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2011年3月に作成された投稿

2011年3月31日 (木)

レクイエム 17

 唯物論的考えの影響はその後長く続いたが、生まれつき懐疑的な僕はいつも
生命とは何か、精神とは何か、魂とは何かを考え続けていた。
模範を見失い、将来何になるか、何のために勉強するかがわからず、従順な
回りの学友とかけ離れてしまったことを感じますます内に引きこもり、しま
いに学校へ行くことが嫌になった。僕は登校拒否生徒のはしりだった。親に
悟られたくないために家を出たあと学校近くの窪地にある、頂上の脇に小さ
なチャペルが建って西洋的な雰囲気を漂わせている小高い丘に登り、独り授
業から遅れてゆく悲哀を感じながら枯れ草に腰を降ろし、ヘッセやトーマス
マンや倉田百三などを拡げ、秋の気配の濃い窪地の遠くの落葉した樹影を眺
めながらそこはかとない郷愁を味わっていた。それは僕が幼少のころ見慣れ
た農村の風景への郷愁だったかもしれない。

 学校の図書室の書庫には冬になるとガスストーヴが焚かれ、その湿気を含ん
だ空気が書物の紙を暖め特別な匂いを発散させた。僕は授業はそっちのけで
図書室に通った。ベージュの大判のジイド全集の一冊を手に取るだけで僕は
まだ見たことのない西欧の街や教会や田園を想像し憧れに胸を焼いた。

 

身体の急激な発達が心の成長とバランスをくずし学業の低下に拍車をかけた。
高校へ入った春から始めたバスケットが、身体の発達を加速した。一年で十
一センチも身長が伸びた。クラブ活動を終え、家に帰ると母はいつも大きな
鍋に育ち盛りの子供四人分の夕食を用意していた。それは大抵カレーライス
だったり、じゃがいもとキャベツと挽肉の蒸し焼きだったりした。大皿に山
盛り三杯も平らげたあとは予習復習どころではなく、そのまま居眠りしてし
まうのだった。朝寝坊で遅刻が多かった。遅刻した朝、校舎の入口の靴箱の
並ぶ玄関へ息せき切って駆けつけるとたいてい麗子という色の白い、眼の大
きな、西洋人形のような愛くるしい顔をした女生徒が靴を替え教室へ急ぐ姿
に出会った。

 僕の心の中の美への憧れが、その娘の大きな黒い瞳に吸い寄せられてしまっ
た。大きな黒い瞳を持った娘への思慕に全身を囚われる。授業の間も、家に
帰っても、四六時中その想いに傾注していないと心が虚ろになる。美の憧憬
が僕につきまといはじめた。

 エロスは最も柔らかなものに宿るとはプラトンの説である。プラトンは魂の
本当の住まいへの憧れを「エロス」と呼んだ。魂はもともと源へ憧れを感じ
る。魂の本当の住まいは「イデア」の世界だ。人間の肉体や感覚に属するも
のはすべて現れては消え流れ去るものだというプラトンの考えはインドで生
まれた仏教の考えと似ている。

 ぽちゃぽちゃした柔らかそうな白い肌の麗子が僕の意中の人になった。僕は
その思慕の対象を手に入れよう、現実に手に触れたり自分のものにしようと
思わなかった。むしろ、近づきすぎて思慕が不要になっては困るので近づく
のを躊躇っていた。

 (つづく)

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2011年3月30日 (水)

レクイエム 16

 その夏に僕が幼少の頃、二年間を一緒に過ごした祖母が死んだ。列車を乗り
継ぎ十四五時間もかかってようやくたどり着いたその日の朝、祖母は息を引
きとっていた。僕は死別の悲哀と生の空しさに対面させられた。人は死に直
面して「たましい」を発見する。

 魂は死後も存続するのか。そもそも人に霊魂というものがあるのか。霊魂と
か心の問題は科学の対象にならない世界だ。誰も証明などできない。信じる
か信じないかの問題だろうが僕は科学的認識と信仰の間を揺れ動いた。
そのころ母は日蓮正宗に入信し子供たちもお寺に連れて行かれ御受戒を受けた。

 二年生の担任だった生物の先生は墓に出る人魂を掴まえた話をして生徒たち
の度肝を抜いた。捕虫網で人魂を捉えようと考えたのも奇抜だが、人魂の正
体は夜光性の蚊の集まりだったという発見は僕たちを強く印象づけた。実証
精神とは何かを示してくれる良い話だった。伝説や迷信にまで実証的精神の
眼を向けようとした先生の科学者魂は感動的だった。先生の実証精神は「た
ましい」の不死というような人類の古代からの信仰にも疑いの眼を向けよと
教えているようだった。

 安保は国会を通過し大衆運動は敗北の憂き目を見た。僕のいた高校の生徒会
は民青が握っており、教師の中には党員もいた。二年になって組が変り僕は
新しい顔ぶれの何人かの活動家と同じクラスになった。中でも深井と小沢は
抽象的な概念語をやすやすと操って思想を表現する才能を持っていた。僕は
またしても「概念」にぶつかった。僕に理解できない言葉を操る彼らは僕よ
りはるかに大人の精神を持っているように見えた。春の生徒会の選挙で深井
が執行委員長に選ばれた。選挙の様子をあとで振り返り、僕はあれは全学連
の主流派と反主流派の主導権争いだったのだなと思った。

 深井は僕の家まで来て裏の公園で話をしようと言い、弁証法的唯物論が真理
なのだ、神は死に、宗教は阿片なのだと説いた。深井は科学的という言葉を
使って共産主義の正しいことを説き、僕が積極的に活動できない理由に、父
親の脛を齧っている学生の身分だからねと言うと、深井はアメリカ帝国主義
の手先となり経営合理化を進めている父親に寄りかかっている僕の主体性の
なさを批判し親許を離れて自主独立の道を探るべきだと説いた。僕は大石主
税と同じ歳だったが、何かの主義のために命を棄てる覚悟はなかった。親を
棄てて何かの信念を貫くことの潔さを一瞬、胸のうちに感じたが、唯物論が
真理で宗教が説くところは誤りだというテーゼに確信を抱くまではひとつの
思想に命を捧げる理由はないと思った。深井の批判によって仕事で足繁くア
メリカへ通っていた父親はもはや規範的人物ではなく日本のある階層の批判
の的となっていることがわかったが、僕はある意味で親と利害を共にする妥
協的関係に入った自分を認めざるを得なかった。

 (つづく)

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2011年3月29日 (火)

レクイエム 15

 正義のために行動すべきだと考えたのは模範生たろうとしてきた今までと基
本的に同じ線上にあったはずだ。妥協は卑劣。正義は高潔で純白だ。これま
で規範の対象だった先生や警察を敵視し、父親も批判すべきだという経験し
たことのない状況に僕は立たされた。

 その日から毎日のように僕は集会へ顔を出し暑い太陽の日差しのもとをデモ
の隊列に加わって行進をはじめた。
 民青のその闘士は髪を短く刈り、手にハンドマイクを持ち、隊列に向ってシ
ュプレヒコールの音頭を取った。彼の身体は筋肉が引き締まり、顔は連日の
闘いに鍛えられ、鉄か岩を想わせた。しなやかな猛獣のようなプロボクサー
の克己心と江戸町民の軽妙洒脱を併せて感じさせた。つかず離れずついてく
る警察の車に対抗するスリルと反抗者の仲間入りをした解放感を僕はデモの
隊列に加わりながら味わっていた。

 僕たちは三宅坂の国立劇場建設予定地に集まっていた。空は夏の夕暮れ
で群青から次第に薄墨色を増して行く。ふと国会議事堂の方向を見ると上空
が煙が立ち込めたように霞んでいる。その霞がかった空がなにやら赤味を帯びた
光に明るく照り映えているのだった。翌日のニュースで国会構内に極左学生
が突入し機動隊と衝突して東大生の樺美智子さんが死亡したと知らされた。

 後に僕はあの時三宅坂の広い空き地でなすすべもなくたむろしていた数万の
群集が極左冒険主義と批判された学生たちに続いて国会に押し寄せていたら
日本の歴史はどうなっていたろうかと考えることがあった。高杉晋作の絵堂
の決起がなければ明治維新はありえなかった。彼は年上の同志から冒険主義
と非難され馬の行手を遮られたが、それを飛び越えて決起した。祖国に真の
独立と平和と正義の実現を求めて国会突入に命を賭け機動隊に棍棒で腹を突
かれて死んだ美智子さんのピュリタン的な魂に僕は打たれた。

