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2009年5月に作成された投稿

2009年5月25日 (月)

七人の侍とエクスカリバー

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

黒沢明監督の「七人の侍」ほどフランスで評価の高い日本の映画はない。大抵のフKuro2 ランス人は知っている。むろん年齢が高まるほど。ボクがパリへ着いた当時、出会うフランスの若者のほとんどが「セット・サムライ」はいい。クロサワはすごいと一様に口にした。

むろんボクも見ていたが、なぜフランス人が「七人の侍」をここまで激賞するのかがわからなかった。後になってDVDで見直し、なるほどと納得がいった。むろん、あの戦闘場面の映像のダイナミスム。雨の中、泥まみれの戦いの迫力。それだけでも若い男の児を惹きつけるに十分だ。

だが、それだけではない。と多少なりとも世の中の仕組みや思想というものについて自分なりの考えをするような年代に達していたボクは悟ったのだった。これは「優れて思想的な映画である」と。

戦後のある時代、日本は労働運動、学生運動が盛んだった時代があった。若い皆さん方には遠い昔の話としか思えないだろうが、ボクらが若者の頃は、それこそ生き方、人生を左右する問題だった。

「労学提携」という言葉に聞き覚えのあるお年寄りは居られると思う。その後の1960年代後半から70年代にかけては中国で文化大革命と呼ばれる嵐が吹きまくった。インテリは眼鏡を掛けているだけでブルジョワ不良分子と見做されツルシアゲを食い、自己批判を迫られ、首枷をはめられて曝しものにされた。

学生は農民の苦労を知るべきであると学業を強制的に中断させられ農村へ送られた。結果は、農民は半可通の指導者に泥を固めた高炉を作り、鉄鉱石を入れて使い物にならない鉄を大量に作り、その間、実っていた穀物の収穫もせず、腐らせてしまい、食糧不足から大飢饉となり大量の餓死者を生んだ。

知識人は労働者・農民に加担し、ともに労苦からの解放のために闘うべきである。戦後のアメリカやフランスの知識人たちはこう主張した。サルトルもその一人だった。

戦国時代、農民が盗賊と化した野武士の襲撃に収穫もすべて強奪され苦しんでいる。どうにかしてください。お武家さま。助けて下さい。と一人の武士が救いを求められる。貧乏百姓に味方したところで武士にとってなんの得もない。むろん助けた暁には多少のお礼を百姓はするだろうが、命の危険の方が大きい。

しかし、「なんのためのサムライか?」と良心に自問する侍がいる。侍は本来、誰かを守るために戦闘訓練を積んできた。武器を持たぬ百姓が野武士に襲われ困っているなら助けるのが侍の本分、使命ではないか?だが、武士の中にも本当の武士は少ない。

Kuro3sept 浪人して食い詰めた侍のリクルートが始まる。野武士は大勢で攻めてくるので、守る侍の一人一人の力量がものをいう。剣術にも長け、とっさの判断ができ、ユニークな侍でなければ、団結してかかっても勝つ見込みはない。こうして七人の侍が選ばれる。

最年長の侍を志村喬が演じている。小柄ながらがっしりと肉が締り、腰にさした刀を左手で押さえながら腰を据えて走る姿は見事だ。サムライとしては最下層かもしれないが優れた知性と戦略能力を持つ。

クロサワの「7 Samurais」こそ、「士」と「農」という階級の差を越え、悪しき野武士を相手に共に戦う連帯の姿。「働く者」に加担し、命すらも捧げる知識人の悲しくも潔い姿を描ききった傑作といえないだろうか。

労使の利害をめぐっていまだに対立の絶えないフランス社会に育った青年に、猶のこと、知識人の本来的姿を映像に描ききった黒沢の映画が感動を与えるのは故なきことではない。

黒沢監督35歳の時、1946年公開の作品に「我が青春に悔いなし」というのがある。1933年に起きた京大滝川事件と1944年のゾルゲ事件に着想を得ているという。

京大事件というのは京都大学法学部の滝川幸辰教授が中央大学法学部で行った講演「復活をとおしてみたるトルストイの刑法観」の内容が無政府主義的として文部省と司法省内で問題化したことに端を発する。

滝川(京大)事件は軍国主義の道を突き進んでいた当時の日本の権力が、共産党、マルクス主義の嫌疑のみならず自由主義、リベラルな思想内容で国を批判する知識人たちへ弾圧を開始した事件として特色がある。

黒沢監督の映画は、滝川事件にゾルゲ事件という歴史的には関係の無いスパイ事件に着想を得て作られているが、若き日の監督が既にこうした思想的なテーマを映像によって表現しようと志していたことを知った時、ボクは「七人の侍」というウエスタンにもパロデイー化された大衆的作品に思想的背景を見たのもまんざら的外れではないと思った。

さて、肝心の「七人の侍」に戻る。多勢に無勢、いくら剣術の達人でも、集団で攻めてくる野武士との戦いにほとんどの侍は命を落とす。最後に残ったのは指導者の志村喬と村の百姓の娘と恋に落ちた若者と一人の侍だけである。戦い終わり、侍を捨てて百姓になる若者を残し去ってゆく侍二人が投げる視線の先は・・・、土饅頭に刀が突き立てられた侍たちの墓である。

刀を墓標がわりに突き立てた土饅頭の侍の墓。そのイメージは、ずっと後になってフランスで「エクスカリバー」「メルラン」「キャメロット」など「アーサー王伝説」を下敷きとした映画を見るたびに、ボクの脳裏で重なっていった。

岩に突き刺さった剣「エクスカリバー」。この剣を抜く者だけが「王」として冠を頂く者の正Excalibur2 真正銘の生まれを証明する。どの騎士が試しても抜けない剣をするりと抜くのは厩番のアーサーである。

岩に突き刺さった剣。土饅頭の墓に墓標がわりに突き立てられた刀。
シベリヤの果て日本海を隔てた日本列島と、ヨーロッパはフランスのブルターニュ半島と対岸の大ブリテン島の南半分。こんなにも隔たった場所で、形は似ていても二つのイメージに共通項などある筈がない。ずっとそう思っていた。

ところが、である。10年ほど前、本屋で立ち読みをしていて偶然見つけた本に、二つのイメージを繋げる回答が出ていた。れっきとした学者が、アーサー王伝説、西洋の騎士道の起源が中央アジアにあるという学説を本にして発表していたのだった。

次回には、段ボール箱にしまってあるその本を見つけ出し、著者名など記せるよう少しお時間をください。(つづく)

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2009年5月21日 (木)

デジブック第2号です

デジブック第2号です。サンファルジョーと周辺の風景写真がご覧になれます。

ゲストハウス叢林亭:http://www.sorintei.com

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デジ・ブック1号ができました

5月1日は3年振りに Ferte-Saint-Auban の植木市へ行ってきました。入場料が8.5ユーロととても高いのに大変な人出でした。つつじばかりを集めたコーナーが綺麗でした。

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2009年5月17日 (日)

カタリ派について-その3

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

さて前回ちらと触れた女性、フォワ公爵レイモン・ロジェの妹でジュルダン侯の未亡人 エスクラルモンドについて。彼女はカタリに入信し、カトリックならば不可能な女性でありながら高位の聖職者つまり完徳者として按手も授け、最後は火刑台に身を躍らせた。そのため悲劇のヒロインとして伝説的存在となる。

Escla2 19世紀のフランスの作曲家マスネーにはエロデイアード、マノン、ル・シッド、ウエルテル、サッフォーなどの文学・歴史的人物を扱ったオペラがある。中にあまり知られていない「エスクラルモンド」がある。バビロンの王女に同名の女性がいるので、マスネのこの作品がモンセギュールで火刑台に上った女性と同人物かは確認を要する。

カタリに入信したエスクラルモンドは、幾つかの誓いをたてる。魚と油は採っても肉、卵、チーズは食べない。むやみに主君へ忠誠を誓ったりしない。嘘はつかない。嘘は人間の犯す最も重大な罪のひとつだから、嘘をつくより沈黙を守った方が良いという戒があった。そして入信後はいっさい肉の交わを持たない。

エスクラルモンドは大勢の男の聖職者に混じって教義について発言したり男と同等に活躍した女性だった。しかし、彼女でさえ、男の司祭から黙って引っこんでなさいと言われている。女はカタリの聖職者の最高位にはつけなかった。だいいち、輪廻にしてから、転生の最後は男もしくは牡に生まれるとされていた。

最高位にはつけなくても、女も聖職者になれ、コンソラメントムを授けることができた点は、カトリックと比べれば、遥かに女性が認められていたといえる。

エスクラルモンドは入信に際して肉の交わりを一生断つという誓いを立てた。
まだうら若い身でありながら、セックスの喜びを断つなんて
もったいないと思う方も沢山おられよう。
禁欲はカタリに大切な行だったのだろうか?  

