カテゴリー「住まい・インテリア」の記事

2009年8月10日 (月)

メジーユで青空骨董市

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

Smezillefuukeic メジーユ Mezille はサン・ファルジョーの10km東にあるこじんまりした村で、窪地の中に昔のままの家が並んで風情がある。

かつては農家だったのだろうが、今はほとんどがパリ・ジャンの別荘で、冬はひっそりと静まり返り商店もパン屋さんとカフェーを除いてほとんどない。

普段はさらに10km先のトウッシーやオークセールに買い物に行くときに車で素通りするだけなのだが、昨日と今日は特別だった。

8月の8日と9日、週末の2日間にわたって、この地域で最大の青空骨董市が開かれた。

屋根裏のガラクタ市と違ってプロの骨董商人も店を並べるので、遠方からも大勢の人が詰め掛けた。バカンス中とあって英語やオランダ語も聞こえてくる。
Smewille8c
土塀が続く細い村の中の道にもスタンドが並ぶ。
復活祭のあたりからほぼ毎週のように近隣のどこかの村で青空市が開かれるが、これほどの規模のものは見たことがない。

出展者の数は優に100を超えるだろう。

年寄りから若者まであらゆる年齢層が来ている。

フランス人は何故、これほどまでに古い物が好きなのだろう?

日本人の僕はどちらかというと新しがり屋で、新しい物にこそ「創造性」があるのであり、古い物ばかりにこだわるのは創造性が無い証拠だなどと、時には骨董市などを毛嫌いし、屋根裏一掃市などの、ホコリと古物独特の臭いに嫌悪を感じることすらあった。

Smewille9c 薄汚れ、時代遅れとなった物を大事にする心理には二つあって、ひとつは単純に物への執着心で、長年使ったものを捨てるのが惜しいから、
フランスのように場所に事欠かない土地では屋根裏などに取っておく。爺さん、婆さんの使ってたものが埃にまみれてころがっている。

もうひとつは、良い物、美しい物は大切にされ、時間のフィルターに掛けられて残り続ける。

椅子、テーブル、箪笥などの家具類は、時代を生き抜いた実に良い物があり、こうしたものは新品より高い。

青空骨董市が人々に好まれるのは、「モノ」と人間が日常生活を通して交感してきた感情が、古物を見たり触れたりする時に、私たちの感覚に蘇り、昔の生活が
感情とともに蘇るからだろう。Stearaic

たとえば右の写真のような手洗いが並んでるのを
見た時、僕は遠い子供時代を思い出した。日本の家庭や学校などにも 、これと同じホーロー引きの手洗いで、蛇口を手で押すと水が出るタンクがトイレを出たところに吊るしてあった。

それはマルセル・プルーストがコルク張りの部屋に閉じこもって喘息の病身をベッドに横たえ死ぬまで書き続けた「失われた時を求めて」と同じ「時間への旅」を瞬時に可能にしてくれるのだった。

Smezille10c バカンス中で近隣から大勢のパリ・ジェンヌも来ていて、普段の田舎の村には見られない華やかさを添えていた。

不況のため今年はフランス人の45%は夏季休暇中もどこへも行かず国内で過ごすという。

パリから200km以内でこれだけ味わいのある田園風景に浸れるのはブルゴーニュならではないか。


この村の有名レストランの脇には小川が流れ、夏の渇水期には車も橋を使わず川を渡れる。

これと似たような浅瀬を、ジャンヌーダルクはシノン城へ行く危険な旅路で、何度かSmezillepont7 渡ったと地方史にある。

夜陰に紛れて、英国とブルゴーニュ兵士の監視の目を逃れるため橋を避け、浅瀬を渡ったのだ。


自分が住む村に自然の小川が流れているのはいい。


僕が幼年期を過ごした兵庫県養父群八鹿村も家の背後がすぐ小川だった。

Smezillepont8c


スタンドを出していても不景気の世の中では冷やかしがほとんどで買うお客さんは少ない。それでも、日がな一日スタンドの番をしているが満更退屈そうでも無く、楽しんで店番をしてる様子が感じられる。

露天市には素人も店を出せるが、商法上では、厳密には「売ろうという意図のもとに仕入て売る」と商行為となる。

我が家の屋根裏のガラクタを片づける分には消費税も乗せずに済むが、繰り返しスタンドを出す場合には商業登記や消費税の処理をしなければならない。

台所を飾った昔懐かしいホーローの水差しやコーヒー挽きも最近ではもうSlespotsc出払った様子で見かけなくなった。この辺の田舎の市では、まだ見かけるがお値段は相当高い。


村の中に収まりきれずSchamps2cに周りの畑にまで拡大した今日の青空骨董市でした。







あまりに可愛いのでつい買ってしまった木靴(サボ)。Ssabots1c


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2008年8月12日 (火)

門柱を作る

投稿者:ゲストハウス・叢林亭:http://www.sorintei.com

人はものを作るにあたり設計をする。家などの建造物、車などの工業製品はもちろん簡単な小物でも、ちょっと手の込んだものや精度を要するものは設計図を起こし、細部まで検討してから制作にとりかかる。

設計図を描くときはあらかじめ完成時の姿が出来ている。あるべき全体の姿のイメージが描く人の意識にあって、そこから細部に降りてゆく。

車が楽に出入りできる巾約3m の門を作りたい。すこしは見栄えのする門扉を取り付け開閉をリモコンで自動化する。門扉は夏の樹の葉の深緑。門柱はピュイゼの環境に合わせたレンガ色がいいな。門の開け閉めを自動化するには門柱がぐらついてはダメなので鉄筋入りのコンクリートにしなければならない。レンガを積んだ門柱では片側150kgの重量を支えきれない。ちょうど、それに適した材料を近所のプロ向け建築資材を売る店で見つけた。40cm角の底のない枡の形のブロックを積み、中に鉄筋を入れコンクリートを流し込み、外をレンガ色の素焼の化粧タイルを貼れば外見はレンガを積んだ門柱に仕上がるのだ。

鉄筋とブロックと砂利と砂、セメントを先に買い設計にとりかかった。
基礎のコンクリートまではあらあらの寸法で足りるが門柱の位置、中に入れる鉄筋の位置からは5mm単位の精度が要る。実際垂直に立てるべき鉄筋をすこし傾いたまま固めてしまい後でブロックの縁の内側を少し削らねばならなかった。ほかにも設計の段階で細部を見落としたため、門扉を支える肘金物 (フランス語でゴンgondという )の位置を上下とも 5mmほど修正しなければならなかった。タイルを貼る糊の厚みを忘れていたからである。

ぼくはやはり神様とはかけ離れた存在だ。ただの人でも忘れ物をする、どっちかというとダメな方に近いひとだとそのときも悟った。前回、ジェームズが設計という人間の行為が神の創造に通じると書いていることに触れたが、ここでも神様の完璧とは遥かにかけ離れたヌケサクぶりを実感しながらタガネを振って穴の位置を移動したものだ。

神が宇宙を創り、太陽と地球を作り、ありとあらゆる生物と人間を造った、という神話はそれなりに壮大でこころを宇宙の始原にまで向けてくれるが、ここでまたちょっと、ぼくの悪い癖をだして屁理屈をこねさせてもらう。設計をしてみると解るが、どんなに簡単なものでも、設計者は、あらかじめ完成時のあるべき姿をイメージとして持っている筈である。神様が宇宙と生物を造りはじめる時点で、すでに出来上がりの姿がお心にあったというのがぼくの説。

ところで、完成時のあるべき姿というものは何もない無の状態から生まれうるものだろうか?

すでに在るもの。過去にあったもの。なにがしかの見本、モデルがなければ完成時のイメージは持ち得ないのではないかというのが、ただの人が抱く素朴な疑問です。

神様が、この宇宙をお造りになる前にすでに見本となる宇宙があった。人間を造る前に人間のモデルとなる生物があった・・・。モデルの前に別のモデルが・・・。無限に遡っていった先は?

もちろん創造の過程で、ぼくらただの人間のように、忘れてたことを修正し、変更を加え、改善を重ねてゆくことができる。ただ、できれば神様としては最初から細部に至るまで完璧な完成品の姿を持っていてほしい。

Pilier1 汗をまき散らしながらツルハシとスコップを振るい、やっと深さ70cm、巾30cm、長さ6mの溝が掘れた。

捨てコンを打ち、鉄筋を置き、計算した位置に鉄筋を立てる。

設計は完成図からの逆戻りというのを繰り返すと、縦の鉄筋の位置は、門柱ブロックの厚み、化粧タイルの厚み、門扉の縁と化粧タイルの間に空ける隙、左右の門扉の間に空ける隙、これらをすべて計算に入れて決める。左右の門扉の縁と縁に空ける隙は広すぎてはピタリと閉じないし、狭すぎてはモーターで自動開閉ができない。

基礎のコンクリートを打ち、二三日置いて養生した後、固まった基礎の上にやっと門柱のブロック第一段を置くことができた。一段積んでは生コンを流し込み棒で突き固め一日置いて次の段を積んでゆく。こうして左右のブロックを6段積んだ段階で古い鉄柵を撤去した。

この錆びた鉄柵は頑丈なT字鋼の支柱に留めてあり、支柱はさらに地中深くコンクリートの基礎に埋まっていた。ぼくに工場の現場の経験がなければ、これを見ただけで手に負えないと業者に頼んだだろう。自動車工場のプレスショップの型保全という現場で働いたお陰で、鉄というものが布と同じように柔かくて伸びたり切れたりし、サンダーという道具を使えば楽に削ったり切ったりできるのを見ていた。夜勤の人気のない時間に、こっそり持ち込んだゴルフクラブのヘッドを削ってみたりもした。

電球を換えることもできない哲学者なら、むろん、サンダーを使うことなど思いもよらないだろう。業者に依頼し金を払って済ませてよしとするだろう。それでは物を作る喜びと痛みを感じないまま生を終えることになる。硬い物質の抵抗と、手を通じ腕や肩、腰に跳ね返ってくる力を感じることで、人間は意識の外にある物質の世界の認識を深めることができるのだ。

錆びた扉と支柱はサンダーでカットしリヤカーに積んで近所の廃棄物集積所へ
運んで捨てた。Middle

プロ向けの材料を販売する店が近所にあると書いたが、そこで砂利、砂、セメント、ブロックを買いリヤカーに積んで運ぶ作業を何回か繰り返した。肩と腰が痛くなる作業だった。

この店は個人にも小売してくれるが消費税(TVA)が業者へは5.5%なのに個人は19%と高い。化粧タイル購入にあたってこれが原因で、ハプニングが起こり今も痕を引いている。それについては次回にゆずる。

この記事はゲストハウス「叢林亭」に関するものです。詳しくはホームページをご覧ください。http://www.sorintei.com

やさし砂 鎌いらず

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2008年8月10日 (日)

ゼロからでなおす

投稿者・ゲストハウス「叢林亭」: http://www.sorintei.com

やはりパリに着いたばかりの頃、屋根裏部屋に落ち着くよりもっと前のことだ。居候させてもらっていた7区のブルジョワの家の夫人が朝あわただしく部屋のドアを叩いた。数日前に紹介してもらったばかりのエリザベットから緊急の電話だという。

いそいで電話にでると叔母さんが運転手をしているサルトルに会わせてやるから大至急モンパルナスまで来いという。急いで着替えをして約束の場所へ行く。墓地の横のカフェに叔母さんが連れてくるという。ただし老いた哲学者は疲れていて休みにくるのだから握手するだけはいいが言葉は交わしてはいけないという。

Sartre5 せめて学生時代あなたのことをレポートに書きましたとだけ言わせてほしいというと、じゃそのひとことだけと許してもらった。カフェへ行ってみるとテラスの陽だまりに叔母さんと並んでふたりだけ座っていた。不精ひげボウボウ。太目の毛編みの薄汚れたカーデガンにサンダル履きと町の哲学者の風貌そのものだった。

エリザベットが紹介してくれ、彼女の許可を得た言葉を早口で言うと、老哲学者は破顔して手を差し出し握手をくれた。二つほどテーブルを置いた席に30分ほどの間、この著名な哲学者の傍に居る幸福を得た。

その数年後にサルトルは他界した。疲れているから話してはいけないというエリザベ ットの警告は言われた時は侮辱的に感じたが、老いた哲学者への敬意として妥当だったのだ。

Maisou モンパルナス墓地へ運ばれる棺に別れを惜しむ数千人のひとたちが葬列を作って進んだ。ぼくも若者たちの列に加わったが、ひとりひとり手をつなぎあい、彼らを繋ぎ合わせてくれた思想の師( Maitre Penseur )に心からの惜別を送った。ひとつの時代が去ってゆく思いがした。Hakasartre

ぼくらの青春時代は世界はまだ二極体制のまっただなかにあり、ヴェトナム戦争と文化大革命の嵐が吹き荒れていた時代 だった。サルトルの「存在と無」は読もうとして買いはしたが結局はじめの数ページで投げ出してしまった。現象学というのが親しく感じられなかったし、唯物論か唯心論かという哲学の永遠のテーマをめぐる認識論なのだろうとしか理解できなかった。

ただ、哲学者自らが「実存主義とはなにか」という題で思想を通俗化して紹介した講演を本にしたものだけは原文で読んだ。それをもとにレポートを書いた。「実存主義はヒューマニズムである」と解りやすく通Sartre4俗化して要約した講演の中で、サルトルは「人間の生きる意味は各人が未来へむけて行う投企( Projet )にある」と言っている。

もちろん、ここでサルトルが言う Projet とは、ナチ占領下でレジスタンスに加わるとか、カタロニア支援の義勇軍に加わるとかの、政治的アンガージュマンに重点が置かれ、現在ビジネス世界の至る所で使われているプロジェクトよりは、よほど広い意味の全人的存在を賭けた社会的行為というほどの意味。

