三人の美智子-その4
投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com
濡れ鼠の学生たちに混じって僕らも駅のホームに上がった。
「つかれた、ここでひと休みしようか。」
傷ついた学生たちで混み合うホームの中ほどに奇跡のように誰もいないベンチを見つけ、小池君は真っ先に腰をおろした。
「ちょっとばかり遅かった。残骸だもんな、見られたのは。」
さきほどまでの興奮はどこへいったという顔で小池君は力なくつぶやいた。眼をあちこちの学生に向け誰かを探しているふうでもあった。
「やっぱり権力のカベはあつい。・・・警察のうしろには自衛隊もいることだし。」
苦笑を交えて小池君はこれもつぶやくように言った。
「あのさ。ゼンガクレンの主流、半主流って、どうちがうの?」
ちょっとの間流れた沈黙を破ってケン坊が小池君の横顔を見ながら訊いた。
休みかけていた小池君はケン坊に重い質問をぶつけられ息詰ったように顔を上げ一瞬言葉を探してから言った。
「ひとくちで言えば・・・現状分析のちがいだな。」
「ゲンジョウブンセキ?」
電車がホームに入り学生たちは吸い込まれてゆき、ホームの人混みに隙間ができた。「終電に乗ればいいよね。」電車を見送りながら小池君は話を続けた。
「いまの社会が資本主義社会だってことは知ってるね?」ケン坊に家庭教師みたいな口調で話すのがおかしかった。
「日本の資本主義が成熟しきっていずアメリカに従属するものだって分析するのが反主流派。だからまずアメ帝を追い出して民族独立を勝ち取るのが社会主義革命への第一段階だって位置づけるのさ。日本人の民族主義感情に訴え、広範な大衆の支持を求めてゆこうとする平和革命路線だよ。」
ケン坊は汗に埃がこびりつき薄汚れてはいるが精悍な顔をし、聞き耳をたてて小池君の話を聴いていた。
「これに対して主流派のゼンエイ的学生、インテリはも少し国際派で、日本の独占資本主義、ブルジョワジーは立派に独立しているし、アメリカと協調しながらも利害が対立するときは利益を引き出しながら資本と権力の拡大を図っていると分析するんだ。
こっちの分析の方がぼくは正しいとおもうよ。だって太平洋戦争は中国の利権をめぐって日本とアメリカが対立したことが原因なんだからね。」
「ふうん。ぜんぶはよくわかんないけど、今日の集まっただけで何もしなかったのが反主流派で、国会に突入したのが主流派だってことはわかった。」ケン坊が小池君を尊敬するような眼差しで見ながら言った。
「でも、くわしいんですね。小池さんって・・・。」
「ちょっとはね。ジャーナリストになるために勉強したさ。それに・・・、ぼくの兄が主流派で、きょうも来てんじゃないかな・・・。」小池君があちこち眼を配ってる理由が呑み込めた。兄さんを探しているのだ。
「どっちもマルクスなんでしょう?その思想って真理なの?」
ケン坊がまた素朴な質問を発した。
「ニュートンの万有引力の法則みたいな意味での真理とはいえないな。イデオロギーだからね。」
僕が普段から気にかけていたことに触れたので口をはさんだ。
「資本主義から社会主義への発展は歴史的必然だっていうマルクスとレーニンの歴
史観ね。レーニンは資本主義が発展すると帝国主義になり、とくに銀行資本が支配する金融資本主義社会になる。そして金融資本主義社会はそれが抱える内部矛盾によって崩壊するっていうでしょう。ぼくが疑問に思うのは、もしそれが客観的、歴史的必然なら、人間が何もしなくても、自然そういう社会に移行するってことじゃないのか。行動しなければならない理由はどこにあるんだろうって?」
「主体性の問題だな。ぼくは歴史は人間が作るもんだと思うよ。客観的認識と主体性の問題は、ぼくも深く掘り下げて考えてはいないけど・・・。」
終電のひとつ前の電車で僕らは小池君と別れ家に帰った。
翌朝の新聞に樺美智子さんの死が大きく報道された。デモ側の親しい人たちは「警棒で腹を突かれ内臓出血で死亡」を主張していた。むろん警察側は、彼女が押し合いの中に倒れてデモ隊に踏まれて死亡したと発表した。
最後のデモに参加したのは確か日曜だった。衆院通過から一カ月期限の最後の日だった。その日もデモは三宅坂の国立劇場建設予定地の集会に合流した。集会に集まった群衆はなすすべもなく、午前零時を迎え、岸首相の思惑通り改定安保は批准された。
けれども樺美智子さんの死は国民大衆の広範な怒りを呼び、史上空前の大衆行動は、あわや革命寸前のところまでゆき政府を震撼させたのだ。政府首脳は自衛隊
の出動を要請した。けれども防衛庁長官赤城宗徳は拒否した。日米修好百周年を記念して来日する予定だったアメリカのアイゼンハワー大統領も訪日を取り止めた。岸首相は五百万人を超える参加者を見たゼネストなど社会不安を引き起こした責任をとって退陣した。岸首相が退陣したために国民の抗議行動の攻撃の対象がなくなり運動は急速に消滅していった。安保は批准されてしまったので、デモに参加した級友たちは、あんなに騒いでも結局は無駄だったという虚脱感と敗北感に陥ったまま夏休みを迎えた。小池君は「なるようにしかならない。」とうそぶいていた。
ソ連ではフルシチョフがスターリン批判の演説をし、恐怖政治と強制収容所の残虐性が暴露された。その後、中国では老いた毛沢東とその妻江青ら四人組との内輪もめが
