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2009年5月15日 (金)

カタリ派について-その2

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

モンセギュールはフランスとスペインを分かつピレネー山脈のフランス側にある。トウールーズからカルカソンヌ、つまり地中海側へ約20km、さらにスペインの方向に約60km行くと山に囲まれたフォワ(Foix)という町に出る。アンドラが近くにある。

Pog1 モンセギュールはフォワからさらに約20km東に向かって山道を登ったところにある。麓までは車で行ける。山々に挟まれて忽然と紡錘形の岩山が現れる。山の上にボコンと釣鐘を載せた感じ。ポグと呼ばれているこの岩山は標高1207mで、頂上に城砦がある。普通の攻め方ならまず落ちようがない難攻不落の城砦だろう。

砦はカタリ派の信者が逃げ込む前からあった。フォワの公爵、レイモン・ロジェと妹のエスクラルモンドはカタリに入信し、完徳者として按手を授けることができた。カタリはフォワ公爵の保護を得てこの砦に逃げ込んだようである。

非常に興味深いのは、この砦の設計。モンセギュールは太陽の神殿という説もあるくらい、砦の城壁の角度と塔の窓と狭間胸壁の開いている角度と太陽との関係が、ある意図を持って緻密に計算された設計図に基づいて造られていることだ。Segurplan 天文台だったという説もある。

つまり冬至の太陽が昇る地点を向いて四つの窓や壁に隙が開けられており、それらの隙と太陽を結ぶと四本の完全な平行線が引け、その線によって砦全体の向きが決められている。

城壁のある角とある角を結ぶ線は春分と秋分点で、その時期の日の出の地点を向いている。さらに、城の門や角を結ぶ線は、それぞれ、この線は1月21日の水瓶座、これは11月22日の射手座、これは2月19日の魚座、これは10月23日のさそり座、ここは牡牛座、ここは乙女座・・・とすべて黄道十二宮と対応するように造ってある。

確かにマニ教では太陽は主要なシンボルだったが、カタリ派は太陽信仰は持たなかったといわれている。

こうした建物を建てた当時の石工とフリーメーソンの関係を言うひともいるし、太陽光と完全と調和のシンボルのミトラやピタゴラス学派、死海の近くのエッセネ派、ウエールズ地方のドルイド教やゾロアスター教とカタリの関係など、いろんな宗派の共通点を取り上げる人もいる。カタリの自己放棄が仏教徒のそれに似ていることもそのひとつ。

しかし、ちゃんとした学者が言っていることだが、カタリは新約聖書を重んじた福音主義者たちで、とりわけヨハネによる福音書を重視した教義を持ち、どこまでもキリスト教徒だった。カタリを特徴づける二元論はマニ教とは関係がない。カタリのどんな聖典にもマネスの名前はでてこない。カタリの起源をたどるなら、むしろ9世紀のブルガリアのボゴミル、神の友集団にあるという。

ここで、ひと休み。「ダ Mtsegu ・ヴィンチ・コード」を読んだ読者なら、パリのサン・シュルピス教会に、壁の穴から射し込む太陽光線が春分点なり秋分点なりのある厳密な一瞬に照らす地点に宝物=秘密を解くカギが隠してあると、アルビノ症の狂信者が推理する場面を思い起こされるだろう。

奇しくも今日、全世界同時に、ダン・ブラウン原作の「天使と悪魔」が封切りされるというから、以下に続く聖書の文言解釈に係るやや面倒な話も、西洋人というかキリスト教文化圏の人々が、「善と悪」、「天使と悪魔」を宇宙の起源と結びつけて、どんなに真剣に考えているか推し量って読んで頂きたい。

その前に、上のイラストは拙作のエッチングです。10年ほど前モンセギュールに登った時の印象をもとに作りました。版画に興味をお持ちの方は、このたび「ギャルリーそうりん亭」を立ち上げましたので、どうぞこちらを覧くださいませ。

カタリは結局、カトリックの十字架崇拝と、聖体のパンも水も物質であり、それによる秘蹟(洗礼)を拒否して按手を唯一の秘蹟とし、それが異端の理由のひとつになった。中世の人たちは手、とくに右手に特別な意味を与えていた。手には聖なる力の伝達力があると信じていた。最終的に手は神の手にまで通じているとされていた。

