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2009年11月に作成された投稿

2009年11月17日 (火)

菊についての展示会と講演

投稿者:「りゅーらる」そうりん亭ジャーナル:http://www.sorintei.com

かつての職場の同僚で日本の植物の紹介をしているソフィー・ベールさんが「菊」についてKashikata_3 講演をするという記事をブログで見つけたので聴きに行った。

11月8日(日)の午後。会場はセーヌ・マルヌ県とヨンヌ県の県境、かつてローマとブリテン島を結ぶ街道の聖地プロヴァンに近いサヴァン(Savins)という小村。

 

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展示会と講演が開かれたのは市役所に隣接する公民館。


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会場の入り口は、フランスの「菊園」経営者寄贈の菊馬車が飾られている。

展示会は中国原産の菊が日本に入り観賞用の花として品種改良が重ねられ、皇室の御紋章のみならず文学、衣類、食器など庶民の文化に深く根を下ろし親しまれてきた様子をパネルで説明し、さらにフランスにどのように導入されたかを追っていた。

Soriginechinec 中国では菊はダンドランテマ(Dendranthema) というカモミーユ( Camomille jaune)の一種の薬草として珍重され観賞用の花ではなかった。

今日でも菊の葉は煎じてハーブ茶として飲用されているし、天ぷらにも用いられる。花によっては刺身に添えられてもいる。

 

フランスでは11月1日の万聖節 ( Toussant )、日本のお彼岸に当たる日 のお墓参りに墓前に供える習わしがあり、大抵のフランス人は「菊」というとまずお墓を連想する。

ソフィーとそのお友達はそうしたフランスの因習を打ち破りたく、菊は観賞用の花としてもっとフランス人に親しまれて欲しいという願いを籠めてこの展示会と講演を企画したようSkimonoc_2 だった。入口を入ると正面に菊の模様の赤い豪華な着物が展示してあり眼を惹いた。

展示場の方々に配置された菊の花も日本人とはまた違ったセンスを感じさせる。
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フランスでは19世紀の中頃、日本の浮世絵が火付け役となって「ジャポニスム」が流行した。

印象派の画家の巨匠、モネが1850年に最初の浮世絵を見つけ購入したと展示写真にあった。Smonetc

後期印象派とされるゴッホも広重や北斎の浮世絵の構図から学んだ。

「ジャポニスム」の創始者はフィリップ・バーテ

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フランスでもやがて陶器の模様に菊が使われるところまでになった。だがまだ少数派。

ロワール河沿いのオルレアンの上流にある陶器の町ジアンは今日ようやく世界的にも有名になったが、ジャポニズムやアールヌーボーとも関係がある。当時の菊模様のお皿。Sgienc_2

 

Photo_3 アール・ヌーボーの指導者ガレの著作本。

 



マルセル・プルーストも印象派とジャポニスムの流行と無縁ではなかった。Sproust2c_3

展示をゆっくり見終わる頃、ソフィーさんの講演が始まった。

会場には約100人ほどの聴衆が。やはりお年寄りが多い。

 

ソフィーさんは10月の末に2週間四国を中心に日本を訪れたばかりとのことだった。

 

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日本の菊栽培に関し、その種類、仕立て方について日本人よりも詳しい知識で紹介をするソフィーさん。

 

東京の表参道にある大田美術館で手に入れたという菊を使った浮世絵のページをナイフで切り取ってスキャンしスライドに入れたという。

最後に日本で手に入れた人形やお菓子の型を見せ熱の籠ったプレゼンを終えた。

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2009年11月10日 (火)

ジャック・クールの生涯-その4

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

前回お話ししたように、パリと北フランスは英国とブルゴーニュ勢に支配されていた。

フランスの王位継承者シャルル王太子, シャルルを神のお告げと説いて戴冠式を挙げさせたジャンヌ・ダルクも、そしてジャンヌ・ダルク率いる軍に軍資金を提供したジャック・クールも、そうしたフランスが危機的状況にあった中で歴史に登場する。

Hunburg_hanse ジャック・クールの父親ピエールは毛皮商で中部ヨーロッパ、ドイツのハンザ同盟の街、スカンジナビア、はてはロシアから、テンなどの高級毛皮を輸入し加工して宮廷や裕福層に納めていた。

