、それに自分の名前を逆に綴ったサーブリック (therblig )と名付けた。ギルブレスは「動作研究」の生みの親である。

ギルブレスはテーラーとも親交を結び、科学的管理法に動作研究を加えた。時間研究と動作研究は、総合され、後のPTS法の発展を促すことになる。

PTS法 ( Predetermined Time Standard System )Cak3yber

1935年頃、クイック ( Quick ) らはラジオ工場で精密時計を用いて極微動作の詳細なデータをとり、運動距離、身体部位、重量の抵抗などの影響を研究し、さらに1939年、RCA の工場で延べ100万人時について実験調査をし、その結果 WF 法( Work Factor System ) を完成した。

いっぽう、メイナードらが、ウェスチングハウスで研究を行い、1948 年、MTM 法( Method-Time Measurement ) として一般に公開した。

MTM 法が一般に公開されたために、アメリカだけでなくヨーロッパ各国にいち早く利用されるに至った。これに対しWF 法は、基礎データが依頼のあった事業所のみに渡されたため普及が遅れた。

ただ日本だけは、特別な好意により、1950 年に日本支部が日本能率協会内に設けられ、欧米に先駆けて文献が公開された。

MTM 法が日本に導入されたのは1956 年のことで早稲田大学にその日本支部が置かれた。

このような歴史的経緯で日本の大部分の事業所はWF 法を採用し現在も使用している。

では、このふたつのメソッドのどこが違うか?

1) WF 法は、MTM 法に比べて作業速度が25% 速い。 WF 法は請負速度(125%)、 MTM 法は常雇い速度(100%)ということである。日本の工場は常雇いが皆請負速度で仕事をしてきたということになる。

2) 分析単位の大きさの違い。MTM 法は大体サーブリック単位なのに対し、WF法は、もっと細かい分析単位。

Standards3 ヨーロッパの工場を訪れると、ゆったりしたリズムで仕事をしている印象を受ける。仕事の速度を決める基準が違うのだから当然なのだ。メートル法とヤード・ポンド法と距離にも違った規格が現在も使われている。

このブログの初めの頃、距離の単位について触れたが(2008/5/01投稿:メートル法、同/5/12: 時間についてをご参照ください)、それはこの「仕事の速度」にも規格があり、日本とフランスでは適用されている規格が違うのだということを言うための伏線だった。やっと、言いたいことの核心へ触れることができてほっとしている。

WF 法もMTM 法も標準時間設定法の二大代表で、既設時間標準法= PTS法 ( Predetermined Time Standard System )といわれる標準である。

PTSは、Predetermined という言葉が示すとおり、「前もって定められた時間 」を、すべての人が行う作業、または作業方法を、それに要すべき基本動作に分析し、各基本動作の性質と条件に応じて、「当て嵌める」方法である。

それは、次のような前提に基づいて築かれている。

「人間の動作は、それが機械その他により、速度が制約されない限り、その作業に習熟した者が、一定の努力で行ったならば、だれが行っても、だいたい、一定の時間で行われる。」

この前提は、なにも恣意的に決められた観念的なものでなく、前出のクイックや メイナードなどの実験に基づいた根拠のあるものなのだ。

皆さんは、「だれが行っても、だいたい、一定の時間で行われる。」というところに同意できるだろうか?

男も女も、若き青年も年寄りも、欧米人も東洋人も、同じ動作なら同じ時間で行われる、というが本当だろうか ?

パリの中華食品店で買い物をすると、フランス人のキャッシャーのスピードというより、のろさに慣れたわれわれは、その迅速さに驚かされる。数倍は早いのである。この違いはどこからくるのか ?

同じ作業に、こうもあからさまな違いを示されると、上のPTSの大前提が、もしや、ユークリッド幾何学における「公理」みたいな、イデアの世界にのみ存在する、ある程度現実とは距離がある仮定ではないかと疑ってみたくなる。

だが、上の定義には、ちゃんと、「一定の努力で行ったならば」という条件がついている。しからば、速度が数倍も早く感じられる、中華食品店のキャッシャーは人並み以上の努力をし、フランスの店のキャッシャーは努力を怠っているということになる。

注記 : この項を書くに当たり次の本に援助を仰ぎました。

 日刊工業新聞社 「作業研究」 通商産業省産業構造審議会、管理部会編

(つづく)

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時間研究

投稿者: 叢林亭: http://www.sorintei.com

生産技術について書いておこう。

アメリカのサブプライムに端を発したウォール街の金融危機は、あれよあれよという間にそこらじゅうに蔓延し、2008 年秋まで好景気だったかに見えた世界が、あっという間に奈落の底に転落してゆくかのようである。

オバマ米新大統領の誕生とともに、世界中の人々が新しい変革の時代の到来を望み、世界が今までとは全く違ったふうに変わろうとしているかの予感を抱いているようだ。どんなふうに変わるか誰にもわからず示されもしないだけに不満と不安が心の底に渦巻きとなって次第に大きくなってゆくようである。木曜にはパリで推定100万人がデモをした。

GM、フォード、クライスラーの ビッグ3が揃って経営破綻に陥り、公的資金の援助を受けた。しかし、この援助は一時凌ぎに過ぎず、根本的な構造改革、体質改善をしない限り、いずれは三社のうちひとつは倒産するだろうという予想もある。