 日本に在るアメリカ軍基地には密かに核配備がされているから核攻撃を受け
る確率が高く、アメリカの植民地支配から独立を勝ち取って社会主義革命を
達成しその後に共産主義社会へ向かおうと主張する人々と、日本は植民地で
はなく日本の独占資本は重要な市場のアメリカを同盟国とし世界で最強国の
核の傘に守られているから中国やソ連や北鮮の核攻撃を受けずに済むと主張
する人々との狭間に僕は立っていた。

 (つづく)

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2011年3月28日 (月)

レクイエム 14

 この時期は一九六〇年の春から秋にかけてのことで日米安保条約の自動
延長の時期と重なっている。それまで政治に関して新聞すら読んだこともない
僕が周囲のただごとでない緊迫感に反応して国会デモに加わった。鬱病を追
い払うには何か正統な理由を与える行動が必要だった。

 校門を入るとすぐ右手に見える体育館の青い扉の前で上級生が数十人集まっ
て一人の青年を囲み話に聴き入っていた。好奇心から僕はその輪のなかへ入
り話を聴いた。少年の直感で僕が理解したのは日本が歴史的転回点にさしか
かり、真の独立か半植民地かを選択すべき時にあるということだった。祖国
の危機を認識し僕達は立ち上がらなければいけない。中国を敵に回すアメリ
カ占領時代に結んだ軍事条約の延長に反対しなければならないという青年の
主張に僕は同感できた。僕の家の前のホテルのテラスでチューインガムをか
みながら膝に日本女性のパンパンを載せた桃色の肌のアメリカ軍将校に僕は
子供ながら敵意を抱いた。幼稚園の前の明治通りを轟音を立てて通り過ぎて
行くアメリカの戦車を見て、日本はアメリカに占領されていたんだ、今も似
たような状況にあるんだということを肌身で感じた。おタマ婆さんがちゃんころ
とかちょうせんとか侮蔑の言葉を投げつけるにもかかわらず、お隣の中国
と韓国とは仲良くした方がいいと子供心に思っていた。

 戦争で負け、アメリカから経営工学を取り入れる仕事をしている父への反抗
心がそろそろと頭をもたげ始めていた。安保反対の運動は父への反抗を集団
に混じって示すことができ僕にとって恰好の場だった。

 祖国が置かれた状況への危機感に突き動かされ、ためらいを感じながら、正
義感だけを信じて行動に入って行った。僕のその時の情念はつきつめれば明
治維新の若き志士たちが抱いていた攘夷ということになるだろうか。福沢諭
吉の唱えた脱亜入欧はどうも金持ちの説のような気がする。ピンク色の肌の
アメ公より黄色い肌で同じ漢字を使う中国人と親密にすべきだと考えたのだ
から、十四五の少年にも民族的感情ははっきりとあるのだ。

 (つづく)

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2011年3月27日 (日)

レクイエム 13

 学校で教えることがすべて真理と思い込んでいた僕は、教師も生徒もみんな
受験科目として数学が重要だから熱心なだけじゃないか。功利的に熱心なの
で真理を愛するためじゃないんだ。内心そうつぶやくと僕はそれからの数学
の時間には「ソクラテスの弁明」や「饗宴」などプラトンの本をこっそり広
げることにした。ある日、アガトンの両性具有の話を読んでいると教師が竹
のムチで僕の頭をトントンと叩いた。

 受験教育はこういう素朴だが根源的なところに通じる疑問を抱く生徒に丁寧
な回答を与えず、教師が、こうした抽象的な人間の思考がなぜ現実に有効か
という数学がもつ基本的な性格から説き起こし、思考と現実認識の間でさ迷
い、漂い始めている思春期の若者の内面的危機を指導しないのを残念に思う。

 それ以来、僕は、数学で当てられると木偶のように黒板の前で立っていた。
当てられて前に出た生徒がみな席に戻っても呆けたように立ったままでいる
僕に薄気味悪さを感じたのか教師は小言もいわず無視をして先へ進むのが常
だった。出来ないとわかっていながら前に出た僕は、ぶざまな姿をみなの眼
にさらしていた。小便が出てゆくのを感じながら嗜虐的な気分で耐えていた
時と同じだった。級長や生徒委員を務め、晴れがましい顔ができた小中学時
代は終わりを告げ、劣等感にまみれた辛い時代が到来した。

 落第生に転落するまでに半年とかからなかった。僕の心は鬱懐に満ち、坂を
転げ落ちるように幼児的な段階まで退行を始めた。真面目で勉強熱心、規範
に忠実で、だれとも仲良く人と争そえない僕は、少年時代を通じての自分の
適応ぶりに嫌悪を覚えたのだった。大人が敷いたレールに今まで順応して来
た。成績が良いだけで慢心していた子供っぽい自分に嫌悪を感じた。

 親しい友達を失い、飼っていた文鳥が死んだ。
 喪失感は鬱病のきっかけによくあげられる。大事な祖母が夏休みに逝った。

 (つづく)

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2011年3月26日 (土)

レクイエム 12

自我の目覚めにともない子供は今まで親や学校の先生の言われるとおりやってきたことに懐疑を抱き始める。ちょうど十七世紀の近代の目覚めにデカルトがすべてに疑いを持ったように、今まで当然のこととして受け入れて来た規範に懐疑の眼を向ける。模範生になろうとして今まで生きて来た自分に疑いの眼を向ける。自己の存在そのものの不確かさからものごとを見る眼をすべて懐疑に転じる。好きだった数学に僕は懐疑の眼を向けた。数学の公理そのものを疑ってみ、疑いに固執することで僕は、自我を自覚した。デカルトがすべてを疑うなかでただひとつ確かな「疑っているわれ」があると考えたように。

幾何の定理というのがある。点と直線の定義からユークリッド幾何学ははじまる。点とは位置だけあって大きさのないもの。直線とは点と点を結び長さだけあって巾のないもの。僕の疑問はこうだった。大きさのない点など現実に存在せず、長さだけあって巾のない線など現実に在り得ない。定義のような点と線は人間の想像の中にしか存在しない。幾何学が定義する点や直線や形は仮空のもので、どんなに細いエンピツを使っても描き得ない。僕の眼に映る現実の世界を良く観察しても、定義どおりの点や線は存在しない。人間の頭の中にそのイデアがあるのは幾何も算数も得意だった僕には自明のことだった。ただ自分の頭のどこかに今まで自明だったことに疑いを向ける何かがいることに僕は驚いたのだ。僕の自我に人間の頭脳が行う概念作用を観察するもうひとつの自我が目覚めたのだ。プラトンが心の目に見えると言った点や線や正三角形や円の理想の形態は人間の観念の中にしか存在しえず、現実にはありえない。人間の頭にしか存在しないものを実在するといえるのか僕の良心が問いを発したのだ。考えただけで実在するといえるなら神も天国も魂も実在することになる。僕の自意識の夜明けがこうして始まった。

 みんなが当然のこととして疑いの眼を向けない数学の定義がどんなにいい加減なものかを発見したようで僕は密かにほくそえんだ。しかし、この定義というやつはギリシャ以来人類が生み出した最高の叡智として科学と技術をしっかりと支えている基本なのだから、それに疑いの眼を向けた人間などめったにいる筈がなくそんなことを公言しようものならつまはじきに遇う恐れがあったし、こんな疑いを持つ僕のほうが間違っているのかという不安を感じながら、おそるおそる教師に質問してみた。

 「僕は定義のような点も直線も描けません。大きさのない点、太さのない直線なんてありえないんじゃないんですか?」

 「君。それは愚問だよ」

 教師は一瞬たじろいだ後、持っていた竹のムチで自分の肩を叩き、僕の質問をまともに取り上げようとしなかった。
 隣の生徒が「それは決め事なんだ。そう決めておかないと何事もはじまらないからそうするだけなんだ」つまり仮説や前提を決めてから始めるのが学問なんだと重要なことを教えてくれた後も、疑いを抱いていること自体に意味を見つけていた僕は疑いに固執し、出だしで躓いた数学はもはやそれ以上前へ進むことが出来なかった。
この疑問こそ僕の「コギト」だったのだ。 

 (つづく)

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2011年3月25日 (金)

レクイエム 11

 家が貧しいことを知っていた僕は金の掛かる私立高校へ行って親に迷惑をか
けたくなかった。某私立大学出身の中学の英語の先生が自分の出身校へ行く
気はないかと聞いた時も僕は都立へ行きますと答えた。

 高校の入学式に父が来てくれた。その日は春風が校庭の乾いた砂埃を舞い上
げ茣蓙の敷かれた体育館の床がザラついていた。その日の「空虚感」を今も
僕は覚えている。それは無邪気な少年時代と決別し遊び友達と別れた寂しさ
と、これからも続ける競争に満たされない情が空しさを抱いたのだろう。