カタリの普通の信者は、結婚し、子供をもうけ、肉食し、敵と戦って斃すことを許されていた。完徳者たちは厳格な禁欲の戒律に従って、結婚を否定し、肉の交わりを断った。

完徳者にとって肉の愛は、悪魔的な誘惑だが、普通の信徒には自然の誘惑だった。エロス的誘惑は再生の第一原因だから、結婚や同棲で縛られた普通の信者の性的行為は寛大にあつかわれた。

しかし、一方で肉体はサタンが支配する物質だし、エロチズムに関係する想像力も悪しきものに他ならないから、その誘惑に負けることは悪魔に負けることだという性一般にたいする断罪がある。

Denis1 筆者が最初にカタリの名を見たのは、フランスの詩人ドニ・ド・ルージュモンが書いた「エロスとアガペー:西洋の愛について」を青春時代に読んだ時だった。

「アガペー」とは神あるいは至高のものに対する人間の敬虔な愛を指す。ルージュモンはこの著でフランスの中世から近世へかけての詩と文学の伝統の継承を担った吟遊詩人、トルバドールをとりあげている。

彼らはリュートなどの楽器を片手に、宮廷から宮廷へ、貴婦人の館の窓辺に立ち、多くは愛の詩を弾き語りしながら南から北へと旅して歩いた。彼らによって結婚に縛られ、子孫を残すことのみに重点がおかれていた夫婦関係の外、つまり夫以外の男性と愛を語らうところにのみ真の愛があるとする「宮廷風恋愛」の伝統が生まれRougemont2 た。

騎士たちが馬上試合をする際にも、命を捧げる貴婦人を選んだ。それはエロスとは違った愛の形だった。彼らは民間に伝わる伝承を歌に取り入れ、また彼らによって刺激された文人たちが英雄譚などを下敷きに物語を作った。「トリスタンとイゾルデ」の悲恋物語、クレチアン・ド・トロワの「ランスロット」。ブリタニアの英雄譚とブルターニュ半島の民話とが合体し、それにグラアル・聖杯伝説が加わって「アーサー王伝説」へと発展してゆく。それについては次回からに譲ることにし、もうしばらく「カタリ」とお付き合いしよう。

カタリの悲劇は民間伝承として吟遊詩人たちに語り継がれcoldsweats01モンセギュール絶滅の後も各地に残っていた「隠れカタリ」の間で、信仰を確認し合うために吟遊詩人の口ずさむ歌詞の中にカタリだけが解るコード(暗号)を盛り込んだ、とルージュモンは言う。余談だが、吟遊詩人は現代フランスのシャンソン歌手の原型である。

カタリの完徳者は肉体を悪魔の創造物だと主張して、肉体と生殖、そして結婚を呪ったわけであるが、逆説的に言うと、それによって教会の肉体擁護が生まれ、男女の合意による結婚に秘蹟を与えるようになる。また結婚は男女の肉体の結合がなければ無効とされた。

これまた、非常に逆説的な言い方だが、現代人は肉体謳歌の遠い淵源をカタリに負っていると言えなくもない。

聖霊によって照らされた完徳者は肉の行為を拒み、性的欲望を払いのけてしまうことができたひとたちで、ふつうは死後に解放されて魂が精神に従うところを、この地上で聖的状態を見出す。完徳者ほど信仰がすすんでなく、肉の歓びからも解放されていないふつうの信者が、自然の欲望に従って結婚と結婚外の性的行為にふけることは重要な罪ではなかったらしい。

自然の欲望に従うことは、精神の光明に悪い影響は与えない、罪を犯しても、その後精進に励めば、いずれは完徳者とおなじ光明がえられると考えられていたらしい。なぜなら、いちど結婚した人が、証人の前で厳粛に、婚姻関係を破棄する宣言をして完徳者に叙品されることがしばしばあったから。

完徳者たちは、物質、つまり肉体の原理に支配される女性は、より悪魔に近い存在だとみなしたのだろうか?

女性の聖職者も沢山いたことをみれば、そんなことはない。肉体は魂を閉じ込める牢屋だけど、それが魂に従属しているかぎり、魂の状態を忠実に映し出す鏡になるから、美徳を備えた人間の肉体は美しいとも見られていた。

キリスト教には、アウグスチヌスいらい肉体と精神は別のものという考えがある。カタリの二元論もどうやら、そういうことで、心身一如という言葉があるように、われわれ東洋人は肉体と精神は一体ではないかと考えるので、どうにもなじみにくい。Laozi2

易経に「太極別れて両義あり。」という言葉がある。宇宙の本質は物質でも精神でもない。その両方が渾然一体となった状態だというわけだろう。しかし、別れて陰と陽になるというのだから、相対的二元論ということになる。

人間のタマシイには陰と陽がある。易経は人間の陽の精気が魂で精神作用を司り、死後天に昇る。陰の精気が「魄」と書いて肉体を司り、死後も地上に留まるとする。

Taikyokunoirblanc東洋の 物心一体という考えは、より物質に近い女性が別視されるTaikyokuken1 とかいうことはなくて、肉体の享楽も自然の欲望や生命の歓喜につながるとして西洋とは逆に肯定的に捉えて生殖に励んだからインドや中国みたいに人口が天文学的数字で増えてしまった。東洋では性行為が罪の感覚なく受け入れられていると言おうとしたのだが、よけいなことかもしれない。易経も、死によって「魂魄」が分離すると教えているところは西洋の二元論と同じことになる。

カタリの時代に、生殖を拒否したり、隠者や異端者となって険しい山の上や人里離れた森の中で苦行した人たちがいたってことは、キリスト生誕からちょうど千年経って、世界の終末論がはやり、終末の予感に打震えていた人たちがいたということが言える。世界の終末の恐怖を子に味あわせたくないと、核戦争の恐怖に怯える現代人とどこか通じるところがあったのではないかと想像してしまう。

さて、やっと宝物の話ができる。

全員が火刑台の炎に身を躍らせたと書いたが、実は、秘密の地下室に隠れて生き残った四人の完徳者がいた。この四人は、砦の明け渡しの翌日、3月16日の夜、砦の西側の100メートルはある一番高い絶壁に垂らした綱を伝って命がけで、何かを砦から持ち出した。

火あぶりになった完徳者の全員から託された、ある使命を遂行するためだったにちがいない。領主の家族のひとりで生き残った、アルノー・ロジェ・ド・ミルポワが後に証言したところによると、砦に残されていたカタリの宝を運び出したという。

だが、宝物の大部分は、落城前に持ち出されている。金銀財宝を担いで百メートルもある断崖を縄一本頼りに降りられはしないから、この四人は物質として価値がある何かではなく、他教に渡してはならない聖なる秘宝を持ち出したと考えられる。

3月14日はキリスト教の復活祭にあたる日だった。なお、カタリはイエスの十字架を疑うので、復活祭は重要な意味をもたない。3月のこの日、休戦明けの前日、砦の中で祭りが行われたという。

残された食糧をみんなで分け合って食べた、いわば最後の晩餐だったという人もいる。この祭りの終りに6人の女性と14人の男性が新たな完徳者の序列に加わった。この神聖な祭りと持ち出された神秘な何かとが関係がある。人々は各人各様に推理を働かせ、カタリの秘宝の伝説がこうして生まれた。

モンセギュールにまつわる様々な伝説や民話がいまも民間に伝わっている。あれほど最後まで抵抗した上で、二百人がひとり残らず火あぶりになったというカタリの悲劇と、一人の棄教者も出さなかった彼らの信念の強さ、純粋さにひとは打たれるのだろう。

