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2010年1月に作成された投稿

2010年1月19日 (火)

ジャック・クールの生涯-その7、日いずる国への旅

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

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ブルジュでの人々から注がれる視線が厳しくなったと感じ、息苦しさから逃げ出したくなったのか?

ジャック・クールは、この時代としては世界の果て、地中海を中心とした地図の外れ、朝日が昇るオリエント、ルヴァン、レバノンまで船旅に出かけた。1432年のことである。

ロワール河畔のシュリイ城の壁には世界史年表が掲げてあって、そこには中世と近世を別つ事件としてコロンブスの航海を挙げている。

コロンブスがスペインのイザベル1世とフェルデイナンド5世の援助を獲得し、インドを目指しながら第一回の大西洋航路でカリブ海へ達し、キューバやサン・サルバドル島を発見したのは1492年の10月のことである。

また、マジェラン自身はフィリピンのマクタン島でラブ・ラブ王の家臣との戦闘で戦死してしまうが、艦隊の残りの18名がポルトガルの出港地へ帰りつき世界一周航海を成し遂げて地球が丸いことを実証したのが1522年だった。

それまで、西欧世界の人々は台地は平らであると信じていた。例外はマケドニアのアレクサンダー大王で、エジプト、バビロニアを征服し、インドへ攻め入った時、疲れ果てて不平を並べる部下に対し、「もう少し進めば海へでる、この海はナイル河と繋がっているから、それを下ってエジプトへ戻ろう」と鼓舞した様子が映画に出てくる。

地球が球体をしているらしいと新しい知識を信じ初めたのは、まだほんの一部の人でしかなかった。コロンブスのキャラベル船の艦隊の乗組員のなかにも、いつ果てるともない航海に不安を抱き、大洋の果ては滝となって冥界へ落ちると信じていたものも少なからず居た。あと1日でも島の発見が遅かったら船員の反乱は避けられない状況だった。

最近になって、モ・イ・トンの複写地図などからコロンブスに遡る75年以上前、明朝の永楽帝の治世にイスラム教徒にして宦官、大提督「鄭和」はアメリカ大陸に渡っていたという説や、白人でアメリカ大陸に最初に達したのはバイキングと言う説などが出始めて面白い。

ともあれ、ジャック・クールの時代、世界はもっと広いらしい。手つかずの地へ行って交易権を独り占めにしようという期待は既に勃然と沸き起こっていたに違いない。それでも、ジャック・クールが、ナルボンヌの船主の船で地中海を縦断し、東の果てのレバノンに足を踏み入れるには、相当な冒険心を要しただろうことは想像に難くない。

ヨーロッパ人にとって地中海の東の果ては、そこから朝日が昇る(le soleil levant )地だった。 この呼称からレバノンという地名が出る。ちなみに日本は「日の出ずる国」といわれたように中国にとっては日の本(ジーベン)だった。今でも、フランスでときたま、日出る国としてレバノンと同じ le soleil levant と言い、比喩的に日本を差すことがある。

さて、ジャック・クールの視野はフランス国内に留まってはいなかった。

1432年南仏ナルボンヌの商船に乗り込み、中東のレバノンとシリアへ旅立つ。

レバノンとシリアへ行った目的ははっきりとしていない。ベイルートやダマスへ将来のビジネスの下地を作りに行ったのか?布地や香料の貿易を考えていたの か?しかし、ジャック・クールが後に地中海を股にかけた交易で莫大な財産を築いた、そのビジネスの中心はやはり両替だったといわれている。

中東では金と銀との交換価値がほぼ同等だった。現代からみれば信じがたいことだが、これは日本でも幕末から開国当初までは、似たような状況だったらしい。欧米人は銀を持ちこみ、同量の金と交換して本国へ持ち帰り莫大な利益をあげていた。

金の為替レートを米国政府とのネゴによって国際レベルまでに引き上げさせたのは咸臨丸に乗り米国へ渡った幕府の小栗上野介の功績という。

ところで、ジャック・クールの乗った船はレバノンからの帰途、難破してコルシカ島のカルビへ漂着した。船長以下乗り組んだ全員が捕虜になり海賊に会ったように身ぐるみ剥がれ裸にされたうえ、身代金を要求され、大金を支払いようやく釈放された。後に、彼らは罪もなにもないと認められ身代金は返済された、という記録が残っている。