 いままでも、遊びの誘惑を振り切って図書館に通い、家の奥の廊下に設えた
机に馴染み、勉強に疲れると庭に降りて木々を相手に心を慰めた日々は、
遊び仲間と離れ年寄りめいてゆく自分を感じてきた。試験が終わり、彼らと
別れ、新しい集団の仲間入りをする今、僕が抱いた感覚は悲しみや空しさで
あり、喜びや勇猛心ではない。生存競争を続ける人生がはかなく見えたのだ。

 

相撲をとっても競泳をやってもいつも勝っていたし勝つことは簡単だったの
に、勝つことが空しいと感じ始めた。そこに居並ぶ肉体的には僕より大人に
見える生徒たちの誰より良い成績で入学したのに空しいという感覚しか沸か
ないのは、勝つことばかりに熱中し、敗者の情も省みず自己満足していた無
邪気さを幼いとみるまで精神が成長しかかっていたこともあったろう。そん
なことより、やっと試験が終わりほっと一息ついて開放感を味わいたいとい
う心の隙に、「空しさ」が忍び込んだだけかもしれない。

 「荷おろし鬱病」というのが精神科用語にあるらしい。
 明快で秩序だった算数と理科が僕は好きだった。たまにする遅刻を除けば小
中学校を通じて僕は秩序を愛し規則に忠実な出来の良い少年だった。
秩序愛の持ち主にうつ病患者が多いという。秩序を愛する人は秩序の変化に
対応が困難で、うつ病になりやすい。整然とした街路を作った西洋人に鬱病
患者が多い。秩序の変化は些細でも違いを心は感じ続ける。この時期、父は
家を新築し、海外出張を繰り返し家庭の雰囲気は大きく変わった。父親は常
に出張して不在だったから、息子は父にたいする全面的な信頼関係を持ち得
なかった。父との接触はたまに銭湯へ行くか出張帰りの父を国電の駅に迎え
に行った帰りに連れだって歩く時くらいで、どの庶民の子も持っていた身体
をぶつけ合って遊ぶ関係が父との間になかった。日本は戦争に負け父親の権
威は地に落ちていたが幼ない僕や兄にとって父は規範的存在だった。国立大
学の理工科へ進みエンジニアになって社会の役に立つ人間になる。父をモデ
ルに幼い頃作った線路の上を疑問も持たず進むことが少年期の生き甲斐なの
だった。

 五月病といって木の芽どきがあぶないそうだ。この時期の木の芽がいっせい
に吹き出し、心が浮き立つような気候の変化が身心のホメオスタシスの崩れ
の背因になるそうだ。

 入学式も終わり桜が散り木々の青葉が茂り始めると僕の心にぽっかりと穴を
開けた空白が一層広がった。僕は買ってもらった安物のギターを終日弾いて
空しさの穴を埋めようとした。うつ病の病前性格のメランコリー親和型性格
のほとんどが自分に当て嵌まっているのに僕は驚く。小心、几帳面、まじめ、
仕事熱心、責任感が強い、人に頼られると断りきれない、人と争えない。
これらはまた冠状動脈疾患患者の性格特性でもあるそうだ。さびしがり屋、
遠い所へ逃げ出したい、この世からおさらばしたい、死んでしまいたい、
自分が居ない方が皆のためによいのではと考えるなど、はよう死んでしまい
たいといつも言っていた母にはうつ病患者の傾向があった。しかし表情は
鬱病らしさをかけらも見せなかった。メランコリックな顔つきもしなかった。
表情に出さなくてただ厭世的な言葉で思いを打ち明けた。だから僕には母の
死にたいという言葉が母のうつ病傾向ではなくて、むしろ思想を示すように
思えるのだ。

(つづく)

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2011年3月24日 (木)

レクイエム 10

 小学校も終わり近くになると、僕は受験準備のための予備校へ模擬試験を受 けに行った。模擬試験の会場で建物の脇に溝のある土の露出した庭でひとり 秋の気配を感じながら試験を待つあいだ、今までの遊び友達と別れて競争に 勝ち残らねばならない寂しさを覚えた。

  「何事にも熱心で最後までやり遂げる根気を持っている。」そう書きなさい と横に座った母が言った。学校へ提出する書類の自分の長所という欄に僕は 母に言われるままに書いてゆく。今なら正反対のことを書くはずだが、こん な記憶から見ると小学校の頃の僕は根気があったのかもしれない。あるいは 母がそう信じたりそう希望したりしたのか。自己宣伝が得意でなかった母ら しからぬ思い出だ。

 ベリーニのあと僕はシューベルトのレクイエムをかけた。透きとおったソプ ラノがアグヌス・デイを歌っている。若い頃の母がほんの短い間コーラスに 入っていたのを思い出した。アルトのわりといい声をしていた。

 ジャンヌが読んでいた週刊誌のパリ・マッチを僕に差し出す。内務大臣のシ ュヴェヌマンの臨死体験の記事だ。手術のために掛けた麻酔が事故を起こし 危篤に陥った。三週間昏睡状態にあり、その間、心臓が五十五分間も停止し たが奇跡的に蘇生した。本人のインタヴューが載っている。

 中学二年生の時に僕は入院しヘルニアの手術を受けた。麻酔から醒めかかっ た僕の眼に最初に映ったのは心配そうに僕の顔を覗き込んでいる母の顔だっ た。母は僕の手を握りながら「もう済んだのよ。もう痛がらなくてもいいの よ」と言った。手術が長引き麻酔が切れたため苦しんだ僕を慰めてくれたの だ。麻酔から醒める時はどこか暗く遠い世界から明るい世界に行きつ戻りつ しながら還ってくるような気がした。意識が醒め母の顔が見えるがその顔が 遠ざかりまた暗い淵に引き戻される。きれぎれにそれが何度か続く。

 麻酔から醒めた翌日、母は病院に岩波少年文庫の西遊記を持ってきてくれた。 その本は僕に文字が想像を掻き立てることを初めて経験させてくれた。それ まで僕は雨の降る日に掘っ建て小屋の本棚の横に寝転んでアミーチスのクオ レ物語とかデユマの岩窟王とか西洋の話か、シートンの動物記とか世界の七 不思議とかジュール・ベルヌの海底二十万マイルだとか自然についての科学 的好奇心を満たすものばかり読んでいた。

 楽しみながら東洋の伝統世界へ眼 を開かれたのはこれが初めてだった。怪物や魔物たちに三蔵法師が捕らえら れ猪八戒と沙悟浄が闘い、最後に変幻自在の孫悟空が如意棒を揮い魔物をや っつける。玄上三蔵が深山渓谷を旅しながら天竺へ大蔵経を求めに行った旅 行記をSF仕立てにしたのが西遊記だ。三蔵法師の慈悲深さ。金沌雲で千里 を一瞬に飛び回るスーパンマンの悟空が宇宙の果てを究めたと己惚れてみた がお釈迦様の手の平から出られなかったという譬えは科学好きな僕にある教 訓を与えた。

 (つづく)

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2011年3月23日 (水)

レクイエム 9

 お稽古ごとに僕は小学二年からお習字、そのあと算盤塾に通っていた。その
算盤塾で小便を漏らしたことがある。トイレに立つのが恥ずかしく億劫でい
るうち、我慢の限界がきて座ったまま小便を垂れた。腿を濡らした暖かい液
体が足へ広がるのを感じながら僕は羞の感情が嗜虐的な快楽に変わってゆく
のを味わっていた。僕は心と肉体にひらきがあるようだった。尿意を感じて
はいるが、こらえられるだろうと頭は思い肉体に生理的限界があると知らな
い。オシッコと立ち上がり席を縫って行く間、嘲笑のまじった視線にさらさ
れると想像しただけで僕の小心と気位は、すこしくらい辛くても我慢してい
る方を選ぶ。ひょうきん者になれないのだ。小便が出てしまった瞬間、信じ
られない屈辱的状況を受け入れるのにとまどい、泣きたくなるが、もはや後
の祭りだ。逃げ出すしかないと覚悟を決める。終業いなやすばやく教室を脱
け出る。濡れた畳を子供の誰かが見つけ、先生が唖然として眼を剥くのを窓
から横目で盗み見ながら走って帰った。