この時代、フランスでも商人は組合に所属し、それぞれの義務を果たさなければ商売が出来なかった。左の絵はハンブルグのハンザ同盟を描いたもの。

また毛皮のテンは肌触りが良く、最高級品だった。現在も水彩の絵Martre5 筆の最高級品はテンの毛を使ったものとされている。

ジャックの父親ピエールは肉屋のジャン・バクリエの寡婦(未亡人)と結婚しジャックをもうけた。

ピエール・クールの家の向かいにレオデパール家があり、ランベール・レオデパールはブルジュの地方行政官でベリー公の宮廷と聖職者の間に係累が多かった。ランベールの妻ジャンヌはルサール家の出で、父のルサールは貨幣鋳造所の所長を務めていた。

1418年、ジャックは18歳の時に、このランベールとジャンヌの娘、マセ・ド・レオデパールを妻に娶る。そして、マセの母方の祖父の職業をジャックも継ぐことになる。

20歳でジャックはブルジュの12あった両替所のひとつを経営していた。

しかし、初めは父親の商売を見習い宮廷に毛皮や高級調度品を納める商人として出入りしたようである。記録には、綴りが違うがほぼジャック・クールと思われる名の人物が1421年に王太子に一対の拍車を納めたとある。

この時代、シャルル王太子は金が無く、商人たちは、宮廷に出入りする権利だけを目当てに、「ツケ」で物を納め、代金が支払われるのは数年後、甚だしくは10年以上経ってからやっと支払われることも珍しくはなかった。

Orfevr2 宮廷出入りの商人は毛織物や、平織物、テーブルクロスなどを納める業者、錫の壺や銅の鍋釜類、鍛冶屋、金銀細工師、指物師、ワイン仲買業者などが常時出入りした。

商人は、たんに利益を得るだけでなく、宮廷を、ある意味で支えていたのであり、銀行家の役割も果たしていた。


1427年、ジャックはブルジュの貨幣鋳造所を買い取り、この街の硬貨 製造所の責任者Ecu_2 となった。

この時代の貨幣鋳造は、金銀の含有量を決める一応の規定はあるものの、製造所によってバラツキがあり品質が一定ではなかった。

シャルル6世の時代には、デイジョン、トロワ、シャロンに鋳造所があったが、同一金額の硬貨でも重量が違い、貴金属の含有量が一定ではなかった。

ことに、パリを中心に北フランスでは、英国は質の悪い貨幣を流通させていた。

これに対し、ベリー公が治めていたブルジュでは貨幣の質が高く良貨だった。

「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則がある。

これを地Frappe_de_monnaies1で行ったのが当時の通貨戦争だった。

北の商人は南で売った商品の代金を良質の貨幣で受け取る。この良貨を北に持ち帰り、鋳造し直して、3割ほども多い悪貨を手に入れる。

金銀の含有量が少なくても、同じ金額の貨幣として通用するのだから、だれもが悪貨に流れるのは自然だった。このため、ロワール以南でもついに良貨が稀少になってしまった。

(続く)



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2009年11月 8日 (日)

高田容子さんの個展

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog

11月3日、パリのサン・ルイ島へ高田容子さんの個展を見に行った。
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あいにく小雨の降る肌寒い日で、島の中心街も人影がまばら。



個展の表示が出ていたバルコンの張り出した大きな石の門。
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個展が開かれたBamyan画廊は門を入った中庭にあった。
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入り口を入ると懐かしい日本の反物が迎える。Sexpo4c








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東大寺のすぐ近くで奈良倶楽部を経営している旧友から高田さん(写真右)の個展開催を教えて貰った。


飯田さんは東大寺の関係の方。さっそく記念撮影から。




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飯田さんは楽器では今シターが一番お気に入りだそうだが、フルート、篠笛、パーカッションと幅広い。


さっそく、篠笛を吹いて下さった。



折しも、チェロ演奏家のミュジシャンが入ってくる。

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舞台慣れしてるためか着こなしが上手。Sdansec_2



 

 

 



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高田さん手作りの地下足袋。

 

染色は柿渋に鉄漿を合えるという。

 

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地下足袋を試着するミュジシャン。





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反物の色合いが美しい展示。

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古い石と漆喰の壁に、柔らかな絹の着物が

不思議な調和を見せる。







染色はすべて天然の藍などを使って染める。

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「武者小路千家」の大谷さんがお茶をたてる。

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慣れない手つきで初めてのお茶を味わう、女の子ふたり。

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またひとり着こなしの上手な女性が入ってきた。

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彼女はスイスに住むイタリー人だという。

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最後にミュジシャンと高田さんは意気投合。

個展は11月9日まで。




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2009年11月 4日 (水)

ジャック・クールの生涯-その3

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

アザンクールの戦いがあった1415年はまだ、シャルル6世の治世だった。

英国に大敗を喫したシャルル6世はなんと敵将であるヘンリー5世に娘のカトリーヌを嫁がせる。

シャルル6世と息子のシャルルはまだパリに居たのだが、王妃のエリザベス(通称イザIsabeau2 ボー)・ド・バビエール(ミラノ公の娘:タデ・ヴィスコンテの娘)がブルゴーニュ公ジャン・サン・プール(無畏公と訳されている:怖いもの知らずのジャン)と結託し、夫の出自であるアルマニャック派と対立させたため、パリではブルゴーニュ人による反乱、市街戦が起こる。

1418年5月28日から29日にかけての夜、大規模な反乱が、さらに8月20日には、乞食、ヤクザ者、アウトローなどを操ったブルゴーニュ派がアルマニャック派を襲撃し、バスチーユの監獄を襲い、女子供も含め約2万人が殺害された。

身の危険を感じたシャルル王太子(後のシャルル7世)は少数の護衛に守られ、パリを脱出、50km南のムラン(Melun:現在はセーヌ・マルヌ県の県庁所在地) に落ちのびる。さらにロワール河を超え、ブルジュに亡命した。

1419年9月10日、ムランの近く、セーヌ河と支流ヨンヌ川の合流地点にある街モントローSans_peur4 で和平会議を開かれるが、ブルゴーニュ公ジャン・サン・プール(無畏公)は暗殺される。

シャルル6世とヘンリー5世はほぼ同時期に他界する。

シャルル6世には12人の子供がいたが多くは早死にし、2人だけ残っていた息子も兄が1417年に病死したため、11番目の子供であったシャルルが正統な王位継承権を得て王子となった。ジャンヌダルクに導かれて、シャルルがランスで戴冠式を挙げ正式にフランス国王となるのは1429年7月17日のことである。

この時代、ペストが流行り、パリはブルゴーニュ公と結んだ英国のベッドフォード公の支配下に落ち、財産を持った商人や金貸しのフランス人はパリを逃げ出し、荒れ放題となった。

ブルジュに落ちのびたシャルル王太子は、ベリー公の支持者だった人々に迎えられ、彼らの協力を得て堅固な行政府を作ってゆき、敵方から、「ブルジュ王」と呼ばれるようになる。

J_de_berry2 ベリー公ジャン(1340~1416)はシャルル6世の父、シャルル5世の弟で、シャルル王太子(7世)にとって大伯父(従祖父:おおおじ)にあたる。ベリー地方の首都だったブルジュは当時、フランスの宗教界で重要な地位を占め, また商工業が盛んだった。

ベリー公ジャンは芸術愛好家で、いわゆるパトロン、フィレンツエのメデイチ家のようなメッセナの役を果たしていた。そのためブルジュにはヨーロッパ中から芸術家が集まり活動していた。

「ベリー公の小時禱書」の挿絵装飾画はフランドルの写本装飾家リンブルグ(またはランブール)兄弟の手になる当時の国際ゴシック様式を代表する、青などの色彩鮮やかな美しいミニチュア画。Berry6

リンブルグ兄弟は最初、ブルゴーニュのフィリップ大胆公に仕えていたが、やがてベリー公のために、これらの後世に残る写本画を作った。この時禱書の絵は当時の宮廷のみならず農民や町人の服装、生活スタイルを見せてくれる貴重な資料だ。

