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2009年10月に作成された投稿

2009年10月24日 (土)

ジャック・クールの生涯-その1

投稿者:そうりん亭ジャーナル 「りゅーらる」;http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog/

Coeur_et_st_jacque ブルジュのジャック・クールの館には至る所「帆立貝」と「ハート」の浮き彫りが施してある。これはジャック・クールの家紋なのだろう。帆立貝はコキーユ・サン・ジャック、ハートはフランス語で「クールなのだから。

ジャック・クールのことを御存じの方は多くない。歴史の教科書1 にも出ていないし、フ ランスを旅行してもブルジュまで行ったり、ベリー地方の案内を読んだりする人は少ないからである。

しかし、ジャック・クールは意外とわれわれの身近なところに、その痕跡を残している。

トランプで遊んだことのない人がいるとしても、見たことがない人はいないだろうし、トランプのスート(絵柄マーク)が4種類あるのを知らない人はいないだろう。

スペード、ハート、クラブ、ダイヤの4種類。トランプの歴史を探ってみると、とても面白い。ヨーロッパにトランプが伝わった頃、スペードは「剣」だった。イタリア語でspadaの複数形がスペードなのだ。

1_2 クラブは農民を象徴する「棍棒」だった。三つ葉のクローバと関係はない。ダイヤは丸い貨幣だったという。そしてハートは、なんと、このブログで何度もとりあげている「聖杯」だったのだ。

それが現在のハートになったのは何故か?
ここに
ジャック・クールが関係してくる。

ヨーロッパにトランプが最初に伝わったのは14世紀前半のイタリア説が有力だがスペイン説もある。インド起源説、中国起源説といろいろだが、ヨーロッパへは聖地奪回を計って中東へ遠征した十字軍が持ち帰ったという説に説得力を感じる。

ともあれ、フランスでは地中海貿易で巨万の富を築いたジャック・クールはトランプの普及に熱心だった。彼はトランプ流行の火付け役だったので、その功績をたたえ、もとは「聖杯」だったスート(絵柄マーク)がハート(クール に変えられ現在にいたっているという。

15世紀の初頭に当時フランスの首都だったブルジュにゴシック、フラン・ボワイヤン様式の壮大な邸宅を建て、外壁内壁の至る所に、象徴的な浮き彫りを施させたジャック・クールに錬金術師の面影を見ることはさほど突飛なことではなかろう。だが、その方面の探究は今は置いておこう。

ここでは、ごくありふれた町人として生まれたジャック・クールの生まれから辿ることにする。

ジャック・クールは1400年ブルジュに生まれた。父は有力な毛皮商人でバクJq2 リエと いう肉屋の寡婦と結婚し長男のジャックをもうけた。母親の名前は肉屋のバクリエ夫人とだけしか伝わっていない。

肉屋といっても、中世の西欧では、エタ・非人などとは正反対で、肉屋のギルドは力を持ち、町人の中でも有力者が多かったという。

しかも、母方の祖父が造幣所長だったことがジャックの生涯を決定づけることになる。

ジャックは勉強嫌いで、街へ出てガキ大将として遊ぶ方が好きだったようだ。大学へは行かず、若いうちから父親の商売や祖父の貨幣鋳造や金銀細工の仕事を継ぐ積りで徒弟奉公に出ていたといわれる。

(続く)

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2009年10月12日 (月)

ジャック・クールの道

投稿者:「りゅーらる」そうりん亭ジャーナル:http:www.sorintei.com

Sgienchateau1 フランス第一の河川ロワールの川沿いにジアンという町がある。英国人が始めたこの町の陶器は最近は有名になり、ニューヨークの5番街にもショーウインドウを出したという。狩猟博物館になっているレンガ造りの長方形の城が高台からロワール河を見下している。

十数年前、この町の外れに日本の資生堂が工場を建てた。化粧品大国フランスへの大胆な進出だ。

このジアンに発して、ベリイ地方、シェール県の首府ブルジュを通り、キュランという町まで、途中16のシャトーを結ぶ道をジャック・クールの道と人々は呼んでいる。

フランスのルネッサンス期15世紀に一介の町人から大富豪、貴族へ、さらに大蔵卿Jq1 でなりながらそのあまりの豊かさの為に周囲から嫉妬を買い裁判で有罪宣告を受け、投獄、脱獄、亡命生活の晩年を送り、最後はエーゲ海のキオス島で寂しく没したジャック・クールにちなんで命名された。

地中海貿易で富を築いたジャック・クールは最盛期20以上のシャトーを所有していた。パリに二つ。サンセール、モンペリエ、リヨン、そして筆者が住むこのサンファルジョーのシャトーもジャック・クールが所有していた。

フランスに在ったジャック・クールの全ての城は断罪とともに没収された。驚くことに、このサンファルジョーのシャトーはジャック・クールに有罪を言い渡した裁判官、アントワンヌ・ド・シャバンヌその人が手に入れたのだった。

今日から数回に分けて、この近世の曙の時代を象徴するかのような大商人ジャック・クールの生涯について記事をお届けしたいと思います。

まず、ベリイ地方について。フランスのほぼ中央部に位置し、現在も農業と牧畜が主要産業の田園地帯。

日本では、ショパンの恋人で有名な19世紀のロマン派の女流作家G_sand ジョルジュ・サンドの故郷であり、彼女の館が今日文学館として開放されている。

美術では、「べりー公のとても豊かな日々」という題の非常に美しいミニチュア画が有名。

ベリイ地方、シェール県の県庁所在地ブルジュは、英仏百年戦争の時代、パリを逃げ出したフランス国王、シャルル7世が亡命政権を維持していた街。

Chrl72 この王様はジャンヌダルクに導かれてランスで戴冠式を挙げるまでは自分がフランスの正統な国王であるとの自覚がなかったダラシない国王だった。

Bourges_maison

ブルジュの町は今もこの時代の漆喰壁に木の柱が露出した古い民家が残ってい る。

Bourge_cat_jardin ブルジュのカテドラル(大聖堂)はユネスコ世界遺産指定の建築。

さて、この町の中心部にジャックークールの館が在る。

左右の翼を配したこの壮大な私邸は後期ゴシック建築の代表例とされ、至る所に施されたレリーフの装飾は商人として富を築いた主人の繊細な趣味を現している。Palais_de_j_coeur

中でも最も興味深いのは、その浴室で、50m2以上はあろう四囲を全て石で覆われた部屋にスチームが通り、温水、冷水の浴場もあり、ローマ風呂を個人の館に取り入れた技術に感心する。

だが、ジャッククールはこの館の完成とほぼ同時に断罪され、ここに住むことなく投獄された。

では、あす以降のこの悲劇の大商人の伝記をお楽しみに。

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