« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »

2009年3月に作成された投稿

2009年3月29日 (日)

夢その2 : 山の釣堀

投稿者 : 叢林亭 :http://www.sorintei.com

今週は、開店以来、友達の紹介を介さず、弊 Web Site をご覧下さり、ご自分でレンタカーを運転され来て下さったはじめてのお客様のお相手をし、さらに八か月間行方不明で、もう死んだかと思っていた「トラジ」が奇跡のように戻ってきたので、対応に追われ、夢の続きの文と挿絵を描くのが遅れました。

お待たせしました。では、夢の「つづき」です。

「宿を発って、どこかへ歩くあいだも間断なく雪は降り続いていた。これじゃ春の雪解けの時は大変だねと僕は土地の子供に言った。子供は軽蔑の混じった表情で、たいしたことないというふうなことを言った。

仲間と連れ立って山を降り、もう雪のなごりも無く、夏のように、強い陽が射している道ばたで僕らは休憩した。すると、岩だらけの道を降りたところに釣堀があり、人が群がって釣りをしているのだった。

僕は釣堀を見に降りて行った。そこの混みようは人の背中をかきわけてやっと堀がのぞけるくらいで、近所の子供や山へ静養に来た大人たちでいっぱいだった。澄んだ水の中を大小のマスが泳ぐのが見えた。

みんなが釣りをしている様子を、しばらく眺めていると、釣り方に二通りあることがわかった。子どもたちは普通の浮きのついた仕掛けにエサをつけて釣っていた。たいていの大人たちは、エサをつけず、大きな錘と三つ又のハリがいくつかついた仕掛けを水に入れ、ぐいっーと引っぱって泳ぎまわる魚の腹に引っ掛けて釣りあげるのだった。

白い腹に赤や緑の斑点の浮いたみごとな鱒が身を躍らせて釣りあげられるのを見ているうちワクワクと釣りの本能が掻き立てられた。「しばらく、ここで釣りをしていこうじゃないか。」僕は仲間を誘いに岩だらけの道を登っていった。

ところが、一行はすでに発っていて、Kだけが、ぼんやり、人待ち顔をして岩の上に腰をおろしているのだった。僕はKと連れ立って、釣堀へ降りて行った。

釣堀は、たしかに最初見たとおり、野外の石で囲まれた生け簀で、鱒ばかりが泳いでいるマス釣り場だったのだが、三つ又のハリと錘のついた仕掛けを手に取って、針先を指の腹に当て砥ぎ具合を試したりし、いよいよ水に入れようという段になると、釣堀は、もう野外の日の光の下ではなく、デパートの人混みのする売場の中の蛍光灯の下にあるのだった。

それでも僕は胸をときめかせて仕掛けを入れ、適度な深さに沈んだところで竿を思い切りよく引いてみた。錘が水の中でぶるぶると震えて回転するのがわかった。何度かそうやって仕掛けを引きまわしたり、水から上げ、また遠くへ投げいれたりを繰り返すうち、ずしっと岩にでも掛かったかと思うほどの重みで竿がしなった。

やがて仕掛け全体がゆっくりと動き出した。ハリに獲物が掛かったのは間違いなかった。それにしてもすごい重量と抵抗だった。鱒という魚にこんな力があったのかと不思議に思いながら糸を切らぬよう、慎重にリールを巻いていった。

とうとう獲物が水面に顔を出した。それを見たとたん、僕は怖ろしさに顔が引き攣るのを感じた。奇怪な、魚類図鑑でも見たことがないような、蝦とオコゼの交配種みたいな、そのくせ腹は白くぶよぶよした感じで、三つ又針のひとつがそこに刺さり、黒い、どぶ泥のような液体が、裂けた皮膚から染み出しているのだった。(つづく )

Cadre 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月16日 (月)

夢その1:雪山の朝

投稿者:叢林亭: http://www.sorintei.com

「ホメオスタシス」という言葉がある。アメリカの生理学者キャノン( Walter Bradford Cannon 1871 - 1945 ) が「生活体の体内均衡維持説」の中で用いた。筆者は思春期を振り返る時いつもこの言葉を思い出す。

15歳の少年が登校拒否症に罹り学校をさぼって文学書ばかり読んでいたのは何故か?いくつもの理由が挙げられるが、主なひとつに、思春期の身体と心の変化がいっぺんに襲い掛かり、心理的生理的バランスを失ったことがある。

複数の原因が重なって作用し、内省や自己分析の経験がなかった少年に問題解決の手がかりが与えられぬまま、不安と焦燥に駆られ、自閉症じみてゆき、導きを文学書に求めていった。

