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2011年6月29日 (水)

夏の山脈 20

陽一は辻さんと別れてエドモントンの街を高層ビルの並んでいるダウンタウンへ向けて歩き出した。高層ビルは外壁をブルーがかった銀や、オレンジがかった銀色のガラスで覆われ、どれも金属的な輝きを夏の透明な午後の光に放って聳えていた。通りをしばらく歩くうち銀行などの並ぶダウンタウンの中心に出た。信号と、商店の色彩などがどことなくロンドンに似ている。ビルの谷間のコンクリートの敷石の敷かれた公園の一角に、白人とインデイアンの銅像があった。その隣にはガンジーの胸像があった。

黄色いペンキの塗られた建物に劇場の表示があったので近寄ってみたが閉まっていた。そこはもう街はずれで通りを百メートルほど行くとパーキングの向うにサスケッチワン河の谷が見下ろせるようだった。良い眺めが見張らせるか近寄ってみたが、送電線が見えるくらいで美しい景色はなかった。あちこちで工事をやっていた。日本人と見える若いビジネスマンともすれ違った。こんな具合に陽一のエドモントンの街の見物は終わった。黄色いタクシーを拾って、白木の家の番号を言い、家まで帰った。時差と疲れで、それに辻さんは白木が家へ着くのは夜中の十二時頃だろうと言ったので、ベッドにもぐって昼寝をする事にした。寝室の小さな窓は汽車の窓のように上下に開け閉めする方式で、それまで陽一は気がつかなかったが、白い窓枠のついたガラス窓が半分開けてあり、レースのカーテンが風に揺れていた。

          *              *

「これはええ本や。読んでみいや。義兄さんの本やけどな。よかったら貸すよ」
そう言ってある日和雄が差し出した本が倉田百三の「青春を如何に生きるか」だった。愛、友情、人生、信仰。およそ青春のありとあらゆる生々しい感情。悩みや理想や倫理やらが、しかつめらしい学校哲学と違って、自分の生きざまが……たとえば女との「私はあなたと永遠に交合していたい」などといった言葉により直接に示されている。この西田幾太郎の弟子の中の異分子、大正期の一風変わった哲学者の本を陽一はこれを機につぎつぎと胸を弾ませながら読んで行った。

「出家とその弟子」、「愛と認識との出発」、「絶対の探究」と陽一は図書室にある倉田百三全集を片っ端からむさぼり読むようになった。陽一はこの作家によってそれまで知らなかった世界を発見することが出来た。人間に内面世界があることを知ったのだった。精神とか心とか魂とか呼ばれている眼に見えないが、実体を確かに感じる内面の世界に初めて眼を向けさせてくれたのだった。中学時代にほのかに女の子に想いを寄せることはあってもそこには恋とか愛とかの言葉は介入していなかった。今、あの時よりももっと強烈に煩繫に陽一の想いのうちに現れる、あの眼の大きくて黒い色白の西洋人形のような岡田園子と初恋という言葉が結びついていた。この胸のうちの想いは実体として確かなことだった。後年、陽一はすべての現象を唯物的に解釈しようと試みた時、恋に胸が締め付けられ痛むのは青年期に発達する胸腺ホルモンのなせる純粋に物質的な作用だなどと考えることがあった。

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