夏の山脈 25
十時頃、そろそろ起きて着換えをし、夕食の支度でもして白木の帰りを待つかと陽一はベッドから起き上がった。寝室の隣のバスルームで顔を洗い、着換えをして、台所へ行った。電気ポットの湯沸しがあったが使い方が判らず壊しては悪いので、手鍋に水を入れてレンジで沸かした。
食堂に行きテレビのスイッチを入れる。ほとんどが英語の番組だ。ひとつだけフランス語の番組があった。それを見ていると家の裏で車が停まる音がした。やがて口笛がかすかに聞こえ、誰かがキッチン脇の通路を進んで来る気配がする。白木か! 陽一がキッチンへ移動したのと、ドアが開き、白木の顔が覗いたのと同じタイミングだった。
「おお、久しぶりやな」
白木は上がり框へ黒い大きな革カバンをどすんと置き、手を差し出した。白木の顔は褐色に日焼けし目尻に皺が増えている。陽一は白い歯を出し笑っている白木の手を握り返した。白髪が増えたようだ。髪型は昔と変わっていない。昔から俳優のチャールス・ブロンソンに似ていたが日焼けして目尻に皺が寄った顔はますます似て見えた。
白木の顔から再会を心から喜んでるのが分かった。
それが白木との十七年振りの再会だった。あっけない……と陽一には思えた。
「腹減った? すぐそこのケンタッキーフライドチキンへでも食いに行こか? 本場のフライド・チキン食べて見るか? それとも家でうどんでも作ろか? 」
こんな夜中にのこのこ出かけて行くのも面倒な気がして陽一は家で食おうと言った。
白木は大きな鍋に水を注ぎレンジに掛け、小鍋に醬油と砂糖を入れて火に掛け、冷蔵庫から油揚げを出し、ふたつに切って入れ……そういった動作をいかにも慣れた手つきで素早く的確にやった。それが、この何十年かの間に白木の身に起こった最大の変化のように陽一には見え、白木の動きに眼を見張った。敏捷で的確。アメリカとカナダでの十何年間の生活の必要が白木をそんな風に変えたのかもしれなかった。いや、もともと白木には、そうした日常生活の細々した事、身辺を綺麗にしておく傾向はあった。青春期のあの時期だけ、内面に眼を向ける事に捉われてものぐさに見えただけなのだ。
最初、白木の家に入った時、陽一は、家の中がきちんと整頓され、掃除が隅々までゆきとどいている様子に驚いた。昔の白木の下宿からは想像もつかない清潔さだった。
家を売りに出している関係上、買い手の印象を良くするために整頓してあるのだろうとも思った。だが、いま、陽一の眼の前でハワイからの旅の疲れも厭わず、テキパキと、ものを出しては使い、また元の場所へ戻す。包丁の使い方ひとつ見ても、その動作の素早さ。迷うことのない的確さに陽一は眼を見張った。
ものぐさなど入り込む余地のない各瞬間の意志的な動作を見ていると、散らかしっぱなし、出しっぱなしだった昔の生活は、きっぱり止めようと、ある日決然と心に決め、炊事から掃除、洗濯までの日常的作業をやりだした。
二度目の離婚で、独り暮らしを余儀なくされ、自然そうなったのだろう。気の合わない奥さんと妥協しながら暮らすより、別れた翌日から、なんでも独りでやる決心をした。そうとしか推定しようがない、何か意志的な力がひとつひとつの動作に潜んでいるように感じられた。
白木が調理したうどんが出来た。テーブルに箸、調味料を並べ、夜食が始まった。
(つづく)
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