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2013年4月 7日 (日)

長編小説 飛龍幻想 34

渉がその夜泊まり込んだ大学本部の地下は、中世の西欧の教会の地下礼拝堂のように太い柱が所々で天井を支えていた。中世と違うのは学生たちが吸うタバコの煙が地下室の空気を青く曇らせ、いがらっぽい吸殻と煙の臭いが鼻を突くことだった。
地下室の隅の壁に沿って腰ぐらいの高さの分厚い補強壁があり、そこに腰かけているジーンズを穿いた青年が居た。渉が近づいてゆくとにやりと笑いかけてきた。それは、日向だった。

「やあ。キミが泊まり込みに参加するとはね。お疲れさま」
日向はそういうと渉にポケットから取り出した煙草を勧めた。

渉はイデオロギーを信じてはいない。党派に所属して行動するのも嫌だ。
渉はただ、正直に素直に誠実であろうと、ただそれだけを信条に自分の心に相談してみた。意外なことに、渉の心の底には古い儒教的精神が眠っておりそれが甦るのを感じた。
小学校の時から、学校に対して持ち続けた神聖な思い。先生の言うことに対していつも素直に従っていた。疑いが頭を擡げ、反抗するようになったのは高校に入ってからだった。それは受験制度というものに対する反抗だったろう。小中学校の地域の仲間。自然にできていた遊び仲間や地域の共同体意識を受験制度は競争ということ、試験の点数で順位付けし、振り分けバラバラにした。
渉は小学校からずっとこの地域で育ってきた。焼け野原の空き地を遊び場にし、陸軍幼年学校の跡地が校庭だったり、射的場へ空の薬きょうを拾いに行ったり遊び友達はみんな同じ地域で育った子供たちだった。夏休み、地域の子供たちを集めて緑陰学校を同じ町内に大きな庭を持つ家に人が開いてくれた。子供たちの前で、「ごんべさんの赤ちゃんが風邪ひいた~」と歌を歌って遊んでくれたのはP大学の学生だった。そんな風に渉は、P大学があるこの地域で育ったのであり、大学はPと昔から決めていた。この大学に来るべくして入学したのである。いわば自分の家の庭同然の意識を大学に対しても抱いていた。
渉にとって学の独立とは、自分が生まれ育った土地で活動することの自由を守るという意味があった。
そして儒教の教えである。「仁義礼智信」という言葉。この五つの文字に込められた意味をこれまで深く考えたことはなかったが、こういう自分の身の周りに起こった大きな事件にあってわが身の立場を決めなければならなくなった時に、日本人が江戸時代から教え続け、渉が子供の頃から自然と心の底に染み込むように身に着けてしまっている規範というものに相談してみるのもいいのではなかろうか。子供のころから「義をみてせざるは勇なきなり」とか「師に対する礼節」をわきまえて育った。「義理がすたればこの世は闇だ」という演歌で歌われる義理は「義務」や村社会の掟のように否定的な意味を持っていたが、もともとの意味は、「人間として踏むべき道理」「正義」の意味なのだ。「自分の育った愛すべき土地、その中の学校という学び舎、俺にとって神聖な場所を、機動隊の編み上げ靴で踏みにじらせるな」という言葉で渉は自分の気持ちを整理した。
やがて文学部の執行委員長が立ち、逮捕された時の心構えとか、弁護士の連絡先とかをみんなに教えた。
それぞれが持ち込んだ寝袋や貸布団などに潜り込んで寝静まった頃、渉は近くでかさこそと言う物音を聞いた。それは、隣の男の立てる音らしかった。渉がなおも耳を澄ますと男は、どうやら自分の敏感な部分へ手を当てて往復運動をしているらしかった。機動隊導入という緊張に興奮したのか? こんな集団の中でマスターベーションするほど習慣づいてしまってるのか?渉はそのひそかな音を聴いて可笑しかったが、やがてすぐに可笑しさはいじましさ、みじめったらしい悲しさに変った。青年は「キュー」と小動物がたてるような小さなうめき声を挙げるとそのまま静かになった。
小一時間ほどたち、誰かが携帯ラジオのスイッチを入れた。ラジオの音は小さくて聞き取りにくかったが、しばらくするうち、前の方の学生たちのざわめきが聞こえ、立ち上がる気配がした。ラジオのボリュームが上がり、みんなが聞こえるようなアナウンサーの声がした。
「警視庁第五方面機動隊は、市ヶ谷署を出発し、いまP大学へ向かいました。本部封鎖を占拠している学生を排除に向かいました」
いよいよくるぞ! とだれかが叫んだ。みな一斉に寝袋から出て立ち上がった。
執行委員長は、学部ごとに守備位置を伝え、本部を出たら、まとまって行動するよう指示をした。
渉たちのグループは本部の東側にあるキャンパス入り口の広い階段の上に十列ほどのに重なってスクラムを組み横隊の壁を作った。
  (つづく)
 
   leo

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