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2011年3月26日 (土)

レクイエム 12

自我の目覚めにともない子供は今まで親や学校の先生の言われるとおりやってきたことに懐疑を抱き始める。ちょうど十七世紀の近代の目覚めにデカルトがすべてに疑いを持ったように、今まで当然のこととして受け入れて来た規範に懐疑の眼を向ける。模範生になろうとして今まで生きて来た自分に疑いの眼を向ける。自己の存在そのものの不確かさからものごとを見る眼をすべて懐疑に転じる。好きだった数学に僕は懐疑の眼を向けた。数学の公理そのものを疑ってみ、疑いに固執することで僕は、自我を自覚した。デカルトがすべてを疑うなかでただひとつ確かな「疑っているわれ」があると考えたように。

幾何の定理というのがある。点と直線の定義からユークリッド幾何学ははじまる。点とは位置だけあって大きさのないもの。直線とは点と点を結び長さだけあって巾のないもの。僕の疑問はこうだった。大きさのない点など現実に存在せず、長さだけあって巾のない線など現実に在り得ない。定義のような点と線は人間の想像の中にしか存在しない。幾何学が定義する点や直線や形は仮空のもので、どんなに細いエンピツを使っても描き得ない。僕の眼に映る現実の世界を良く観察しても、定義どおりの点や線は存在しない。人間の頭の中にそのイデアがあるのは幾何も算数も得意だった僕には自明のことだった。ただ自分の頭のどこかに今まで自明だったことに疑いを向ける何かがいることに僕は驚いたのだ。僕の自我に人間の頭脳が行う概念作用を観察するもうひとつの自我が目覚めたのだ。プラトンが心の目に見えると言った点や線や正三角形や円の理想の形態は人間の観念の中にしか存在しえず、現実にはありえない。人間の頭にしか存在しないものを実在するといえるのか僕の良心が問いを発したのだ。考えただけで実在するといえるなら神も天国も魂も実在することになる。僕の自意識の夜明けがこうして始まった。

 みんなが当然のこととして疑いの眼を向けない数学の定義がどんなにいい加減なものかを発見したようで僕は密かにほくそえんだ。しかし、この定義というやつはギリシャ以来人類が生み出した最高の叡智として科学と技術をしっかりと支えている基本なのだから、それに疑いの眼を向けた人間などめったにいる筈がなくそんなことを公言しようものならつまはじきに遇う恐れがあったし、こんな疑いを持つ僕のほうが間違っているのかという不安を感じながら、おそるおそる教師に質問してみた。

 「僕は定義のような点も直線も描けません。大きさのない点、太さのない直線なんてありえないんじゃないんですか?」

 「君。それは愚問だよ」

 教師は一瞬たじろいだ後、持っていた竹のムチで自分の肩を叩き、僕の質問をまともに取り上げようとしなかった。
 隣の生徒が「それは決め事なんだ。そう決めておかないと何事もはじまらないからそうするだけなんだ」つまり仮説や前提を決めてから始めるのが学問なんだと重要なことを教えてくれた後も、疑いを抱いていること自体に意味を見つけていた僕は疑いに固執し、出だしで躓いた数学はもはやそれ以上前へ進むことが出来なかった。
この疑問こそ僕の「コギト」だったのだ。 

 (つづく)

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