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2009年4月に作成された投稿

2009年4月27日 (月)

三人の美智子-その4

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

濡れ鼠の学生たちに混じって僕らも駅のホームに上がった。
「つかれた、ここでひと休みしようか。」
傷ついた学生たちで混み合うホームの中ほどに奇跡のように誰もいないベンチを見つけ、小池君は真っ先に腰をおろした。
「ちょっとばかり遅かった。残骸だもんな、見られたのは。」
さきほどまでの興奮はどこへいったという顔で小池君は力なくつぶやいた。眼をあちこちの学生に向け誰かを探しているふうでもあった。
「やっぱり権力のカベはあつい。・・・警察のうしろには自衛隊もいることだし。」
苦笑を交えて小池君はこれもつぶやくように言った。

「あのさ。ゼンガクレンの主流、半主流って、どうちがうの?」
ちょっとの間流れた沈黙を破ってケン坊が小池君の横顔を見ながら訊いた。
休みかけていた小池君はケン坊に重い質問をぶつけられ息詰ったように顔を上げ一瞬言葉を探してから言った。
「ひとくちで言えば・・・現状分析のちがいだな。」
「ゲンジョウブンセキ?」
電車がホームに入り学生たちは吸い込まれてゆき、ホームの人混みに隙間ができた。「終電に乗ればいいよね。」電車を見送りながら小池君は話を続けた。
「いまの社会が資本主義社会だってことは知ってるね?」ケン坊に家庭教師みたいな口調で話すのがおかしかった。
「日本の資本主義が成熟しきっていずアメリカに従属するものだって分析するのが反主流派。だからまずアメ帝を追い出して民族独立を勝ち取るのが社会主義革命への第一段階だって位置づけるのさ。日本人の民族主義感情に訴え、広範な大衆の支持を求めてゆこうとする平和革命路線だよ。」
ケン坊は汗に埃がこびりつき薄汚れてはいるが精悍な顔をし、聞き耳をたてて小池君の話を聴いていた。
「これに対して主流派のゼンエイ的学生、インテリはも少し国際派で、日本の独占資本主義、ブルジョワジーは立派に独立しているし、アメリカと協調しながらも利害が対立するときは利益を引き出しながら資本と権力の拡大を図っていると分析するんだ。
こっちの分析の方がぼくは正しいとおもうよ。だって太平洋戦争は中国の利権をめぐって日本とアメリカが対立したことが原因なんだからね。」

「ふうん。ぜんぶはよくわかんないけど、今日の集まっただけで何もしなかったのが反主流派で、国会に突入したのが主流派だってことはわかった。」ケン坊が小池君を尊敬するような眼差しで見ながら言った。
「でも、くわしいんですね。小池さんって・・・。」
Marx5 「ちょっとはね。ジャーナリストになるために勉強したさ。それに・・・、ぼくの兄が主流派で、きょうも来てんじゃないかな・・・。」小池君があちこち眼を配ってる理由が呑み込めた。兄さんを探しているのだ。
「どっちもマルクスなんでしょう?その思想って真理なの?」
ケン坊がまた素朴な質問を発した。
「ニュートンの万有引力の法則みたいな意味での真理とはいえないな。イデオロギーだからね。」

僕が普段から気にかけていたことに触れたので口をはさんだ。
「資本主義から社会主義への発展は歴史的必然だっていうマルクスとレーニンの歴Lenin2 史観ね。レーニンは資本主義が発展すると帝国主義になり、とくに銀行資本が支配する金融資本主義社会になる。そして金融資本主義社会はそれが抱える内部矛盾によって崩壊するっていうでしょう。ぼくが疑問に思うのは、もしそれが客観的、歴史的必然なら、人間が何もしなくても、自然そういう社会に移行するってことじゃないのか。行動しなければならない理由はどこにあるんだろうって?」
「主体性の問題だな。ぼくは歴史は人間が作るもんだと思うよ。客観的認識と主体性の問題は、ぼくも深く掘り下げて考えてはいないけど・・・。」

終電のひとつ前の電車で僕らは小池君と別れ家に帰った。
翌朝の新聞に樺美智子さんの死が大きく報道された。デモ側の親しい人たちは「警棒で腹を突かれ内臓出血で死亡」を主張していた。むろん警察側は、彼女が押し合いの中に倒れてデモ隊に踏まれて死亡したと発表した。

最後のデモに参加したのは確か日曜だった。衆院通過から一カ月期限の最後の日だった。その日もデモは三宅坂の国立劇場建設予定地の集会に合流した。集会に集まった群衆はなすすべもなく、午前零時を迎え、岸首相の思惑通り改定安保は批准された。

けれども樺美智子さんの死は国民大衆の広範な怒りを呼び、史上空前の大衆行動は、あわや革命寸前のところまでゆき政府を震撼させたのだ。政府首脳は自衛隊 Eiku4_2 の出動を要請した。けれども防衛庁長官赤城宗徳は拒否した。日米修好百周年を記念して来日する予定だったアメリカのアイゼンハワー大統領も訪日を取り止めた。岸首相は五百万人を超える参加者を見たゼネストなど社会不安を引き起こした責任をとって退陣した。岸首相が退陣したために国民の抗議行動の攻撃の対象がなくなり運動は急速に消滅していった。安保は批准されてしまったので、デモに参加した級友たちは、あんなに騒いでも結局は無駄だったという虚脱感と敗北感に陥ったまま夏休みを迎えた。小池君は「なるようにしかならない。」とうそぶいていた。

ソ連ではフルシチョフがスターリン批判の演説をし、恐怖政治と強制収容所の残虐性が暴露された。その後、中国では老いた毛沢東とその妻江青ら四人組との内輪もめがMao1 原因で文化大革命が起こり、数千万という目も眩むような犠牲者を出したことが少しずつ知られるようになった。政治というものが時に残虐な爪を剥くということ。建て前がどんなに立派で、人類の永久の平和と平等と理想を掲げながら、建前とは裏腹に、しかもその理想の名において人間が悪魔より恐ろしい残虐なことをやってのけるということも歳をとるにつれ僕は知るようになった。デモに参加した頃の僕たちの年齢では、複雑な国際政治のありようや、経済の仕組みは理解できなかった。単純に少年らしい正義感、素朴な民族感情と父親への理由のない反抗心とで国会デモへ参加したのだった。 (小説はこれで終ります。)

上の写真4枚はフランスのprovider: Orange の公開イメージから拝借したものです。

(注1) Wikipedia の岸信介によると 「警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断した岸首相は、児玉誉士夫を頼り、自民党の橋本登美三郎を使者に立て、暗黒街の親分衆の会合に派遣。錦政会会長稲川角二、住吉会会長蹟上義光やテキヤ大連合のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに三つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。・・・最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。かれらは政府提供のヘリコプター、セスナ機、トラック、車両、食糧、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円の活動資金が支給されていた。(ファーイースタン・エコノミック・レビュー)

