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2009年6月に作成された投稿

2009年6月27日 (土)

庭のばらシリーズ その2


デジブック 庭のばら シリーズ 2 のお届けです。

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2009年6月26日 (金)

アーサー王伝説-その3

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

ハリー・ポッターが世界的大ベストセラーになった頃。新刊が出るたびに本屋さんの入り口に近い場所、いちばん目立つ棚に山のように積まれ、子供も、子供を持つ親たちも争って買っていた。フランスは特にクリスマス直前に。

DVD の第一巻を見ただけだが、とても面白い。魔法や魔女はいつの時代でも子供を魅了する。大人になった子供も含めて・・・。僕が子供の頃はデズニーだった。Peterpan 「白雪姫」(眠りの森の美女)には魔法使いの婆さんが出て来て毒入りリンゴを美女に食べさせ眠らせてしまう。姫を守るのは森の小人たち。

ピーター・パンは妖精といっしょに空を飛ぶ。僕は翼もエンジンも付けず両手を拡げただけで空に浮き上がり、地上の友達や知っている土地の上を自由に飛んでいる夢をときどき見る。

白雪姫もピーター・パンも実は、ここでお話している「アーサー王伝説」シリーズの中に、妖精とか小人とか魔法使いと一緒に
昔から居た。ブリトンやケルトの神話と民間伝承のだいじな道具立てなのだ。

ハリソン・フォードが現れ、インデアナ・ジョーンズのシリーズが次々と出てからは、伝説が面白くて、いろいろと見た。アーサー王伝説とは知らなくて「エクスカリバー」を見たのもこの頃だった。監督はジョン・ボーマン。この映画のメルラン(マーリン)は他の映画より神秘的に描かれている。魔法の呪文を唱え、ペン・ドラゴンをタンタジェル侯に変身させ、馬に空を駆けさせたりもする。

Excali5 大事な
エクスカリバーという聖剣を「ここ」という時に湖から呼び出したりもできる。戦闘場面はリアリスムで鉄製の重そうな甲冑姿の騎士たちが長く巾の広い剣でガンガン打ちまくり、昔の騎士は力が要ったろうなと同情させる。

この映画では
エクスカリバーを岩に突き刺すのは、敵に追われ瀕死の重傷を負ったペン・ドラゴンで、聖剣を敵に渡してはならじと死力を振り絞って岩に突き刺す。他の映画ではメルランが岩に突き刺している。

「エクスカリバー」のしばらく後に公開された「メルラン」は、映画界で、眼の表情ではナンバー・ワンとされているサム・ネイルがメルランを演じ、イザベラ・ロッセリーニがメルランの恋人ニームを演じている。メルランは、育ててくれた叔母からむりやり奪い、魔術を仕込んだ師匠の女魔術師モーブを憎み反抗する。ふたりの確執が話の主軸に置かれている。

女魔術師
モーブは古い因習と迷信の代表で、メルランはやや近代的?な魔術師。ことあるごとに二人は対立し最後まで争う。メルランは戦乱の絶えない国土に善良な王が出現したことを喜び、アーサー王と彼が築く理想の王国を影に日向に支援する。だが、王国の崩壊の兆しと、アーサー自身が犯した過ちをを告げるのもメルラン。

ところで魔術師メルランも人間と同じく恋する男で、映画では森に棲む普通の人間の女性に育てられ、思春期に偶然森で出会い、流砂にのみ込まれた若く美しい姫を助けて以来、彼女(ニーム)を恋し続ける。

メルランの恋人ニームモーブが仕掛けた魔法でドラゴンが口から吹いた火で火傷をし美貌の顔がMerlin2 焼けただれてしまう。苦に病んで僧院に隠れるが、メルランは終生彼女を愛し続け、すべての騎士たちが死に絶えた後、年老いた二人が森に帰り結ばれる、というストーリーになっている。

伝説ではメルランは
モーブ(ヴァージョンのよりモルガンと呼ばれることもある)の姉でやはり魔法使いのヴィヴィアンを愛している。「呪文を教えてくれれば恋人になってあげてもいい」というヴィヴィアンの言葉を信じて呪文を教えるが、醜男のメルランに愛想をつかしたヴィヴィアンは、教わった呪文でメルランを空中(もしくは氷の中)に閉じ込めてしまう。

でも、
ヴィヴィアンは妹のモーブと違って良心を持っており、「湖の女王」となってエクスカリバーをアーサー王に与える。そして、アーサー王伝説の第二の主人公「ランスロット」を育てるのもヴィヴィアン、「湖の女王」なのだ。

ランスロットの登場の仕方は様々に描かれる。ひとつは、すでにアーサーが王となって領国を巡回の最中、武者修行にフランスから来たという銀色に輝く甲冑を身に付けた騎士が橋の向こうに立ちはだかって行手を塞いでいる。

Lancelot9 勇敢なアーサーは自ら「エクスカリバー」を取り、ランスロットと一騎打ちにおよぶのだ。「ちょうちょうはっし」というより擬音語で書けば「ぐん、ん、がっしゃーん」の戦いが一時間あまりも続く。

アーサーが渾身の力で振り下ろしたエクスカリバーはランスロットの鉄棒をまっぷたつに断ち、鎧を通して騎士の身に決定打を与える。だが、名剣エクスカリバーも二つに折れてしまう。

うろたえるアーサーにメルランが「あわてるな」と助言する。「水に返しなさい。」

アーサーが折れた剣を水に捨てると、水の中から白い女性の腕が現れ、その手Excalibur1 には新品のエクスカリバーが握られている。「はやく、とるがよい。」アーサーは水の中を進み、エクスカリバーを再び手にする。

気絶から息を吹き返したランスロットをアーサーは城に招き、自分と同等の戦力を持つフランスの豪傑を円卓の騎士の序列に加える。

しかし、ランスロットが城門をくぐった時、運命の電撃的な瞬間が待ち受けていた。折しも階段を下りてきたアーサーの伴侶グウネヴア(グニーヴル)王妃とランスロットの眼が合い、二人は雷に撃たれたように恋に陥る。

