夢その1:雪山の朝
投稿者:叢林亭: http://www.sorintei.com
「ホメオスタシス」という言葉がある。アメリカの生理学者キャノン( Walter Bradford Cannon 1871 - 1945 ) が「生活体の体内均衡維持説」の中で用いた。筆者は思春期を振り返る時いつもこの言葉を思い出す。
15歳の少年が登校拒否症に罹り学校をさぼって文学書ばかり読んでいたのは何故か?いくつもの理由が挙げられるが、主なひとつに、思春期の身体と心の変化がいっぺんに襲い掛かり、心理的生理的バランスを失ったことがある。
複数の原因が重なって作用し、内省や自己分析の経験がなかった少年に問題解決の手がかりが与えられぬまま、不安と焦燥に駆られ、自閉症じみてゆき、導きを文学書に求めていった。
心理的生理的バランスを崩したことの直接的な原因は、15歳からバスケットを始め、1年間で10センチも身長が伸びたことがひとつ。
さらに、甲状腺とか胸腺などによるホルモン分泌が盛んになり、異性に恋心を抱いて学校の勉強に集中できなくなったことがふたつ。
中学校までは先生の言うことに疑いを差し挟むことを一切せず、無邪気に学期ごとのテストに良い成績を取ることで満足していた。自我の目覚めとともに、そうした少年期の自身の姿に嫌悪感を抱くようになった。同時に学校の教師、社会環境、政治状況といったものに疑問を抱くようになった。
その直接のきっかけとなったのが、高校へ入学して最初の幾何の授業で出てきた、「公理」に抱いた疑問だった。「点」と「直線」の公理が理解できず、「決めごと」に対して差し挟んでも仕方のない「疑問」を抱いたのだった。
「大きさのない点」、「太さの無い直線」などというものが実在するだろうか?
大きさがなければ空間に位置を占めることなどできないではないか。
太さが無ければ空であり虚無なのだから、いくらイデアの中に存在する、そうするものとせよと「決め」られても、そんなもの想像することすらできないではないか。
授業中、少年が発した質問は、このように明確な形を取っていなかったに違いない。そのために数学教師は「それは君・・・愚問だよ。」と答えたのかもしれなかった。
しかし、生徒の持つ「問い」に対して、もう少し、注意深い教師ならば、根源的なことに疑問を発した少年を、愚問と切り捨てるよりは、問うこと自体を勇気づける方向へ導けた筈である。少なくとも「問い」に明確な形を与え、疑問に光を当てることが出来た筈だ・・・と、無いものねだりをしてみたくなる。
「愚問」と言われたことが侮蔑的に作用し、少年は教師を憎み、学校への不信を生み、受験制度そのものを憎悪し反抗するようになった。身体の極度の成長の早さからくる怠惰への傾斜へ「反抗」「ひねくれ」が理由を与えたのだった。
平和憲法を掲げながら自衛隊があるのは何故か?
日本は独立国なのにアメリカ軍の基地が方々に在るのは何故か?
核は持ち込まないことになっているが、実際はアメリカの空母は核を積んだまま入港する筈であり、中国とソ連を仮想敵国とし、もし戦争が起こったら日本は核攻撃される恐れがあるのだ・・・。そういう説を聴かされると、その恐れがゼロではない限り無視することはできなかった。
時代は二極体制の真っただ中にあり、少年は核爆発の恐怖に捕えられていったのだった。
そういう中でも、少年は「夢」を見続けた。ここでいう「夢」には三つの意味がある。
1)睡眠中に見る「夢」
2)将来の希望、期待という意味での「夢」
3)想像力、イマジネーションを働かせるという位の意味での「夢」
いずれも切り離しがたく、それぞれが繋がっていると筆者は考えている。
少年は授業を抜け出し、厭な環境から逃避して「箱根山」に逃れては、遠い外国を夢見ていた。やがて、その夢は、現実に期待できる計画となり、十数年後に実行に移すことになった。
「過去」についてばかり語っているようだが、筆者にとって「未来」とは、「夢」と切り離して考えることはできない。何も夢を見なくても、時間がたてば未来は来る、今現在が過去となり、未来が現在となって未来が物理的に来るということはできる。だが、人間にとって、それは意味のある未来ではない。
夢を見ることができない社会は人間にとって息苦しく良い社会とは言えない。
ナチス政権下のドイツがそうであり、スターリン政権下のソ連がそうだったように、「夢」と「自由」、「夢」と「未来」とは関係があり、人間は、これなしでは生きることができない。
フロイトの「欲望」、「慾動」を持ち出すまでもなく、「夢」は人間を行動へと駆り立てる原動力である。
共産社会のユートピアも夢であるし、起業家になり億万長者になりたいと欲望するのも夢である。
青春時代のモアトリアムはいつまでも夢を見続けていたい欲求であり、「夢」の中では、すべてが可能だ。同時に「夢」を他人に伝えることには困難が伴う。自閉症の子供は夢を見続けることを妨げられると暴力に訴えてでも夢を守ろうとする。
1)の「夢」の中では、社会的、理性的な論理が無視され、物理的、科学的にはあり得ないことが、夢を見ている当事者には極く自然に起こり得ることとして進行する。そこには非論理的なことが、論理の枠を超え、当事者の心に、物語性を持った必然として受け容れられる。
赤い山が突然白い雪を被った山になり、翼も無いのに空を飛んだりも出来るのだ。
ダヴィンチが空を飛ぶ鳥を観察しながら飛行機の前身を夢想したことを思うと、科学技術の進歩と夢とは無関係ではないのである。
今日は、その「夢」の第一回、「雪の山」の絵と文を掲載します。
「山の宿の窓から、えんじの溶岩の肌と、黒いカラマツが神秘な青空に迫って聳えるのが見えた。宿はどこか学校の教室のようで、先生に僕は指名され、黒板に山をチョークで描いていった。うしろを振り返り、窓の外の山の景色を見やっては、僕は黒板いっぱいに山の稜線を描いてゆく。山の輪郭が出来上がったとき、僕は教師の顔を見て、空を塗った方が良いか、山を塗った方が良いか尋ねる。どちらでも好きなように、と教師が答え、僕は山の方をチョークで塗りつぶしてゆく。
振り向いて、もういちど、山を見上げると、山には雪がかぶり、神秘めいた深い紺青の空の色を吸った山の稜線が、青白い不思議な光をはなって輝いていた。
雪は次第に降り積もって、とうとう山も教室の屋根も厚ぼったく覆われてしまった。僕は宿の窓から顔を、あおむけて出して、傾斜の急な屋根に厚く雪が乗り、餅の耳の形をした雪の端がいまにも滑り落ちそうな具合に垂れかかってきているのを見て、恐ろしくなって首を引く。 (つづく)」
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