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2009年11月10日 (火)

ジャック・クールの生涯-その4

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

前回お話ししたように、パリと北フランスは英国とブルゴーニュ勢に支配されていた。

フランスの王位継承者シャルル王太子, シャルルを神のお告げと説いて戴冠式を挙げさせたジャンヌ・ダルクも、そしてジャンヌ・ダルク率いる軍に軍資金を提供したジャック・クールも、そうしたフランスが危機的状況にあった中で歴史に登場する。

Hunburg_hanse ジャック・クールの父親ピエールは毛皮商で中部ヨーロッパ、ドイツのハンザ同盟の街、スカンジナビア、はてはロシアから、テンなどの高級毛皮を輸入し加工して宮廷や裕福層に納めていた。

この時代、フランスでも商人は組合に所属し、それぞれの義務を果たさなければ商売が出来なかった。左の絵はハンブルグのハンザ同盟を描いたもの。

また毛皮のテンは肌触りが良く、最高級品だった。現在も水彩の絵Martre5 筆の最高級品はテンの毛を使ったものとされている。

ジャックの父親ピエールは肉屋のジャン・バクリエの寡婦(未亡人)と結婚しジャックをもうけた。

ピエール・クールの家の向かいにレオデパール家があり、ランベール・レオデパールはブルジュの地方行政官でベリー公の宮廷と聖職者の間に係累が多かった。ランベールの妻ジャンヌはルサール家の出で、父のルサールは貨幣鋳造所の所長を務めていた。

1418年、ジャックは18歳の時に、このランベールとジャンヌの娘、マセ・ド・レオデパールを妻に娶る。そして、マセの母方の祖父の職業をジャックも継ぐことになる。

20歳でジャックはブルジュの12あった両替所のひとつを経営していた。

しかし、初めは父親の商売を見習い宮廷に毛皮や高級調度品を納める商人として出入りしたようである。記録には、綴りが違うがほぼジャック・クールと思われる名の人物が1421年に王太子に一対の拍車を納めたとある。

この時代、シャルル王太子は金が無く、商人たちは、宮廷に出入りする権利だけを目当てに、「ツケ」で物を納め、代金が支払われるのは数年後、甚だしくは10年以上経ってからやっと支払われることも珍しくはなかった。

Orfevr2 宮廷出入りの商人は毛織物や、平織物、テーブルクロスなどを納める業者、錫の壺や銅の鍋釜類、鍛冶屋、金銀細工師、指物師、ワイン仲買業者などが常時出入りした。

商人は、たんに利益を得るだけでなく、宮廷を、ある意味で支えていたのであり、銀行家の役割も果たしていた。


1427年、ジャックはブルジュの貨幣鋳造所を買い取り、この街の硬貨 製造所の責任者Ecu_2 となった。

この時代の貨幣鋳造は、金銀の含有量を決める一応の規定はあるものの、製造所によってバラツキがあり品質が一定ではなかった。

シャルル6世の時代には、デイジョン、トロワ、シャロンに鋳造所があったが、同一金額の硬貨でも重量が違い、貴金属の含有量が一定ではなかった。

ことに、パリを中心に北フランスでは、英国は質の悪い貨幣を流通させていた。

これに対し、ベリー公が治めていたブルジュでは貨幣の質が高く良貨だった。

「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則がある。

これを地Frappe_de_monnaies1で行ったのが当時の通貨戦争だった。

北の商人は南で売った商品の代金を良質の貨幣で受け取る。この良貨を北に持ち帰り、鋳造し直して、3割ほども多い悪貨を手に入れる。

金銀の含有量が少なくても、同じ金額の貨幣として通用するのだから、だれもが悪貨に流れるのは自然だった。このため、ロワール以南でもついに良貨が稀少になってしまった。

(続く)



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