もうひとつのヴァージョンは、アーサー王とグウネヴア王妃以下側近の男女が列席する御前馬上試合に初めてランスロットが現れる。騎士たちの総当たりの試合で最後に勝ち残るのがランスロット。優勝者は王と王妃の前へ進み出て祝福を受ける。この時、美男で最強のフランス騎士ランスロットにグウネヴア妃は心を奪われてしまうのだ。

アーサーは王となってすぐ美しいグウネヴアを娶った。彼女は隣国カメリアード王の娘でローマ貴族の血を引く絶世の美女。だが、婚礼の式典を前に、メルランは既にアーサーに予言をする。

グウネヴアは最も強い騎士と人知れず不倫を冒すであろう」と。アーサーは信じないが、そのとおりのことが起こり、それが原因となって「真実と徳によって統治される理想の王国・キャメロット」は崩壊するのだ。

Camelot1 ところで、理想の王アーサーは、グウネヴアとの婚姻の直前に、知らぬ間に取り返しのつかない罪を犯す。これは女魔法使いモーブが仕掛けた罠なのだが、アーサーは、それとも知らずに、オークニー王ロットの妃が訪ねてきた折、その美貌に負けて一夜床を共にしてしまう。

実は、この妃はアーサーの生みの母親イグレーヌがペン・ドラゴンの謀略に嵌まる前タンタジェル侯との間に設けた娘モルガンなのだった。アーサーには父親違いの姉となる。近親相姦の罪をアーサーは知らずに犯してしまう。

そしてアーサーとモルガンの間、近親相姦によって生まれた息子モルドレッドは「悪」を代表し、成人してからアーサーと理想の王国を滅ぼしにやって来る。(つづく)

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2009年6月21日 (日)

Ratilly の城で夏至祭り

投稿者: そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

6月20日、ラテイのお城で夏至祭り (Fête de solstice) が開かれた。
一年で最も日が長い日。秋冬は暗く寒い日が続き家に閉じ込められていた人々は、夏、いっせいに戸外で活動を開始する。

夏至の時期、朝は4時半ごろ夜が明け、夜は11時近くまで空にほんのりと薄明かりが残る。昨日まで25・6℃の気温で、やっと夏が来たと喜んだのも束の間、今日は時雨が走り、日中でも14℃と寒い。

Shoumenn ラテイのお城は、ここサンファルジョーから15km離れた山の中にあり、ブルドン湖の脇を抜けた向こう側の、森と牧場に囲まれた美しい田園の中にある。

この地に城の基礎が築かれたのは11世紀のことで、中世から連綿と守られてきた。小さく素朴だが、味わいのあるお城。石は鉄分を多く含み褐色で、漆喰は、この土地のオーカー色を呈している。

現在の城主はピエルロ(Pierlot)一家で、陶芸家ノルベール・ピエルロとジャンヌが1950年にこの城を購入。ふたりのあいだの娘のナタリー
さんは両親の後を継いで陶芸家。息子のジャンとリュックは音楽家になった。毎年夏になると、美術と音楽のstage 研修会が開かれる。尺八のマスターズも開かれた。
Urajoumenn
分厚い樫の扉の入り口から入るとすぐに中庭に出る。お城には珍しく芝が植わっている。城というよ りマノワール(貴族の館)と呼んだ方がいい。

今年の夏至祭りは、写真家ハンス・シルベスターの写真展と夜10時からのフラメンコが呼び物。午後7時のヴェルニッサージュは敬遠し、遅れて8時に着くと、はや中庭は人々がワイン・グラス片手に歓談の花を咲かせていた。

Uekara パリから180kmとあって車で2時間かからずに来れ、いまだ都市開発とはまったく無縁の田園風景に囲まれた田舎だが、住民は、昔ながらの農家と都会を避けて移り住んだ人と半々ぐらいだろうか?雑木林に囲まれた農家風の家がぽつりぽつり建っている。

それらの家は、ほとんどがパリの住民か、オランダ、ベルギー、英国などの国籍の人が別荘として改造し、夏のヴァカンスや週末を過ごすために使っている。

この日も城の周りの泥道に停められた車の3割はパリナンバーのプレートを付けていた。

つい数ヶ月前から、車のナンバープレートの表示法が変わり、新車は、不思議なことに自由に県の番号を選べるというのだが、法律が発効する前の車は、かつてのとおり、下2けたの番号が所有者の現住所の県を示すのですぐと判るのだ。パリならば75で、ここヨンヌ県は89というぐあいに。

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田舎のお祭りのつもりで来てみたが、洒脱なパリの人が多いのでびっくり。土曜日ということもあって子供や若者も結構来ていたが、やはりお年寄りが多い。それも、 なんとなくアーチストが多いのは城主とその子供たち(といっても、もう中年の方たちだ)が芸術家だから当然なのだが。

不況の中で、芸術活動は様々な困難を克服しなければ継続できない。
「ラテ
友の会」というNPOを組織して会費で細々と支えられている。遅まきながら筆者も会員に加えていただいた。

今年はこれまでの活動をHamadaまとめた本を出版したが、そこに寄せられた文の書き手を見ると、イヴ・ボンヌフォワ(詩人)、ガエタン・ピコン(文学者)など名だたる人々。

また、これまでに出展したアーチストには、バルチュス、ダ・シルバ、コルビ ジェ、カルダー、クレーなどがいて質の高さが窺われる。

そして日本から濱田庄司が1963年に
バーナード・リーチとともに、この城に滞在し焼物を作っている。

さらに1996年には備前の陶芸家、山本氏がここで制作展示をしている。

ふたりの日本の陶芸家は、いずれもこの土地で採れる粘土を使い、この城に据えられた、大きな電気炉で焼いた。Kama

夏なのに日中で14℃。遠くからもお城の煙突から煙が昇るのを見て、ああ暖炉に火が焚かれてるなと安心した。

建物の内部の壁は厚く、窓は小さい。
部屋と部屋を繋ぐ扉は小さく頭がつかえそう。
夜の10時にフラメンコが始まる予定だったが、急遽変更され、最初にワインと生野菜とポテトのサラダ、山羊のチーズなど田舎料理が出る。

