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2017年6月に作成された投稿

2017年6月 4日 (日)

「怖れ」について

生きるとはどういうことかは30歳を過ぎる頃にはだいたい分かってしまうので倦怠を感じることはあっても怖れや不安はなくなるでしょう。

多少の不安を覚えるのはむしろ「死」のほうで、これは死ぬこと自体よりも「死んだあとどうなるのか?」が分からない、未知のことに対する不安が主だと思います。

人間だれしも苦しみながら死ぬのは嫌だ、できたら来世を夢見て安穏に死にたいと思います。

瞬間的に苦しむ余裕もなく死んでしまうのがいちばんでしょうが、どうなるかは本人の意志で決定できるものでもありません。

未知のこと、どうなるか分からない、ことを少しでも分かろうとしたのが青春時代に悩んだごとの多くでした。

魂や霊といったものがほんとうにあるのか? 精神や魂は脳や神経の働きで、究極的には物質なのだ。死とは物質の働きの終焉で、死んでしまえば魂も一緒に活動を止め消えてしまう。唯物論的な考えに一度は納得した時期もありましたが、それだけでは心が満たされない。


精神とか霊魂とかがあって肉体が死んだ後も生き残り天国へ行く。そう考えられればいちばん死を恐れず安心して死を迎えることができます。世界のほとんどの宗教はおそらくそうした理由から天国とか西方浄土とか極楽とかが考えられたのでしょう。

ラ・フォンテーヌの寓話「野兎と蛙」は巣穴をでれば常に危険が待ち構えているため野兎は不安を抱え鬱病に罹ったようなありさま。ところが池の端を通っただけで野兎に恐怖を感じて水に跳びこむ蛙を見て、おれよりも怖がりがいる、と野兎は臆病にもランキングがあると悟ります。


死を恐れない人もいるでしょう。死の原因になる災害や、戦争やテロや洪水や地震や津波に対する怖れ方も人により程度の違いがあるでしょう。めのおは思春期の頃、核戦争がどうしても怖かった。病気の一歩手前に居たと思います。


臆病にランキングがあるとか、戦争や自然災害に対する怖れ方に程度のさがあるだろう、と書いたのは、「恐れ」というものが理性的に論理の働きによって感得されるものではなかろう、と思うからです。「恐れ」は感覚的、直感的、感情的なものだ。

それは「非合理な」情動や潜在意識に根差している。なにかに怯えている人間に「怖くないんだよ」とか理屈で納得させようとしても効果は期待できません。それは潜在意識が感じ取っている非理性的な情動に基づく感情だからです。非理性的な不条理なものだからといって怖れている人を「間違っている」とは言えません。

地球温暖化により水没する島や地域や都市がある。集中豪雨や水害が近年世界中で頻繁に起こっている。近い将来、そうした災害が現実になる、と恐れを感じる人と、そんなことに怖がってられるか、仕事があり金を稼いで暮らして行くことの方が大切だ、という人もいます。

原発と核の問題も同じだとめのおは考えます。

原発賛成派の人は反対派のひとたちが「不合理な感情によって」反対するのはよくないと批判していました。

反対派の人々の「恐れ」が現実になったことは福島第一の惨劇で明らかになりました。


 (つづく)


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