最後に持ち出された秘宝が何かをめぐっていろんな説が出回るのだが、主なのはGraal2 やはり、グラアル=聖杯なのだ。

山の中には城とつながる秘密の地下道があったとか、そこにカタリの宝物や聖典やキリストの生誕をつげたベツレヘムの隕石がかくされているとか、いう話を実際に検証しようとした人々が現われて、発掘をはじめた。

そのたびに、不思議な力が働いて発掘を中止せざるを得なくなったという話が伝わっている。ダイナマイトの導火線の火が何度やり直しても途中で消えてしまうとか、岩の空洞をさぐるため差し込んだ鉄棒が途中で抜き差しならなくなったとか。

カタリの生き残った信者は遠く追われて最後はチベットまで逃げ、ラマ僧になったとか。ベルベルに混じって北アフリカの山岳地帯に隠れたとか、とにかくオカルトの材料にこと欠かない。(カタリ派についてはこれで終わり、次からは多少の関係があるアーサー王伝説について書きたいと思います。)

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2009年5月15日 (金)

カタリ派について-その2

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

モンセギュールはフランスとスペインを分かつピレネー山脈のフランス側にある。トウールーズからカルカソンヌ、つまり地中海側へ約20km、さらにスペインの方向に約60km行くと山に囲まれたフォワ(Foix)という町に出る。アンドラが近くにある。

Pog1 モンセギュールはフォワからさらに約20km東に向かって山道を登ったところにある。麓までは車で行ける。山々に挟まれて忽然と紡錘形の岩山が現れる。山の上にボコンと釣鐘を載せた感じ。ポグと呼ばれているこの岩山は標高1207mで、頂上に城砦がある。普通の攻め方ならまず落ちようがない難攻不落の城砦だろう。

砦はカタリ派の信者が逃げ込む前からあった。フォワの公爵、レイモン・ロジェと妹のエスクラルモンドはカタリに入信し、完徳者として按手を授けることができた。カタリはフォワ公爵の保護を得てこの砦に逃げ込んだようである。

非常に興味深いのは、この砦の設計。モンセギュールは太陽の神殿という説もあるくらい、砦の城壁の角度と塔の窓と狭間胸壁の開いている角度と太陽との関係が、ある意図を持って緻密に計算された設計図に基づいて造られていることだ。Segurplan 天文台だったという説もある。

つまり冬至の太陽が昇る地点を向いて四つの窓や壁に隙が開けられており、それらの隙と太陽を結ぶと四本の完全な平行線が引け、その線によって砦全体の向きが決められている。

城壁のある角とある角を結ぶ線は春分と秋分点で、その時期の日の出の地点を向いている。さらに、城の門や角を結ぶ線は、それぞれ、この線は1月21日の水瓶座、これは11月22日の射手座、これは2月19日の魚座、これは10月23日のさそり座、ここは牡牛座、ここは乙女座・・・とすべて黄道十二宮と対応するように造ってある。

確かにマニ教では太陽は主要なシンボルだったが、カタリ派は太陽信仰は持たなかったといわれている。

こうした建物を建てた当時の石工とフリーメーソンの関係を言うひともいるし、太陽光と完全と調和のシンボルのミトラやピタゴラス学派、死海の近くのエッセネ派、ウエールズ地方のドルイド教やゾロアスター教とカタリの関係など、いろんな宗派の共通点を取り上げる人もいる。カタリの自己放棄が仏教徒のそれに似ていることもそのひとつ。

しかし、ちゃんとした学者が言っていることだが、カタリは新約聖書を重んじた福音主義者たちで、とりわけヨハネによる福音書を重視した教義を持ち、どこまでもキリスト教徒だった。カタリを特徴づける二元論はマニ教とは関係がない。カタリのどんな聖典にもマネスの名前はでてこない。カタリの起源をたどるなら、むしろ9世紀のブルガリアのボゴミル、神の友集団にあるという。

ここで、ひと休み。「ダ Mtsegu ・ヴィンチ・コード」を読んだ読者なら、パリのサン・シュルピス教会に、壁の穴から射し込む太陽光線が春分点なり秋分点なりのある厳密な一瞬に照らす地点に宝物=秘密を解くカギが隠してあると、アルビノ症の狂信者が推理する場面を思い起こされるだろう。

奇しくも今日、全世界同時に、ダン・ブラウン原作の「天使と悪魔」が封切りされるというから、以下に続く聖書の文言解釈に係るやや面倒な話も、西洋人というかキリスト教文化圏の人々が、「善と悪」、「天使と悪魔」を宇宙の起源と結びつけて、どんなに真剣に考えているか推し量って読んで頂きたい。

その前に、上のイラストは拙作のエッチングです。10年ほど前モンセギュールに登った時の印象をもとに作りました。版画に興味をお持ちの方は、このたび「ギャルリーそうりん亭」を立ち上げましたので、どうぞこちらを覧くださいませ。

カタリは結局、カトリックの十字架崇拝と、聖体のパンも水も物質であり、それによる秘蹟(洗礼)を拒否して按手を唯一の秘蹟とし、それが異端の理由のひとつになった。中世の人たちは手、とくに右手に特別な意味を与えていた。手には聖なる力の伝達力があると信じていた。最終的に手は神の手にまで通じているとされていた。

カタリが按手を唯一の秘蹟としたことには、聖体のパンも水も物質であるということと、福音書の「聖霊によるバプテスマ」という言葉に由来している。

「初めに言葉があった。言葉は神と共にあり言葉は神であった」という聖書の、エスプリとしての言葉、精神を肉体と魂よりいちだん高いものとみなした点は、カタリ派はどんな宗派よりも、もっとも純粋なキリスト教徒だった。

カタリがよりどころとしたのはヨハネによる福音書の天地創造に関する句で、そこが異端の異端たる由縁なのだが、そもそもがラテン語の解釈の違いによるものだった。

「すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」という句がヨハネによる福音書の第一節にある。

「主によってつくられないものは何もなかった。」
この「なにもない」という言葉が問題なのだ。
ラテン語では nihil なのだが、カタリの聖典として残っているリヨン聖書では、
「すべてのものはこれによってできた。そしてそれが無いところに虚無が生じた。」となっている。

さらに、そのあとに続く、「光は闇の中に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった」という句もカタリの解釈では「光は闇を輝かせるが、闇は光をすこしも含んでいない。」つまり、闇は神が創られた世界とはぜんぜん別の世界だ、虚無は神の作用の及ばない世界だとする。

ここには、善なる神と悪魔が光と闇を別々に創った、つまり悪の起源をめぐって、宇Ange_et_demon4 宙の創造者がふたつだとするマニ教的な絶対二元論と、全能なる神が創った善良なる天使が堕落して魔王になったという相対二元論との別れ目がある。

カタリの善悪絶対二元論は、異端審問官たちのデッチあげだ。弾圧を正当化し、火あぶりに理由をつけるために、彼らにマニ教徒のレッタルを貼ったんだという説もある。

残念なことにカタリの教理を内部から知る資料がほとんど残っていない。異端審問をした弾圧側の資料によって推測するしかない。審問をしたベネデイクト派の僧侶の残した資料には、アウグスチヌスの教理と比較して、カタリをはっきりとマニ教徒だと断罪している。アウグスチヌスは若いころマニ教の罠にはまって教徒になったことがあった。

北イタリアの僧侶、ドンデンヌ神父が最近、ふたつの原理の書という本を発見して発表したが、これはわずかに残されたカタリの聖典のひとつ。それを見るとまちがいなく二元論だという。マニ教の教祖、マネスもふたつの原理論を書いた。こちらは消失していまはない。

Chute_de_lange2 たいていの宗教は善なる神の対立物として超自然的な悪魔を想定している。ローマ・カトリックは悪の起源を独立した原理とは見ずに、邪悪で常に反抗的な被造物、リュシフェールに想定している。

リュシフェールは初めは善良だった。それが堕落して悪を代表する堕天使となった。悪の起源はリュシフェールの自由意思にあると見る。アウグスチヌスも自由意思という本を残している。

神がすべてを創り、堕落する前には優れた被造物だったリュシフェールはどうして神にたてつくことができたか?カタリは自由意思が悪を選ぶためには、最初から悪が存在していなければならないと説く。