ベリー公が作らせた時禱書は現存するものだけで6種類もある。

有名なものだけ挙げると。

1)「いとも豪華なる時禱書」
  (シャンテイイ城内、コンデ美術館蔵)Très Riches Heures du Duc de Berry

2)「いとも美しき時禱書」(パリ国立図書館蔵)
  Très Belles Heures du Duc de Berry

3)「美しき時禱書」(ニューヨーク・メトロポリタン美術館蔵)
  Belles Heures du Duc de Berry

Limb3  この時禱書の挿絵に出てくる絵をご覧いただきたい。当時の宮廷人は、こんな服装をしていた。ベリー公の肖像もそうだが従者たちも重そうな布地のマントを着て、帽子を被り、襟飾り、袖の先に毛皮の装飾が付いている。

シャルル7世のな肖像画にはもっとはっきりと毛皮の Chrl72使用が

認められる。

ジャック・クールの父親の職業はこの毛皮商だった。ベリー公とさらに シャルル王太子の宮廷に出入りする「宮廷御用達」の毛皮商人として財をなした。

(続く)

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2009年11月 1日 (日)

ジャック・クールの生涯-その2

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

ジャック・クールが15歳の時、すなわち1415年10月25日にアザンクールの闘いが起こった。英仏百年戦争の数々の戦闘のうちで最も英軍の勝利、仏軍の敗北が極端だった戦闘である。

Henriv2 ノルマンデイーのアラスの近くの小高い丘に、ヘンリー5世率いる英軍が1万2千人。

対する仏軍は重装騎兵を含め5万人の兵士で迎え撃った。


アザンクール(Azincourt, Agincourt)は小高い丘で両側に森がある。英軍は丘の上に陣を張った。斜面の下方に陣取った仏軍は、初めから戦術を誤っていた。

運悪く、戦闘の前夜は一晩中土砂降りだった。兵士たちは10月の
体の芯まで凍えるような冷たいにずぶ濡れになり震えながら夜明けを待った。

フランス側の武装は伝統的な甲冑を着けた
騎士が中心で、武器はアルバレット。ウイリArbalete アムテルが息子の頭に乗せたリンゴを射止めるのに使った,あの半分銃のような鋼鉄製の弓の弦を引き金に止め、水平に構えて撃つ弓。漢字で弩と書く。

弩は雨に濡れて使い物にならなかったという。

Longbow これに対し英軍は 長弓(long bows) 隊を戦術的に使って多大な効果を上げた。

長弓は100m先の鎧を貫くという。

わずか数時間の戦闘でフランス側は6000の騎士を失い多数の捕虜を出した。オルレアン公シャルルもその一人。公爵5人。男爵90人が命を落し、フランスの政治体制は甚大な打撃を被り、弱体化した。

これに反して英軍は失った騎士の数がたったの13人という、まるで奇跡のような戦闘だった。英国側は長弓隊を組織的に使った事でも判るように全体として統率が行き届き、指揮命令系統がはっきりし整然と行動した。

これに対しフランス側は、騎士がまだ中世の一騎打ちの戦闘意識から抜け出ず、数Az6 は4倍以上だったにもかかわらず、個人個人バラバラの統率が無く、組織的に動かなかったがために数において劣勢だった英軍に信じがたい無残な敗北を喫した。

夜通しの雨で地面は泥濘になり、馬は脚を採られ滑っては味方同士がぶつかり合う。森を背中に長弓隊は一分に10本の矢を雨のごとく降らせてくる。アルバレットは乾いた時でも1分に2本しか矢を放てない。

アザンクールの闘いは、この闘い以降、中世の騎士が戦場で活躍できなくなった、時代の移り目を示す画期的な戦闘として歴史に名を残す。英国はこの完全勝利を栄光として讃えシェークスピアはこの戦いを題材に劇を作った。

この戦闘以降、英国はノルマンデイからロワール以北を支配下に置き、パリを支配するブルゴーニュSanspeur3 公ジャン・サン・プール(怖いもの知らずのジャン)と手を結んで、実質的に北フランスを支配する。

フランスの皇太子であるシャルル7世はブルゴーニュ公ジャンにパリを追われてブルジュに亡命したのだった。

(続く)


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