こういった現象を、ある評論家が、フォード式大量生産、すなわちテーラーシステムの時代の終焉だと要約したが、それが僕の注意を惹いた。もし当たっているなら、とても大変なことに感じる。長年、それをめぐって彷徨ってきた、僕の中のひとつの重要なテーマに解答が与えられるかもしれないからである。

ヘンリー・フォードがT型フォードの生産を開始したのは、20世紀初頭の事である。それまで裕福なエリート層の乗り物だった乗用車を大衆も手の届く価格で生産を可能にした。それは全てのパーツの規格化、ロット方式だった生産から、生産工程を細分化し、分業の各工程を水平な一本の連続したラインに効率よく並べて流す、という流れ作業によって可能にした文字通り革命的な生産方式だった。同じ型の車を大量生産することによりコストを大幅に下げることができた。そして、細分化した工程の作業はさほどの熟練を持たない数週間の訓練を経た職工で充分こなされるものとなった。

一方で、チャップリンの「モダンタイムス」に象徴されるように、流れ作業ラインに乗った工員たちが細分化された作業の繰り返しを強いられ、生産現場における労働の疎外という問題の象徴とされ、システムの非人間性が批判の対象にされた。さらに、流れ作業ラインの各行程は標準化され、そこで働く職工は簡単に入れ替えが利く、部品と同じ扱いを受ける脅威にさらされることになった。

1910年代、カリフォルニアのフォード工場を、ふたつの違った国から来た、二人の自動車工場経営者が訪れた。ルイ・ルノーと豊田喜一郎である。ふたりは、どちらも、この革命的な生産ラインに感銘を受けた。しかし、その後の反応はむしろ正反対だった。

Oldrenault1 ルイ・ルノーはフランスに帰るやさっそくフォード生産方式をそのまま適用しようとし、労働者の強固な反対に遭う。ある部分ルイ・ルノーの無理解と、十分な環境整備が出来ていないまま急いで形だけを真似ようとした未成熟が原因だった。

一方、豊田喜一郎は、フォード工場の現場を見て、このような大量生産方式は日本の現状に合わない。日本は市場に合った独自の生産方式を開発しなければならないと考えた。トヨタ生産方式の発想の根源であり、多品種少量生産とかプル方式とか、顧客の嗜好と需要から遡って生産計画を立てるといった欧米とは逆の発想による生産方式の出発点がここにある。それからほぼ百年後、2008年秋にはトヨタはGM を抜いて世界一の自動車会社になった。

ルイ・ルノーがプローニュ・ビヤンクールの工場に取り入れようとしたフォードの生産方式は労働者の反対に遭い、45日間のスト、ロックアウトという歴史的な労働争議に発展した。ルイの権威主義的な態度がますます反感を買い、終いには騎馬警官隊が出動するなどした。

1 時に第一次世界大戦勃発寸前の危機的状況にあり、ドイツとの戦争か平和かをめぐって労組による政治的な対応も加わり争議が増幅されたとも言われている。しかし、最大の原因は、機が熟していない、つまり現在の言葉で言う 「5S」 が出来ていない職場に、いきなり流れ作業のラインを設置し、時間を基準にした能率給を導入しようとしたところにあった。Louis_renault1

「5S」をご存じの方もおられると思う。整理、整頓、清潔、清掃、躾の頭文字のSを取った標語で、生産現場で改善などの生産性向上運動を始める前に絶対必要な基本的環境整備のこと。これをした後でなければ改善もうまくゆかない。

Renault7_2  ラインで働く工員にはそれぞれ各担当工程のパーツと工具が必要だ。必要な物が必要な時に瞬時に手に取れる環境が整備されていることがラインが潤滑に流れる絶対条件なのだ。ルイ・ルノーがフォード生産方式を導入しようとしたプローニュ・ビヤンクールの工場は、それが出来ていなかった。工員さんたちは、工具と部品を取りに行き、探し当てるまでに時間をとられてしまう。家内工業的な職人のアトリエのような職場が、そのうえ乱雑なままだったら、そこで能率給を適用される工員たちこそいい迷惑であり、悲劇である。反対するわけだ。

この時の争議とルイ・ルノーの態度は、その後のフランスの労働界の語り草となってRenault5 引き継がれた。生産性と聞いただけでアレルギー反応を起こしてしまうのが、多くのフランスの労働者たちなのだ。ほぼ一世紀を経た現在でも基本的に変わっていない、というのが僕が現場の経験を通じて実感したところ。

読者は「時間研究」(タイムスタディー )とか、作業研究といった言葉を耳にしたことがおありだろうか。フォードがT型の生産を開始したと同じ時期、1910年にフレデリック・テーラーの「科学的管理法」という著書が刊行された。

テーラーは、それまでの「どんぶり勘定」的な、親方の裁量ひとつで賃金が決められていた単純労働の世界に初めて科学的考えを導入した人である。現代の経営工学( IE )の始祖に当たる人である。

彼は労働という連続した活動も、いくつかのまとまった要素となる作業の集合であり、これらの要素となる作業に、ある一定の時間を割り当てることが出来るのではないかと考えた。要素作業という考えと単位時間という人間の活動に分析的思考を当て嵌める合理的管理法の誕生だった。

このテーラーの考えは、後に時間研究と呼ばれる、さらに精密な方法にまで発展する。 ( つづく )

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