善なる神がすべてを創りたもうたならば、なぜ悪があり得るのか?
悪の起源に関してカタリがラデイカルに突き付けたこの問題は、善と悪とのみさかいがつかなくなった現代に、より根源的な問題として生きている。

カタリが悪の原理と呼んだものを正確に知ることは難しい。ある学者は彼らは悪を本当の神と同等の力を持つ存在とは考えていなかった。本当の力とさえも考えなかったと言う。マニ教徒たちも、本当の唯一の神しか信じないと繰り返し、悪の原理は無意識的で、しばしば物質と同一視され、病気が病人の健康状態のひとつの形態にすぎないように、悪は神のある状態以上のものではないと考えていたという。

マニ教的な、光と影、真実と虚偽、光の天使と闇の天使という二元論的な考えは、陰と陽、「太極別れて両義あり」という易教の言葉に見られる中国の老壮思想にもあって、グノーシス派やカタリだけに特有のものではないと思う。それがローマ・カトリックに滅ぼしつくさねばならない敵として扱われたことが恐ろしいと思う。

モンセギュールの悲劇はヒトラーやスターリンや中共の全体主義が似たようなことをもっと大規模にやったように、思想の自由の観点からいえば現代も繰り返されうる性質のものだと思う。

最後に、いつも弊ブログにコメントをくださるkozou 氏のブログから、小林誠教授の「消えた反物質」、益川敏英教授の「いま、もう一つの素粒子論入門」という二著で、宇宙の生成が物質と反物質、粒子と反粒子とのぶつかり合いの後、たった何億分の一の差で粒子が残ったために出来たという驚くべき最先端の素粒子論を知ることができた。この場を借りてお礼申し上げます。

科学は倫理を扱わないが、存在と虚無、光と闇、善と悪という人間が古代から抱き続ける哲学と宗教の根源的問題は、科学の探求と無縁ではない。いや、西洋では、神と宇宙の創造、生命と人間の誕生をめぐっての宗教が教えるところを、直感でなく実証的に明らかにしてゆこうとする営みが科学なのだろうと思う。

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2009年5月14日 (木)

カタリ派について-その1

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

12世紀から13世紀初頭に、北イタリアから南フランスにかけて、カタリ派と呼ばれるキリスト教の一宗派が急速に広まり、ローマ法王を震撼させた事件がある。ローマ・カトリックはこの宗派を異端として過酷な弾圧を加え撲滅した。「アルビ十字軍」として歴史に記録される事件である。

異端が広まった背景には、社会的、政治的に様々な理由があったが、根源的にはローマ・カトリックの腐敗と堕落が齎したものといえよう。高位聖職者たちの蓄財、贅沢、吝嗇、聖職・聖物売買など、道徳的腐敗が目立ったにもかかわらず、それを認めようとせず仲間内で保護し合って、ついにはそれを批判する聖職者たちを追い出し、弾圧する過程をたどった。

たとえば、ドーフィンヌ県の聖職者、ピエール・ド・ブリュイは福音書の精神に動かされて汚職や腐敗のはびこるカトリック教会を非難する説教を始めるが、20年後には、サン・ジルで火あぶりにされてしまう。カタリではなかったにもかかわらず。

ローマ教会の高位聖職者たちを批判する修道僧たちが出てくると、危機意識から、かれらを異端あつかいした。悪性腫瘍みたいな異端が教会の領地を侵しているとか、異端はペスト菌のようだとか、爬虫類みたいに陰険だとか、まむしやサソリみたいに毒をもってて危険だとか、異端の毒に犯された信徒たちは高利貸しで儲け、窃盗、殺人を平気で犯し、乱交や近親相姦など肉林の喜びを犯しているなどと吹聴し、悪霊つきや魔女扱いをした。

カタリの信者はラングドックの職人や商人や貴族たちが多かったが、こういう新興階級が古い教会を離れ、教会の収入が減り、既存の特権階級が利益奪還のために十字軍という聖なる名を借りて戦争を仕掛け、逆らった人たちを皆殺しにした。アルビ十字軍の弾圧がなければカタリは確実にラングドックの主要宗派になっていたろうといわれている。

筆者がカタリに興味を持ったのは、彼らが ①輪廻転生を信じ菜食主義者であり仏教の思想と似た考えをも持っていたということ。さらに ②カタリの起源が、前回触れたアウグスチヌスが若いころその信者であったマニ教にあり、これはペルシャのゾロアスター教、さらには中国の道教の陰と陽の考え、善悪二元説をとっており東洋に淵源がみとめられること、などからである。

カタリは善悪二元説を唱え、さらにカトリックの十字架崇拝と秘蹟を拒否し、ドセテイスム(キリスト仮現説)を採ったがために異端とされ弾圧されたのだが、これについては後ほど触れる。

まず歴史的事実から、「アルビ十字軍」とローマカトリックとフランス国軍によるカタリ弾圧を時系列的にみてゆこう。

1208年、教皇特使のピエール・ド・カステルノーが暗殺され、カタリはこの事件とまったく関係がなかったにもかかわらず、ローマはいい機会とばかりカタリ弾圧の指令を発した。

Monfort1 シモン・ド・モンフォールはアルビ十字軍の指揮官に仕立てられた軍人で、法王やフランス王の期待以上に弾圧を繰り広げて、殺すこと自体に快楽を味わっていたとしか思えないくらい虐殺に血道をあげた。

1209年7月、リヨンに集結した3万の大軍は、シトー派の僧侶に先導され、シモン・ド・モンフォールの指揮のもとに南下を開始した。時の法王インノチェント3世の命令は「皆殺しにせよ」だった。

ヨーロッパで最初のジェノサイドが法王の命令で実行された。トウールーズ、アルCapitol ビ、ベジエ、カルカソンなどラングドックの主要都市がつぎつぎと攻撃され、異教徒の烙印を押された人々が火あぶりで焼き殺さCarcassonne3 れていった。

弾圧は四分の一世紀に渡って続き、犠牲者のなかには、カタリ派の信徒だけでなく、ラングドックに定住していた沢山のユダヤ人がいた。

1243年までに、南フランスの重要拠点はほとんどすべて膝を屈し、カタリ派は根絶やしになった。その中で、ただ一か所、誇り高く、勇気と信念を燃やして、天高くそそり立つ岩の上の砦に立てこもって抵抗を続けた信徒がいた。その岩山をモンセギュールという。弾圧側の人々はこの城砦を魔の砦と呼んだ。

1243年の春、約一万の騎馬兵、フランス軍が砦を包囲した。数か月に渡る包囲にも拘わらず砦は落ちなかった。付近の住民と城砦内部に立てこもっていた信者たちの間で通じあい、水と食料を補遺網を縫って運ぶ込むことができたらしい。

Montsegur11 砦の攻囲は約一年に及んだ。

1244年3月にモンセギュールは陥落し、カタリの異教徒はフランスから公式には姿を消した。

公式には・・・。

あちこちにゲリラが隠れ、秘かに信仰は続けられた。さらに民間伝承を生み、トルバドールなど吟遊詩人を通じて詩の中に巧みにコード(暗号)を盛り込んでメッセージを伝えあった。さらに、伝説では、降服の前夜、城からある宝物が運び出された。その宝物とは、なにを隠そう、かのキリストが最後の晩餐に使い、磔刑の血を受けた「聖杯」だった。

トルバドールは北方の文人に影響を与え、トロワの詩人クレチャン・ド・トロワが騎士道伝説「ランスロット」を書く下地を作った。ランスロットはやがてブルターニュの英雄伝説と合体し、プランタジネット王朝の正統神話である「アーサー王伝説」へと発展してゆく。

1244年3月にモンセギュールは落城した。五百人の餓えた人々のうち、百五十から二百人が完徳者で残りは城の領主、騎士、馬屋番、兵士とその家族だった。

ここで完徳者の説明をしておく。カタリには、結婚し肉食も許される普通の信者と、意識も行いも高く、男はパルフェ(完徳者)、女はパルフェットと呼ばれて、コンソラメントムという按手によるエスプリのバプテスマを受けた人だけがなれる聖職者と、二つの階層があった。按手とは右手を広げ対面者の頭の上にかざす仕草のこと。