その記録によると、ナルボンヌの商船の持ち主、ジャン・ヴィダルが14カ月禁固の後に800デカの金貨と交換に釈放。シカールという団長は100デカ。ところがジャック・クールはたったの27リーヴルだった。

このことは、ジャック・クールがまだ小者としか見做されていなかったことを物語っている。(続く)

 

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2010年1月 5日 (火)

ジャック・クールの生涯-その6

鋳造通貨は古代ギリシャに既にあったが、長い間、取引の支払いに使われていた金や銀のツブや塊は目方で価値が計量されていた。しかし、いちいちの取引に目方を計るのは面倒であり、鋳造貨幣が普及するようになった。

Euro1 貨幣鋳造は現代では国家大権のひとつになっている。ヨーロッパ統合で二十数ケ国が同じユーロという統一通貨を使用することになったのは誠に歴史的な大事件だが、紙幣は別にしてもコインの鋳造は各国で行う。

コインの表は統一ユーロのデザインだが裏面は各国によりデザインがEuroesp 違う。これが面白いのでユーロのコインはコレクションの対象として人気がある。

Eurod

国家が通貨鋳造の大権を独占するようになったのは16世紀から18世紀にかけてだという。それまでは貴族や地方の有力者(土豪)が鋳造する場合も少なくなかった。

鋳造通貨は初め実質価値と額面価値とが一致した本位貨幣だった。つまり1ポンドの銀貨は鋳つぶしても1ポンドの価値を持つ銀のツブとなった。実際、長い間鋳造通貨を鋳つぶして金や銀の塊や装飾品に造りかえることが許されていた。

ユーロのコインは実質価値の伴わない額面価値だけの補助貨幣である。英国の通貨単位のポンドはかつて実質価値を持った1ポンドの銀から鋳造された銀貨に起源がある。英国は金銀複本位制度から1816年のジョージ3世の時代に金本位制度一本にした。通貨単位のポンドは銀の目方とは関係なく残った。

英国が初めて金本位制度を採用した国となったが、それまでほとんどの国は銀本位制度をとっていた。銀鉱山があちこちで発見開発され銀の価値が下がるに及んで、貴金属の中で最も価値の安定した金が本位制度の中心として採用されるに至った。

国家が通貨鋳造を独占することを「造幣大権」と呼ぶ。贋金つくりは造幣大権への侵犯であり国家権力への反逆である。

さて、1427年のフランス、ブルジュへ戻ると、ジャック・クールが共同経営で手を染めていた金貨鋳造に関し、ちゃんとした規定があった。国王の指令では1マール(当時の重量単位)の金(18カラット:純金が4分の3)から70枚の金貨を造ることと規定されていた。

しかるに、ジャック・クールとその共同者は常時75枚、14か15カラット(純金が3分の2)の粗悪な合金から80枚、時に89枚もの金貨を鋳造していた。

別の言い方をすれば、純金1マールから造れる金貨の許容されていた枚数93~94枚に対し、120~142枚の金貨を造っていたことになる。

Gold3copy こうして、1マール当たり、20~30エキューの利益を引き出していた。

「わが王国の公的事業にたずさわりながら贋金造りの犯罪を犯していた」と古文書は記録している。

両替商や会計院の役人などが金貨の目方を計れば容易に粗悪貨幣は明るみに出てしまう。

こうしてジャック・クール一味は重罪の判決を受け、不当に得た利益を没収された。

ところが、じきに1429年12月6日、シャルル7世から「赦免状」が出される。

裁判官も「国家理由」をもって免罪にせよという国王の命令の前にそれ以上の追求は控えねばならなかった。1431年にラヴァン・ル・ダノワは「フランス造幣局長」となり死ぬまでその地位に留まる。

しかし、この時に広まった悪い評判、ジャック・クールは公的立場を利用し懐を肥やす「汚職」をしたと言う評判は、多くの敵を作り、後にジャック・クールがさらに財産を増やし大富豪になった時に、もはや国王シャルル7世の庇護を受けることもならず投獄と国外逃亡の運命へと導いてゆく伏線となった。(続く)

      

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2010年1月 2日 (土)

ジャック・クールの生涯-その5

新年明けましておめでとうございます。

この記事でちょうど100回目の投稿となりました。2010年元旦に、なにやらお目出度いような気分です。長い間、かわらずご贔屓くださいました読者の皆様に厚く御礼を申し上げます。また、今年は一層の熱意で当ブログに力を注ぐ所存ですので何卒変わらぬご支援をお願い申し上げます。