心理的生理的バランスを崩したことの直接的な原因は、15歳からバスケットを始め、1年間で10センチも身長が伸びたことがひとつ。

さらに、甲状腺とか胸腺などによるホルモン分泌が盛んになり、異性に恋心を抱いて学校の勉強に集中できなくなったことがふたつ。

中学校までは先生の言うことに疑いを差し挟むことを一切せず、無邪気に学期ごとのテストに良い成績を取ることで満足していた。自我の目覚めとともに、そうした少年期の自身の姿に嫌悪感を抱くようになった。同時に学校の教師、社会環境、政治状況といったものに疑問を抱くようになった。

その直接のきっかけとなったのが、高校へ入学して最初の幾何の授業で出てきた、「公理」に抱いた疑問だった。「点」と「直線」の公理が理解できず、「決めごと」に対して差し挟んでも仕方のない「疑問」を抱いたのだった。

「大きさのない点」、「太さの無い直線」などというものが実在するだろうか?

大きさがなければ空間に位置を占めることなどできないではないか。
太さが無ければ空であり虚無なのだから、いくらイデアの中に存在する、そうするものとせよと「決め」られても、そんなもの想像することすらできないではないか。

授業中、少年が発した質問は、このように明確な形を取っていなかったに違いない。そのために数学教師は「それは君・・・愚問だよ。」と答えたのかもしれなかった。

しかし、生徒の持つ「問い」に対して、もう少し、注意深い教師ならば、根源的なことに疑問を発した少年を、愚問と切り捨てるよりは、問うこと自体を勇気づける方向へ導けた筈である。少なくとも「問い」に明確な形を与え、疑問に光を当てることが出来た筈だ・・・と、無いものねだりをしてみたくなる。

「愚問」と言われたことが侮蔑的に作用し、少年は教師を憎み、学校への不信を生み、受験制度そのものを憎悪し反抗するようになった。身体の極度の成長の早さからくる怠惰への傾斜へ「反抗」「ひねくれ」が理由を与えたのだった。

平和憲法を掲げながら自衛隊があるのは何故か?
日本は独立国なのにアメリカ軍の基地が方々に在るのは何故か?
核は持ち込まないことになっているが、実際はアメリカの空母は核を積んだまま入港する筈であり、中国とソ連を仮想敵国とし、もし戦争が起こったら日本は核攻撃される恐れがあるのだ・・・。そういう説を聴かされると、その恐れがゼロではない限り無視することはできなかった。

時代は二極体制の真っただ中にあり、少年は核爆発の恐怖に捕えられていったのだった。

そういう中でも、少年は「夢」を見続けた。ここでいう「夢」には三つの意味がある。

1)睡眠中に見る「夢」
2)将来の希望、期待という意味での「夢」
3)想像力、イマジネーションを働かせるという位の意味での「夢」

いずれも切り離しがたく、それぞれが繋がっていると筆者は考えている。

少年は授業を抜け出し、厭な環境から逃避して「箱根山」に逃れては、遠い外国を夢見ていた。やがて、その夢は、現実に期待できる計画となり、十数年後に実行に移すことになった。

「過去」についてばかり語っているようだが、筆者にとって「未来」とは、「夢」と切り離して考えることはできない。何も夢を見なくても、時間がたてば未来は来る、今現在が過去となり、未来が現在となって未来が物理的に来るということはできる。だが、人間にとって、それは意味のある未来ではない。

夢を見ることができない社会は人間にとって息苦しく良い社会とは言えない。
ナチス政権下のドイツがそうであり、スターリン政権下のソ連がそうだったように、「夢」と「自由」、「夢」と「未来」とは関係があり、人間は、これなしでは生きることができない。

フロイトの「欲望」、「慾動」を持ち出すまでもなく、「夢」は人間を行動へと駆り立てる原動力である。

共産社会のユートピアも夢であるし、起業家になり億万長者になりたいと欲望するのも夢である。

青春時代のモアトリアムはいつまでも夢を見続けていたい欲求であり、「夢」の中では、すべてが可能だ。同時に「夢」を他人に伝えることには困難が伴う。自閉症の子供は夢を見続けることを妨げられると暴力に訴えてでも夢を守ろうとする。

1)の「夢」の中では、社会的、理性的な論理が無視され、物理的、科学的にはあり得ないことが、夢を見ている当事者には極く自然に起こり得ることとして進行する。そこには非論理的なことが、論理の枠を超え、当事者の心に、物語性を持った必然として受け容れられる。