カタリが按手を唯一の秘蹟としたことには、聖体のパンも水も物質であるということと、福音書の「聖霊によるバプテスマ」という言葉に由来している。

「初めに言葉があった。言葉は神と共にあり言葉は神であった」という聖書の、エスプリとしての言葉、精神を肉体と魂よりいちだん高いものとみなした点は、カタリ派はどんな宗派よりも、もっとも純粋なキリスト教徒だった。

カタリがよりどころとしたのはヨハネによる福音書の天地創造に関する句で、そこが異端の異端たる由縁なのだが、そもそもがラテン語の解釈の違いによるものだった。

「すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」という句がヨハネによる福音書の第一節にある。

「主によってつくられないものは何もなかった。」
この「なにもない」という言葉が問題なのだ。
ラテン語では nihil なのだが、カタリの聖典として残っているリヨン聖書では、
「すべてのものはこれによってできた。そしてそれが無いところに虚無が生じた。」となっている。

さらに、そのあとに続く、「光は闇の中に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった」という句もカタリの解釈では「光は闇を輝かせるが、闇は光をすこしも含んでいない。」つまり、闇は神が創られた世界とはぜんぜん別の世界だ、虚無は神の作用の及ばない世界だとする。

ここには、善なる神と悪魔が光と闇を別々に創った、つまり悪の起源をめぐって、宇Ange_et_demon4 宙の創造者がふたつだとするマニ教的な絶対二元論と、全能なる神が創った善良なる天使が堕落して魔王になったという相対二元論との別れ目がある。

カタリの善悪絶対二元論は、異端審問官たちのデッチあげだ。弾圧を正当化し、火あぶりに理由をつけるために、彼らにマニ教徒のレッタルを貼ったんだという説もある。

残念なことにカタリの教理を内部から知る資料がほとんど残っていない。異端審問をした弾圧側の資料によって推測するしかない。審問をしたベネデイクト派の僧侶の残した資料には、アウグスチヌスの教理と比較して、カタリをはっきりとマニ教徒だと断罪している。アウグスチヌスは若いころマニ教の罠にはまって教徒になったことがあった。

北イタリアの僧侶、ドンデンヌ神父が最近、ふたつの原理の書という本を発見して発表したが、これはわずかに残されたカタリの聖典のひとつ。それを見るとまちがいなく二元論だという。マニ教の教祖、マネスもふたつの原理論を書いた。こちらは消失していまはない。

Chute_de_lange2 たいていの宗教は善なる神の対立物として超自然的な悪魔を想定している。ローマ・カトリックは悪の起源を独立した原理とは見ずに、邪悪で常に反抗的な被造物、リュシフェールに想定している。

リュシフェールは初めは善良だった。それが堕落して悪を代表する堕天使となった。悪の起源はリュシフェールの自由意思にあると見る。アウグスチヌスも自由意思という本を残している。

神がすべてを創り、堕落する前には優れた被造物だったリュシフェールはどうして神にたてつくことができたか?カタリは自由意思が悪を選ぶためには、最初から悪が存在していなければならないと説く。

善なる神がすべてを創りたもうたならば、なぜ悪があり得るのか?
悪の起源に関してカタリがラデイカルに突き付けたこの問題は、善と悪とのみさかいがつかなくなった現代に、より根源的な問題として生きている。

カタリが悪の原理と呼んだものを正確に知ることは難しい。ある学者は彼らは悪を本当の神と同等の力を持つ存在とは考えていなかった。本当の力とさえも考えなかったと言う。マニ教徒たちも、本当の唯一の神しか信じないと繰り返し、悪の原理は無意識的で、しばしば物質と同一視され、病気が病人の健康状態のひとつの形態にすぎないように、悪は神のある状態以上のものではないと考えていたという。

マニ教的な、光と影、真実と虚偽、光の天使と闇の天使という二元論的な考えは、陰と陽、「太極別れて両義あり」という易教の言葉に見られる中国の老壮思想にもあって、グノーシス派やカタリだけに特有のものではないと思う。それがローマ・カトリックに滅ぼしつくさねばならない敵として扱われたことが恐ろしいと思う。

モンセギュールの悲劇はヒトラーやスターリンや中共の全体主義が似たようなことをもっと大規模にやったように、思想の自由の観点からいえば現代も繰り返されうる性質のものだと思う。