完徳者の三割はラングドックの貴族階級出身だった。カタリは山に閉じ籠った密教集団のように批判されるが、それはカトリックの火あぶりと血に飢えた狼のような弾圧から逃れるためで、アルビ十字軍が始まるまでは、ふたり一組になった完全者たちが村や町や城などどこへでも出かけて布教していた。

弾圧側は降伏条件はわりと寛大なものだったと言っている。
モンセギュールに立てこもっていた普通の信者たちは過去をすべて改悛すれば許しを与える。兵士たちは武器と荷物をもったまま撤退を許可する。完全者については、異端裁判所に出頭し、罪を告白し、これまでの信仰を宣誓とともに捨てれば、軽い罰だけで自由放免する。それを拒否する者は火あぶりの刑に処すというものだった。

砦のカタリ派から、ピエール・ロジェ・ミルボワ、包囲側から奉行ユーグ・ダルシスが代表として出て交渉がもたれ、カタリ側は15日間の休戦を申し出て、人質と交換に受諾された。人質は逃走の気配を見せ次第ただちに処刑すると脅したが、誰一人逃げようとはしなかった。この15日間は、モンセギュールの信者たちが死ぬ準備をするためだった。

ひとりの棄教者も出ず、完徳者の全員が改宗より殉教を選んだ。さらに、普通の信者から死が待っている完徳者になる人が20人も出て、コンソラメントムを受けた。

3月15日、ひとりも信念を曲げず、二百人の完徳者は全員が火あぶりになることをMontseguillust 選んだ。標高1200メートルの山の三月の冷気のなかを女や年寄りは裸にされ、岩がごろごろした山道を裸足のまま乱暴なあつかいで降ろされていった。その時の苦痛は、あとの火あぶりの苦痛より激しかったかもしれない。

丘の麓に杭を立て、柵をめぐらせ、堆く柴木が積まれて燃え盛っている火刑台に身を躍らせて全員が火あぶりになって死んだ。死体が灰になるまで焼き尽くすよう積み上げられた薪の山から昇る煙で火刑台に上がればすぐに窒息してしまったかもしれない。人間の身体が焦げる臭いがあたりに立ちこめ、夕闇が迫るころには、熾きがくすぶるだけですべてが灰に帰した。

注目すべきは、何か月にも渡る籠城のあいだにひとりも自殺者がでなかったこと。食糧や水が尽きて生きるのが苦しくなった包囲の最終段階では特に。100メートルも切り立った崖の上の城壁から身を投げれば自殺は簡単だったろうが、そういう人はひとりもいなかった。

モンセギュールが二百人と言われているが、他の町、トウルーズやアルビやカルカッソンでの虐殺を加えると二千人以上の死者が出た中で、棄教して転んだのは、たったの一人か二人という。思想信条や宗教弾圧の歴史の中でこれほど棄教者が出なかった集団は稀であり奇跡とまでいわれている。

カタリの信念がそこまで固かったのはなぜか?カタリは現実の物質的な世界よりも精神の高い世界、高みに昇ることこそを修行を通じて目指していたから、肉体が焼かれても彼らの純粋な精神は生き続けると信じたのだと思う。

カタリ派の信者たちは平和主義者で、ファナチックではなく、他人に危害を加えず、簡素な生活を好み、魂の救済に情熱を傾け、福音書の説く宇宙の秘密に霊感を受けたミステイック(神秘主義者)たちだった。旧約聖書のエホバの神は復讐の神で、ほんとうの神ではないと排除し、新約に価値を置いて、福音書のキリストが愛によって人々に与えた教え、神的な愛そのものを信仰の基本においた福音主義者たちだった。

カタリはプロテスタントの先駆けともいえるが、16世紀の宗教戦争の、いわば前哨戦がアルビの十字軍といえないこともない。魂の真の救済を求めて火刑台に上がったカタリの意識を探ることは、権力者とそれに抵抗する人間の自由への意志という問題と繋がり、現代人の意識にも関係する大切な主題だと思う。 (つづく)

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ベルベルの民話

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

パリの北端、クリニャンクールの「蚤の市」にアンテイークの店に囲まれて一軒の本屋Clignancourt1 さんがあるのをご存じだろうか?

古本屋さんではないのだが非常にユニークな本屋さんで、世界でも珍しいベルベールに関する本だけを売っている。

ベルベール(Berberes)は北アフリカの先住民で,その人口はモロッコに約400万人、アルジェリアに約200万人、他に砂漠の覆面の騎士トウアレグが約50万人と、少数民族なのだが、先史時代から地中海沿岸と山岳部に住み、紀元7世 紀に左手にコーラン、右手に剣を持って侵入してきた征服民族のアラブ人とは違う言語、文化、宗教を持つ。Berb10lettre

戦後フランス文学をサルトルと並んで代表する作家アルベール・カミユはアルジェリア生まれのジャーナリストだったので、「異邦人」「ペスト」などの作品と並んで、山岳部のカビリ地方に住むベルベールの抑圧された生活についてルポルタージュを幾つか書いている。

7世紀にアラブ人に征服される前は、ローマの文化圏であり、キリスト教に入信するベルベールも居た。ローマ・カトリックの教会神学の基礎を築いた聖アウグスチヌスStaug5bon はベルベールの出身である。しかし、そのアウグスチヌスも若いころは東洋のペルシャや中国に淵源を発すると思われるマニ教の信者だった。

古代ローマと張り合うぐらいの勢力のあったカルタゴは、フェニキアの商業とギリシャ文化を継承し、当時地中海沿岸の商業・政治・文化の中心だった。カルタゴは現在チュニジアに在るが、その隣のヒッポンヌという町はアウグスチヌスの時代、キリスト教の僧院があAnnaba1_2 り、現在はアルジェリアのAnnabaという町になっている。アウグスチヌスはこの土地で歿した。

筆者はもう10年以上も前、このクリニャンクールの書店でベルベールに関する珍しい本を何冊か見つけ、それらを参考に、アイテ・ムホクという人物を創造し長編小説を書いた。いつかは発表したいと思っているが、今読み返してみると不備が目立つので書きなおしたいと思っている。

この本屋さんを偶然発見し、興味に惹かれて入ったのだが、店の若いベルベールBerb4 の主人は僕を日本人と見て、嬉しげに話しかけてきたのだった。

「あんた日本人か?日本はキリスト教やイスラムの一神教とちがって多神教だろ。うちらベルベルも多神教なんだよ。おたがい似たような神話を持ってるてことだね。」

そうして教えてくれたのが、ベルベールの民話。まあ、風土記、古事記に当たるような素朴なお話を集めた本だった。幸いにして、それはベルベルの文字ではなくフランス語で書かれていたので僕にも読めた。

今日はまず手始めにムホクが語る人間の起源についての民話をご紹介します。

交代に出たムホクは自作の曲を数曲歌ったあと、ベルベルの民話を語り始めた。
「ベルベルは、世界は神様が創ったなどとは言わない。世界は自然に出来たんだ。自然の中に神様がたくさんいる。多神教のアニミスムの世界だからね。
最初に人間の親がふたりいた。ふたりはそれぞれが男と女だってことを知らなかった。最初の人間はベルベルの神話では地面の中、地底に住んでたんだ。

ある日、喉が渇いたので泉をみつけたふたりは水を飲もうとした。女が先に飲もうとしたのを男がオレが先に飲むって突きとばした。女が転んで股が露出し服が裂けて胸も露わになった。

男はそれまで見たことがなかった女の裸を見た。はじめて男は女の体が自分と違うことに眼を見張った。胸に、もっこり柔らかそうな、大きな果物みたいな肉がふたつ盛り上がっている。それに、下の股には長いものと袋がぶらさがっていない。その代わり穴があいているのをみつけるんだ。

Berb8 男はこの穴はなんだろうと思って、そこに指を突っ込むと女は気持よがって暴れるのを止めた。すると男の股にぶらさがってるものがふくらんでむっくり立ち上がり固くなった。自然に導かれるままに、固くなったものを穴に挿しこんだ。

(ほーっとムホクは溜め息をついた。観客からも溜息が漏れた。)なんて気持ちいいんだろう。男と女はそうやってまぐわったまま三日三晩寝続けた。男が起き上がったのは、やっと四日目の朝になってからだった。

