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2010年1月 5日 (火)

ジャック・クールの生涯-その6

鋳造通貨は古代ギリシャに既にあったが、長い間、取引の支払いに使われていた金や銀のツブや塊は目方で価値が計量されていた。しかし、いちいちの取引に目方を計るのは面倒であり、鋳造貨幣が普及するようになった。

Euro1 貨幣鋳造は現代では国家大権のひとつになっている。ヨーロッパ統合で二十数ケ国が同じユーロという統一通貨を使用することになったのは誠に歴史的な大事件だが、紙幣は別にしてもコインの鋳造は各国で行う。

コインの表は統一ユーロのデザインだが裏面は各国によりデザインがEuroesp 違う。これが面白いのでユーロのコインはコレクションの対象として人気がある。

Eurod

国家が通貨鋳造の大権を独占するようになったのは16世紀から18世紀にかけてだという。それまでは貴族や地方の有力者(土豪)が鋳造する場合も少なくなかった。

鋳造通貨は初め実質価値と額面価値とが一致した本位貨幣だった。つまり1ポンドの銀貨は鋳つぶしても1ポンドの価値を持つ銀のツブとなった。実際、長い間鋳造通貨を鋳つぶして金や銀の塊や装飾品に造りかえることが許されていた。

ユーロのコインは実質価値の伴わない額面価値だけの補助貨幣である。英国の通貨単位のポンドはかつて実質価値を持った1ポンドの銀から鋳造された銀貨に起源がある。英国は金銀複本位制度から1816年のジョージ3世の時代に金本位制度一本にした。通貨単位のポンドは銀の目方とは関係なく残った。

英国が初めて金本位制度を採用した国となったが、それまでほとんどの国は銀本位制度をとっていた。銀鉱山があちこちで発見開発され銀の価値が下がるに及んで、貴金属の中で最も価値の安定した金が本位制度の中心として採用されるに至った。

国家が通貨鋳造を独占することを「造幣大権」と呼ぶ。贋金つくりは造幣大権への侵犯であり国家権力への反逆である。

さて、1427年のフランス、ブルジュへ戻ると、ジャック・クールが共同経営で手を染めていた金貨鋳造に関し、ちゃんとした規定があった。国王の指令では1マール(当時の重量単位)の金(18カラット:純金が4分の3)から70枚の金貨を造ることと規定されていた。

しかるに、ジャック・クールとその共同者は常時75枚、14か15カラット(純金が3分の2)の粗悪な合金から80枚、時に89枚もの金貨を鋳造していた。

別の言い方をすれば、純金1マールから造れる金貨の許容されていた枚数93~94枚に対し、120~142枚の金貨を造っていたことになる。

Gold3copy こうして、1マール当たり、20~30エキューの利益を引き出していた。

「わが王国の公的事業にたずさわりながら贋金造りの犯罪を犯していた」と古文書は記録している。

両替商や会計院の役人などが金貨の目方を計れば容易に粗悪貨幣は明るみに出てしまう。

こうしてジャック・クール一味は重罪の判決を受け、不当に得た利益を没収された。

ところが、じきに1429年12月6日、シャルル7世から「赦免状」が出される。

裁判官も「国家理由」をもって免罪にせよという国王の命令の前にそれ以上の追求は控えねばならなかった。1431年にラヴァン・ル・ダノワは「フランス造幣局長」となり死ぬまでその地位に留まる。

しかし、この時に広まった悪い評判、ジャック・クールは公的立場を利用し懐を肥やす「汚職」をしたと言う評判は、多くの敵を作り、後にジャック・クールがさらに財産を増やし大富豪になった時に、もはや国王シャルル7世の庇護を受けることもならず投獄と国外逃亡の運命へと導いてゆく伏線となった。(続く)

      

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