トラックは約100メートル突っ走り、デモ隊にとめられ転覆させられた。大型トラックの後を追うように、小型宣伝カーが走った。これはジグザグに走り、ハンドルを切りそこねて、参議院常任委員会庁舎の歩道の並木にぶつかり、ひっくりかえった。
これに続いて、維新行動隊の10人ほどがプラカードの柄(板を外し釘が出たままの)をふるってデモ隊に襲いかかった。この時の彼らは主に婦人をねらってなぐった。「殺してやる」「たたき殺せ」と口々にさけんでいた。
新劇人会議の女優さんたちが、血まみれになって逃げ惑った。・・・右往左往し、足をとられてころび、後頭部をはげしくたたかれた。頭からも胸からも血が滴り落ちて、白いブラウスを赤くそめた。(自由のための「不定期便」昭和の抵抗権行使運動(47):ドキュメント 6・15国会流血)に詳しくこの時の状況が報告されている。
http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-1152.html

(注2)五十嵐武士著:「戦後日米関係の形成」(講談社学術文庫)からの引用を許して頂ければ、
「日本国内には保守と革新との補完的な側面であり、そのまず初めに単独講和論が国際情勢に対応して日本の独立を回復するために選択された現実の政策であったのに対して、全面講和論は日本国憲法の理念に即して、日本を国際的に平和国家として自立させようとする国家的存立の主張だったことがあげられる。つまり、対日講和の締結をめぐる論議は単に政策的な次元にとどまるものでなく、外交政策の主体たるべき国家としての日本の精神的な基盤にかかわる深みにまでわたっていた。その意味で、日本の国際社会への出発に際して、政策と理念との機能的な分担を単独講和論と全面講和論が担っていたとみることもできる。」

(注3)と(注4)吉田茂 :1878(明治11年)神田駿河台に生まれる。坂本竜馬、ジョン万次郎、板垣退助などを生んだ高知県出身の自由民権運動の闘士、竹内綱の五男。
尊皇家であり、敗戦後、昭和天皇が戦争責任をとって退位を申し出た時も、吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという。

やはり上に引用させていただいた五十嵐武士著:「戦後日米関係の形成」によれば
1951年、平和、安全保障条約の調印を終えて帰国した後、吉田首相は家人に「あれで良かったな」としきりに念を押したという。
「吉田は他にやりようがあったのではないかという疑念を払拭できなかったのにちがいない。」
この本は著者が独自にアメリカ国立公文書館で発見した歴史的資料と日米双方の外交文書や文献をもとに幅広い視野で書かれている。冷戦終焉後の新たな日米関係と今後の日本の国際社会における日本のあり方を問う上で大変ためになる本なので是非一読をお薦めします。

(注5) 高杉晋作: いわゆる功山寺の挙兵。1864年の禁門の変の後、幕府による第一次長州征伐で俗論派が台頭し正義派家老を倒すなどして保守化してゆく中、晋作は奇兵隊を創設し、伊藤俊輔率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊に呼びかけ、わずか80人で挙兵。その後の長州藩を倒幕の中心へ導いた。
なお、岸信介、佐藤栄作兄弟も山口県(かつての長州藩)の出身。さらに帝国陸軍の元老、山県有朋は奇兵隊の一兵卒であった。

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2009年4月25日 (土)

三人の美智子-その3

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

小説の続き

後年、僕が知ったことだが、戦後すぐ、平和問題懇談会だったか談話会だったか、日Macarthur7 本のそうそうたる学者、知識人の集まりが日本の国際社会への復帰についてなんども声明をだし、日本の中立と全面講和を主張した。日本は今後、中立国たるべきだという主張は、日本は東洋のスイスたれ、と言っていたマッカーサーの考えとも一致するものだった。日本はアメリカとソ連・中共のイデオロギー的対立の橋渡しをして、インドのように第三の道を歩み、積極的に世界平和に貢献すべきだと知識人たちは主張を繰り返した。ところが朝鮮戦争が勃発し、北鮮が三十八度Guerredecoree2 線を越えて攻め込んだことが明らかになると、平和懇談会の知識人たちは動揺した。アメリカを中心とする国連軍は最初攻勢に立つが、そのうち中国軍が介入し、朝鮮戦争はソ連と中共が連携した国際共産主義の拡大路線の具体化だということが明瞭になった。

アメリカは日本から駐留軍が撤退すれば日本は数週間でソ連に占領されると脅した。日本は再軍備して自力で国を守るか、アメリカに基地を提供して、Syoshida 守ってもらうかの選択に迫られ、時の吉田首相は後者を選んだ。吉田首相はアメリカの再軍備要請をかわすのに、日本の国内情勢、つまり社会党や共産党、労働者、知識人、学生など平和憲法の理念を守ろうとする革新陣営の無視しえない力を利用した。この情勢下に日本が再軍備に税金を注げば国民は今後も長い間貧困から抜け出せず、そんな状態は共産主義者に絶好の口実を与えるだけだとアメリカに対して主張し要求を退けた。経済的自立を最優先とし軍備に金を注ぐかわりに経済再建に全力を集中し、一方で防衛に関しては、サンフランシスコで講和条約に署名した同じ日の夕刻、同行の池田勇人など全権員に「きみはついてくるな」と言い残し、吉田首相個人が単独で全責任を負うという形で、それまで秘密裏に準備が進められていた日米安全保障条約に署名した。後日の反対を恐れ、他のメンバーを守るためだったという。(注4)

日米安保条約は軍事同盟だから日本の平和憲法に抵触する。だから秘密外交が行われた。この吉田首相のやり方を岸首相が受け継いだ。東條内閣の商工大臣を務めA級戦犯容疑で巣鴨刑務所に拘留されていた岸信介はアメリカの政策転換で無罪とされ出獄した。1960年1月に訪米しアイゼンハワー大統領と面談、それまでの日本側に不利な条項を改めた改正安保条約に署名した。5月の条約の批准の為の国会審議では、条約そのものの破棄を主張する社会党の反対に会い、社会党議員を議場に入れさせず強行採決し、また国会の会期延長に際しては、議場入口に座り込んだ社会党議員を警官隊を入れゴボウ抜きにして排除し、怒号の中を議員に担がれた清瀬衆議院議長がマイクを掴むや延長を叫ぶなど、およそ民主主義とは相容れない形だけの審議で条約の批准を図った。国民の多くは、こういう強引なやり方に戦前の軍部の独裁政治のイメージを重ね合わせ、その復活を怖れ、怒りとともに国会に押し掛けたのだった。

「ほかにデモを組織するグループを知らないってこともあるけど、伊藤たち日共系、全学連じゃ反主流派だけど、かれらの平和と民主主義ってスローガンはぼくも賛成だから、ひとまずかれらのデモに加わるよ。ただし、最後まで行動をともにしないかもしれない。途中で抜け出すかもしれない。これは見捨てておけないって状況に出会ったら、ジャーナリストの卵の面目にかけてすっとんでく。」
そういって小池君はひとまず息を継いだ。
「ゼンガクレン主流派は、いますぐ日本の権力打倒をめざすべきだって過激な突撃Zengakurenn1 をくりかえしている。ブルジョワの跳ねっかえりのおぼっちゃんたちだ。極左冒険主義だって批判されてるけど、変革にはいつも少数の前衛が必要だからね。ちょうど明治維新の高杉晋作(注5)みたいに突出した人間がね。」