最後に、いつも弊ブログにコメントをくださるkozou 氏のブログから、小林誠教授の「消えた反物質」、益川敏英教授の「いま、もう一つの素粒子論入門」という二著で、宇宙の生成が物質と反物質、粒子と反粒子とのぶつかり合いの後、たった何億分の一の差で粒子が残ったために出来たという驚くべき最先端の素粒子論を知ることができた。この場を借りてお礼申し上げます。

科学は倫理を扱わないが、存在と虚無、光と闇、善と悪という人間が古代から抱き続ける哲学と宗教の根源的問題は、科学の探求と無縁ではない。いや、西洋では、神と宇宙の創造、生命と人間の誕生をめぐっての宗教が教えるところを、直感でなく実証的に明らかにしてゆこうとする営みが科学なのだろうと思う。

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コメント

こんにちわ。
今日も日本は冷えます。

モンセギュールはすごいところのようですね。
よくこんなところにあれほどの城砦を、やっぱ人間もすごいですね。
エッチングはすばらしいですね。
わたしはよほどの歴史的作品化と最初思いました。
ほんとにいいと思いました。
さすがですね。

冗談めかして言えば善と悪は粒子と反粒子ですかね(^_^;)
確かに善悪は人間だけのもの、宇宙に何の善も悪もないですね。そして突き詰めれば人間の善は悪に通じ、悪は善に通じる、絶対の善悪があるはずもないですね。モームの「神が人間を作ったことを認めてもいい。そうすればなおのこと、神になぜひざまずかなければならないのか。人間創造などくだらぬことをした神の前に」という言葉が大好きです。

kozou さん。
モームの言葉いいですね。エスプリと逆説が効いてます。思わずわらってしまいました。いつもコメントをくださりありがとうございます。特に前回のコメントでは、kozouさんのブログにこちらからコメントを付けられない、僕の問題の解決の手助けとして詳しい情報を送って下さり、感謝感激しました。パソコンとネットに関しても技術的なノウハウを身につけておられ見習わなければと思います。
今日もやってみましたが、やっぱりダメでした。IEの接続できませんというメッセージが返ってくるので、ご指摘のように、プラウザの問題かもしれません。MacではなくPC(フランスで買ったFujitsu-Siemence)です。
しかし、ブログへのコメントだけでなく、先日もデジタル・コンテンツを試しに購入した日本の会社とのやりとりに通信上で問題がありました。フランスのプロバイダーの問題かなとも思います。
外国に住んでいると、ネット上のさまざまのサービスを受けたくても出来ない状況がまだまだ沢山生じます。たとえば、このブログでkozouさんに感謝しました小林、益川両教授の素粒子に関する本。Amazonで注文したのですがこのアドレスには配送できませんとの返事が来てガックリです。他にも古本で10冊ほど発注しましたが、フランスまで直接届けてもらえるのはそのうちの4分の1ほどしかありません。上下ある本でも下だけしか入手できないとか(笑)。パリの日本の本屋さんへ行くしかないと思ってます。
スペイン風邪が甚大な犠牲者を出したことは話で聞いていましたが、まさか数千万の単位だったとは知りませんでした。想像を絶しますね。今回の新型ウイルスについて詳しい情報をありがとうございます。ほんのちょっとした変異なんですね。コワイですね。一旦収まったように見えても8月とか数ヵ月後に突然再発生して猛威をふるうとマスコミは報道してますが、そんなことが起きないよう願ってます。めのお
ps:デジブック2号拝見拝聴しました。自然の写真がとてもいいです。日本の川は清澄でキレイです。では、また

投稿: KOZOU | 2009年5月16日 (土) 12時28分

やはり国の関係なのですかね。
PCがFujitsuでしたらMacの関係でもないですね。
ヨーロッパを統合したEUフランスではUEですかね。すばらしいことと思っています。二度にわたる悲惨な戦争を超え、現実に通貨まで統合したのですからね。実際その中に住んであるめのおさんとかたくさん矛盾を感じられることも多いだろうし、まだまだ課題は山積しているのでしょうが、世紀を超えた人間の夢がようやく端緒についたようにわたしは思っています。
いつの日か、世界共和国にベートーベンの歓喜の歌が流れることを夢想しています。まちがいなくわたしはいませんが(^_^;)

確かに日本語の本の注文も不便ですね。そちらにいられたら日本語にふれたいと思われるでしょうね。

新型ウイルス、確かに再発すれば怖い気がしますね。
デジブック、見ていただきありがとうございました。
めのおさんも作られたのですね(*^_^*)

投稿: KOZOU | 2009年5月21日 (木) 15時13分

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