原因で文化大革命が起こり、数千万という目も眩むような犠牲者を出したことが少しずつ知られるようになった。政治というものが時に残虐な爪を剥くということ。建て前がどんなに立派で、人類の永久の平和と平等と理想を掲げながら、建前とは裏腹に、しかもその理想の名において人間が悪魔より恐ろしい残虐なことをやってのけるということも歳をとるにつれ僕は知るようになった。デモに参加した頃の僕たちの年齢では、複雑な国際政治のありようや、経済の仕組みは理解できなかった。単純に少年らしい正義感、素朴な民族感情と父親への理由のない反抗心とで国会デモへ参加したのだった。 (小説はこれで終ります。)
上の写真4枚はフランスのprovider: Orange の公開イメージから拝借したものです。
(注1) Wikipedia の岸信介によると 「警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断した岸首相は、児玉誉士夫を頼り、自民党の橋本登美三郎を使者に立て、暗黒街の親分衆の会合に派遣。錦政会会長稲川角二、住吉会会長蹟上義光やテキヤ大連合のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに三つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。・・・最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。かれらは政府提供のヘリコプター、セスナ機、トラック、車両、食糧、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円の活動資金が支給されていた。(ファーイースタン・エコノミック・レビュー)
トラックは約100メートル突っ走り、デモ隊にとめられ転覆させられた。大型トラックの後を追うように、小型宣伝カーが走った。これはジグザグに走り、ハンドルを切りそこねて、参議院常任委員会庁舎の歩道の並木にぶつかり、ひっくりかえった。
これに続いて、維新行動隊の10人ほどがプラカードの柄(板を外し釘が出たままの)をふるってデモ隊に襲いかかった。この時の彼らは主に婦人をねらってなぐった。「殺してやる」「たたき殺せ」と口々にさけんでいた。
新劇人会議の女優さんたちが、血まみれになって逃げ惑った。・・・右往左往し、足をとられてころび、後頭部をはげしくたたかれた。頭からも胸からも血が滴り落ちて、白いブラウスを赤くそめた。(自由のための「不定期便」昭和の抵抗権行使運動(47):ドキュメント 6・15国会流血)に詳しくこの時の状況が報告されている。http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-1152.html
(注2)五十嵐武士著:「戦後日米関係の形成」(講談社学術文庫)からの引用を許して頂ければ、
「日本国内には保守と革新との補完的な側面であり、そのまず初めに単独講和論が国際情勢に対応して日本の独立を回復するために選択された現実の政策であったのに対して、全面講和論は日本国憲法の理念に即して、日本を国際的に平和国家として自立させようとする国家的存立の主張だったことがあげられる。つまり、対日講和の締結をめぐる論議は単に政策的な次元にとどまるものでなく、外交政策の主体たるべき国家としての日本の精神的な基盤にかかわる深みにまでわたっていた。その意味で、日本の国際社会への出発に際して、政策と理念との機能的な分担を単独講和論と全面講和論が担っていたとみることもできる。」
(注3)と(注4)吉田茂 :1878(明治11年)神田駿河台に生まれる。坂本竜馬、ジョン万次郎、板垣退助などを生んだ高知県出身の自由民権運動の闘士、竹内綱の五男。
尊皇家であり、敗戦後、昭和天皇が戦争責任をとって退位を申し出た時も、吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという。
やはり上に引用させていただいた五十嵐武士著:「戦後日米関係の形成」によれば1951年、平和、安全保障条約の調印を終えて帰国した後、吉田首相は家人に「あれで良かったな」としきりに念を押したという。
「吉田は他にやりようがあったのではないかという疑念を払拭できなかったのにちがいない。」
この本は著者が独自にアメリカ国立公文書館で発見した歴史的資料と日米双方の外交文書や文献をもとに幅広い視野で書かれている。冷戦終焉後の新たな日米関係と今後の日本の国際社会における日本のあり方を問う上で大変ためになる本なので是非一読をお薦めします。
(注5) 高杉晋作: いわゆる功山寺の挙兵。1864年の禁門の変の後、幕府による第一次長州征伐で俗論派が台頭し正義派家老を倒すなどして保守化してゆく中、晋作は奇兵隊を創設し、伊藤俊輔率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊に呼びかけ、わずか80人で挙兵。その後の長州藩を倒幕の中心へ導いた。
なお、岸信介、佐藤栄作兄弟も山口県(かつての長州藩)の出身。さらに帝国陸軍の元老、山県有朋は奇兵隊の一兵卒であった。
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なぜ、この映画を持ち出したかというと、非暴力、紛争の解決に武力を用いないことを宗教的信条とするクエーカー教徒の花嫁が、土壇場で銃を取り、悪漢を殺すからである。これについては次回の「三人の美智子」でもう一度触れたい。すでにお察しの方もおられるかもしれないが、二人目の美智子は60年、安保条約改定に反対し国会に南通用門から突入して死んだ樺美智子さんについて。








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