ややあって小池君は僕をみながら言葉を継いだ。
「チョウさん・・・。しってるかな?・・・ぼくらのこの高校は戦時中、陸軍幼年学校だったてこと。」
小池君はまたひと呼吸いれ、黙って細長い校舎の屋根をみつめた。
「甘粕大尉や東條英機はぼくらの大先輩にあたるんだ。甘粕大尉、しってる?・・・大逆事件で捕まった幸徳秋水を拷問で殺した男。満州事変でしきりに陰謀を画策したといわれている。」
「そうかあ。幼年学校だったって話は聞いたけど、東條英機がね・・・。」
「この細長いウナギの寝どこみたいな校舎は陸軍の厩舎だったんだ。春には砂埃が舞い上がるこの校庭で、十五年くらい前までは突撃の訓練なんか繰りかえしてたんだなんて思うとへんだよな。いまは男と女の生徒が手をつないでフォークダンスおどってんだもんな。」
小池君は鉄の柵に胸を凭せ掛け、ふたたび細長い校舎の屋根と眼の下の広い校庭を眺め渡した。こんどは僕もそれにならって横に立った。屋上にはあいかわらず初夏の微風が吹きわたり、強い日差しが照りつけていた。校庭の奥では昼休みを惜しむように野球部、サッカー部、ラグビー部、アメフトなどの連中がランニングをしたりパスの練習をしていて、遠くまで掛け声が聞こえた。近くのテニスコートで撃ち合うボールの響きがこだましている。

  ***        ***    中略    ***       ***

その日、僕は小池君はじめ数人の級友と門を出、近くの集合場所でデモの参加者と落ち合い、リーダーの指示に従って、隊列を組んで行進を開始した。僕らのグループのリーダーは連日のデモで顔が農夫のように日に焼け、引き締まった全身の筋肉を躍動させてデモを導いていった。時折、顔の筋肉が浮いて見えるくらいに大きく口をあけ、シュプレヒコールを叫んだり、携帯マイクを口に当て、「わあれらのおーゆうじょうわあーげんばくあーるもたあたれずうー」と歌ったりした。
彼が張り上げる声に合わせ、僕も胸いっぱいに吸い込んだ息を吐き出しながら、その場で覚えた歌詞を叫ぶと、ふだん寂しさに紛れ忘れていた友情というものが湧きあがってくるのだった。そして、夏祭りの御輿を担ぐときのリズムで「アンポ・フンサイ」と掛け声をかけ、スクラムを組んで走ると、右隣の小池君や、左の見知らぬ青年との間にも連帯の感情で結ばれる気がした。行列に加わった人々には一様にある種の解放感があって、それがデモの雰囲気を夏祭りに似たものにしていたが、歩道の上を見え隠れしながら絶えず追尾してくる私服刑事の存在が行列の参加者に祭りとは違った緊張感を与えていた。

やがて国会議事堂が見える広場に出た。周辺には何十万という群衆の巨大な隊列Annpo5 が幾重にも重なって動いていた。人々はほとんどが白シャツ姿のため、その幾重にも重なる人の列は白い波のように見え、絶えず押し寄せてくる巨大な白い潮が議事堂前の広場で渦を巻き、波が引くように退いていった。

僕はその巨大な群衆の動きを眺めながら隊列の動くままに議事堂の脇を通り抜けていった。隊列は三宅坂に向かい、まだ広大な空き地だった国立劇場建設予定地に集合していたさらに巨大な群衆に合流したのだった。僕らはそこでなにかを待ったまま夕闇があたりを覆うまで過ごした。四日後の十九日午前零時には条約は自動承認されるのだ。

べつにこれといった集会が始まるわけでもなく、また誰かが演説したとしても会場は広すぎて話が届く状況にはなかった。こんなふうに日本の民衆が「人民」という意識を持って集まり、大きな潮を作って国会に押し寄せ取り巻いた。僕もその潮の中の一滴として政治行動に参加している。ただそれだけでも意味があるという自己満足に僕は浸っていた。十五や十七のものごごろついたばかりの少年が、よくもあんな行動に出たなという、いくぶん誇らしげな感慨を、半世紀が経とうとしているいまでも持つことがある。
群衆を眺めるにも飽き、当面なにをするあてもなく手持無沙汰な時間が過ぎていった。ふとケン坊はどうしてるだろうとの思いがよぎった。この会場にいるにちがいないのだが十万は居ると思われる大群衆の中で、一人の少年を見つけることは、ほとんど不可能だった。それでも時間潰しになるからと小池君も言い、ふたりして人ごみをかき分けながら、高校生の集団を目当てに探しはじめた。しばらく行ったところで向こうから一人の少年がやってきて僕らを見ると遠くからも笑顔とわかるくらい喜びを露わにして進んできた。「やっぱり、会えるとおもったよ。」ケン坊は子犬が飼い主に尻尾を振るみたいにして近づいてきた。
「これ、おとうとのケン坊。小池君だよ。」
ふたりはおたがい簡単に挨拶を交わした。ケン坊は、午後のホコリと夕方になってからの
雨で顔にいくつもの土色の斑点を浮かべていたが、表情にはなんとなく張りがあり、自分で決心してデモに加わったことに満足げな様子だった。
「ねえ。これだけおおぜいのアンポ反対のひとがいるのに、なにもしないで自然承認を待ってるだけなんて、なんかへんな気がする。もったいないよ。」
ケン坊は僕にでも小池君に向けてでもなく、なかば独り言のように言った。
「だろ。きみもそうおもうだろ。まったく、だよな。」
小池君は得たりとばかりケン坊に相槌を打ち、何もしないデモの指導者への、不満を露わにした。