さて、昨年は新しく始めたネット・ビジネスが面白くて?いや、慣れないこともあって手が離せず、ジャック・クールさんとも一時的に疎遠になってしまいました。せっかく出来かけた良縁を今年は一気に取り戻す存念でおります。

まずは、手始めに、お正月の初夢で見た、縁起の良い金塊の写真でGold20barscopy新年をスタートです。

さて、1418年にマセ・ド・レオデパールを嫁に娶ったジャック・クールは、マセの祖父、ルサールの引きを得てブルジュの街の造幣業に手を染めます。

1427年にはブルジュの貨幣鋳造所を買い取ります。

しかし、貨幣の鋳造にはそれなりの経験が必要で20代の若造が独りで仕事をこなせるわけがなく、ジャック・クールはその道のベテランと手を組みます。

一人は、共同出資者のピエール・ゴダールという男。もう一人は、ルーアン出身で、ルーアンの街が英国軍に占領された時、ブルージュに逃げてきた、ラヴァン・ル・ダノワという男。この3人が共同で貨幣鋳造の事業を進めます。

時代は、北フランスを英国が支配し、パリは英国と同盟を結んだブルゴーニュ派が支配するところとなり、後のシャルル7世が王太子でパリに居た時に、王家を支持するアルマニャック派とブルゴーニュ派とが武力衝突し数万の死者が出る市民戦争に発展したことは前回簡単に述べました。

シャルル王太子は戦乱の中を命からがらムランに、そしてブルジュに亡命したのでした。

このアルマニャック派とブルゴーニュ派の市民戦争は1789年のフランス大革命以前に起きたフランスにおける君主政治のありかたをめぐる二つの流れの対立が浮き彫りにされた歴史的事件で、英仏の百年戦争の中の一騒動として片付けられている嫌いがありますが、実は非常に重大な体制の危機、その現れとしての市民戦争でした。

パリでは英国とブルゴーニュ派が悪質な貨幣をどんどん鋳造していました。

悪貨を鋳造して儲けるには、含有する金や銀の量を減らして、質を落とすか、コインの目方を減らしてしまうと二つの方法があります。

ジャック・クールと2人の共同事業者がやったことは、まさに悪貨を鋳造することだった。

いわば、危ない橋を渡って、へたにちょっとでも転んだら危うく命取りになりかねない事をやってのけて、懐を肥やしたのです。

時代が時代、ジャンヌ・ダルクが現れて危機的状況にあったフランスを英国の支配から取り戻します。戦をやるには軍資金が要ります。英国軍は質の悪い貨幣をどんどん使う。同じ金額で質の良い貨幣を使っていたのでは、王国が疲弊してしまう。

ジャック・クールとその一味は、王国の為にやむなく悪貨を鋳造した、とシャルル7世の特免状を頂くことで危うく罪人になるところを罰金だけで免れます。どころか、共同経営者のラヴァン・ル・ダノワは後(1431年)にフランス国の造幣局長に出世してしまうのだから、戦国時代というのは、正義なんというものがどっちにでも転んでしまう時代なんでしょう。

ちょうど、日本でも、江戸幕府が財政困難に陥った時代に「貨幣改鋳」をやって切り抜けたという記事がメルマガが送られてきたので、引用させていただくことにします。

東西の歴史に精通し非常に興味深い記事を毎日送ってくださる陳さんへのお礼を籠めて「貨幣改鋳」という記事の締めくくりの部分を引用させて頂きます。

「荻原重秀は、この『貨幣改鋳』をフルに活用して、幕府財政をすくうとともに、自分の『ふところ』も救っていたといわれています。

これに対して、幕府の儒学者・新井白石は、六代将軍・家宣に何度も建言を行い、ついに罷免させたのです。

しかし、白石に財政赤字を解消する明確なプランはありませんでした。

将軍・ 家宣は『才ある者(荻原重秀)は徳がなく、徳ある者(新井白石)は才がない』と憂えたといわれています。」

ジャック・クールが行ったこと、それによってジャンヌダルク率いるフランス軍がオルレアンから、ついでノルマンデイーから英国軍を追い払い、アザンクールの闘いの仇を討つことが出来た。状況は、どうやら荻原重秀と似ていたと言う事ができましょう。(続く)

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