赤い山が突然白い雪を被った山になり、翼も無いのに空を飛んだりも出来るのだ。
ダヴィンチが空を飛ぶ鳥を観察しながら飛行機の前身を夢想したことを思うと、科学技術の進歩と夢とは無関係ではないのである。

今日は、その「夢」の第一回、「雪の山」の絵と文を掲載します。

Resized

「山の宿の窓から、えんじの溶岩の肌と、黒いカラマツが神秘な青空に迫って聳えるのが見えた。宿はどこか学校の教室のようで、先生に僕は指名され、黒板に山をチョークで描いていった。うしろを振り返り、窓の外の山の景色を見やっては、僕は黒板いっぱいに山の稜線を描いてゆく。山の輪郭が出来上がったとき、僕は教師の顔を見て、空を塗った方が良いか、山を塗った方が良いか尋ねる。どちらでも好きなように、と教師が答え、僕は山の方をチョークで塗りつぶしてゆく。

振り向いて、もういちど、山を見上げると、山には雪がかぶり、神秘めいた深い紺青の空の色を吸った山の稜線が、青白い不思議な光をはなって輝いていた。

雪は次第に降り積もって、とうとう山も教室の屋根も厚ぼったく覆われてしまった。僕は宿の窓から顔を、あおむけて出して、傾斜の急な屋根に厚く雪が乗り、餅の耳の形をした雪の端がいまにも滑り落ちそうな具合に垂れかかってきているのを見て、恐ろしくなって首を引く。 (つづく)」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 8日 (日)

茜空の欅

投稿者: 叢林亭: http://www.sorintei.com

東京都内に「箱根山」があるのをご存じだろうか ? 新宿と池袋の間、明治通りの東側にある。最近、新しい地下鉄が開通して便利になった。JR 山手線でいえば新大久保と高田馬場の間、早稲田や女子学習院へ行く方向にある。一帯は大きな窪地になっていて、その中にある小高い丘が「箱根山」と呼ばれている。

筆者は2007年の暮れにここを再訪した。実に 45 年ぶりのことである。記憶に残る武蔵野の面影を残した少しうら寂しい野山とはまったく変わり、常緑の広葉樹がうっそうと茂り、桜の大木が視野を覆って重厚な公園の雰囲気を醸し出していた。

A_3

筆者にとりこの地は青春と深いかかわりがある。十五と十六の歳の悩みに打ちひしがれていた思春期の日々、ここに逃れてきては束の間の安らぎを得ていたからである。それを小説風に書くと以下のようになる。

 「冬の空に網目模様に枯れ枝を広げている欅を見るのが少年は好きだった。この公園の中にある小高い丘へ来るまでの道にそうした欅が見られるのを知ってから少年は煩瑣にここへ来るようになった。はじめは学校が退けてから寄るだけだったが、やがてほとんど毎日、それも授業をさぼって来るようになった。

 ここで独りでいる方が学校でみんなに囲まれているより孤独を感じずにすむ。孤独にはちがいないが、ここには欅や枯れ草などがあって少しは自然らしさが残っている。それを眺めているだけで心が落ち着くのだ。自然に囲まれて独りでいるほうが、傍若無人な同級生に囲まれて感じる孤独よりずっといい。それに、丘の頂上には、まるで模型みたいにちっぽけな赤い屋根のチャペルがあって、どことなく西洋の雰囲気が漂っている。

 今日はまだ日が高いうちに学校を脱け出して図書室で借りた本を一冊持ってきた。冬の図書室の書庫にはガスストーヴが焚かれ、その熱気が紙の湿りを放出させて独特な匂いが漂っていた。

 少年は、冬の陽を浴び銀色の艶を帯びて見える枯草を踏みしだき、丘の中腹の陽だまりに座り心地のよさそうな一株の草の根を見つけて、そこへ腰をおろした。

 若いくせに老人のように廊下や部屋に射し込む小春日和の陽にあたるのが少年は好きなのだ。

 図書室から借りだした本は、淡いベージュの手触りが柔らかな紙のカバーの、ところどころに繊細な模様が赤や青で施され、少年の眼を惹いた。表紙を繰ると目次には『放蕩息子の帰宅』『エル・ハジ』『縛られたプロメテ』など少年が今まで手に取った本には見たことの無い言葉が並んでいた。そうした珍しい文字を表紙の装丁の中に見るだけで、少年の胸に、なにかそこはかとない異郷への憧憬といったものが湧き上がってくるのだった。」