    ***      ***   中略   ***    ***

僕は視線を巡らせ、国会議事堂の上空とおぼしきあたりを眺めた。すると、そこだけ空にかかった雲よりも遥かに低い位置に、濃いグレーの、靄とも雲ともいいがたい、大きな綿の固まりが浮いていて、その薄黒い下部が赤みを帯びた光に照り映えているのだった。薄暗い空に浮いた、青い痣にどす黒い血が滲んだような綿の固まりは、なにか不吉な事件がそこに凝結しているように見え、禍々しい予感に僕は襲われた。
僕がその不吉な雲へ視線を集中しているのに、小池君も気がついたらしく、同じようにそれを見つめていたが、ふいに僕に顔を向けると興奮した声で言った。
「チョウさん。あれはやっぱり下でなにかが起こってるんだ。こんなところでボンヤリしてるまに、高杉晋作たちが決起したらしい。行ってみよう。」
綿の固まりの底辺が赤く照り映えているのは、警官隊の焚く照明灯の明るみが、議事堂の上空へ霧のように昇った催涙ガスに反映したものか。しかしなぜ赤いのかとちらと不審が僕の頭をかすめた。
その時、インテリのサラリーマン風の若い男が、小池君の放った「ケッキ」という言葉に耳をとめ、重要な情報を僕らに伝えたいと思ったらしく、小池君に近寄り、耳打ちするように上体を傾け、低い声で言ったのだった。
「ゼンガクレン主流派の学生が国会構内に突入した。警官隊とぶつかって死者が三人出た。うち、ひとりは女子学生だそうだ。」
死者という言葉に僕らは緊張し顔を見合わせた。
一瞬の沈黙を破って小池君は言った。
「しまった。チョウさん。日本の歴史の大転換かもしれない。見逃せない。いちだいじだ。いこう。」
言い放つなり、小池君はもうどんどんと、なにかに憑かれたような勢いで、国会の方向へ進み始めた。僕はケン坊と一緒にあとを追った。
国会へ近づくと路上に焼け爛れたトラックの残骸が横たわっていた。綿の固まりの赤い色はトラックが燃え上がる炎の反映だったのだ。
議事堂周辺は、装甲車とヘルメットに楯で身を固めた警官隊員にがっちり守られていて、入り込む余地はなかった。路面は放水で濡れ、催涙ガスの臭いが漂って空気は緊迫していた。
国会の構内から警官隊に追われ、ずぶぬれになった学生たちが群れをなして有楽町の方へ移動していた。僕らはしばらくそこへ佇んで濡れ鼠になった学生たちの群れと警官隊の防壁とを見比べていた。とくに賢二は、黙って議事堂の四角錘の頭の方へ顔を向けたまま、なにごとか考えに気をとられている様子だった。
「どうした。なに考えてんだよ。」心配になって僕は声を掛けた。
「かりに、警官隊の包囲網を突破して、国会を占拠できたとして、そのあと、どうするんだろう?」
横で聞いていた小池君が言った。
「マスコミが同じような理由でキャンペーンを張ったじゃないか。暴力反対。議会制民主主義を守れって。」
「とつげーっき。」
とつぜん、賢二は叫び、右腕を高々と挙げ、刀を振り下ろすように前に突き出すと、その場で足踏みしながら、警官隊の壁に向かって突き進む格好をした。
「やめとけ、やめとけ。逮捕されるぞ。」
少年の急進性を理解はできるけどねというように笑いながら小池君が止めた。
賢二はきまりわるげに笑って力を抜くと、まわれ右をして警官隊に背を向け、学生たちの群れに加わって歩き始めた。僕と小池君も群れに加わった。眼鏡を壊され顔から血を流している者や、靴をなくし片足が素足の学生もいた。学生の群れは朝日新聞社の前の救護班で手当てを受け、それから有楽町のホームにあがって三々五々散っていった。 (つづく)
  この項、上の四枚のカラー写真はフランスのOrangeに公開されているイメージから借用したものです。

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三人の美智子-その2

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

Kannba3 樺美智子:1937年11月8日生まれ-1960年6月15日国会南通用門付近で死亡。父はカール・マンハイムの翻訳を行った社会学者の樺俊雄(中央大、東京外語大教授)。美智子は1957年東京大学文科二類(日本史学)入学。1958年12月10日東大駒場にブント(共産主義者同盟)が結成されると同時に参加、同大文学部学友会副委員長として安保闘争をリードした。

1960年6月15日、日米安全保障条約の強行採決に反対して国会南通用門付近に居た全学連主流派約8千人は、午後5時20分頃、右翼の児玉誉士夫が率いる維新行動隊(注1)が参院第二通用門付近に居た全学連反主流派、新劇人のデモ隊の主に女性の隊列に殴り込んだと聞き、5時50分、国会に突入を開始、一旦は警官隊に排除されるが、7時10分再度約4000人が突入した。この時の警官隊との衝突の中で樺美智子さんは死亡した。

樺美智子さんについて、これ以上詳しいことを知らない筆者は、ただ思春期に彼女の死が与えた衝撃が大きく、それを機に、社会意識に目覚め、歴史と哲学を真面目に学ぶようになったとだけ記しておく。

来年(2010年)は60年安保からちょうど50年目に当たる。歴史は移ろい、世界の政治は変わり、日本を取り巻く情勢も、日本の国内の政治・経済情勢も大きく変わった。当時15歳で高校へ入学したばかりの僕は、20歳を過ぎたばかりの女学生が日本の変革のため、理想と信念のためにうら若い命を捧げた事実に、灼熱した鋼鉄を見るような眩しさとある種の怖ろしさを伴った感動で打たれた。当時の若者がどのようなことを感じ考えて行動したか。わかりやすく読んで頂けるよう、小説仕立てとし、三人の高校生に登場してもらった。筆者はチョウさんと呼ばれる17歳、その弟の賢二(ケンボウ)、それとジャーナリスト志望で社会情勢に広い知識を持つ、チョウさんの同級生、小池君である。

以下は小説からの抜粋。最後に補足的情報を注として掲げた。

***        ***      ***     ***      ***

朝、校門をくぐると、体育館の脇で三十人ばかりの生徒が輪になって何事かに注意を集中していた。好奇心から、僕は近づいて肩越しに人垣の中を覗き込んだ。輪の中心に色の白い伊藤が立ち、まわりに何事か訴えかけていた。僕は伊藤を挟んで向こう側の輪の前列に小池君の姿を見た。そして小池君の三人置いて右に賢二が立っているのを見つけた。賢二はやや青ざめた顔で伊藤の話に耳を傾けていた。

「岸内閣は改定安保条約を強行採決し強引に衆議院を通過させました。参議員で審議されなくても、あと一か月、ほおっておけば、日米安保条約は、自動承認され、批准されてしまいます。日本は今後さらに、アメリカの軍事同盟国として従属することになるのです。ぼくたちは、岸首相をはじめとする権力者たちが民主主義をふみKishi2 にじることを断じて許してはならない。日本の民主主義の将来のためにも、いま、立ち上がらなければならないと思います。」

伊藤は輪郭のくっきりした口に笑みを浮かべて言うと、みんなを見まわした。
「日本に核兵器は無いことに表向きはなっているが、じっさいは米軍が日本にある基地にかならず核兵器を持ちこんでいるはずです。米中戦争というような事態になったばあい、日本が核攻撃の危険にさらされるのです。・・・」

伊藤の顔から微笑が消え、真顔になって正面を見つめたまま、しばらく沈黙した。
「非武装中立をうたっている日本国憲法はわれわれ国民の手で守らなければならない。戦後十五年たったいま、安保条約は国民の大衆的な運動で破棄に持ち込むべきであり、国民の総意の表現として国会周辺へ大規模なデモをかけ、日本の政治にぼくらの平和の願いを反映させよう。こんどの全国統一行動へむけて、みんなも立ち上がり、デモに参加してください。」

色白で美顔の伊藤は、生徒会執行委員で、話術に優れ、その訴えには説得力があった。賢二がいつのまにか横に来ていた。
「ぼくも、デモに行ったほうがいいんじゃないかな。」
賢二にはまだ、政治のことは難しすぎるだろうと思ったので僕は言い返した。
「ケン坊にはまだちょっと早いんじゃないか。デモに行くのは。」
僕にはその時、弟にそれ以上どう言うべきか準備ができていなかったので、授業が始まるのをさいわい、そのまま別れた。

           ***     途中略    ***

伊藤の話は僕に日本にはまだ米軍の基地があちこちにあるのだという現実を思い起こさせた。講和条約(注2)で独立を果たしたとはいえ軍事的にはアメリカに従属した立場にあるという日本が置かれた現状に否応なく眼を向けさせた。それは遡れば僕が話できいたことしかない、親から上の世代の日本人が、世界の大部分を敵に回してやった戦争という大規模な歴史的事件に繋がっていた。その戦争の話を聴いても、なにか遠い昔のおとぎ話を聴く時のような印象しか僕は持てないのだったが、実際は僕が歩き始めた頃は、まだ出征する兵士が大通りを行進していたのだし、弟が生まれた年には東京大空襲が始まって、戦争の真っ只中だったのだ。幼すぎて記憶に残っていないというにすぎない。わずかに記憶にあるのは、花園神社の隣にあった幼稚園の前の明治通りを米軍の戦車が何台も轟音をどどろかせて走りすぎてゆく場面くらいのものだ。
僕は潮時と考えて、小池君にアンポについてどうするつもりか訊いた。
「ところでけさの伊藤君の話、どうする?」
「全国統一行動ね。いくよ。ぼくは。」
小池君はいとも簡単にそう答えたのだが、その表情が急に引き締まったように見えた。
「国会は審議をつくす場なのに岸内閣は強行採決したろ。あれはゆるせない。六月二十二日の日米修好百周年を記念してアイゼンハワー大統領が日本へ来ることになってる。それに日程あわせしたアメリカへのおもねりだね。国民の理解を得ることなんかどうでもいいっていうような、なんか戦前の軍部の独裁政治をひきずったような、権威主義的やりかただろ。アンポそのものの詳しい内容はしらないよ。僕はソ連や中共の肩入れをするわけじゃないから、ひょっとしたらアンポは日本にとっていいことかもしれない。でも、やりかたがまずい。これじゃまるで国民大衆の反発をあおって、せっかくのアイク訪日もおじゃんにしてくれってなもんじゃない。もう、アイク訪日阻止の、スローガンもかかげられたし、アンポ反対のデモが毎日のように国会に押し寄せているじゃないか。
Annpo2 あと一か月で自然成立。いよいよ大詰めだね。社会党も労組も全学連もだまっちゃいない。こないだのゼネストの参加者は五百万人だ。こんどの統一行動には、日本全国、津づ浦うらからわんさと人があつまってくるよ。戦後類をみないデモになる。ぜったい見逃せない。日本の歴史が変わるかどうかって日になるね。
ぼくもジャーナリストのタマゴとして、野次馬根性を最大限発揮して、またとない歴史的事件をこの眼でしっかり見ておきたいからね。」

僕は小池君を尊敬していたし、なによりも友情をだいじにしたかったから小池君が行くなら僕もデモに行こうと思っていた。
「ぼくは、きみとの友情をだいじにしたいから、行動をともにするつもりだ。」
「ちょっとまてよ。理論も理由もなく友情から行動をともにする?それじゃ付和雷同じゃないか。なぜ反対か?まず、そこから、きちんとしとかなきゃ。」
「そりゃ、そうだけど、めんどうな話をとびこえて結論をいそいだのさ。」
「問答無用はむかしから日本の民主化をはばむ欠点さ。なにごとも、じゅうぶん、なっとくゆくまで話してから行動しましょ。それが民主主義だよ。チョウさん。」
小池君は僕の姓の長嶋の嶋の字を省いて僕のことをいつもチョウさんと呼んだ。
それから、この日、いまでも忘れない、小池君の長いレクチャーが始まった。

「安保の問題って、日本の敗戦と、平和憲法の制定と、戦後の二極体制と、切り離せないよね。憲法第九条が武力放棄をうたってるからアンポが必要だって関係になる。
逆説的だけど、いまの日本国憲法みたいに、高邁かつ空想的な平和憲法が、いままで守れたのは、ほんとうは日本に米軍が駐留してたからなんだ。
戦争で苦渋をなめさせられ、地獄を味わった日本の国民が、二度と戦争はしたくないって心底思い、戦争放棄の理想を歓迎したのは自然だよね。だれでも戦争をしないで済むなら、そのほうがいいもんね。ただ困るのは、正義や平等の理想をかかげて武力で他国を侵略する国が、現実には存在するし、日本がその対象にならない保証はない。その場合に、わが国は戦争は放棄してますって言ったってなんか意味がある?侵略してくる奴らは、なんにも抵抗がなけりゃ、はい、ありがとうって植民地にしちゃうよね。
Yoshida3 アメリカは朝鮮戦争が勃発するとすぐ、日本に再軍備を要請した。でも、日本は経済的自立を優先したんだ。吉田首相が、日本の基地を提供する条件で、アメリカに軍事的に日本を守ってもらう安全保障条約に調印した。一九五一年のことさ。サンフランシスコ単独講和条約と同じ日に、吉田首相はただ一人の責任で調印したんだ(注3)。
その前に日本はポツダム宣言を受諾して、連合国司令長官マッカーサーの指揮のもと、アメリカは占領政策を実施していった。いまの憲法もさいしょ大日本帝国憲法を改正したものを出したら、はねつけられて、GHQの草案を押しつけられたそうなんだ。」
「うっ、それ、ほんと?ぼくはてっきり、幣原内閣がつくったんだと思ってた。」
「教科書ではそういうことになってる。けど、じっさいはそうじゃないんだ。日本人が作った草案ははねられてしまうんだ。
第九条で日本は永久に戦争を放棄することを謳うよね。軍備をもたない。交戦権ももたない。つまり自衛のための戦争すらできないって宣言だよ。幣原首相はこれを見てびっくりした。けど、占領下でアメリカのいうことをすすんできいてしまうんだ。
いってみれば、アメリカに、コレされちゃったわけだよ。」
小池君は右手で手刀を作り、股の前で振り下ろして男根を切り取る仕草をした。
(つづく)

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2009年4月21日 (火)

三人の美智子-その1

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

日本女性の名前のうち美智子という名は1931-1947年、1952-1959年の間連続してベストテンに入っているという(フリー百科事典ウキペデアによる)。中でも1959(昭和34年)の今上天皇(皇太子明仁親王)と皇后陛下(正田美智子さま)とのご成婚の折は、ミッチー・ブームとして流行した。

6 1959年4月10日のご成婚パレードはテレビで放映され、家にもやっと入ったばかりの白黒テレビで観た。当時、僕は満14歳と6カ月で中学3年だった。西洋風の無蓋馬車に乗られたお二人が沿道の観衆に向かって手を振るお姿は少年の脳裏にくっきりと刻まれた。途中一人の青年が飛び出し、あやうく馬車に触れるところまで近づき取り押さえられた映像とともに。

東京大空襲で焼け出され、新たに別に貰った土地に、親父が隣に越してきた同郷の若い衆の手を借りて、焼けぼっくい、焼けトタンで建てた掘立小屋に、小学校から中学2年まで住んでいた僕は、自分たちとは違った世界、皇室を中心とする上流社会というものが日本にもあることを、皇太子ご成婚によってまざまざと知らされた。

「テニスコートの出会い」という言葉が流行語になったが、お二人が軽井沢会のトーナAlbert_monaco_tennis メントで出会われ、皇室の反対を押し切って明治以来初めての民間出身の女性を妃殿下として迎えられたということも少年の耳に新鮮に聞こえた。

正田美智子様は1957年、ミッションスクールの聖心女子大学外国文学部(英文学)を首席で卒業された。在学中はプレジデント(全学自治会の会長)として活動された。プレジデントとなった学生にはキリスト教の洗礼が推奨されるが美智子様は洗礼を受けなかった。

僕はものごころついてからというもの共和制に心惹かれていたので、皇室に係る様々な話題には無関心でいた。今上天皇皇后両陛下の間には徳仁親王、文仁親王がおられ、ともに旧皇族、旧華族以外から雅子様と紀子様を迎えられ、宮中という日本の中で最も古く閉ざされ、伝統と権威が支配する世界に新風が吹き込まれたのは良いことだと思う。

かつて、軍国主義を許し、開戦の詔勅を発し、天皇の名のもとに膨大な数の国民と周辺の民族に、おぞましい死と残虐な犠牲を強いた戦争の最高責任者として昭和天皇が責任をとらないのはおかしいと考えたが、歴史を読むにつれ、こうなったことがかえって良かったと思うようになった。

僕の住むサン・ファルジョーという小さな町には古い城があり、フランス大革命時の城主はルペルチエという20歳そこそこで裁判官になった天才的司法官だった。国民議会でルイ16世の処刑に投票し、たったの一票差で断頭台に送ることが議決された。ルイ16世の甥のフィリップ・ドルレアンとルペルチエが処刑に賛成票を投じたために一票差で過半数となり国王処刑が決まったのである。投票のその晩ルペルチエは王の護衛パリスによって暗殺されている。

王政の廃止と共和政は、国民自身が自らの責任と引き換えに決めたことである。

日本は大東和戦争、太平洋戦争と呼称はさまざまだが、戦争に負け、無条件降伏をした。それまでは天皇を現人神と担ぎあげていた。アメリカを主体とする連合国に占領され、その最高責任者が、マッカーサーだった。昭和天皇がマッカーサーの許に赴き、私の身はどうなってもよいから国民を頼む、と無私の御心を示されたことにマッカーサーは感動し、東京裁判でもオーストラリアはじめ天皇の責任を追及すべきだとの主張を抑えて、責任は問わないとしたのだった。

敵将によって敗戦国の最高責任者であるはずの天皇は日本国民の象徴とされ、皇室は温存された。敗戦日本を廃墟から立ち直らせ同盟国として取り込むことが極東の平和に必要という地政学的判断が働いたとともに、ふたりの元帥のあいだに流れた人間的な心の交流が無視できない。マッカーサーはフリーメイソンだったという説もある。朝鮮半島の危機が高まるにつれ日本の再軍備がアメリカによって要請されマッカーサーは更迭された。

憲法だとか国体だとかは国民自身が決める性質のものである。外国の力によって押しつけられた、などということ自体恥ずべきことだと認識しなければならない。たとえ現状と同じ結果が出たとしても僕は、立憲君主制か共和制か、自衛のための軍備は持つと憲法に明記して、あまりにも現状との乖離があきらかで矛盾をさらし続けることは、国民のモラルのためにも良くないので、いい加減止めるべきであり、近年中に日本国民は自分らの手で世界の現状と自国の将来を見極めた上で憲法を定め直し、体制を選ぶべきだと信じる。もし現状と同じ結果が出るのならば、それは喜ばしいことではないか。自国の憲法を定められない国は独立国とは言えない。

坂本竜馬にしろ北一輝にしろ、日本の革命に「天皇」を担ぎあげることが必須と考えた。フランスでさえたったの一票差で王制廃止、共和制が決められた。地球はひとつになっても、それぞれの地にはその土地に特有な伝統があり最適な統治の形態がある。ラストエンペラーで皆様ご存じの清国の皇帝溥儀に革命軍は、庶民の生活を知るよう質素な生活をさせ首を刎ねたりはしなかった。

Gracekellyandprincereignierswe ご成婚から話が大きく跳んでしまったが、ヨーロッパの王室では民間から妃を迎えることは昔から珍しいことではなかった。やはり僕が中学生の頃、グレース・ケリーがモナコのレニエ皇太子妃に迎えられた。結婚式の写真をみると皇太子は軍服姿。上の写真のテニスを楽しむのは二人の間にできた現アルベール公。

グレース・ケリーが女優時代にゲリークーパー主演の「真昼の決闘(High noon)」に退職したばかりの保安官の花嫁役として出演している。スタンレー・クレーマー監督のこの映画は赤狩りのマッカーシー旋風が吹き荒れる最中に作られ、映画作りの手法、特に音楽と時間の扱いが傑出しているので何度も見た。グレース・ケリー演ずる花嫁はクエーカー教徒。殺人や戦争を拒否する絶対平和主義が信条のプロテスタントの一派。ちなみに若くして死んだ永遠のスター、ジェームス・デイーンもクエーカー教徒だった。映画は、保安官が現役時代に逮捕し死刑の判決を受けたかつての町の顔役が恩赦で出所し保安官に復讐するため町へ戻ってくる。助っとに三人の悪党が駅に出迎えるところから始まる。

お前はもう引退したのだから早く逃げろという裁判官と町長の助言を聞いて一旦はGrace_kelly6 花嫁と街を馬車で去るのだが、義をみてせざるは勇なきなり、敵に背中を見せては男がすたる。今逃げてもどこまでも追いかけてくると引き返す。退役保安官は町の住民に加勢を訴えるが結局だれひとりとして加勢してくれず、一対四人で対決を強いられる。クエーカー教徒の花嫁は信条により新郎を見捨てて汽車に乗る。が、最初の銃声を聞くや、いたたまれず汽車を降り決闘の現場に駆け付ける。殺人は禁じられている筈の新婦も夫が絶体絶命に陥ったのを見て、ついに銃をとり一人を倒すのである。最後、親玉の顔役にグレースケリーは掴まり、あわやふたりの命は露と消えるかと息を呑む瞬間、花嫁は悪党の顔を引っ掻いてもがき、身を振りほどく。すかさず保安官の拳銃が火を吹き悪漢全員を倒すのだ。

悪党が居た時の方が街が栄えて良かったとか、町の利益と利己主義から自分を見捨てた住民が悪漢の全員が倒れたのを見て走り出てくるが、保安官は黙ってバッジを地面に捨て、花嫁と馬車に乗って町を出てゆく。