それから九か月たって女は五人の娘を産んだ。五人だよ。それからまた九か月たって、また五人の娘を産んだ。それからまた九か月たって、また五人の娘を産んだ。そのたびにふたりはいい気持を味わった。そうしてまた九か月経ってこんどは五人の男の子を産んだ。また九か月経ってまた五人の男の子を産んだ。こうして女はちょうど五十人の娘と五十人の男の子を産むんだ。

五十人の娘と五十人の男の子は大きくなって両親のもとを離れ、地底を旅に出かける。ある日、割れ目から光が射し込むのを見つけそこから地上に出るんだ。地上に出た男の子たちは地面に寝るのがいやになり、石を積み上げて家を作った。そして川を見つけて水を飲みそこで泳ぐことを覚える。

ある日、川で男の子たちが泳いでいるのを見て娘たちは体が自分たちと違うのを知Berb6 る。裸を見ると心臓がドキドキし、抱きしめたくなるって知るんだな。近づき過ぎた女の子を男の子が見つけて追い駆け、女の子は悲鳴をあげて逃げる。ほかの男たちも追い駆け、ほかの女の子たちが逃げる女の子の悲鳴を聞いて助けに駆けつける。

こうして五十人の男の子と五十人の女の子がぶつかりあうんだ。一組ずつ互いに相手を見つけて取っ組み合いをするうちに男の子の股のものが膨らんで固くなり、女の子の胸の膨らみも固くなり下の裂け目がうるおって、自然、でっぱりがひっこみに収まった。こうして人間が増えていったというわけだ。

Amazone6belle ベルベルの神話でははじめは女のほうが男より強かった。つまりアマゾンの世界だったんだな。ある日、男たちは集まって相談した。いままで女たちが上になって愛しあったけど、これからはオレたちが上になって男のほうが偉いんだってことを示そう。そして、それからは、現在のベルベルがみんなそうであるように男上位の世界になったっていうことだ。どうかね。みなさんのウチは男上位かね?それとも女上位かね?」

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2009年5月11日 (月)

帰って来たトラ

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

3月13日夜11時ごろ、いつものように台所のガラス戸を開け、寝に帰って来るはずの「クロ」を呼んだ。ガサ・ゴソっと暗闇で植木の葉ずれの音がして、灰色のケモノが突進してくるのが見えた。はじめ、隣の雌ネコかと思った。鼻面と胸、四つ足の先が白い。近寄るにつれボリュームがずっと大きいとわかった。

猫は両開きのガラス戸の間から顔を突っ込み、ためらわず室内に入ってきた。隣のTorajardin2cadre メス猫なら考えられないことだ。勝手に入られては困るので、ネコの胸元に手を当て、侵入を停めた。ネコは顔をあげてこちらを見た。

「トラあ!」誰あろう、それは、死んだと思っていた「トラジ」ではないか。
「トラジーい!・・・オマエかあー!・・・もどってきたのかあー・・・」
思いがけない再会だった。車にハネられたか、毒を盛られて殺されたか、猟銃で撃たれたか。いづれにせよ、あれほど毎日何度も姿を現し、エサをねだり、昼寝をし、夜も泊っていったトラジがぷっつりと姿を見せなくなり、町に出るたび、どこかで見かけるのではないかと探したが、道を歩く影さえ見かけなくなってしまっていた。

去年の七月、クロが居つくようになり、二匹がハチ合わせすると、どっちかが唸り声を挙げ、あわや取っ組み合いの火花が散る寸前に両者を引き離して隔離し、どうにか和平工作を繰り返してことなきを得ていた毎日。ある日、家内がトラを抱こうと手を触れると「ぐうー」と低い唸り声を発し出て行ってしまった。それきり、ぱったり姿を見せなくなってから八か月が経っていた。

トラの身の上にもしや不幸がと心配するカミさんに、飼い主がどっか他の町に引っ越したんだよと慰めていた。
「帰ってきたぞ・・・。トラが・・・。」すでに床に入っていたカミさんに、トラの無事な姿を見せようと抱いて二階に上がったのだが、どちらも予期せぬ出来事にきょとんと眼を丸くして見つめあっていた。仔犬なら尻尾を盛大に振り、顔をなめまわして喜ぶところだが、猫は尾をぴんと立て、顔や胴を擦りつけて喉をゴロゴロと鳴らす。僕にはトラが笑っているようにも見えた。

「やっぱり飼い主が、どこかへ一時的に引っ越ししてたんだな。来たくても来れなかったんだよ。」自分がクロを家に入れたことがトラの嫉妬と怒りを買い、以来姿を見せなくなったと自責に駆られていたカミさんを慰めた。

犬は何百キロと離れた飼い主を探り当てるという話をよく聞く。トラには疲れた様子は見られなかったので、飼い主と一緒に戻ってきたらしいと推測した。

翌朝、カミさんと僕は悲しい発見をするハメになった。トラの両後脚の間にあった丸い玉がすっかりしぼんでしまっているではないか。
「トラは去勢されてしまったんだね。」
「カワイそうに。こんなキレイなネコの種を断つなんて。残酷だわ。」
カミさんは、ほんとうに悲しいらしく涙を流し始めた。

オス猫は、いつでも家を跳び出して3・4日帰ってこないから、飼い主が獣医の勧めに従ってタマを抜いてしまったんだろう。このほうが、ケンカもせず、ネコのエイズにもかからず、長生きするって獣医も言ってたし、かえってイイかもよ。涙ぐむカミさんに慰みに言った。

Torapannier1 それからは、また毎日トラはウチに出入りするようになった。いや、前にも増してウチに居る時間が長くなった。夜出ていった場合は、朝ドアの前で待っていて、窓の鎧戸を開けると「ニャオ」と挨拶する。

八か月もの不在のあいだ、ウチのことが忘れられず、町に戻ってくるや、飼い主(もはや飼い主はウチで、その方は名のみのオーナーというのが正解か)の家を抜け出て、真っ先に駆けつけたのか。

そこまでウチが気に入ってくれてたのかと思うとまんざらでもない気がするが、オーナーが誰なのかわからないのが気になる。流感のワクチンを去年打ったのだが、一年後にもう一度打たなければ効き目がないというので、クロを連れて行った時に獣医さんに訊いてみると、「他人のネコにまで予防接種してやることはないじゃないですか」とあきれ顔をされた。ついでだと思って、オーナーを知りたいので、これこれこういうネコの去勢手術をした覚えはありませんか?と訊いてみた。獣医さんは、「わたしは数えきれないほどの去勢手術をしてるけど、いちいちネコの顔を覚えてなんかいない。飼い主の名前がわかんないとダメ。」と言われた。

トラの後にウチに来た「クロ」は、トラが居なくなった間、すっかりウチの主になって、ワガママ放題。しかも青年期の盛りで、エサを食べる時間ももどかしく、近所のメスネコと寄ってくる5・6匹のオスネコの動向が気になるらしく、食べると早々に出て行き、夜も帰らず、疲れきって朝帰りすることが多くなっていたが、兄貴分のトラが帰ってきたので、ますます、遠慮がちに、ほんとうに腹が減った時しか、戻らず、ガツガツとエサを呑み込むと、またそそくさと出て行く。

喧嘩があると買って出るような侠客「幡随院長兵衛」みたいな風格のあったトラはすToracouchecadre っかり女性的になってしまい、寝てばかり。いつぞやの小説で書いた小池君が、50年前の高校の屋上でやってみせた、ポツダム宣言を受諾した帝国日本が「コレされちゃったんだ」と手刀を股の前で振り下ろす仕草を想いだす。

「こんな美男のオス猫のタネがなくなるなんて。」とトラの遺伝子が絶えてしまうことをカミさんは相変わらず嘆く。クロはクロで食欲も忘れるほど、近所の愛猫の尻を追っかけ回し、ホテイさんみたいに太っていた腹が、腰骨が浮いて見えるくらいに痩せてしまった。鼻を突き合わすたんびに、牙を剥いて敵意を露わにしていた二匹が、どうやらお互いの存在を認めはじめたらしく、冷たい篠つくような雨が降っていた今朝、一緒に入ってきて、クロの方が少し遠慮がちではあるものの、仲良く並んで餌を食べ始めたのには、カミさんと顔を見合せて笑ってしまった。

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2009年5月 4日 (月)