小説はまだ続くのだが、後のお楽しみとして、要はこの少年は「登校拒否生徒」のはしりだったのだ。学校をさぼってはこの丘に登り憂愁や不安や恐れや恥や自己嫌悪や憧れや恋心などが、入り混じって抑えようのない、もやもや、ぐちゃぐちゃした苛立ちを慰めていたのである。

この日の夕焼けは空を真っ赤に染めて、その茜色を背景に欅の網目模様が投網を打ったように広がり、忘れようのないイメージとなって筆者の心に焼きついた。以下がその絵です。

Akanecorige_2

続きを読む "茜空の欅"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 2日 (月)

月光、UFO or 天変地異

投稿者: 叢林亭: http://www.sorintei.com

その家は小川の畔にあった。南向きの縁側が小川に張り出していて、そこに立つと小川の流れと、土手の向こうの田んぼと地平線の低い山並が見渡せた。

廊下の右端には水屋と風呂場があった。左端には厠があり、扉なしの小便所と扉で仕切られた大便所があった。小川の水の流れに直接落とす仕掛けになっていたのである。

祖母は大柄な肉付きの良い女性だったが、いつも廊下の端で、着物の裾を端折り、小便器に尻を向けて小用を足した。幼い僕は常に彼女にまとわりついていたから、そういう時も並んで立ち、露わになった彼女の太腿に手を当てていた。色の白い、多少ぶよぶよしたその肉の感触を今でも思い出すことができる。

成長したのち、数人の異性に想いを寄せたが、すべて丸顔の肉付きの良い女性だったことを思えば、幼児のこの記憶との繋がりが見えて愕然とする。エロスは柔らかなものに宿るとはよくも言ったものだ。

その家は八畳一間だけの小さな小屋みたいなものだった。隣に二階建ての大きな家があった。ひとびとはここを「べっしょ」と呼んでいた。幼い耳に変った音として記録された言葉は、後年、「杉風が別墅に移る」と奥の細道に書かれているのに出会った時、別荘を意味すると知った。

奇妙なことに、僕の記憶では、この二軒の家は地下道で繋がっているのだった。地下室など無かったことを思えば、地下道などある筈がなく、どうせ少年時代に読んだ冒険小説や映画のシーンなどが混ざり合ったのだろうが、蘇る記憶では、その地下道を通って隣の家に上がり、二階の廊下で年上の少年とカレイドスコープを覗くのだった。

この二軒は恐らく地方の素封家の別荘だったのだろう。付属の小屋を祖父が借りていたに違いない。姫路の駅前でしがない果物屋を営んでいた祖父に別荘を持つ余裕などある筈がないからである。

祖母がどこで買い物をし、二人でどんな物を食べていたかの記憶は一切無い。しかし、田舎の自然の中で、祖母と二人きりで過ごした二年間は、僕の人生の中で最も充足した時間だったという全体的な記憶がある。

子供の遊び道具としてのおもちゃは、「ベテイさん」の四角い顔を取り囲んだ十五ばかりの多様な形の積木が入った箱ひとつだった。

部屋の隅には茶箪笥があり、ガラス戸を通して梅干しの甕やらっきょうの入ったガラスの壺が見えた。もうひとつの家具だったちゃぶ台に祖母は紙とクレヨンを置き、頭の頂が赤い丹頂ヅルの描き方を教えてくれた。

真冬の寒い日、竹に結んだヒモの先に「ダシジャコ」をくくりつけ、小川の階段を降りて行った。「べっしょ」の奥さんとすれ違うと、「おやマア。さかなつりかいね。」と声を掛けてくれた。

雪解けのぬかるみに足をつっこみながら、近所の子供たちと雪玉をぶつけあって遊んだ。

春先には、土手のネコヤナギが銀色の芽を吹いた。
蕗のトウを摘んで苦い佃煮を祖母は作った。

風呂の焚き口の薪の燃やし方を教えてくれたのも祖母だった。

土の道には側溝があり澄んだ水が流れていた。笹舟を浮かべたり、タニシを採って遊んだ。

そうしたある晩、ひとりで小用に立った僕は、廊下から不思議な光景を見た。
川を挟んで向こうの田んぼと地平線の山並みが、強烈な光に照らされ、真昼のように明るく見えたのだった。

恐らくは満月の光に照らされていたのだろうが、幼い僕に、この光景は、真夜中なのに真昼のような明るさが何か人工的な、UFOが降りてきた時の光のようにも感じられ、また何かの天変地異の予兆のように、異様な感覚とともに視覚の底に焼き付けられたのだった。

いつかは、それを絵にしたいと思うまま六十年が過ぎ去った。以下がその絵です。

Gekkoufo_4

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »