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2009年9月に作成された投稿

2009年9月28日 (月)

博物館の所蔵品は誰のものか?

投稿者:「りゅーらる」そうりん亭ジャーナル:http://www.sorintei.com

2008年6月1日、フランスのファッション界を代表する、イヴ・サンローランが他界した。享年71歳。死因はガンだった。

Stlaurent1 ココ・シャネル、クリスチン・デオールの後を継ぎ、斜陽のフランス・ファッション界を支えた最後の巨匠だった。モードの帝王とさえ呼ばれた。

クリステーズで彼の遺品のオークションが開かれ、総額463億円(3億7349万6500ユーロ)という個人の所蔵品オークションでは史上最高額を記録したというニュースが世界中に流された。

それから数週間後、このオークションにからむ、奇妙なニュースが報道された。
競売に掛けられ39億円で落札された清朝時代のネズミと兎のブロンズ像の代金を、落札者が支払わないと公表したというニュースだった。

落札者は某中国名を名乗る人で「オークションで私は落札したが、この像は本来、中国国民の所有になるもので、盗品を私は取り戻しただけだから、代金を支払う理由は無い。」とコミュニケを発表したという。

これに対し、すかさず、サン・ローランの友人(2人はホモの関係にあったという)で競売実行者のピエール・ベルジェは「中国政府が基本的人権を認め、チベットの民衆の弾圧を即座に停止し、ダライラマ14世を認めるなら、寄贈してもいい。そうでない限り、どこまでも代金請求を続ける。」という声明をだした。

ちょうど、同じころ、ギリシャが英国に対し、大英博物館所蔵のパルテノン神殿のレリーフが施された梁や破風などの石材は、ギリシャに所属するものだからと返還を要求しているというニュースが流れた。

どちらも、その後の推移がどうなったかについては耳にしていないが、西欧の先進国が所蔵する美術品に関し、埋もれていた所有権問題が、やはり噴出し始めたかという感慨を禁じえなかった。

筆者が若い頃、フランスを代表する作家の一人に、アンドレ・マルローがいた。スペイン内戦が勃発するとフランコに抗して闘う人Maruro6 民戦線に加担し、ヘミングウエイなどとともに参戦。辛亥革命の折には中国に渡り「人間の条件」という代表作を書いた、行動派の文学者である。

美術への造詣が深く、その著「空想の美術館」では世界の一級美術品を選んで注釈を寄せている。日本を代表する絵として「頼朝像」を揚げているのが興味深い。

彼は戦後ド・ゴール大統領の側近の形で文化相を務めた。現在のパリが、建物の外観が明るい「華のパリ」として蘇ったのは、マルロー文化大臣が「外壁を10年に一回洗うべし」という法律を作り、都市美の保存を強制したためである。

そのマルローは若い頃、カンボジアに滞在したことがある。「王道」という小説も書いている。カンボジアのアンコールワットはジャングルの中で傷み放題だった遺跡で、近年、日本からもボランテイアと資金がでて、奇跡的な修復保存がなされた。

マルローには、世界が注目する前のカンボジアの美術品をこっそり国外に持ち出そうとし逮捕された経歴がある。

私であってこそ美術品の価値を理解し、人類の遺産を破壊と散逸から保護できる。そういう自己肯定的信念と文化財保護という名目のもとに先進(文明)国の人間が、低開発国もしくは発展途上国の、埋もれたままだったり、風化や盗難や損傷されるままだった美術品を持ち出して自国の美術館や博物館の所蔵となす。実際、彼らのお陰で人類の遺産が救われた、ということは認めねばならない。かれらの本音が所有欲にあったとしてもである。

18・19世紀の植民地帝国主義の延長上に先進国の美術館、博物館が築かれた、ということも事実だからである。

エジプトの遺跡はフランスとイギリスが争い、大英博物館とルーブルが今日も分け持っている。ロンドンやパリを訪れる外国からの観光客は、まず大英博物館とルーブルを訪れる。

幕末から明治維新にかけて日本からも大量の美術品が海外に運び出された。おそらく二束三文で買い取られ、西洋に渡ったのだろう。ボストンには浮世絵の膨大なコレクションがある。

パリのギメ美術館には、カンボジアの仏像と並んで数体の日本の仏像が展示されている。

日本語でボル、ボラれたと言えば、法外な値段で騙し取る、あるいはふんだくられたことを意味する。語源はフランス語の「Voler= 盗む」から来ていると思う。

Prudon所有とは盗み(vol )である。」と宣言したのはフランスの近代アナーキズムの創始者プルードンである。彼は1871年のパリ・コミューンの時にヴァンドーム広場のナポレオンの像を引きずり落とした罪で監獄に入れられたが、写実派の巨匠クールベにより、その肖像画が不朽の名作となって世に残った。

また世界で最初に著作権を主張したのは、やはりフランスのレチフ・ド・ラ・ブRetif1ルトンヌ(1734-1806)という作家で、印刷工として働きながら膨大な数の本を書いた。

筆者が住むヨンヌ県の県庁所在地オークセール市には、このユートピア作家が働いていた印刷所だった家に銘版が貼られ、 その着色像が市の中心部の時計台通Retif2 りにある。

このように「所有権」の明確な主張は西洋人に始まる。

所有とは盗みである。」と宣言したプルードンはナポレオンに始まる自国の帝国主義の性質を見抜き、断罪したと言えるだろう。

著作権にからんで、最近しばしば軽い感嘆とともに著者が経験するのはインターネット上の無料ソフトとの出会いだ。実に便利な、それによって一歩も先へ進めずにいた難問が、一挙に解決できたという有り難いソフトが無料というのに出会う毎に、多少のとまどいと驚きが伴う。

些細なことで儲けるより、他でがっつり儲けてるから心配いらないと言われているようでもあり、最初は無料で使っているうちにもっと便利なものが欲しくなり、将来確実に購入と結びつくから今は遠慮せず無料で使っていていいんだよ、と言われているようにも感じる。

中には技術好きの人が自分で開発したソフトを沢山のひとが使って喜んで貰えればいいからと純粋に無報酬で公開しているものもある。こういうのに出会うと、ふーむ、さすがインターネットと感動してしまう。

インターネットで音楽などが手軽にダウンロードされてしまい、売り上げが激減して被害を受けているのはミュージシャン、作曲家、CDエデイターである。無法ダウンロードを監視して、罰金、ネットの使用禁止など罰則を科す法律がフランスでも国会に提出されたが、現実にどこまで監視し規制ができるか疑問視する声が強い。

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2009年9月13日 (日)

アーサー王伝説-最終回

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

御精読頂いている読者には大変永い間お待たせし申し訳ない結果となりましたが、5回に渡って連載した「アーサー王伝説」も、いよいよこれで最終回が書けることになりました

最初の投稿でお約束した「アーサー王伝説」と黒沢明の「七人の侍」の関係はいったいどうなったんだ?回り道ばかりして本題にちっとも触れないのはなんでですかね?

ずっと気になりながらも書けなかったのは、肝心の結論の部分が、やはり自分の思い過ごしだったか。この結論では読者を失望させることになるな。
突飛な思い付きを書いてしまったと後悔し始めていたからでもあった。

Excali3 ところが今日、筆者のイメージの結合が必ずしも空想過多や、こじつけや、牽強付会とは限らないかもしれない。かすかな希望を持たせてくれるテキストにぶつかったのである。

少し長いですが、まずはそのテキストの引用から。出典はインターネットの百科事典「ウイキペデイア」。


=== 以下引用 =====

オセット人は、スキタイサルマタイアラン人などの古代の黒海北岸一帯で活動したイラン系民族の後裔と考えられている。彼らは諸民族と混交を重ねていく中で、アス人と自称したオセット人の先祖がハザールの解体後、カフカス山脈北麓の低地地帯に王国を形成し、カフカス先住諸民族の強い影響を受けた独自の文化を発展させた。

13世紀前半、アス人の王国はモンゴル帝国によって征服され、首都マガスを始めとする諸都市は壊滅的な打撃を受けた。これ以来アス人はモンゴルの支配下に入り、モンゴルの支配を嫌って逃亡した若干のアス人はハンガリーに逃げ込んで同地でヤース人と呼ばれる民族集団になった。ヤース人はその後ハンガリー人への同化が進み、現在はハンガリー人の一部と考えられている。

また、アス人の一部は降伏してモンゴル軍に加えられるとそのまま中国に移住し、に仕えるアスト人親衛軍を構成した。「アスト」は「アス」のモンゴル語による複数形である。メルキト部出身のモンゴル人将軍バヤンに率いられたアスト人親衛軍は元朝治下のモンゴル高原で行われた数多くの戦争で大きな戦果をあげ、14世紀前半に頻発した後継者争いを巡る政変において重要な役割を負うことになる。こうして中国でモンゴル人の遊牧民と同化していったアストの人々は1368に元が中国を放棄してモンゴル高原に帰るとこれに従って高原の遊牧民の一集団となり、長らくモンゴル民族の中の部族名としてアストの名が残った。例えば、15世紀前半にモンゴルのハーンを擁立してオイラトと熾烈な争いを繰り広げた有力部族長として、アスト部族のアルクタイという者の名が伝わっている。

一方、カフカス北麓の低地に残っていたアス人も、良質な草原地帯であるこの地方へと遊牧を広げようとするジョチ・ウルステュルク 遊牧民の圧迫を受けてカフカスの山岳地帯へと南下を余儀なくされ、現在の北オセチアに移住して4つの部族集団からなる部族連合を形成した。また、一部のア ス人(オセット人)はカフカス山脈を越えて南下し、南オセチアの領域に入って群小村落共同体を立てた。山岳地帯に入った彼らは民族統一国家を打ち立てるこ とはなく、北オセチアのオセット人は西方のカバルダ人、南オセチアのオセット人は南方のグルジア人の支配下に入る。

17世紀に入るとロシア帝国北カフカースへの進出が進み、18世紀末から19世紀初頭にかけて、オセチアの一帯はロシアによって併合された。

==== 引用終わり =====

Skythaichizu 結論を急ぐ形になり読者には何のことか解らないかもしれない。ここで重要なのはオセット人とモンゴルの関係である。

オセット人とは現在のオセチア。そう、昨年の北京オリンピックの真っ最中にロシアの戦車が侵入してグルジアと戦火を交えた、あSennsha の戦場になったオセチア。

オセチアは現存するオセット人(アラン人)の最後の居住地とされており、この種族が持っていた伝説が「アーサー王伝説」の起源だと主張する新説が近年出版された。

Gennsho
副題を「スキタイからキャメロットへ」とし、C. スコット・リトルトンとリンダ・A・マルカーの共著。原書の写真がOrange の写真サイトで見つかった。

「アーサー王伝説の起源」という題で、日本訳が1998年に辺見葉子、吉田瑞穂訳で青土社から出版されている。

この書の中で、著者はアーサー王伝説の中心を形作る様々のエピソードと道具立て、聖剣エクスカリバーや荷馬車に乗ってグイネヴィア姫の救出に赴く騎士ランスロット、などがアラン族の風習と伝説とパラレルの関係にあることを詳細に明かしている。

そして、なにあろう「アラン族」はローマ人が植民地として征服したゴロワ(ガリア)、南ブリテン島、南ゲルマニアの広大な領土を支配、管理するために雇った、いわば地頭、代官あるいはその下で働いた管理職として西ヨーロッパの地で活躍した民族だというのである。

「アラン族」の痕跡は、例えばフランスのブルターニュやノルマンデイー地方に地名として現在も残っている。アランヴィル、アランソンなど。さらにアランを姓と名前に持つ人も多い。

13日に投稿した後、ひとつ大事なことを忘れたと気が付いた。アーサー王と並んで伝説のヒーロー、ランスロット(Lancelot)である。この本の著者は、西洋の騎士の模範となったランスロットの名前そのものをアランと関係づけるのである。

すなわち、フランスの南西部に現在ロット県というのがあるが、ロットのアラン(Alain de Lot) がランスロットの名前の由来だとしている。(この節のみ14日追加)

ローマは植民地支配の為に地方官を派遣し、その下で現地人のゴロワ人やケルト人を管理能力あるアラン人を使ったという。そしてアラン人の中に英雄的な長が実在し、民間伝説となってペン・ドラゴンとかアーサー王のモデルとなった。

伝説のバリアントには強大になったアーサー王は軍を率いてローマに攻め昇り皇帝となったというのまである。

アラン人は西シベリアからカスピ海、黒海に居住し、世界最古の遊牧騎馬民族国家を築いた民族で、古代ギリシャの歴史家ヘロトドスも記述を残している。カザフスタンなど現在のイランの北方を中心に毛皮の交易などで生計を立てていた。

インド・イラン系の言語をもち、BC3世紀にはサルマタイ人の圧力により衰退しクリミCarte_georgie ヤ半島に逃げた。

「アーサー王伝説の起源」の著者は、アラン族はモンゴル系のフン族とは関係が無いと書いている。

筆者が黒沢の「七人の侍」の最後の場面、野盗に襲われる農民に加担して死んだ侍の墓、土饅頭に突きたてられた刀のイメージと岩に突き刺さったエクスカリバーのイメージとで、この二つはもしかして関連があるかもしれないと考えたことは、このシリーズの初回に書いた。

今日発見したウイキペデイアのテキストは、アラン族の一部はモンゴルまで行き、モンゴル族と同化し、15世紀には有力部族長まで出現し名前を留めたと書いている。

日本の武士の起源には諸説があるようだが、モンゴルの遊牧騎馬民族と、どこかで繋がっている筈と考えても、まったく突飛な連想として排除はされないだろう。
アラン人の中にモンゴル人と同化した人間がいれば、アラン人の風習がモンゴルにも伝わったと仮定しても否定はできない。

「アーサー王伝説の起源」の著者は、墓に剣を突き立てるのは、アラン族の長を埋Excalibur2 葬する時の「しきたり」だったと書いている。

さらに、ランスロットが荷馬車でグイネヴィア姫を救出に向かうのも、西欧では荷馬車は囚人が刑場へ引き出される時に乗せられる乗り物だが、遊牧民族のアラン人にとっては日常の乗り物だったから不思議はない

どこにも忌まわしいイメージは無い筈だというのだが、剣の道を乗り越えて無事グイネヴィア姫が囚われていた岬の城に辿り着き姫を救出したランスロットに姫は、荷馬車が現れた時、一瞬ランスロットが乗るのを躊躇したと非難する。

姫がなぜランスロットが荷車に乗るのをためらったことを非難したのか意味はよくわからないが、筆者には、そんな詮索よりも「アーサー王伝説」が包含する、われわれ現代人の心をも魅了する幾つかの主要なテーマに注目した方が良いと思う。古今東西の、文学、演劇、映画に尽きない主題を提供しているからである。

主君に対する忠誠心。日本では義経・弁慶の主従関係が歌舞伎と映画に繰り返しとりあげられる。そして忠臣蔵を日本人は涙を誘われながら見続けるであろう。

騎士に課せられる「試練」。困難に挑戦する勇気を讃え、困難をを乗り越えた先に得られる報酬。これは現代でも受験の「狭き門」、企業で盛んに奨励されるチャレンジ精神と起源を一つにする。

忠臣蔵は困難を乗り越え団結した結果、武士道の義務とされた主君の仇討を成し遂げる
復讐の物語だ。

ランスロットは、主君の妃であるグイネヴィア姫と相愛の恋に陥るが、プラトニックラヴを維持し、不義を避けるために宮廷を離れ森に隠れる。しかし姫が敵に浚われると一人で救出に赴く。途中、荷馬車と小人が出てきて馬を捨て、荷馬車に乗る。

姫が囚われている城は岩だらけの岬の先端にある城で、そこへ渡るには、幾つかの「試練」を経なければならない。ランスロットは一番困難な「刃を上向きに並べた剣の道」を渡ることを選ぶ。剣の道を
無事渡り切り、姫の救出に成功するのである。

このエピソードは通俗化されて西洋の映画や小説に繰り返し使われている。
騎士に救われたいのは女性の潜在的な欲求となり、意中の女性が陥った困難を解決し感謝されたいという秘かな願望を現代の男たちも意識下に抱いている。

求婚する男に試練が課されるのは「かぐや姫」の昔からだが、西洋近代で筆者がすぐに思いつく物語にモーツアルトの「魔笛」がある。

魔笛は随所に和音が3回ずつ打ち鳴らされるが、これは、フリーメーソンだったモーツアルトが秘密組織の入会の儀式に「試練」として乗り越え、通過しなければならない関門ごとに打ち鳴らされる槌の音を入れたという説がある。

このように、同じ「試練」とか「忠義」というテーマにも、西洋と日本とでは違いを見ることが出来る。ランスロットが試練を乗り越えるのはグイネヴィア姫への愛であり、忠臣蔵のように「武士道の義務」からではない。

弁慶が安宅の関で義経を打ちすえるのも、主君を救う為であって、主君の義経が愛した静御前に岡惚れしたからではない。

最後に、アーサー王伝説に現れ、今後も筆者が探究を続けたいテーマは、やはり「聖杯」。

Graal2 漁夫の出身で一番卑しい身分の騎士ペルスヴァルがついに聖杯に出会い、腑抜けになったアーサー王の許へと戻り、杯の聖なる液をアーサーの口に流し込み、アーサーは正常心を取り戻す。

腐敗し崩壊寸前の王国を救うには聖杯しかないとアーサーが円卓の騎士全員に依頼し、探究に出かけるが騎士たちは全員目的を遂げられずに死んでしまう。

聖杯の起源はブルターニュ地方に伝わる汲めども尽きない魔法の鍋の伝説にあるという人もいるが、「ピンチを救ってくれる魔法の飲み物」の伝説と探究も昔から現代まで人間は続けてきたことがわかる。Asterix27



フランスの国民的な漫画に「Asterix」というのがある。

支配者であるローマAsterix 人を追い払うのに、Asterixと力持ちの Obelixは、たびたび、このパワー・ドリンクを呑んでスーパーマン的な力を発揮するのが面白い。

この「魔法の飲み物」 Portion magic を調合できる長老、ちょうどメルランに当たる老人がちゃんと居るのだ。このドリンクを調合する鍋が伝説の汲めども尽きない鍋かもしれない。


途中途切れながらの連載でしたが御精読ありがとうございました。
これで一旦打ち切りますが、また諸説を読み、日本の武士道や西洋の現代に続く風俗習慣で「アーサー王伝説」と関係ありそうだと思われることに出会ったら、続きを書きたいと思います。みなさんも是非、この汲めども尽きない物語の宝庫に探りを入れてみてください。



 



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