 母が払ってくれた犠牲として心に残る思い出を僕はいくつか持っている。
ひとつは小学二年生の時のことだ。校庭にあった一本の太い銀杏の木の下に
先生を中心に生徒が集まり音楽の授業をやっている。春風が吹いて新学期が
始まったばかりの頃だった。器楽合奏の授業に生徒はそれぞれハーモニカと
か木琴を持って来ていた。僕は木琴を選んだが家計の都合で授業までに買え
なかった。母はなんとかやりくりして購入した木琴を学校に届けに来てくれた。
授業は始まっていたので母は校門の脇で待っていた。矢がすりの羽織りを着た
母が包みを抱え風の中にじっと立ってこちらを見ている。その時の母の姿を
僕はいまも想い浮かべることができる。
その木琴は紫の艶のある化繊の風呂敷に包まれていて皆の茶や赤い色の
木琴と違い朴の白木に透明ニスを塗った明るい色をしていた。丸い玉のつい
た棒で叩くと柔らかなふくらみのある音がした。強く叩き過ぎると木の表面に
凹みができた。小学時代の僕には貧困の悲しみを味わう機会が少なからず
あったが、この記憶はゆとりのない家計の中で母が音楽教育から子供を脱落
させぬために精一杯払ってくれた努力の証しとして僕の心にしっかり刻まれて
いる。この思い出のために僕は音楽に長い間コンプレックスを抱いていた。
音楽は高尚で金の掛かるものと思い込んでいた。絵のほうが手を使って物を
作るので職人や製造業や労働者に近く親しみやすかった。

 (つづく)

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2011年3月22日 (火)

レクイエム 8

 魂の発露が表現なら、僕たち一家は戦後すぐのバラック時代に子供たちが表
現する機会があり、経済的に安定してからはそれがなくなった。子供らが幼
稚園や小学校から帰ると、バラックの六畳の真ん中の堀炬燵を囲んで母と祖
母が座り、建て増した八畳間との境にちょうど舞台のように延びていた廊下
に交代で立って学芸会をした。

 この小舞台で僕や妹が唱歌や演芸のまねごとをするとお玉婆さんも母も喜ん
で拍手をした。いったいお玉婆さんは芸ごとが好きな人で、機嫌の良いとき
には、なんてまんがいんでしょとか、よねやまさんから雲があでたあーなど
という唄を教えてくれた。誰に気兼ねもなく、姑と母と子供が一緒になり無
心で愉快な時間を楽しんだ。ほんの短い間だったが家族でこうした団欒を持
てたことを思い出すと人間は無心な幼児時代がいちばん幸福なのかと思う。
父はその場に居なかった。金沢で学生時代を過ごした父は尺八の免許皆伝の
持ち主で、芸事は誰よりも好きな筈だった。内側に朱色の漆を塗った尺八を
試しに吹いてみたことを覚えている。柱に凭れ背筋を伸ばし首を立てるよう
父が言い、歌口に唇を当て懸命に息を吹き込んだがいっこうに鳴らなかった。
首振り三年いうて、いい音が出せるまでに三年はかかるよと父は言った。

 出張先でも琴と三味線に呼ばれて三曲を演奏する機会が多いらしかった。
お玉婆さんが卒中で倒れてから不幸が目立ちはじめた母は、姑の世話と日に
日に成長する四人の子供の養育に三十代のエネルギーのすべてを注いでいた。
母がわがままな病人の被害妄想に因る悪態に耐えて看病していた時に、父は
表で社交にかこつけた華やかな歌舞音曲の世界にうつつをぬかしていた。
嫉妬が原因だろうが、母はある日ついに癇癪を爆発させた。夕方、子供たち
はお玉婆さんが寝ている脇の六畳で本を読んでいた。買い物から帰った母は
姑に何か嫌みを言われたらしく、突如、野菜を投げつけて反撃し、泣きなが
ら台所に引っこんだ。心配で様子を見にいった僕に母は、「鬼ばばあ」と吐
き棄てるように言い涙を拭った。母とお玉婆さんの喧嘩は垣根越しに聞きつ
けた隣が仲裁にはいってくれ大事に至らずに済んだ。
 
 それから二三日経った夜、出張から帰った父が何か華やかな女の匂いのする
ような土産を挟んで母と向き合っているのを僕は寝床から見た。父がうな垂
れ、母が啜り泣き涙を拭うのが見えた。その日を境に父はきっぱり尺八を吹
かなくなったことを思えば、多分あれは母が姑の意地悪さをかこち、父の社
交を止めてくれと泣いて訴えたのだろう。

 (つづく)

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2011年3月21日 (月)

レクイエム 7

薩摩芋の缶詰とじゃがいもを皮ごと蒸したのしか口に出来なかった僕の幼年
時代。腹を空かしていた子供は口にできれば何でも良く、好き嫌いを言う余
裕などなかった。

幼年時代は物質的に恵まれなかったが、今よりずっと幸福だったと僕は思う。
新宿に近い都会のど真ん中にふんだんにあった空地や道路は子供たちの絶好
の遊び場で、自動車もまれにしか通らず、野菜畑もあって、夏には蝉、蜻蛉
などが飛んで来た。大都会の真ん中に在った自然の中で幼少時が過ごせた僕
はなんと幸せだろうと思う。

子供は学校から帰ると、鞄を放り出すや示し合わせた空き地に集まる。バケ
ツに張った布の上に、縁を八角や六角に削った鉄のベーゴマを投げ入れ、ぶ
つけ合って遊ぶのだ。紐を離れたベーゴマは厚いキャンバス地の上でブーン
とうなりをあげて回る。布の中央の窪みで先に回っているベーゴマに弧を描
きながら近づき、ぶつかった瞬間チンと弾け合う。接触が浅ければ二個のベ
ーゴマは布の窪みから縁へ傾斜を昇って別れ、軸を傾け回転しながらまた中
心の谷へぶつかりに降りてゆく。時には、三つも四つものベーゴマが布の上
に踊ることがある。弱いものは布から弾き出される。冷たい鉄の金気臭い匂
いが手に染みついて夕餉の席に興奮の余韻を漂わす。

ベーゴマに飽きると子供たちは馬飛びをして遊んだ。馬の組の独りが壁に背
を当てて立つ。その子の股に次の子が頭を突っ込み、立った子の腿を両手で
抱え馬を作る。騎手の組が馬の背に飛び乗るのだ。落馬した子は馬になる。
馬が長く伸びてしまいに六人も七人も繋がると馬の首元まで飛び乗るには大
変な跳躍力がいる。子供はそうした距離を怖れもせず助走で勢いをつけ跳ん
でしまうのだ。五六メートルも跳んできた子は馬の子の背中に身体ごとガバ
ッとしがみつく。子供の跳躍力と肉体の柔軟性には驚くべきものがある。
子供時代の遊び友達はこうして身体ごとぶつけ合った仲なのだ。学校の成績
もへちまもなく誰もがそれぞれの特性を認め、組んだり争ったりするのだ。

 (つづく)

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2011年3月20日 (日)

レクイエム 6

ひとつの光景が、異様な印象とともに記憶に刻まれている。ある夜、廊下に
立ち、川とその向うの畑を見ると、真っ暗な筈の空が白夜のように煌煌と明
るんで見えた。それは満月に野や畑や山が照らされて白く見えたのかも知れ
ないが、何かの理由で増幅された幼児の感性が、夜中に特別な天体が飛来し
青白い光で田園を明るく照らし出したかのような、恐ろしげな天変地異が突
然生じたかのような畏敬の感情を引き起こしてその光景を胸に刻んだ。
後年、聖書の創世記を読んだ時、僕はこの時の光景をその感情とともに想い
出した。

祖母は僕を躾たりしなかった。子供の好奇心の赴くままに文字や絵を教えた。
心理学者によれば普通、子供は幼児期に第一反抗期を持つ。幼児期の子供は
親にたいし憎しみを抱いたり、またその憎しみを隠し抑圧したりするそうだ
が、僕は親恋しの思いを抱くことがあっても、憎しみは抱けなかった。第一
反抗期は子供の自我の形成に重要だそうだが、僕は反抗すべき親が傍におら
ず、親への絶対的信頼を作れなかった。親への反抗は親を絶対的に信頼して
いるからできるのだそうだ。親をあまり信頼していない子の反抗は少し変わ
った形態をとるだろう。

十一月一日のトウッサン(万聖節)は今年は日曜に重なった。日本のお彼岸
にあたるこの祭日にフランス人も墓に菊を具える。ジャンヌの母のベルナデ
ットはフォンテンヌブローの森のはずれの墓地に眠っている。松や樅の生え
た明るい南向きの斜面にあり、享楽好きなベルナデットにふさわしい墓地だ。
彼女は田舎育ちで長年パリに憧れていた。晩年にやっと念願がかないパリに
住めたのも束の間アルツハイマー症に罹った。モントローの郊外の養老院に
いたが去年の十一月の寒い夜、静かに息を引き取った。ジャンヌと僕は週末
毎に車で散歩に連れ出したが、どこへ落ち着いても必ずよそへ行きたがった。
ベルナデットもジャンヌも無神論者で教会へゆかなかった。父親のクロード
は敬虔でときどき教会へ行っていたが十年前に他界した。