Grace_kelly4なぜ、この映画を持ち出したかというと、非暴力、紛争の解決に武力を用いないことを宗教的信条とするクエーカー教徒の花嫁が、土壇場で銃を取り、悪漢を殺すからである。これについては次回の「三人の美智子」でもう一度触れたい。すでにお察しの方もおられるかもしれないが、二人目の美智子は60年、安保条約改定に反対し国会に南通用門から突入して死んだ樺美智子さんについて。

旧東欧は別とするとヨーロッパには立憲君主制の国の方が共和制より多い。なかでも国家元首としていまなお君臨の座を示してはばからないのは英国のエリザベス二世女王。先日のG20でも各国首脳を迎え、ご高齢にも拘わらず、しっかりと存在感を示した。Elisabeth_ii2jpg

美智子妃殿下は日本のファーストレデイーとして、伝統と格式を守らねばならない中で、阪神大震災の折には現地へ出向いて被災者を抱き締め、自ら布団を敷かれるなど、ご慈愛を示され、周囲の陰湿なイジメにも耐えぬかれ、ご自身の信じるところを貫かれておられるのは崇敬に値する。願わくば、アメリカのオバマ大統領夫人のように、物おじせず、エリザベス女王の肩にも、気軽に手を掛けたりして、リラックスしたお姿を時々は示してほしい。

Elisabeth_iimariage 幕末にフランスは幕府を支持し、英国は薩長を支持して倒幕の後押しをし、以来日英同盟を解消するまで英国と深い関係を結んできた。明仁親王・美智子妃殿下のご成婚のパレードも英国女王のご成婚パレードと馬車も同じかと見まがうほど似ている。

パレードは洋式でも、日本の御婚礼の式典の装束は、古式ゆか5しく、日本の王朝文化の連綿たる継承を示すものでした。

明仁皇太子殿下の束帯は大宝元年(701年)制定の「皇太子礼服」に基く「黄丹の 御袍」で昇りゆく朝日の色。美智子皇太子妃殿下は、紫色亀甲を地紋とし、白いクチナシの花をあしらった唐衣。紅色で入子菱を地文とし白の八葉菊を上文とした表着。それに萌黄の重ねという十二単でした。

(三人の美智子、つづく)

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2009年4月12日 (日)

二人の太郎

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

太郎という名はとても日本的だ。現職の日本国首相の名前も太郎だが、ここで触れるのは違う二人の太郎。ともに思春期の僕にある深い感銘を与え、その後の生き方に係わりを生んでいる。

ひとりは、山本太郎。なんだか日本の男を代表するような姓名で、おとぎ話めいて可笑しくさえある。最近活躍中の若いタレントさんに同姓同名が居るのを知ったが、もちろん関係ない。

僕の山本太郎は詩人である。画家の山本鼎を父に、北原白秋の妹を母に1925年に生まれた。注記すべきこと。この詩人は、第二次大戦末期、二十歳になるかならぬやで、魚雷艇特攻隊員として死に直面している。彼の詩は飾りが無く、素朴直截で生の根源的なことを簡潔に唄いあげているので、好きだった。

思春期の目覚めたばかりの自意識が不安で一杯だった頃、少年は「何故こんな時に、こんなところに、こんなふうに、生まれたんだ」と思い悩んでいた。そこへ飛び込んできたのが、山本太郎の詩の次の一行だった。

     I was born さ! 生まれさせられたんだな。

なにも好き好んで、こんなふうに生まれたんじゃない。受験競争に勝ち抜かねばならず、平和憲法がありながら自衛隊を持ち、日米安保条約で核兵器が持ち込まれ、いざという時には核攻撃で東京上空で核爆弾が炸裂しないともかぎらない。この上なく可愛いと感じる意中の娘には、鏡を見て自分の顔が、団子鼻、乱杭歯、八の字眉と、およそ美とは正反対の要素ばかりが並んでるのを自覚すると、容易に近づけず、「なんだって、こんな風に生まれたんだ!!!」と親へ怨念を向けかけていた時期、「生まれさせられた」と何者かの意思を感じさせ受動態を強調することで、「このようにある」しか仕方がない、宿命を背負って生きるしかないのだと軽快にクールに囁いてくれ、もやもやが少しは晴れ、なにかさっぱりした気持になったものだった。

後年、サルトルの師であるハイデッガーを齧り読みしたときに、この哲学者が、人間はみな人生のある時期に、このような「問い」に捉われる瞬間があり、その時こそが、本来的自己を取り戻す絶好の機会なのだ、と言っているのを知った。

過去のあの時でなく今。未来のある時でなく今。なぜ、この今生まれて在るのか。誰も答えられないが厳としてある問い。人間はそうした現存在(Da-sein)であり、このような存在( So-sein)として被投された。いつかは死すべき運命を持って生まれた人間は与えられた制約条件を宿命として引き受け、限られた条件のなかから最適な道に向け、いつか必ず訪れる死の瞬間まで未来に向かって投企してゆくべきであり、限られた時間のなかで本来的な生き方を見つけて生きるべきだ。

拾い読みだから雑な理解で、専門家から叱られるかもしれないが、ざっとこんな理解をした。このような「問い」、なぜこのように生まれ、このような者として在る私-moiとはなにか、そして限られた条件から選ばねばならない、選択、それに伴う不安といった命題は、パスカル、キエルケゴールに始まり、第一次大戦の惨禍を体験した後とりわけ、ヨーロッパ文明に危機意識が生まれ、17世紀デカルトが生んだ近代合理主義の見直しとして実存主義と呼ばれる思想潮流が生まれた。

もうひとりの太郎は、いわずとしれた岡本太郎である。
1970年の大阪万博に太陽の塔を設計し現在も残っている。その写真がフランスのTaro6 ネット(Orange )の公開imagesリストにみつかったので、まずそれを転載します。

なぜ岡本太郎かというと、高2の時偶然手にした新書版の本が衝撃的だったからである。子供にもわかる芸術論をと光文社の神吉一郎社長の依頼で画家が書いた一連の本の一冊で、芸術とは呪術である、とか沖縄発見とか縄文土器に日本人の原初的創造性を見るなど太郎の民俗学的な視点が盛り込まれていた。

一見「醜」と見えるものにこそ美が隠されているのであって醜の中に美を探らねばならないという主張も当時の僕には衝撃的だったが、いっそう腹の底にズシンときたのは、前述の受身形の哲学的苦悩を覆す野獣的ともいえる原初的な生命肯定の生き方だった。

人間は断じて「生まれさせられた」のではない。各人まぎれもない「自分の意志で生まれてきたのだ」という宣言だった。この世に生まれたくて自分の意志で出てきたんだから、一生、力いっぱい、生き続け、生きるについての欲望を主張し続けるべきだ、というのである。

Taro2 自己省察を知り、限られた選択肢から選ばなくてはと解ってはいても、何が僕の本来的な生き方かが判らずに悩み続けていた少年に、「なにをフニャけたことを。インテリゲンチャのゲチャゲチャもいいかげんにしろ!」とビンタを食らわせられた気がした。