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城主の一家のナタリーさんもリュックもジャンも台所から両手一杯Dannroにサラダとポテトが入った大皿やパンの入った籠を運び給仕に息も継げない忙しさだ。近所の村の若い男女がボランテイアで給仕を手伝っている。

8月の水彩画の研修会に参加したいのだが、先生も生徒も泊りがけ3食付きで来るので、ボクは近所に住み、夜はカミサンが怖がりなので帰ってもいいか?と訊きたかったのだが、大忙しな様子をみると、お邪魔できなかった。いずれ電話かメールで問い合わせよう。

火を求めて暖炉の周りはすぐに人で一杯になった。
子供たちは、新しい友達ができ、
中庭をはしゃぎ回る。写真展の部屋に来た女の子ふたりを写真に撮る。
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最後にノルベール・ピエルロ(ナタリーさんの父親で1950年にこの城を購入し、窯を設置した陶芸家)の作品が窓の窪みに展示してあるのを見つけカメラに収めた。




Oeuvre



フラメンコを楽しみにカミサンと出かけた昨夜だったが、なかなか始まらず、ついに寒さに耐えかねて、帰りが混雑しないうちに引き上げた。

 

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2009年6月15日 (月)

陶芸まつり-19日にテキスト追加

レーシック 投資信託

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

昨日、6月14日は、ここから10km離れた隣村、サン・ソヴール(Saint-Sauveur)で陶芸祭りが開かれた。この村は、20世紀前半の女流作家コレットの生まれた村で、今も生家と記念館がある。

陶芸祭りが行われたのは、村の入り口にあるラ・バテイッス(La Batisse)という18世紀に造られた大きな窯を持つアトリエとその庭。時折しぐれが走る曇り空にかかわらず、週末を田舎で過ごす人たちで賑わった。

Sfetepotsgensc 日本の益子で開かれる「陶芸フェステイバル」とは比ぶべくもなく、実にこじんまりしたものだが、家族的な雰囲気があってとてもよかった。

若い陶芸家たちが創作陶器を並べたスタンドも5・6軒しかなく、不景気のせいで買う人は少ない。
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むしろ、子供たちが粘土をこねて遊ぶ体験コーナーだとか、中国人陶芸家の指導で、肉厚の大きな鉢を作る人たちの実演コーナーが面白かった。

右は若い女性陶芸家のスタンド      

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左は木立の間に緑の傘をかざしたもうひとつのスタンド





このあたりは北ブルゴーニュのピュイゼと呼ばれ、粘土が採れる。もちろん土器の製作は先史時代から、人類の最も古い制作活動のひとつで、クロマニヨン人の時代からあった。

この地域の陶器生産は14世紀から盛んになり16世紀には、パリや周Sfour1copy辺都市への陶器供給の主要な生産地として栄えた。最盛期は60を超す窯があったという。

右は18世紀に作られ史跡に指定されているラ・バテッスの平窯(登り窯と違って平 らな地面に造られfour couché と呼ばれている)。内部の壁の面はでこぼこで、分厚くかけた釉薬が焼け溶けてガラス状になっている。

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左の写真は、中国風の肉厚甕の制作に余念のない女性

 






16日にここまで書いたのだが、どうも写真の座りが悪いので、テキストを追加します。
クロマニヨン人の時代よりもっと遡ると、この辺は海の底だった。40kmほど東のヴェズレイの近くまで行くと、ヨンヌ川の畔には、5・60mほどの高さの岩がむき出しの崖が連なっている。石灰岩の崖で、1億5千万年前のジュラ紀に形成された。

このことは「めのお」のホームページの「近隣の見どころ」にもちらと触れた。
http://www.sorintei.com/Voisinage/voisin2.html

ヴェズレイの丘の下を流れているのはヨンヌ川の支流のキュール川で、アルシイ・シュル・キュールという場所に大きな鍾乳洞があって中を見学できる。太古にはこのあたりは温かい海の底でサンゴが大量に生息していた。付近にサンゴの化石が出土する。もちろん採集は禁じられている。

石灰石はサンゴの死骸が堆積して出来たものらしい。最近は地球の温暖化でサンゴの生態系が変わり死んでゆくサンゴがあちこちで観察されるという報道を目にするが、太古にも大がかりな気候の変化があったのだろう。

ブルゴーニュはこの石灰石でも有名なのだ。石材を今も切り出している石切り場がある。淡いグレーを基調として青味がかったのや赤みがかったのがある。建材として床に敷かれ珍重されている。

アートの世界では、この石はリトグラフの版として使われた。石版画と呼ばれる所以。最近は天然産が貴重になり合成の版に代わられているようだが、東京都が神奈川県に食い込んだ町田市にある「国際版画美術館」所属のアトリエには大小様々のサイズの石版が棚に並んでいる。天然産と見受けた。

話が跳んでしまったけれども、陶芸祭りで若いアーチストたちが、訪問客のいないスタンドの背後で所在なさそうにしているのを見て考えさせられた。不景気になると個人の創作活動など二の次にされてしまう。

お祭りの日には人出で賑わうが、普段はひっそりとしてさびれゆく一方の気配漂うこの田舎に、なんの縁があってか、引っ越して来た時、「村おこし」のようなことが出来ないかと考えたことがある。

最盛期には60近くあったこの地域の窯も、現在残っているのは2・3箇所しかない。20km離れたサンタマンSaint-Amandにはレンガ造りの窯が残っているが1960年代を最後に火が落とされた。

この辺の粘土は土器が作れる程度の品質かもしれないが、陶磁器といえばセラミック。ファインセラミックはハイテク産業。車のマフラーにも使われて排ガスの浄化にも役立っている。

調べてみるとファインセラミックは工業製品の中で最も高価な素材でグラムあたり何万円もする。それだけ設備投資が要る。工場も大規模になるのだろう。この辺の住人はあるいは、そうした産業化を欲していないのかもしれない。

昔ながらの製法の伝統工芸に人々は郷愁に似た愛情を覚えるのだろうか。個人がそこに付け加えることができるのは意匠、デザインくらいだろう。しかし、それでも現代社会の産業組織に異議を唱え、中世のギルドによる生産と消費の仕組みにこそ真の人間的な価値があったと信じる人は多い。

柳宗悦と濱田庄司は民芸の運動を起こした。柳宗悦は銘が入った有名陶芸家の作品よりも無名の職人たちが「分業」によって大量に作った昔の茶碗や皿にこそ本当の「美」があることを繰り返し主張している。

「民芸」運動についてはいつかまた触れたい。
以上が追加の記事です。

この日はアトリエも公開され、写真も自由に撮らせてくれた。

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祭りの日も制作に励む女性陶芸家がいた。


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2009年6月 9日 (火)

デジブック:ヨンヌ河畔、ヴェズレイの丘、フォントネイの風景です

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

北ブルゴーニュ風景の抜粋です。ノワイエ・シュル・スラン、ヨンヌ河畔、ヴェズレイの丘、フォントネイ修道院など7枚の写真をお届けします。

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デジブック:サンファルジョーの町とシャトーの紹介

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

サンファルジョーの町とシャトー、特に夏のフェステイバルのスナップをご覧ください。

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2009年6月 8日 (月)

アーサー王伝説-その2

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」 :http://www.sorintei.com

イングランド全土の王、ウーゼル(ウーサー)・ペンドラゴンは「ブリタニア列王伝」で Pendragon4 はコンスタンタンII世の末っ子とされ、サクソン人の謀略で王位継承者の兄を殺され、若いウーサーもサクソンとの戦いを続けるが、一旦は敗れ、大陸側のブルターニュに亡命する。魔術師のメルランを伴い、アイルランドへストーンヘンジを運んだりするが、やがて態勢を立て直し、イングランドへ戻り、サクソンを追い払って王位に就く。

「ブリタニア列王伝」は、前回触れたプランタジネット朝の始祖ヘンリーII世の父の側近だったジェフリー・オブ・モンマスによって書かれた。ウーゼル(ウーサー)・ペンドラゴンの父とされる王、コンスタンタンII世は筆者が調べた限りでは、スコットランドの王で900年から942年まで王位にあり、952年に没してゴルフで有名なセント・アンドリュースに葬られた。ハドリアヌスの壁の北側の原住民ピクト族とも友好関係を結び、ノルマン人やサクソン人と戦った。

大ブリテン島はガリアと同じく紀元前50年にローマのカエサルの侵攻を受けた。120年頃、現在のエジンバラあたりの緯度に南北に分かつ壁が造られた。ハドリアヌスの壁は今も残っている。この壁から南側のケルト民族の一派をブリトン人と呼ぶ。壁の北側(現在のスコットランド)に住むピクト人やスコット人はローマの支配にたびたび反抗した。410年以降、ローマはブリタニアから撤退した。

さてウーゼル(ウーサー)・ペンドラゴン(Uther Pendragon ガリア語でWthyr  Pen Driaig または Bendragon)。いずれもドラゴンの頭(かしら)の意で、Pedrは完全な、  Pennはチーフ、ヘッド、頭、 Drognは部族といった意味を持つ。Dragon2_2

今日でも、フランスの革命記念日、7月14日のパレードに欠かさず登場し、軍事パレ ードの興ざめな軍服姿の中に、鎧甲冑姿で堂々と騎馬に跨り華々しさを添えるのは近衛兵なのだが、彼らをフランス人は「ドラゴン」と呼んでいる。

Dragonsには chevaliers、つまり騎兵隊の意味がある。ペンドラゴンはだから騎兵隊の長、司令官を意味したと考えられる。ジェフリー・オブ・モンマスが「ブリタニア列王伝」を書くよりもずっと前のガリア(ゴール)の詩に短いがペンドラゴンが出てくる。

一説によると、ブリタニア司令官で反乱軍を率いてローマに侵攻し、皇帝の座を奪い取ったマクシム。ガリアに渡り傭兵的な存在として活躍したリゴタムス。退役後も現地に残りサクソン人らの侵略者に対して戦い続けたルキウス・アルトリウス・カストウスらがアーサー王のモデルになったという。

最近の映画ではAntoine Fugua 監督、2004年公開の米・アイルランド合作、クリーヴ・オウエン、ケイラ・ナイトレイ主演の「King Arthur」がこのローマの血を引くブリタニア司令官説を基にしている。

考証学的な話ばかりでは退屈なので、少しは伝説の「お話」に入りたいのだが、ヴァリアントが豊富だし全部を書くことなどここでは不可能なので、物語全編に興味がおありの方は、次のサイトに非常に良く書かれているのでご参照ください。
http://www3.ocn.ne.jp/~kenro/history/arthur_story/1.html

「お話」のさわりの部分は面白いし、それ故にこの伝説が、いつまでも人々に愛されるのだと思う。さて、ペンドラゴンはブリタニアを平定するが、コーンウェルのテインタジェル侯は反抗している。しかしやがて二人は和解し、テインタジェル侯はイグレーヌ妃を伴いペンドラゴンの御前に出る。

あまりに美しいイグレーヌ妃を眼にするやペンドラゴン王は「ひとめぼれ」してしまうのである。なんとかしてイグレーヌをわがものにしたい。ペンドラゴンは夜な夜な美しいイグレーヌの幻影に身もだえする。

ペンドラゴンの邪な想いを知ったテインタジェル侯はイグレーヌをテインタジェル城にTintagel2 閉じ込めてしまう。思い余ったペンドラゴンは超能力者・魔法使いのメルランに頼み込む。なんとかしてわが熱烈なる恋情を叶えてくれまいか。叶えてやってもよいが、ただひとつ条件があるよ。陛下とイグレーヌの間に子ができるだろうが、その子を私のものとして手渡してくれるなら、想いを叶えてしんぜましょう。

「よい。よい」子供など二の次だとペンドラゴンは思ったかもしれない。おれが欲しいのはイグレーヌなんだ。ふたつ返事で王様はメルランの条件を入れ、早くはやくとせっつく。メルランの魔法はペンドラゴンをテインタジェル侯に変身させた。

小競り合いの戦闘にテインタジェル侯を首尾よくおびきだしたペンドラゴンは魔法の馬で空中を駆けテインタジェルに忍び込み、忘れ物を取りに返ったような風をして、まんまとイグレーヌを抱く。ペンドラゴンが欲望を達している間に、あわれにもテインタジェル侯は戦いで殺される。

こうして生まれたのがアーサー王なのだ。アーサーは出身そのものに「不倫」「不義の子」といった暗い影を最初から負わされている。「姦通」「不倫」「近親相姦」はアーサー王伝説の重要なテーマなのだ。後にアーサー自身も知らず近親相姦を犯してしまう。まるで旧約聖書の世界だ。

テインタジェル侯を失ったイグレーヌはやがてペンドラゴンと結婚する。生まれたアーサーを泣き叫ぶイグレーヌの手からメルランは約束通り奪い取ってゆく。

ここまでは初期のアーサー王伝説、つまりプランタジネット王朝が権威づけのためにグラストンベリー修道院と結託して家系図をでっちあげる前の民間に伝わる英雄伝としてほぼ共通のアーサー出生に係る秘密である。

コーンウオール半島の先端にはテインタジェル城が今も残っている。海に突き出たTintagel1 岩ばかりの荒涼とした場所で、1990年にここを訪ねたアーサー王伝説研究家の加藤恭子女史は「丸い島がぼこっと海中に突き出している・・・細い地面で陸とつながっている。ほとんど周囲をぐるりと海に囲まれた孤島の雰囲気だ。だからジェフリは三人の兵士でこの細道を守れるとしたのだろう。」と記しておられる。(中公新書:アーサー王伝説紀行)

つまりテインタジェル侯に変身したペンドラゴンが馬に乗って渡ろうにも大変険しい細道を辿らねば城には行きつけない。だからメルランの仕掛けた魔法で馬が空中を飛んで城に忍び込むのだ。

イグレーヌの手からアーサーを奪い取ったメルランはアーサーを小領主に預け騎士として養育させる。アーサーは出生の秘密を知らぬままに成長する。

1155年に英国王ヘンリーII世の命を受けて、ワースが先出のジェフリー・オブ・モンマスの「ブリタニア列王伝」のフランス語訳を完成する。そして、「ブリュ物語」と名付けてヘンリーII世の王妃のアリエノールに献上した。ブリュとは粗暴なとか粗野なとか、まあ豪傑伝といった意味。ここまでは、アーサーはウーゼルの正式な王位継承者なのだが、その後、両親の結婚前に生まれた庶子であり、王位にふさわしからぬ者とされるようになった。メルランの手に渡るとなるのは、13世紀の第一四半世紀と推定される「メルラン物語」(作者不詳)以降のことという。

ところで、このアリエノールだが、アーサー王伝説の変遷と、フランス対英国の歴史にとても重要な人物であり、「宮廷風恋愛」を身をもって実践した、いわばフェミニズムの先駆者なので、少し触れておく。

アリエノールはアキテーヌ(現在のボルドーを中心とするフランス南西部)公の娘で1137年には15歳でフランス王ルイVIIと結婚しフランス王妃となり1147年の第二回十字軍遠征に参加するが、1152年にローマ法王から近親結婚を指摘され婚姻の無効を言い渡される。ふたりの間にはマリー(後にマリー・ド・シャンパーニュ)があった。一説にはアリエノールの不貞が原因といわれるが、いずれにせよルイVIIとは離婚する。

しかし、離婚してわずか6週間後に、アリエノールは11歳年下のアンジェー伯、ノルマンデイー公アンリと結婚する。ルイVIIと近親婚を理由に離婚したが、アンリとはルイよりも近い血縁関係にあった。

アリエノールは兄ギヨームが1130年に早世したため、アキテーヌ公領、ガスコーニュAlienor5 公領、ポワテイエ伯領とフランス全土の三分の一近くを支配する大領主だったので、後にアンリがイングランド王を継承してヘンリーII世になると、フランス領土の半分近くが英国領となってしまう。

アンリII世はラテン語を読みフランス語を話した。プロヴァンス語とイタリア語を解したが、英国の王様なのに英語が話せなかったという変わった国王だった。もっともこの時代、今と違って英語は田舎っぺの言葉で、宮廷では文化の香り高いフランス語が尊ばれていた。特に食卓では「豚」はピッグと言わずポークと言った。この習慣は現代も続いている。

英国を統治していたこの二人はしょっちゅう旅行をして、大陸はノルマンデイーからシャンパーニュ地方、アキテーヌ地方を動き回っていた。今日、車で移動しても大変な時間と体力を要するのに、馬と馬車で移動したのだろうか?驚嘆に値する。ある臣下が重要な用件で王様を捉えたくてもなかなか居所がわからず何カ月も探し回ったという手紙が残っている。ノルマンデイー上陸作戦の記念日に、カイロ、ドイツと廻ってセレモニーに出席し、ホワイトハウスごと移動させてしまう現代のオバマ大統領とは大変な違いだ。

ヘンリーII世とアリエノールの間には5男3女が生まれ、そのうちの一人が、リチャード獅子心王で、末っ子が後のイングランド王ジョンである。

ヘンリーに愛人ができると二人は別居し、アリエノールは独自の宮廷を構え、吟遊詩人や沢山のアーテイストに取り巻かれ、これがフランスの中世からルネッサンスにかけての文学の苗床になる。アリエノールは奔放で沢山の愛人を持っていた。

1173年、二男の若ヘンリー王が共同統治者であるヘンリーII世に反乱を起こし、アリエノールはこれに加担しようとしてヘンリーII世に捕えられ投獄される。以後15年間監禁されるが、1183年リチャードが反乱するとこれを支援した。後にリチャードが即位し、第3回十字軍を率いて遠征すると、摂政としてアンジュー帝国を統治した。

息子の中ではリチャードが一番のお気に入りでリチャードのロマンテイシズムは母親ゆずりだといわれる。

当時としては稀な長寿を全うし、末っ子のジョンがイングランド王のとき、1204年に80歳で死去した。

彼女自身も多産だったが、カステイリヤに嫁いだ同名の娘が多産だったので、政略結婚によるアリエノールの血筋はヨーロッパ各国に広がり、後世ヴィクトリア女王と並んで「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるようになった。

しかし、アリエノールがフランス王とイングランド王の両方と婚姻関係を結んだおかげで、広大なアキテーヌ公領の所有問題を引き起こし、これが後の百年戦争の遠因となった。

さて、アーサー王伝説に戻ると、アリエノールの最初の夫、ルイVII世との間に出来た娘がマリー・ド・シャンパーニュで彼女はまた母親の性格を受け継いで、音楽、文学のメッセナの役を果たす。クレテイアン・ド・トロアはマリーのパトロネージュを受けて宮廷に仕えた。

Troyes1 クレテイアン・ド・トロアが韻文で「荷車のランスロット」と「ペルスヴァル、グラアル(聖杯)」をマリー・ド・シャンパーニュの依頼を受けて書いたことがアーサー王伝説に新たな展開を導入することになる。

シャンペンでおなじみのランスから南に130kmほど下ったところにトロアという町がある。土の壁に木の柱(コロンバージュ)が剥き出しになった昔のままの家が残っている中世の雰囲気を湛えた町。ランスロットというアーサー王に次ぐ豪胆な騎士と ペルスヴァルという敬虔な騎士とを創りだした詩人は文字通りにとればトロアのクレチアンでこの町と何らかの関係があったと推量されるが、彼の生涯に関しては、ほとんど分かっていない。

次回は、いよいよランスロットの登場です。 (つづく)

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2009年6月 7日 (日)

あじさいの色

投稿者:「叢林亭」改め「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

前々回のデジブック「ばらのシーズン開幕」に付録として「あじさい」の色と土壌の酸性度について書いた。取りあえずのつなぎとして確認もせず、うっかり「アジサイ」は土の酸性度を測るリトマス試験紙と書いてしまった。

北フランスの車工場でお互い通訳として知り合いになり、ボクが定年退職した後も、なにかと大変お世話になっている「ていこ」さんは、パリにお住まいであるが、さっそく「アジサイ」と「リトマス」試験紙は反応後出てくる色が逆ですとお叱りを受けてしまった。

リトマス試験紙は中学の理科の実験で教わったきり50年以上も見ておらず、PH<4.5の酸性では赤、  PH>8.3のアルカリ性では青く呈色することなど、すっかり忘れてしまっていた。とにかく酸性度によって色が青とか赤に変わるんだから似たようなもんだわいと雑な思いつきで書いてしまった。

技術翻訳家としても活躍されている「ていこ」さんにとっては、このような雑な認識は許しがたいことであろう。ボク自身40代までは、そのような反応をした。こうした指摘をしてくれる友人を持つということは有難いことだ。

知人の「お叱り」によって眠りかけていた探求心がちっとばかり目覚めた。いったい何故アジサイの花の色が変わるんだろう?ボクが調べられる範囲はWikipediaを覗くぐらいに限られるが、それでも十分なだけの知識が得られた。有難い世の中になったものだ。

「リトマス紙」と「あじさい」についての調査報告の前に、写真をご覧ください。昨年うちの庭(フランスのピュイゼ地区)に咲いたHortensia (Hidrangea)です。いつもコメントをくださるkozouさんへの、これはプレゼントです。葉っぱも見えるように2枚載せます。

S3ortansia まず、リトマス紙。リトマス苔という天然の地衣類から採れる染料で作るなんて知らなかった。発見者は1300年ころスペインの化学者デ・ビウノバ。リトマス紙は酸性かアルカリ性か、およその判定しかできず精度に限界があるので中学生向きということか。

PH度をも少し正確に測るには、万能試験紙(PH1 〜11), BTB溶液、紫キャベツ液などがある。アルカリ性で赤になるのはフェノールフタレイン溶液。

つぎに、あじさいについて。上の写真は一般に「アジサイ」という名で普及しているが、正式には「セイヨウアジサイ」というらしい。もとは日本原産の「ガク(萼)アジサイ」を改良し、このようにこんもりした形になった。

花弁に見えるのは本当はガク(萼)で、すべてが装飾花に変化したものという。

ところで、いよいよ花の色と酸性度だが、「土壌のPH(酸性度)が青紫から赤紫へと変化する花の色を決定するのではない」と知って、驚き、認識を改めることができました。前々号で、浅はかさを露呈したことをお詫びして訂正させていただきます。

決定要因は「アルミニウムイオン量」なんだそうである。土壌のPHは花色を決定する要因の一つに過ぎず、「花弁に含まれる補助色素」によっては、いくら酸性土壌でも青色になり得ない、なり難いものがある。

仮に酸性土壌でも、地中のアルミニウムの量が少なければ花は青色にはならない。「PHは地中のアルミニウムがイオン化する量を左右する要因に過ぎない。」
これが本日得た貴重な結論です。

Sortansia2

「アジサイ」の学名はHydrangea で「水の容器」の意味。日本語の「あじさい」の語源は藍色が集まったもの「集 真藍」(あづさい)がなまったものだという。

「紫陽花」の字が当てられるが、これは唐の詩人白居易が多分ライラックに名づけたものを日本の学者が誤用してから流行ったそうだ。

フランス語の通俗名は「オルタンシア(Hortensia)」で花の名前としてはボクは一番好きだ。フランス語を習い始めた頃使ったテキストに、「怪盗ルパン」でおなじみのモーリス・ルブランが書いた「八点鐘」という短編に「オルタンス」という名の女性が出てくる。

もっとも有名なオルタンスという名の女性はHortense de Beauharnaisで、かのナポレオン1世の最初のお妃ジョセフィーヌの連れ子だった娘 。オランダ王ルイ・ボナパルトと結婚しナポレオン3世の母となった人である。

ちなみに、hortensia は古典ラテン語の庭を意味するhortus の女性形で、ラテン語では「あじさい」は「庭」そのものだったのである。日本や中国の庭にアジサイが広く植えられていたことからきたという。

園芸の分野では東洋(日本と中国)がどれほど西洋のこの世界で重要度を占めているか、これ一つをとっても伺い知ることができる。今日は、思わぬところまでお勉強ができました。ていこさんありがとう。

最後に、昨夜、ホームページのトップページを全面的に更新しました。タイトルを「叢林亭」から「りゅーらる」と変えました。URLは今までどおりです。ゲストハウスを後退させ、地域の紹介を主体とするグラフィック・マガジンへとシフトしました。日本とフランスはまだ遠いです。


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2009年6月 5日 (金)

アーサー王伝説-その1

アーサー王伝説中央アジア起源説に触れる前に、そもそも既存の伝説がいかなるものか概略を記しておきたい。むろん読者の中には筆者よりずっと詳しい方もおらArthure3 れるだろうが、おさらいの意味で、我慢を頂き、暫くお付き合い願いたい。

古典的な出版物として日本で最も古く出されたものに、ブルフィンチ(Thomas Bulfinch 1796-1867)著「中世騎士物語」野上弥生子訳(岩波文庫1942年)がある。さらに、夏目漱石が短編「薤露(かいろ)行」をテニスン 「シャロットの女」と「ランスロットとエレイン」を基にして書いている。

ワーグナー作曲の「トリスタンとイゾルデ」はフランス語の古典文学作品がもとにあるが、アーサー王伝説の中のエピソードとして取り込まれた悲恋物語。文献を遡ってゆけば、9世紀前半の僧ネンニウスが著した「ブリトン人史」をもって嚆矢とする。最初に「聖杯」が現れるのもこの書。

以来この伝説はヨーロッパ中どこへいっても知らない者はいないというくらい民衆に広まった。様々の異説、ヴァリアントがあり、細部になると多少の違いがあるものの全体の話の筋、テーマは一緒。現代に至るまで、映画、ミュージカル、アニメに格好の材料を与え続けている。

アーサーという賢王による理想の王国の建設。理想の王国が達成し、国土と領民に平和と豊饒が続くかと見えたのも束の間、アーサーの出生そのものが抱える宿命 と、敵の謀略からグイネヴィア王妃を救い出した騎士ランスロットと王妃の間の禁断の恋。

慕いあいながらも不倫だけは避けている二人の関係を、周囲の騎士たちが猜疑のTable_ronde1 目で見始める。理想の王国はアーサーが望んだ円卓の騎士団の、王国への忠誠と騎士相互の団結、上下の位階を取り払った衆議による統治も、いちど蝕まれた猜疑心は悲劇を迎えなければ覚めることはない。王国は、崩壊への道を転落してゆく。国は戦によって荒廃し、不作と疫病の流行で民は塗炭の苦しみを味わう。

そこかLancelot12ら騎士たちの聖杯探求が始まる。荒廃した国土に、ふたたび平和を取り戻すには聖杯を見つけ出す必要がある。しかし、あてどもない探求に大方の騎士たちは途中で疲れ果て命を落とす。最後にもっとも貧しく敬虔な円卓の騎士パーシバルだけが聖杯のイメージを見る。

このように、結婚外の恋こそがほんとうの愛とする騎士道物語に共通の宮廷風恋愛。禁断の恋。不倫への猜疑心。自身の潔白を証すために貴婦人に名誉と命を捧Chevalier2 げる騎士同士の馬上槍試合。そして聖なる理想の永遠の探求といった重要なテーマが全体を貫いている。

フランスのブルターニュ半島を旅行すると、主要な観光地には必ずアーサー王伝説関連のグッズを売る店がある。アーサー王伝説はケルト人の英雄譚をベースに様々の民間伝承が付け加わって作られている。全体を包む雰囲気にブルターニュとブリテン島の深い霧がある。幻想的な霧の中から王や后や騎士たちや魔女や魔法使いが現れてくる。

ブルターニュには先史時代からドルメンやメンヒルといった巨石文化の遺跡が随所にあり、イングランド南部と共通の文化圏だったことを示している。巨大な石の柱が円を描いて立ち並ぶ場所は教会か神殿か、なにかの神聖な祭事が催された場所だったのだろう。ドルイドと呼ばれる聖職者は、医者、薬剤師、預言者であり、超能力の保持者として王のアドバイザーだった。また民族の「語り部」として重要な役割を担っていた。

Merlin1 アーサー王は、こうしたドルイド、Merlin (フランスではメルラン、英語ではマーリン)に育てられた。アーサー王の出自に入る前にブルターニュと聖杯(グラアル)について触れておこう。グラアルという言葉はもともとフランス語、というよりラテン語でcratalis(壺)を意味する言葉が起源だという。ラングドックには今もgragalというテリーヌが残っている。

9世紀後半にネンニウスが書くずっと前からブルターニュには伝説として、汲めども尽きない泉、いくら食べても中身がなくならない鍋とか、無限にイドロメル(ゴロワ人の典型アステリックスが主人公の漫画にも魔法の飲み物として出てくる)を出す甕だとかがあり、グラアルの原型だともいわれている。Graal1