僕とジャンヌが結婚して今年でちょうど二十年目になる。二人の間に子供は
いない。去年、僕はパリで十三年勤めた日系企業を辞めた。ジャンヌに生活
を支えて貰い、今は若い頃からの夢だった画業に打ち込んでいる。数年前、
小さな庭つきの家を手に入れ、アトリエを造った。油絵とテンペラ画、時に
水彩、グワッシュ、銅版画を作る。知り合いの画商が個展を薦めてくれるが
今は不景気でさっぱり売れない。

土曜に買っておいた黄菊の鉢を持って日曜の朝のうちに墓参りを済ませ、
昼食前のひとときを居間で寛いでいる。ベルナデットはマリア・カラスが好
きだったのでジャンヌがノルマのCDをかけた。ベリーニの命を与えられた
旋律。音楽が人間の喜びと悲しみをじかに感じさせるのは何故だろう。ママ
ンは台所で料理しながらよくアリアの歌まねをしたとジャンヌが話す。
「私が嫌いなカボチャスープを食べるまでママンは私の鼻先にボールを置い
たままにテーブルを立たせなかったわ。」
ジャンヌは週刊誌を手に取ると笑いながら言った。

 (つづく)

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2011年3月19日 (土)

レクイエム 5

 祖母に僕はいっときも離れずまといついていた。風呂の焚き口にかがみ、
薪の燃やしかたを教わり、ちゃぶ台で字を習い、丹頂鶴の描き方を教わった
記憶と並び、僕にはある強烈な印象が残っている。

 厠は小川の上に張り出した廊下の突き当たりにあり、大便所の穴から下を流
れる水が見おろせた。祖母はよく着物の裾を端折って太股を出し、朝顔に後
ろ向きになって放尿した。腰までまくられた祖母の白い太股のややたるんだ
肉に触れるところに僕はいつも立っていた。祖母の腹と太股は露わなたっぷ
りした白い肉をさらけ出し僕の頭上に山のように聳えていた。それは僕が安
心して頼ることのできる仏の立像のどっしりした脚のようだった。祖母の太
股はその白い肉のイメージと一緒に僕の心にしっかりと刻まれている。

 茶箪笥の中のガラス瓶にぎっしり詰まったらっきょうと楕円形の「きんかん」
が思い出に残っている。みかん色の艶のある皮に歯を立てるとさわやかな香
りが鼻をつき、舌がほろ苦い甘さにしびれ、クエン酸の汁がわずかに口中を
濡らした。その感覚は祖母の思い出としっかり結ばれている。フランスの中
華食品店で「きんかん」を発見した時、僕は祖母の形見を見つけたような気
がした。

 風呂の窯を焚いたり、食事をさせてもらったり、字とか絵を習ったりの他に
何をしていたかもう記憶にない。在所と呼ばれていた隣が大きな家でその家
の忍びの地下道をくぐって遊びに行き、僕より少し歳上の男の子のカレイド
スコープを廊下に持ち出してふたりで交代に外へ向けて覗いたことを覚えて
いる。

 冬は、小川のほとりや道端に生えた南天の赤い実がまっ白い雪に映えて眼を
奪われ、村の遊び盛りの少年に加わって融けかけの雪を丸めた玉どうしをぶ
つけて遊んだ。春は、祖母と岸辺の蕗のとうを摘みにゆき、川端の篠竹の細
い管で作った鉄砲で杉の実を飛ばして遊んだ。夏は、膝くらいまでの水深の
川にたらいを浮かべ水遊びに熱中した。夕方、水面を緑色のヘビが身をくね
らせて渡ってゆくのを見つけ、わんぱくたちは一斉に小石を投げてヘビを殺
した。冬の凍てつく朝、竹の棒の先に紐をつけダシジャコを結んで川へ降り
てゆき、階段の途中で近所のおばさんに「まあ。寒中に魚つりかいね」と笑
われた。こうした光景がいまでも鮮明に僕の記憶に残っている。

(つづく)

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2011年3月18日 (金)

レクイエム 4

 父方の祖母のお玉婆さんは酒と煙草ばかりくらって遊ぶのが好きな人だった
から、妹の出産にあたって手が足りず、母は兄を残し僕を田舎に預けること
にした。三歳から五歳になるまでの二年間を僕は兵庫県の人里離れた土地で
過ごした。ものごころつくまで僕は母方の祖母の許で育った。母と別れ祖母
とふたりきりで過ごした二年間の記憶は、僕の心の奥にしっかりと植わって
いる。

 ―― 母さん、僕は子供の頃に母さんの許を離れて田舎で暮らしたことをこれ
っぽっちも恨みになんか思ってやしないよ。それどころか、都会の子供たち
が味わえない田園の風物に触れることができて、ちいさい時から自然に関心
を抱けるようになったのもこの時のお陰と感謝してるくらいだ。

 祖母とふたりきりで暮らした田舎は姫路から播但線に乗って日本海に近い
但馬へ行き、そこからまた馬車に揺られてやっと着く八鹿という村だった。
当時もまだ「馬力」と呼ばれていた荷馬車の荷台に後ろ向きに座って土の
田舎道を揺られて行った記憶がある。大柄で肉付きのよかった祖母と過ごし
た村の生活の幾つかの場面を今でもはっきりと覚えている。気立ての優しい
祖母との、思い出の中の毎日の生活は全体としてかなり楽しいもので、悲し
かったとか寂しかったとかの記憶はまったくない。母を想っている自覚もな
く、置かれた状況にただ順応し子供の自然の生命力で日々をそれなりに楽し
く過ごしていたのだろう。それにしても、母を恋しがらない幼児はいない。
いつ頃からか僕の心に根づいたいつもなんとなく寂しい感覚、女性を思慕し
つつ、肉体を強く望むわけでもなく、離れて想う方がいいという、どこか現
実逃避的な愛の習癖はこの時に形づくられたのではないかと思う。

(つづく)

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2011年3月17日 (木)

レクイエム 3

 七年前、父親とヨーロッパ旅行の途中に寄ったのが母がパリへ来た最後
だった。教会ばかり連れて回る僕に疲れた母は「もう教会はええわ」
と言った。カフェで耳に挟んだフランス語の「ヴォワラ」を「わら。わら」
と聞き、メトロの中で、サッカー応援団が「On a gagne!……On a gagne!……
(勝った。勝った)」と唄うのを、「おんながね。女がね、いうて騒いでる
けど、なんで?」と訊いた。

 ホテルで別れる時、着物を着ていた母はつと前へ出た。抱きしめたいんだな
と母の気持ちを察した僕の胸はきゅっと鳴ったが、着物を着た母親と
中年男が抱き合う姿を、ロビーの日本人客に見られたくなかった。
その頃の母はまだ元気だったからいつでも会うことが出来ると思い僕は母を
抱かなかった。中国の故事のように歳とっても幼児のまねをしてわざと躓い
たり子供の服を着たりして親の保護意識に阿ることが孝行だったかも知れな
いとその時のことを思い出しては後悔する。三ヶ月したら帰る予定で日本を
出たまま外国に住み着いて、いつまでも帰らず、母にはいちばん心配を掛け
た。母が元気なうちに少しはましな仕事をして喜ばせてあげたかったと母の
死顔に手を合わせると涙が流れた。

 母が僕を産んだのは新宿の花園神社の前の病院で、ベッドに寝ていると上空
を飛んで行くB二十九の爆音が出産日が近づくにつれ、激しさを増したと母
はよく語った。いよいよ大空襲で住んでいた地区がやられた時は、僕を背に
兄の手を引き、明治通りを神宮外苑まで走って逃げた。途中に火炎が赤く吹
き上がり灼熱地獄のような一帯を通り抜けねばならず、顔にも背中にも火の
粉が容赦なく降りかかった。子供に防空頭巾を被せてあったからあんな火の
中を逃げられたが、今でも思い出すたびに恐ろしさがこみあげる。晩年にな
ってもその時の記憶は強烈らしく腹の底から声を出して母は語った。家族の
命に別状はなかったが家は焼けた。焼け跡から少し離れた西大久保に土地を
貰い、父が焼けぼっ杭とトタン板を拾い集め、千住から荷車に家財道具を積
んで隣に逃げてきた同郷の若い兄弟の手を借りて掘っ建て小屋を建てそこに
住みついた。

(つづく)

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2011年3月16日 (水)

レクイエム 2

 僕の記憶には、明るい大正時代の華やかな文化と自由な教養を思わせる、
ふくよかな容色を湛えた若い母のイメージが残っている。
 竹久夢二が描く女性をもう少し大柄にして目鼻立ちを明快にしたと言えば
いいだろうか。暗い戦争の時代をくぐり抜けた後も、自由だった青春の
思い出と教養を愛し続けた人だった。中年を過ぎてからは友達と山歩きをし、
晩年は茶道に打ち込んでいたが免状を取った早々、脳梗塞で倒れた。

 母が幼少女期を過ごした時代は、日本で近代的自我が花開いた大正末期から、昭和の初期にかけてだったから母は西欧的個我意識を身につけていたに
違いないが、子供には、戦争中に父とした結婚がロマンチック・ラヴの
結果でなかったことが不満だった。僕たちは愛ではなく国とか社会とか家の
ため、つまり家系と民族の維持ために結婚した両親から作られた。
そういう意識が子供たちを不幸にしていた。アメリカのホームドラマの
良き家庭と比べて両親が愛によって結ばれているように見えなかったのだ。
母たちの世代の女性は、儒教社会の日本へ戦後、洪水のように流れ込んだ
アメリカ文化に翻弄され、伝統とバランスをとるのが難しかったろう。
個人と家族と社会を統合した人生観で人生と家庭を築くことが出来なかった
母は不幸だったろうと思う。母の最大の痛恨事は、僕をいれた四人の子供が
ひとりも日本の伝統に沿う家庭を築かなかったことにあったと思う。

 母の口から姫路という言葉が出る度に僕は何か誇り高い響きがそこに
こもっているのを感じた。母は姫路城といわず、しらさぎ城とかハクロ城と
呼んだが、そういう言葉の響きに、白亜の壁と幾重にも重なる破風と屋根を
頂いた格調高い城郭への誇りが読み取れた。母の細められた目や、ほほえみ
の浮いた口許に日本一美しい城という矜持が伺えた。無数の白鷺が羽根を広
げ舞っているように軽快で優雅な諧調を湛えた城。子供もそんな美しい城の
ある土地を故郷に持つ父母が自慢だった。

―― 母さん、浅野内匠頭ですよ。やっぱり、母さんも僕も。吉良上野介に
いじめられ、我慢できずに、殿中で切り付け、切腹させられた、赤穂の殿様。
浅野内匠頭が吉良のいじめに堪忍ぶくろの緒を切らしたのも、育ちのせい
でしょう。殿様育ちと播州の風土が関係してますよね。瀬戸内海に面し、
温和で果物に恵まれ、何不自由なく育った人間はいじめに弱い。母さんが、
お玉婆さんのいじめに我慢できず、ヒステリーを起こしたのも、僕が、
権田のいじめに耐えられず、会社を辞めてしまったのも、浅野内匠頭
ですねえ。ちやほやされてると機嫌がよく、自分の欠点にも気づいている
ので、そこを人に衝かれると脆い。優しい反面、こらえ性がなく、
人の批判や指摘に過剰に反応してしまう。

(つづく)

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2011年3月15日 (火)

レクイエム 1

母が逝って二年になる。

危篤の知らせが来て、家へ着いた時にはすでに母の呼吸は止まっていた。

母の意識はもしかしたら母の内部に持続していたかもしれないが、てきぱきと仕事を片づける葬儀屋が来て遺体を霊柩車に積んだ。

火葬場で棺に納まった母に別れを告げ、荼毘に付されて鉄板の上に運ばれてきた骨と灰を見た時、僕はありありと、母が居なくなり、魂の脱け殻が残ったと感じた。

晩年の母は骨と皮ばかりになって腰も曲がり左足を引きずって歩かねばならず見るも痛ましい姿をしていた。何年ぶりかで東京へ帰ると、母は床から起き出し応接間のソファーに身を埋めたまま無言で僕を見詰めていた。視線を僕に向けたまま心の奥の記憶を辿っているようだった。辛い想い出もあったろうが、眼には優しい光が宿っていた。唇にわずかに微笑を湛え、時折、吸い込んだ息をひゅーと細長く吐き出すのが母の癖だった。

母はよく「はよう死にたい」と言った。その度に、孝を尽くしてくれないと言われているようで、僕は黙りこんだ。授かった命を精いっぱい生きてくださいと言うのは簡単だがそう言われない何かがあった。

母の希死念慮は、今とは違う場所へ行き、別の状態になりたい、子供たちはみな私を捨てた、自分の身体も言うことをきかない、この先、長生きしても楽しみは少ない、苦しみに満ちたこの世に別れを告げ、寂静な涅槃の境地に早く達したいという思いなのだとわかっていた。

元気だった母とふたりだけで桜を見に行ったことがある。フランスから三年ぶりに帰った僕に母がお花見に行こうかと誘ってくれた。母は日傘をさし花吹雪が散る高台から遠くを眺めていた。ベンチに並んで腰を掛けたまま何を語らうこともなく半時間ほど過ごした。

母に言っておいたほうがいいと思われることが僕にあったが語らずにおいたほうがいいようにも思えた。

母と魂の交流がそうした形で行われたことを想い出した時、僕の胸は高鳴った。誰でも若い頃に魂の高揚を覚える。母を思い出したほんの一瞬、まるで母の魂が僕の呼びかけに応じたとでもいうように、青春の高揚に似た昂まりに僕の胸が脹らんだ。

ある哲学者が書いた死後についての本によると、われわれはこの世で生きている間は皮膚に包まれ、他と分離され、言葉や身振りや表情で意志の疎通を計らねばならないが、死によって精神は肉体を離れ、言葉や身振りを介することなく直接、意志を伝えることが出来る。そして地上に残してきた愛する者たちの最も奥深い魂の中で彼らの精神の一部となって生き続ける、という。僕は巫女のようにあの世の母と交信はできないが、魂の中に生き続ける母に話しかけることは出来ると思う。

(つづく)

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2011年3月13日 (日)

夏の山脈 8

 白と茶のまだらの胴とワニのように隆起した眼窩の上の骨、ひしゃげて突き出た顎。草原の沼で一メートルもあるパイクを釣る。白木が行こうというなら行けるだろう。万事は白木の都合次第だ。
 
 辻さんが近所の村の飲み屋へビール飲みに行こかと言い、車で荒涼とした景色の中を十五分ほど走って廃村に出た。道の両側にはまばらにコンクリートの四角い建物が現れるが、壁の青やクリームの水性塗料が剝げかかっている。

 窓や扉が壊れ、外れかかって斜めにぶら下がったり、まったく無かったりした。建物の周りは雑草が伸び放題だった。
 
 「ここも石油関係の会社やったけど閉めたね。ここも潰れた」

 辻さんは建物の前を通るたびに倒産した会社を挙げていった。社名が書かれた看板が建物の上部や敷地の入り口に傷んで残っていた。

 バーの前には大型のピック・アップが四・五台停めてあった。
 ドアを開けて入ると中は広く、テーブルが二十以上はあるのに、客は奥のカウンターの前に、野球帽をかぶったカナダ人が四・五人居るだけだった。

 辻さんがバーの青年にビールを注文すると、背の高い大きなジョッキに入ったビールと柄のついたグラスを二つ青年が運んできた。

 しばらく飲んでいると、いままで見えなかった奥のテーブルから一人の太った婦人が近寄ってきて辻さんに座っていいかと訊き、頷くのを待たずに腰を降ろした。

 「あたしは決して差別の意味で言うんじゃないわよ。気にさわったらごめんなさい。こう眼の釣り上がった人はあまり居ないから訊くんだけど、あんたはひょっとしてコリアンじゃない?

 あたしの働いてたトラッカーズの近くのガソリンスタンドにコリアンがいるのよ。あんたの顔がとっても良く似てるから兄弟じゃないかと思って……」

 早口の英語の聴きとれなかった部分を想像力で補うとどうやらそういうことらしかった。薄暗い板張りの壁のだだっぴろいバーで辻さんが居てくれるにもかかわらず陽一は怯えを感じた。こんな環境に慣れてないうえに英語の理解力が足りないせいで不安を感じるのかと陽一は自分の怯えの理由を探った。

 「いいえ。ボクは韓国人の友人を訪ねて来た日本人ですよ」
 陽一は言い間違えぬよう丁寧に発音して言った。

 婦人はなおも話し続け、辻さんの説明では、その日、婦人が働く長距離トラック運転手相手のレストランで、不始末の火を出し首になったということだった。

 「裏の庭の木の下で、じゃがいもを入れるコモ、あの麻袋に入って、トラックに乗せられて、運ばれてゆく、あなたたちの同胞を見たわよ」

 こんどは婦人は戦争当時の想い出を喋りはじめた。辻さんはうるさいと思ったのか、暗い話題に立ち入りたくないと思ったのか、ぼくたちビリヤードをやるから申し訳ないけどと席を立った。

 婦人は邪魔をした詫びを言い自分の席に戻って行った。

 (つづく)

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2011年3月12日 (土)