三人の美智子-その5「友への手紙」

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

わが友「畑和秋」へ

君が北米インデイアンと白人の混血「メチス」の子供たちの学校の設計でカナダ建築賞を受賞したと知った時、すぐお祝いに駆けつけたいと思った。日本に住む坂井とフランスに住む僕とが太平洋と大西洋を飛び越え、ロッキー山脈の麓のエドモントンに住む君の家で落ち合う。

高校時代の悪友三人が連絡を取り合い、この地球規模の再会を果たそうと胸をおどらせた。結局は多忙な社長職の坂井がスケジュール調整がつかず「キャンセル」と電話してきて、この夢は実現せず、ぼく一人が君の家を訪ねたのだった。

Rocky8 君のジープにテントを積み、カナデイアン・ロッキーをキャンプして回り、山の湖で鱒釣りをしたあの日々のことは今も忘れない。君の無償の友情にどんなに感謝してることだろう。

受賞の弁に君はインデイアンと白人の「メチス=混血」の子供たちの学校に設計のモチベーションを感じたと書いていた。

君は中学二年の時に僕と同じ中学に転校してきた。制服の詰襟のホックを外したまま、荒っぽい声を挙げて喚いたあと、肩をゆすって、大股に走ったりする君の姿を見て、すこし「不良」っぽい少年だと僕は思ったものだった。

その年の正月が過ぎたばかりのまだうすら寒い頃、「小松川高校殺人事件」が起きて世間を騒がせた。東京地裁は逮捕された十八歳の少年、李珍宇に対し「死刑」を言い渡した。李珍宇がまだ未成年だったことが「死刑」の記事を読んだ僕を強く印象づけた。

李少年は亀戸の朝鮮人部落で生まれ、極貧の家庭に育ち、教科書も買えず、手で書き写して勉強していたが、知能指数が135もある頭脳明晰な子で、中学では生徒会長をしていたという。僕は中二の時、人気投票で生徒会長になったことから、李珍宇に関するこの記事を読んだ時に、他人ごととは思えない感じがした。

ちょうど君が転校してきた頃、李珍宇自身は嫌がった控訴を、家族が行ったが、東京地裁が控訴を棄却したという記事が新聞に載った。少年法の適用外とされ「死刑」の判決を受けた李珍宇を救おうという運動が有名作家を交えた少数の文化人の間に起こり、運動の主導者である女性と李珍宇との往復書簡が新書版で出版され、高校生になっていた僕は小遣いをはたいて買って読んだ。

李珍宇の父親は、大正7年(1918年)に、造船所で働いてくれという言葉を信じて日本へ渡ってきたが、実際は炭鉱に送られた。戦後、日雇いをしていたが、稼ぐ金はすべてアルコールに費やされたという。李珍宇は小学5年の時に、近所の2歳ほど年上の少女と性的関係を持ったというから、ずいぶん早熟だなと僕は思った。

理数系の成績は良くなかったが、国語と社会が得意だった。彼が愛したのがドストDosto2 エフスキーだったと知って僕はこのロシアの文豪の小説を読み始めたのだった。あとで、ソーニャの愛に導かれ、広場で殺人の自白をするラスコルニコフと従容として死刑を受け入れた李珍宇の心理とはどこかで通じるところがあると思った。

中学を卒業した李珍宇は家が貧しかったので働かねばならず、日立製作所、精工舎などを希望したが、韓国籍のために就職できず、町工場を転々とした。月々貰う給料はすべて家に入れていたという。事件当時は自転車のベルを作る工場に勤めながら、小松川高校の夜間部(定時制)に通っていた。

李珍宇は四月に、23歳の工場賄婦S子さんを強姦致死に追いやり、さらにその年の8月に18歳のY子さんを殺害した。

S子さんは、男のような服装をして自転車に乗っていたので李は後を追いかけ、道路わきの田んぼに押し倒して首を絞め、気を失ったところを姦淫したが、S子さんが意識をもどしたので再び首を絞めて殺害した。

書簡集には、そのときの様子がありありと書かれていて、僕は読みながら心臓の鼓動が高まるのを抑えることができなかった。李少年の文通の相手は2歳ほど年上の女性で、李が「わたしは死刑に値する極悪人で、死刑は当然だ。早く死の償いをしたい」と周囲の人々に言い、カトリックに帰依して熱心に聖書を読み、すでに改心しているのをみて、上告すべきだと勧める。書簡の大半は李が読んだ聖書の話と、どうにか上告して命を永らえるよう説得する女性とのやりとりだった。

Y子さんを夏休みの小松川高校の屋上で殺害し、死体を屋上の鉄管暗渠に隠した。そして、証拠不十分で迷宮入りをしかけていたS子さんの事件も、おれがやったと新聞社に何度も犯行声明の電話をするのである。

一度は新聞社が警察へ届けるが「いたづら電話」と片付けられてしまう。再度新聞社に電話が掛り、その時は記者が「声がちがう。偽者だろう。」と断定すると、むきになって殺人の詳細を30分にもわたり語った。電話の逆探知をするが僅差で間に合わず、犯人は取り逃がす。しかし、公衆電話で電話していた姿が目撃され、複数の証人が出て、犯人逮捕に至った。

犯人の異常な心理を問題視する前に、これはやはり、日本に生まれながら国籍は韓国のまま在日朝鮮人として扱われ、家が貧しいゆえに、頭脳明晰なのに普通校へ行けず、韓国籍のために大企業に就職できなくて、町工場ではたらきながら定時制へ通い勉強していた。不遇な青春を送らざるを得ず、無言のまま社会の片隅に見捨てられ、年老いてゆく。そうした不条理に李珍宇がもはや耐えられない、という状況にあったのだろうと僕は想像した。

死を覚悟して、日本人社会を糾弾するために犯罪を犯し、自ら犯人はオレだと名乗り出た。「罪と罰」のラスコルニコフが広場に跪いて告白し、シベリアに送られると同じ心境で死刑を受け入れた。新聞社への犯行声明は、少年が日本人社会に抱いていた「怨念」を日本人にぶつけ、あからさまにしたい。迷宮入りなどにはさせない。在日朝鮮人のオレがやったことを日本の世間へぶちまけて曝したい。そういう表示欲にいたたまれなくなったのだろう。李少年は、自殺志向に駆られ、自ら新聞社に通報し、逮捕させるよう仕向けたのに違いないと僕は思った。

君は、色白で形の良い鼻をしていた。僕と同じ高校へ入学し、同じクラブへ入った。バスケの練習が終わり、その日は僕と君が当番だったので部室に残り、片づけて掃除したあと、座り込んでボールに保革油を塗っていた。部室の壁に掛けられたランニング・シャツからはすえた汗の臭いが発散し部屋中に籠っていた。

「おれはな、子供の時に小児麻痺やって、右足がちょっとみじかいんよ。」
君はボールを放り出して床に横向きに寝そべり、右腕を肘枕にして頭を支え、僕を見て、けだるそうな声で言った。

「それに、おれはなあ、日本人やないんよ・・・。宋いうてな、パスポートも韓国のままなんや。」
僕はそのとき、李珍宇とその父親のことを思い出した。日本が韓国を統治していた戦前や戦争中、不足した労働力を補うために、韓国の男たちを強制的に日本へ連れて来て働かせた。そう、本で読んだことがある。畑の父親も若い頃、トラックに無理やり乗せられて連れてこられたのか?僕は、ほんのりと黄色味がかった宋の白い肌から、うっすらと匂う大蒜の臭いを嗅いだ。

Heine3 宋の姉は日本人の男性と結婚していて、宋はふたりのアパートに置いてもらっていた。兄さんの影響か、宋は詩や小説をよく読んでいて、いつだったかハイネの「歌の本」という詩集を貸してくれたことがあった。

「君は花のように・・・」という詩をどんなに胸をときめかせ書き写して暗誦したものか。後年知ったことだが、ハインリッヒ・ハイネはデュッセルドルフ生まれのユダヤ人で、若き日のマルクスとも親交があり、やがてはライン河を越え、パリに移り住み、サン・シモンなど空想的社会主義者たちと交友を結び、最後はパリで死んだ。