現にブルターニュ半島の付け根、この地方の首府に当たるRenne の近くにはメルランの森と涸れない泉が現在もある。一見なんの変哲もない普通の森なのだが、知り合いのフランス人はここを訪れて道に迷ったと言う。彼の友達のほとんどが泉を見に行った帰り道に迷ったという。

異教の伝説にあった魔法の食器がだんだんキリスト教化されてグラアルに変わっていった。キリストの最後の晩餐で使われた杯だとか、十字架にかけられたキリストの血を受けた器だとか。キリスト教の聖なる器としてイメージづけられてゆく。

十字軍が東方遠征から持ち帰った聖人の遺骨だとか、キリストの血だとか、十字架だとか、イエスを刺した槍だとか、中世に盛んにキリストと関係ある聖なる異物がヨーロッパに運ばれたことと関係があるだろう。

どの国の神話にもあることだけど、英国王アンリ二世がプランタジネット王朝の正当Henri23 性を強調しようという政治的な意図のもとにアーサー王伝説と聖杯伝説をキリスト教的に結び付けて、神秘的な土台を築くことで、大陸でのブリテン島王朝への忠誠心を高めようとしたということもできる。

アンリ二世は僧院と語らってアーサー王の墓まででっちあげた。

ブルトン人の伝説では、アーサー王は542年にカムランの戦いで傷つき、救われてアヴァロン島へ運ばれ、ウエールズのカエレオンで円卓の騎士団を創る。ブルトン人はいつかはアーサー王が帰ってくるはずと待っていたのだが、アンリ二世はこのブルトン人の期待を砕いてしまうことをやる。アーサー王から超自然と不死の伝説を消して、自分の先祖で実在の王だったことを証明するために、グラッドストンベリーの僧と結託し、1193年にアーサー王とグウイネヴィア妃の墓が発見されたなどと、まことしやかなウソを作り上げた。つまり伝説のアヴァロン島は実際はグラッドストンベリーだったとするわけだ。

伝説の面白いところは、まったくのフィクションじゃなくて、現実の裏づけがどっかにあるはずだとみんなが探し回ることだろう。アーサー王の墓が発見された。そらみGraal4 ろ。実在の人物だった。聖杯伝説のグラアルも、それが隠されている城が実際どこかにあるはずだと探し始めた。聖杯をその目で見たとされているパーシバルやガラハットに続くグラアルの探求者がぞくぞくと出てくる。コーンウオール、グラッドストンベリー、ドイツのウイルデンベルグだとか、フランスのカステル・デ・モンテだとか、カトリックの聖地ルルドとか、レンス・ル・シャトーだとか。そして、ピレネーのモンレアル・ド・ソスとモンセギュールが主要な候補地となった。さらに中世のドイツの詩人ウオルフラム・フォン・エッシェンバッハがパーツイヴァルを書いたのがきっかけでグラアルの詩はドイツをはじめヨーロッパ中で流行する。その上に、シトー派の神秘主義がグラアルを聖餐の聖杯と恩寵と光明の探求に結び付けた。(つづく)

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2009年6月 4日 (木)

ばらシーズン開幕

6月。爽やかな初夏に入りました。少し涼しいです(日中で22・3℃)。いよいよ、ばらシーズンの開幕です。庭に咲いたバラをデジブックでお届けします。

しばらくお休みしました。庭の芝刈りと掃除。長かった冬と寒い春のため荒れ放題だった庭の草木の手入れをしていました。アルジェリアに長期出張通訳で出かける知人を送ったり、パリまで買い物に行ったり。

Digibook のニュースで新テーマ「波紋」の音楽と、「紫陽花」のしっとりした一連の青の美しい写真を見ました。日本は、これから梅雨に入るんですね。日本と比べフランスは大陸性気候で例年なら5月はカラッと乾燥しすぎるぐらい。喉が渇きます。でも、ボクが住んでるこのピュイゼ(Puisaye)地方は森が多く水源地なので他の地方と比べ湿潤です。「あじさい」も驚くほど大きく育っています。フランスであじさいが多い地方はこことブルターニュでしょうか。

ところでフランスの「紫陽花」は青や紫でなく、ほとんど赤に近いピンク色をしています。花屋でたまに青い花を咲かせている鉢を売っていますが庭に植えると翌年はピンクの花になってしまいます。

なぜって、フランスの土はアルカリ性なんです。ぶどうはアルカリ土壌の方が美味い。水もアルカリ性。フランスはだからワインが世界一だとフランス人は自慢します。「あじさい」は「リトマス試験紙」なんですね。庭の土の酸性度が測れます。

アジサイ、椿、つつじ。フランスの植木屋さんには「日本原産」の植木を沢山売ってます。名前も例えば「青木」は「Aokuba」。「どうだん躑躅」は「Rododandoron」と海を渡り地球を半周もする間に名前もなまってしまうらしいです。

それらを植える時は、酸性の土を周りに埋めてやらないといけません。Terre de Bruyere、ブリュイエール、つまりヒースのことですね。スコットランドや英国にヒースが多く、ウイスキーの香りに必需品となっていますが、大陸(フランス側)ではブルターニュやロワール河の南のソローニュ地方に多く生える野生の植物です。これの腐食土を袋詰めで売っています。

でも、やはり周りの土壌のアルカリ度には勝てない。つつじや「どうだん躑躅」を育てようとして、なんども枯らしました。椿は鉢植えを5本、鉢に植わっていたときは花を沢山咲かせていたのですが、去年庭に植えたところ全部枯れてしまった。

日本は植木といわず植物の宝庫です。大切にしてください。植物準博士のソフィー・ル・ベールはHPとブログでフランス人に日本の花木を紹介していますが、ヨーロッパは氷河期に全滅してしまったために植物の種類が少ないのだと言います。

アーサー王伝説について書く予定が植木の話になってしまいました。

ホーム・ページの全面的更新を始めました。少し時間がかかりそうです。

アーサー王伝説の新説の本をやっと探し出しましたので近日中に投稿させて頂きます。(めのお)

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