夏の山脈 7

 ジミーが引っ込み、今度は女の子が出て来た。台所に立って何か飲み物はない?と辻さんに訊いている。雪のように白い肌にバラ色の頬をした女の子だ。フランボワーズのシロップのかかったクリーム・シャンテイを見るときのような甘い気分に誘われる。

 これが辻さんの同棲相手だろうか?さすが芸術家だけあって、こんな初々しい華やかな女の子をパートナーに連れ添ってるのか?一瞬、言葉に詰まり、消え入るような挨拶しかできなかった。

 「ずいぶんお若いんですね
~、辻さんの彼女って」

 「やだなあ~。これは彼女の娘ですよ。十四にしては胸も張って成熟して見えるけど、まだまだ、ねんねえやで。なあ、ジャメイ。ぼくの彼女はもっとどっしりした女ざかりのレデーやで」

 子供たちが行ってしまった後、辻さんはビールのお代わりを抜いてくれ、ふと釣りの話をした。

 「ここから、北の方に五十キロほど行ったところに池があって、パイクとかマスキーとかパーチとかがよく釣れるよ」

 「こないだ初めて、パイクを釣ったんですよ。四十センチくらいの制限ぎりぎりのやつでしたが。うれしかったですね」

 「ここじゃあルアー入れたら七・八十センチのパイクがいやいうほど食いついてくるよ。釣りするんやったらやはりレインボーやね。白木が、どうするかな、ロッキーに行って、四・五日遊んでくるかな、言ってたから、たぶん連れてってくれるでしょう。山の湖にはレインボー・トラウトの大きなのがいるよ。これは、きれいな魚。腹に紅い線があってね。

 レインボーがかかるとジャンプするからね。それは楽しいよ。わざと細めの糸使って、切られんように上手にあげるのが、腕のみせどころ。ぼくはいつもマシュマロつけて釣るの」

 「マシュマロ?」

 嚙むと泡のような音を立て、白やピンクの張りと弾力あるお菓子が陽一の眼に浮かんだ。

 「マシュマロに臭いがあるでしょう。それに浮くから、ミミズを目立ちやすいようにしてくれるんや」

 「なんか、とっても北米的な釣り方ですね……。もっと釣りの話を聴かせて下さい。竿もちゃんとスーツケースに入れて来たんです」

 「へえ~。キミ、釣り好きなの?日本人やねえ。やっぱり」

 辻さんは、皮肉交じりともとれる言い方で言った。

 「ボクは釣りするとなったら、一日腰据えて釣るからね」

 「レインボーはどうやって釣るんですか?ルアー?浮釣りですか?」

 「錘をつけて飛ばすのよ。百メーターは飛ばさなあかんね。糸をピンと張って、あとは魚が食いにくるのを待つだけよ。

 魚が食ったらグーッと竿がしなうからね。竿を立てといてほかのこともできる。竿の先に鈴つけといたらええね。寝転がって本読んでてもええ。

 釣ったばかりのレインボーを火で炙って塩焼きにしたらうまいよお~」

 (つづく)

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2011年3月11日 (金)

夏の山脈 6

 眼の前の窪地の池を陽一は眺めている。池というより大きな水溜りと呼んだほうがいい。なにもかも人手にかかっていない。草は伸び放題だし、木の枝も歪んでいない。けれども、どことなく寂しい光景だ。

 木は水の縁なのに水気の足りない乾いた育ち方をしている。水鳥が静寂の中で人間とまったくかかわりなく水に浮いたり潜ったりしている。

 「ビール飲みませんか?」

 辻さんが冷蔵庫から冷えたビールを出し、栓を開けてくれた。

 「ぼくはビールをよく飲むね。ビールさえあったら何もほかにいらんからね。ここに、こうして景色を見ながらビールを飲んで、一日中ボケーっとしていても、ぜんぜん退屈せえへんよ」

 その通りかもしれないと陽一は思った。

 「それにしても静かですね」

 「一日中、表を眺めていて、車が一台通るか通らないかだよ」

 陽一はさきほど部屋に入った時すぐに眼にとまった焼き物へ視線を移した。

 「これ、みんな辻さんがお造りになったんですか?」

 壁にしつらえられた棚や、壁の裾と床の間に、おおきな飾り皿や壺、花入れなどが並べてある。大胆な形をして伝統的な篠や萩などの渋い陶器の肌の上にほんのひとハケかふたハケ、前衛的な華やかな色が走っている。鮮やかな色彩が施された一対の焼き物が掛けてある。良く見ると人の顔らしい。

 居間に男の子が入って来た。辻さんの同棲相手の子のようだ。陽一が陶器を見ている間、廊下の奥の方で辻さんと英語で話す声が聞こえていた。

 「ジミー」と辻さんが紹介してくれた。陽一は十二歳の男の子と握手をしてこんにちはを言うことはできたが、会話が満足にできない。英語が苦手というコンプレックスがいまだに抜けていない。

 高校の時、安保闘争があったので、安保反対、アメ帝帰れと叫んでデモに加わり、義理堅く英語の学習を拒んできた。実益より倫理を優先すべきと理由をつけていたが、こういう時、怠けたのが恨めしく感じる。

 こんな子供と自由に会話が出来たらいいのに……と自然な気持ちで思う。いまからでも必死に英語を覚えたい衝動が後悔を伴って胸に込みあげてきた。

 (つづく)

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2011年3月10日 (木)

夏の山脈 5

 オスカー・ワイルドの短編に「セルフィッシュ・ジャイアント」というのがある。高一の英語のリーダーに入っていた。陽一がパリに住みついてからも孤独感に襲われた時、取り出して読んだものだった。

 友達の城に遊びに行っていた巨人が、帰って見ると城の庭に近所の子供たちが入りこんで遊んでいる。巨人は腹を立て、立ち入り禁止の札を立てて、子供たちを追い出してしまう。

 春が来ても、巨人の庭だけは冬のまま、霜に覆われ真っ白で、木の芽も出ず、花も咲かない。孤独地獄を味わった巨人は、キリストの化身である白い子供のお陰で隣人愛の貴さを見出すという話なのだが、陽一はこの短編のなにげない書き出しに、いつも注意を惹かれた。

 「ある日、巨人は帰って来た。彼は、友達のコーンウ
ールの鬼を訪ね、彼の許に七年間滞在した。七年が経って彼は言うべきことを言いつくし、話すことがなくなったので自分の城に帰る決心をした」

 昔の友達に無沙汰の間の出来事、心の鬱屈を語り尽くすのに七年が要ったのだ。七年友達の許に滞在して、初めて言うべきことが言い尽くせた。

 白木を訪ねて来たオレは、コーンウ
ールの鬼を訪ねるセルフィッシュ・ジャイアントだと陽一は思った。巨人が言いたいことを言い尽くしてから帰ったのに対して、陽一は、初めから帰る日を決めて来たところが違う。

 陽一は白木との再会の期間を十日間と決めていた。巨人よりもオレはセルフィッシュかもしれないと陽一は思った。

 (つづく)

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2011年3月 9日 (水)

夏の山脈 4

 体じゅうを黒褐色の長い毛で覆った大きな犬が迎えに出て来た。
 犬は腰ほどまでも背丈があり、首を叩いてやると四足を揃えて陽一の脇に佇み儀仗兵のような挨拶をした。

 ベランダへ乗って白いエナメル塗りのドアから家の中に入った。
 広いサロンがある。大きなソファーが置いてあり、その向い側が一面ガラス張りになって外の景色が見渡せる。陽一はまず景色を見に行った。

 サロンのガラス窓の下が急に落ちこんで傾斜になって下り、下に池があった。水鳥が四・五羽遊んでいる。池の向こうは牧場らしく、なだらかに高くなってゆき、はるか向こうの斜面に馬が二頭、草を食んでいた。

    ☆             ☆            ☆

 この三月、仕事で日本へ帰った。仕事が終わり、パリへ戻る間際に高井に電話した。高井は、今年の夏、仕事でアメリカへ行くからそのついでにカナダへ回って白木に会って来ようと思うがお前も来ないかと言った。
 
 「行きたいな」と陽一は答えた。
 
 白木は八月ごろ日本へ帰ると高井は言った。

 「できたら、その前にカナダで会いたいな」とも陽一は言っておいた。

 青春時代を毎日のように一緒に過ごした悪友が三人、太平洋と大西洋を飛んでロッキー山脈の麓で落ちあう。いいじゃないか。陽一はすでに再会の場面を想像していた。

 その旨の手紙を白木に書いたが返事は無かった。夏になって白木から電話があった。

 「仕事でハワイに三カ月行っとった。帰りに日本へ寄ってきたよ。キミの手紙読んだ。高井と会ってきたが、ヤツものすごう忙しそうにしてたから、この夏、来れるかわからんぞ。おれの見たところ、まずムリやなあいう感じやったな」

