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2011年5月21日 (土)

夏の山脈 17

翌朝は八時を過ぎてから辻さんが台所で立てる音に目を覚まし、ようやく起き上がった。キャサリン夫人と子供たちに前日よりはましな挨拶と礼を言おうとベッドの中でいろいろと英語を考えたが、これはという言葉が浮かばなかった。夜中に二度も目を覚まし、朝方になって眠気を催し、居間と食堂の方で子供と夫人の声がするのを聞いていたが起き出して行く元気が出なかった。

「僕はね、朝は必ずうどんを作って食べることにしているんです」
辻さんは湯気の立つ鍋に菜箸を突っ込みながら言った。黒い肌の厚手の焼き物の鉢に給されたうどんは格別美味だった。こんな風に自分で作った高級民芸品、というか味わい深い什器に囲まれて暮らす生活はいいだろうなと陽一は羨ましく思った。

「不動産屋に白木の家の鍵を取りに行って、それから荷物を置きに行きましょ。両替をして、僕の大学を見てもろて、それからお昼を一緒にして別れましょか」
辻さんは前もって考えてあったのか、その日の行動計画を淀みなく述べたてた。

街へ近づくとダウンタウンまで行かずに辻さんは左へ曲がった。郊外の住宅地を走っている。ここが87ストリートやからもう少し上の方やな、反対方向へ来てた、と言いながら近くの路地へ入ってUターンした。スーパーらしい平たい大きな建物の周りのあちこちにファーストフードとかクリーニング店とかが並んでいる、ちょっとしたコマーシャルセンターへ車を入れ、ここだと思うけどと言いながら建物を幾つか覗いたが不動産屋はなかった。裏手へ回ったところに、リアルターと書いた看板があった。辻さんは車を停め、ここで待っててくださいと言うや、階段を駆け上った。

「鍵に金額まで書いてあるよ」運転席に戻った辻さんが、にやにや笑いながら言った。白木の家の売値が分かってしまった。

陽一は白木の家というのをパリで何度も想像してみた。無一文で日本を出てから十七年、白木はまがりなりにも建築家として成功し、家を買い、賞まで貰ったのだ。今までの不義を侘び、心から祝福したかった。白木の方からヨーロッパへ来る機会を待たずに、陽一の方からカナダへ出向いてきた理由のひとつは、白木がこの十年来暮らした家と土地を見たかったからだ。高校時代に陽一がよく訪ねた白木の下宿。その想い出と、白木が一家の主となって暮らしている現在を比べて見たかった。

最初、高井と三人で落ちあう話が出た時、陽一は、ガラス張りの広いサロンの重厚なソファに三人で寛いで酒を飲み交わし談笑している光景を思い浮かべた。高井も白木も高校時代から酒をたしなんだし、酒豪となる兆候すら現れていた。二人はよくトリスバーや屋台などで一杯五十円の水割りや焼酎を飲んでは高歌放吟していた。ある晩、サントリーの赤ラベルの1.5リットル入りを三人で空けた。高井と白木は気持良さそうに鼾をかいて眠っていたが陽一は悪酔いし、目眩に苦しみながら嘔吐した。

あの頃と比べると陽一は少しは強くなった。高井は来なかったが、白木と一晩飲み明かす位はできるだろう。手紙には上等のワインを一本提げて行くと書いておいた。バランタインの三十年ものも買ったから、最初の晩の祝い酒に不足は無い。もう一本のサンテミリオンは辻さんとこでご馳走のお礼に空けてしまった。

(つづく)

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