「君は花のように・・・」という小恋愛詩は人々に愛され、シューマン、リストなどが曲をつけて歌われている。

君は僕によく「早くおれはこういう苦しみから脱けられるようになりたい。」と言った。上級生の美人の慶子さんを恋してしまったのだ。一日の授業が終わり、掃除当番が教室を箒で掃いているあいだ、窓の框に腰かけていた君は、慶子さんが俯きがちに、早足で校門へ向かうのを見届けると、鞄をとり、さっと窓から飛び降りて、慶子さんの後を追いかけていった。

数日後、僕が君のアパートを訪れると、「ああ。長嶋。オマエか・・・。ちょうど、ええとこ、来てくれたワ。ひとりで、くさっとったとこやったから。」君は部屋の隅に丸まって寝転がっていたと見えて、ふたつに折り畳んだ座布団や雑誌が散らかったまま置いてあった。まぶたがはれぼったいような、頬がすこしむくんだような表情だったが、もしかしたら不貞寝どころか泣き寝入りをしていたのかもしれなかった。

「きのお、慶子さんを追っかけていってな。つきおうてくれ、いうて頼んだんやけど、断られたワ。お友達としてならいいけど、恋人にはなれません。もう決めたヒトがおるんや。いうてな。」

愛というのは残酷なものだと僕は今でも思う。恋しい相手が、想いに応えてくれるのは稀で、ほとんどが悲恋と失恋ばかりだ。
「プラトンの饗宴。あん中で、アリストパネスがいうやろが。アンドロギュロスて。男とAmour9 女はもと背中合わせの一体だったゆうて。それと、ソクラテスがデイオテマの口をかりて言うでしょう。エロスいうもんは美とゆう徳を希求する欲求やゆうて。おれのイデアゆもんが、前にイデアの世界にいたことがあって、そのときの記憶が、いまのオレに慶子さんが理想の女や、いうてる気がするんや。」

僕は、その後もずっと君が慶子さんを恋し続けていたことを知っている。高校を卒業して5年も経った頃だったか、君が働いていた建設現場へ僕が遊びに行き、その晩、仮設ハウスに泊まった。君が慶子さんへの切ない想いにうなされ七転八倒する姿を僕はこの眼で見ている。

そして、なおも人生の不思議を感じさせることが起こった。僕がフランス語圏のプロジェクトの入札書類を作りに日本に帰った数カ月の間に、ひょんなきっかけから、君の慶子さんの結婚相手が、なんと僕の勤務している会社の課長だったと知った時の驚き。僕は、このことを君に伝えるために君に会いにエドモントンヘ行ったのだ。

Stendahl1 僕は、君の恋はスタンダールの言う情熱的恋愛かと思っていたが、いまでは、むしろ、もっと北方のドイツ的な、たとえばゲーテの「若きウェルテル」のシャルロッテに対する恋と似ていると思う。

僕らの思春期の胸の思いというのは、どちらかというとドイツ的なGeoethe1 ものらしく、君も成人してから後も、長くこの胸の高まり、魂の昂揚を持っていたし、青春とは年齢と関係なく、いつまでも高い理想を胸に抱き続けることだと、いつだったか年賀状に書いてくれた。

カナダから帰った君は50に手が届く年齢で、もういちど数学をやり直し、みごと一級建築士の試験に合格した。久しぶりに帰京した僕に、前年100年記念とかで幹事役になった君達が同窓生名簿を編纂したが、僕の意中の人は行方不明だと君は告げた。「キミのミチコさんなあ・・・。ゆくえがわからんぞ。」

美智子は当時20倍ほどもの競争をはねのけて、男ばかりの中の紅一点、ストレートで東工大の建築学科に入った。立派な建築家になって、君と同じほどの業績を残しているだろうと想像する。

なぜ美智子をあんなにまで愛したか?今になって考えると、やはりそれは、彼女の知性に惹かれたのだと思う。美智子はつねに数学の成績が一番だった。中間試験、期末試験ごとに、数学の教師は答案を成績順に返したが、美智子がいつも真っ先に呼ばれた。数学はいつもゼロに近い点数だった僕はみじめな思いにうちひしがれたものだった。

Platon1 僕は入学早々、算数から数学への突然の飛躍についてゆけず、自分の怠惰を幾何の公理の表現のまずさのせいにして、以後三年間数学は落第点ばかり、お情けで進学させて貰ったひとりだった。だが中学までは算数と理科が得意科目だった僕は、いつも数学がトップの美智子に精神的に惹かれていたのだと思う。心の内で彼女を慕いながらも現実には近寄りがたい存在として、崇敬の念が湧きあがるごとに、かなわぬ恋の絶望に突き落とされ、受験前の悩ましい時期に一層の悩みを重ねた。

生徒会執行委員長だった丹羽が僕にミンセイに入れと勧誘に来た。僕は唯物論を信じる確信が持てなかったのでどうにかその場をやり過ごして逃れたが、唯物論か唯心論かの問題はその時から、ずっと尾を引いている。

親の家を出て新聞配達をしてでも信念を貫くべきだという丹羽の主張は受け入れ難かった。それを言う丹羽本人は、大脳生理学をやるんだと自分の進学と受験勉強を正当化していた。

確かに人間の精神と心の働きの大部分は大脳が司っている。精神は脳細胞とニューロンとシナプス回路という物質構造の機能・作用と言い切る人もいる。ただ、僕は、高三の時、美智子さんへの悩ましい想いでいっぱいの自意識で頭がヘンになりそうだと感じながら、観察者と観察の対象の関係ということを考えたのだった。

受験まであと数か月という時、僕は新宿の大ガードの下でバイクが倒れ、警官に囲まれて地面に一人の男が横たわっているのを見た。遠くからも倒れた男の頭の付近が濡れ、アスファルトに割れた男の頭蓋から脳漿が流れ出て、脳の一部がはみ出しているのが認められた。

その時、僕が考えたのは、「あの、表にはみ出てアスファルトに触れている脳は自分が死につつあるということを自覚するのだろうか?」ということだった。

自意識過剰に僕は取り憑かれていた。受験の一か月ほど前、健康診断にクラスの全員で学外の診療所に行った。待合室に20人ほどの級友が座り、その中に美智子も居た。僕は、膨らんでゆく自意識が部屋全体を覆い、彼女の頭脳にも確実に僕の意識が伝わっていると信じこもうとしていた。もとより、それは根も葉もないことで、その両極の間を自意識が揺れ動き、壁に頭をぶつけ、物質のもつ固さを借りて確かさを確認していた。気違いと紙ひとえのところに居たと今も思う。

前回、新宿で会った時は、坂井がワザと盛った新潟のなんとかいう「足をとる酒」がSocrate1_2 効いて、僕は酩酊し、君ともどこでどう別れたか、まったく記憶がない。坂井が、例によって、行きつけのバーに連れて行ってくれ、眼の前に、マダムの白い顔がほころびるのを覚えているだけ。後は、前後不覚、気がついたら、小田急に乗っていて、二駅乗り過ごしていた。あわてて降りて、ホームを替わる時に、エスカレターで転び、後ろの子供づれの婦人が「あぶない」と声を挙げたのを覚えている。それからは、ほうほうの体で、どうやら親の家に辿り着き、ひと眠りし、5時前に起きて、成田行きの電車に乗った。

「これが、今生の別れになるかもしれんで・・・。」
二年前に会った時も坂井はそう言ったが、その後ますます盛んで、社長業の傍ら仏道修業して、めでたく得度式をあげたんだから、たいしたもんだと感心する。あいつも一度、生死の境目を彷徨う目にあってから、考えるところがあったのだろう。学徒動員で、お袋さんのお腹にいる間に、お父さんは戦死し、父親の顔を見ていない坂井は早熟だったし、人生の裏表を見尽くした感じで、僧職に答えを見つけたのかと思う。昔から達筆だったが、毛筆で得度式を迎えたいきさつを書き送ってくれた。

なにを隠そう、坂井に関心を持ったのは、彼が僕の初恋の彼女と同じ中学の出身だったからだ。三人で飲んだ時、その話へ水を向けたが、邪魔が入って触れずじまいだった。いづれにせよ、僕が恋した日本の女性はすべて、ソクラテスみたいに醜男の「あなたには関心がないのね」と僕を振ったヤツばかりなものだから、僕は、こないだの晩と同じように、こけつ、まろびつしながら故郷を抜け出したのだった。
(三人の美智子をこれで終わります。)

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