 それで高井に電話した。高井は早口で、その件、中止してくれと言った。
 
 そもそも白木のカナダのアドレスを教えてくれたのは高井だった。大学へ入り就職するとそれぞれの生活に忙しく、心の底に友情を保ちながら疎遠になっていった。そのうち陽一はパリへ出てそこに住みついた。

 一度だけ、カナダの白木からハガキを貰った。友人が行くからよろしく頼むと。その友人とは会えなかったが、白木のアドレスが書いてあるそのハガキは大事にしまっておいた。パリでのアルバイト、引っ越し、結婚と、自分の生活を築くのに必死になった数年間にそのハガキのありかを忘れ、住所録も盗まれた。

 「エドモントン」という街の名前だけが記憶に残っていた。

 白木の正確なアドレスを知らせてくれたのは高井だった。高井は事業で忙しい身でありながら筆まめだった。

 三人で再会のアイデアが消えた後も、陽一はカナダでの白木との再会を諦め切れなかった。
 

(つづく)

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2011年3月 8日 (火)

夏の山脈 3  

 辻さんの車は幅の広い箱型のブルーのピック・アップだった。

 車に乗り込んで話すうち、辻さんが陶芸家でエドモントン大学で教えておられると分かった。

 「去年、田舎に土地を買って家を建てたばかりです。家にも窯を作りましたが、まだガスが来てなくて。まあ大学の窯が自由に使えますから」辻さんは京都弁で話す。

 「こちらが南。こっちが東。エドモントンの街はこの方向です」

 辻さんがハンドルから右手を離して地平を指し示しながら言った。

 道路の脇は路肩が土でその向こうにわずかに起伏が認められる平坦な牧草地が広がっている。陽の光が、北国に特有の透明な黄金の色で牧草を、陰影の極端な鮮やかな緑色に照らし出している。時差に疲れた陽一の眼にその光景は非現実的に見える。

 初めて眼にする北米大陸の広大な景色。東京やパリの狭苦しい空間となんと違うことだろう。フランスの田園にも日本には見られない広大な風景はあるけれど、それは隅々まで手入れが行き届いて抽象画のように見える。ここの景色はもっと粗野で野性的で地平線が遠い。

 「十七年前に何も持たずにふらりとエドモントンへ来ました。でも、着いてすぐにボクは教職を見つけたからね。こちらで結婚して娘がひとりできたけど、いま彼女とは離婚して別の友達と一緒の家に住んでます。これから会いますがね。友達に十四になる娘と十二の男の子がいます」

 辻さんは芸術家らしい若々しい口調で語る。
 相手の年齢、社会的地位、自社との関係を気にしながら話さなければならない仕事の世界には見られない、辻さんの率直さを陽一は好ましく感じた。

 それから二人はカナダの冬の寒さのことを話した。行き交う車の数は少なかった。

 幾つか交差点を横切り、曲がりして車は土に轍の跡が刻まれている細い道に入った。起伏のあるその道を揺れながら、道から奥まったところにある農家を右に一つ、左に一つ過ぎると、右にポプラのまばらな林があって、その脇からさらに細い道が上がり勾配になって別れ、その勾配の上に家があった。

 「ここがボクの家」辻さんが言って車を停めた。

 道の先に低い柵があり、その向こうの台地に大きな黒い屋根と焦茶の壁板ペイントが真新しい家が建っていた。


(つづく)

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2011年3月 7日 (月)

夏の山脈 2  到着

 午後三時三十分。予定通り着陸した。入国審査にすごい行列ができている。制服を着た黒人の係り官が運良く三番目の窓口を開いた。

 陽一は前に居たオランダ娘を促してその窓口の二番目に並んだ。黄色の関税申告書を見て黒人の係官が何か訊いている。やがてオーケーと言うと紙に赤線を引き、オランダ娘は陽一に何も言わずに行ってしまった。

 持ち込み制限オーバーのところへ印をつけておいたので、係官はアルコールは何本持ってますか?と陽一に訊いた。二本と答える。ほんとうはリュックにもう一本、パリのド・。ゴール空港で買ったボルドーの七十五年のバロン・ロチルドが忍ばせてあるのだ。

 「約なんリットル?」とさらに税官吏が訊くので、約一・五リットルと答えると、よろしいと言って赤のフェルトペンで申告書に縦線を引き、にっこりと笑った。ああ、この国も寛大なのだ。よかった、と陽一は思った。

 荷物はすぐに出て来た。出口の脇に立っていた婦人警官も歓迎の微笑を浮かべて申告書を受け取った。

 出迎えの人混みの中に日本人を探す。長髪だと白木は言っていた。

 「いいか。辻トオルという人が迎えに行くからな。この人に鍵を手渡してくれるよう頼んどいたから。辻さんは……長髪だから、すぐわかるよ」

 ハワイの仕事が延びたから君が来る日までに帰れなくなったと白木から電話があったのは三日前の日曜日だった。フォンテンヌブローのアパートにアリーヌと居る時電話が鳴った。なぜかその時だけ白木から電話があるとは思ってみなかった。あと三日で白木と必ず会えるとばかり思っていた。

 アリーヌが電話を取り、「ヌキテパ」とフランス語で答えてから、陽一に手招きした。白木の声にはどこかイライラし怒ったような響きがあった……。

 出迎えに出た一群の人々の背後にベンチから立ってゆっくりと歩き始めた東洋人がいる。ジーンズを穿いて真っ黒な髪がすこし長い。向って歩いてゆくと男も陽一へ眼を向けた。

 「辻さんですか?」と訊くと向こうはもう笑っている。

 出迎えの礼を言ううちに辻さんは歩き出していた。

 「車がパーキングに停めてありますからね。そこに行きましょう」

 両替を探したがそこには見当たらなかった。

 「明日、街で替えましょう」辻さんが言った。

 「ぼくはエドモントンに住んで十七年になりますよ。白木とはしょっちゅう往き来してる仲ですから。今日は大学で仕事をして、これから家に帰るところです。ぼくの家は空港のすぐ近くですから今夜はうちへ来て泊まってください。白木の家はここからずっと遠いですから。明日また大学へ行きますので、その時送りますよ」

 白木は「鍵を辻さんからもらって家で待っててください」と言っていたので、白木の家でひっそり日記でも書きながら待とうかと考えていたのだが、辻さんの都合もあるだろうし、せっかくそう言ってくれてるのだから、彼の好意に甘えればいいのだろうと思った。

(つづく)

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2011年3月 6日 (日)

夏の山脈 1 機内で

                    

         新連載 「夏の山脈」         

              その1

 白いちぎれ雲を浮かべた空が無限に広がっている。その下にグリーンの大地が見えた。

 機体がどんどん高度を下げ、卵型の窓を通して、粘土をヘラで搔いたようなベージュの土と濃い緑の樹木で縁取りされた河が、モスグリーンの水を湛えてゆるやかに蛇行するのが見えた。

 「サスケッチワン・リヴァーですね?」

 陽一は隣のオランダ娘に問いかけた。

 「河?」 娘は窓をのぞきながら呟いた。

 「そう。エドモントンの街を大きな河が横切ってますね」

 陽一はエドモントンがカナダのどの辺にあるか世界地図で調べた時に、サスケッチワンという河が街を貫いているのを見た。ガイドブックには、この河によってエドモントンが発達したことも知った。

 エドモントンはこの河の河床に出来た毛皮取引所として誕生、出発した。

 明日の夜、陽一は白木和雄と十七年ぶりに会う。白木とロッキー山脈をキャンプして回り、川や湖で鱒釣りをする約束になっている。英国製の七つ折りの釣竿もスーツケースにしのばせてある。

 やがて、河を挟んで一塊りのビルが見え、両側に碁盤の目に道路の走った街が見えだした。桝目の中の緑が濃いのは、それぞれの住宅に樹木が豊富なためらしい。

 「あまりきれいな街じゃないのよ」

 アムステルダムから、二席しかない最後尾の席で隣り合わせになった娘は、小柄な金髪で、飛行中ずっと日記らしいものを書き続け、ときどき花模様のワンピースの背中に手を入れてボリボリ搔き、陽一に飴玉をくれたりした。

 エドモントンの工芸学校でデザインを勉強しているということだった。カナダの生活はオランダと比べてどうですか?と訊くと、

 「人間関係が冷たいワ。ヨーロッパみたいに伝統や文化が共通で、少しの言葉で信頼し合えるのと違うのよ。みんなお金のことしか話さない」

 「料理は?」

 「お砂糖をいっぱい使った甘いお菓子を良く食べるわよ」


(つづく)

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