岡本太郎は画家としてはシュール・レアリスムから出発した。パリ滞在中に描いた「痛ましき腕」はアンドレ・ブルトンの激賞を得た。この絵は空襲で焼失してしまい、後に再制作された。写真で見たことがあるが悲痛な緊張感が漲るいい絵だ。

太郎の父親の岡本一平は夏目漱石の薦めで朝日新聞社に入社し、時事風刺の漫画を描いた。宰相の名は知らなくても一平の名は知ってると言われたほど人気があった。宵越しの金は持たない、江戸っ子気質の見本みたいな男で、報酬はみな友達と飲むのに使い家計はいつもすっからかんだったという。

いっぽうの母親「かの子」はお嬢さん育ちの作家で、子育て家事は一切できず、幼い太郎がかまってもらいたくて執筆中の母親に近づくと、うるさがって兵児帯で箪笥に太郎を括りつけたという。

慶応の幼稚舎から高校に進んだが勉強は苦手で52人中52番、最下位だったというから、学校の成績など当てにならないもんだね、と高校の「三ケツ」-豪傑のケツでなくビリッケツのケツの三人が集まるごとに太郎を引き合いに出して慰める。

親子三人で長期外遊を企て、船でヨーロッパへ渡り、太郎はそのままパリに残る。1930年のことである。フランス語を習得し、ソルボンヌにも学び、マルセル・モースのもとで哲学、社会学、精神病理学、民族学を学んだというから、後年の著作に現れた主張はこの頃培われたといえる。

岡本太郎は、1940年、ドイツ軍のパリ侵攻に伴い日本へ帰国するまで10年間をパリで暮らした。32歳で兵役で中国戦線へ送られ1年間の捕虜生活を経験する。

戦後の岡本太郎の活躍ぶりは日本の読者の方が良くご存じだからここには書かない。ひとつだけ、僕のパリ滞在中に岡本太郎のフランスのラジオ番組の録音に立ち会った時のエピソードを記す。

Taro3 1976年だったと思うが、パリの某ホテルに壁画を依頼され来仏した画家が、養女となった平野敏子さんに連れ添われ、パリの道を気取りも気負いも感じさせず静かに散歩する姿を見かけた。

その頃、僕はラジオフランス(国営放送局)の斜め前の屋根裏部屋に住んでいたので岡本太郎を囲むデベートの録音があるのを知って聴きに行った。前衛絵画と古典絵画について、ちょっとした論争になり、フランス人の老紳士が、どんなに前衛的な絵でも良い絵には必ずエキリーブル(均衡)がある、と主張したに対して、太郎は両腕を高くあげ、片脚を椅子に座ったまま挙げ軽業のような格好をしてみせ、こんな恰好でもエキリーブルですかね?と皮肉ってみせた。

そして突然「ちょっと待って・・・」と司会者に注文をつけた。一瞬、緊張が走り、なんだろうと皆が注目する中、「オシッコ」と老画家は子供のように言うなり、席を立ってしまった。出演者は唖然としていたが、束の間の中断の後、無事録音は続けられた。

かの子の小説は読んでいないが、偶然仏教についての本を手に入れたので読んだTaro7 ことがある。日蓮宗だったのか法華経を通じての仏教の解説をしていたが、そこでかの子は久遠仏と称される宇宙の永遠の生命というのが仏教の究極の教えで、仏道を修業することにより前世の業により与えられた宿命を脱し、無常というすべての生命が持つ輪廻転生の業を断ち切り、久遠仏と一体になって永遠の生命を得る(いわゆる成仏する)のだと説いていたのを覚えている。画家の太郎の生命観も母親ゆずりだったかと思う。

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2009年4月 3日 (金)

夢その3:地震

投稿者: 叢林亭:http://www.sorintei.com

引っかけた獲物に触れるのは気味が悪かったが、運の悪さを呪いながらも最後までやろうと僕は心に決めた。引き寄せておいて一気に水から引き抜いた。怪獣は床の上でバタバタと強烈に暴れ、釣り糸が絡まないよう竿を操らねばならなかった。

抵抗が治まって怪獣が力尽きたのを見計らい、僕は靴の底で棘だらけの体を押さえつけ、恐る恐る腹に刺さったハリを外した。こんな珍しい生物は標本としてどこかの水族館に持って行くべきかとも考えたが、なに、このデパートの地下の釣り堀そのものが水族館なのだと気がついた。

Kがどこからか手に入れてきたボロ布を渡してくれ、僕は棘だらけの怪獣の体をそれで包んでから、水に放り入れた。気味の悪い怪獣を釣り上げたことで、釣りの情熱はいちどに消え失せてしまった。それでも僕は名残惜しげに水の中を覗きこんだ。すると淀んだ池の底には泥に隠れてナマズが潜んでいるのが見え、石の間には、黄色い肌に黒い斑点の浮いたイモリが、じっと息を潜めて何かを待つ様子が見えるのだった。

そろそろ帰ろうかと言うと、Kは頷き、歩き出した僕についてきた。そこはデパートの地下の食品売り場で、両側のウインドーに色とりどりの食料品が並んでいた。通路はだんだんに狭くなり、木箱やダンボール箱が積み上げられ、白服をはおった店員達が忙しげに働いていた。そのうちの一人の女店員が「あっちへ回った方がいいですよ」と教えてくれた。僕らは教えられた方向へ歩いていった。すると、そこは、婦人物の帽子やバッグや化粧品や宝石類が飾り立てられたデパートの一階の売り場なのだった。

僕らはじきに表に出た。すると、さっきまで確かにKだった僕の連れはTなのだった。僕らはデパートの外に並んで立って、眼の前の教会を眺めた。教会の脇には四角い石造りの時計塔が空に向かってくっきりと聳え立っていた。

そのとき、なにか地鳴りのようなゴーという響きが聞こえ、地面も建物もこまかに震動し始めた。僕はどこか近くで工事でもしているのだろうと思ったが、その震動は次第に激しく、地鳴りの音も不気味にすさまじさを増してくるのだった。

僕は傍らの黄色い石の柱に顔をよせてみた。耳を当てて、音を聴こうと支えの手を伸ばしたのだが、まるでその手が、柱が帯びた電磁波に弾き返されるように、ビリビリと激しい震動を感じ取り、近づけることができないのだった。

僕は異常な気配に恐ろしくなって、その場を、おずおずと立ち去りかけた。すると、眼の前の教会の脇に聳え立つ時計塔が、グラグラと揺れはじめ、その中央部が、飴が曲がる時のようにふくらみ、皺ができるのが見えた。

Tはすでに駈け出していたが、僕も、あぶないぞーと叫びながら、駈け出した。息が続く限り走ったあと、振り向くと、ちょうど時計塔の中央から上の部分が、大きくかしいで、崩れ落ちてゆくところだった。僕は恐怖に揺り動かされながら、なおも危険な建物の間を一目散に駈け続けるのだった。 (夢:おわり)

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