サルトルに会う幸運を得て数ヵ月後の夏、ソルボンヌの文明講座で現代文学の教授が、「電球のタマひとつ換えられない哲学者」と、サルトルを戯画的なインテリの代表みたいに揶揄して言った言葉が記憶に残っている。

サルトルは本を山のように書き、何千万という言葉を費やしてハイデッガーやマルクSartre2 スを論じた。そして68年のパリ革命の時には、ブローニュのルノーの工場に出向いて労働者を相手に演説をぶったりもしている。

ルノーの労働者がどれだけサルトルの言葉に耳を傾けたか疑問が残るように、電球を換えるという極めてプラグマチックな行為ひとつできない、と揶揄した教授の言葉はサルトルの哲学の日常生活を営む上での諸問題の解決にはまったく役に立たない観念性を突いている。

専門分野で前人未踏の仕事をすれば、べつに電球なんか換えられなくったっていいわけで、「すがめの哲学者」をこきおろした教授になんとなく名声への嫉妬が感じられもする。ノーベル賞を拒否したくても、候補にさえあげられない物書きの方が圧倒的に多いのだから。

その後、世界は急速に変わり、東欧で革命がつぎつぎに起こり、ベルリンの壁が壊され、ソ連が崩壊した。中国も共産主義という政治体制を護持しながら経済的には「同じネコならネズミをたくさん捕るネコのほうがいい」とかの一言を皮切りに自由経済に走り出し、いまやその奔流は世界第3位の経済大国。日本を凌ぐのは時間の問題といった有様。10数億の国民が衣食住を満足して暮らすにはネズミをたくさん捕るしかないという、極めてプラグマチックな方針転換だった。

その頃、アメリカの哲学者ジェームズの本を読んでみた。彼が書いた本の中に、人間が行う「設計」という意識の働きが神の創造に通う行為だという一節があり、感銘とともに何か目が覚める気がしたのを覚えている。

つまり「プラグマチズム」の哲学者が言うところの設計(フランス語でProjetということもある)とサルトルが唱えたProjetの基本には共通のものがある。そこには西洋の神、キリスト教文明に根付いた人間と自然、精神と物質に関する考察に共通の基盤があるという思いだった。東洋人の自然環境との融和、なりなりになってできてしまった世界という世界観とは違うものがあるということを再認識させられたのだった。

 

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パリのロビンソン

投稿者 ゲストハウス「叢林亭」: http://www.sorintei.com

ツルハシをうちおろす。ズシッと土に喰い込む手ごたえがあった。
つぎの一打ガチッと固い物に当たる。
ここの土には、陶器や瓦の破片、黒い鉄鉱石とコークスの焼結した固まりがやたらと埋ってるのだ。
むかし、鋳物工場でもあったのか? なにしろ、シャトーの近くだからな。
ローマ人の侵略よりずっと前、鉄器時代には、オークセールの周辺で製鉄が盛んだったことが、発掘で明らかにされている。
この辺の天然石は鉄分を多く含んで黒褐色だ。

Photo とにかく、原野や畑など開墾地じゃなく遠い昔から住宅地だったってことだろう。ポチがワンワン吠え、掘ったら大判小判がざっくざっく出てきたのは正直爺さん。

ガレキばかりが出てきたのは意地悪爺さんだ。
するとオレは意地悪爺さんてわけだ。
クソいまいましい。
汗を撒き散らしながらツルハシを振い続ける。

60過ぎたオレがなぜフランスくんだりまで来て土方仕事してるのか?

やさし砂 鎌いらず

パリへ着いたばかりの頃だった。狭い屋根裏部屋で、やっと独りになれた安堵と引替えに、これからはすべて独りでやってゆかねばならない不安に身を引き締めた。

滞在費が残り少ないのを気にしながら、すべてを「ゼロからやりなおす」と心にきめた。あの緊張感を思い出せ。

おれはバリのロビンソン・クルーソーだ。

雨露をしのぐ小屋。水と食料の確保。生きて日が経ってゆくことの証しの日記。連れ合いの犬とオオムとフライデー。

これからは、ひとに頼らずなんでもまず自分でやる。
消費社会のサイクルから抜け出し、生きて行くのに最低限必要なものかをひとつひとつ確認してゆく。どうしても必要か確認しないまま、金さえ払えば手に入るものに手をだしてはいけない。

そうやって、30 年間、確認したものだけを所有して辿り着いた結果がこうだ。
これ以外は捨ててきた
。むかし否定していたことも、偶然も手伝ったが、納得した結果、肯定にかわり所有した。精一杯検証したあと、受け入れるのが正直だと信じて選んだので後悔はない。疾しさを感じることがあるにはある。ただ、いまは考えないでいる。

この記事は「叢林亭」の工事に関するものです。http://www.sorintei.com

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2008年8月 5日 (火)

門の工事

投稿者: ゲストハウス・叢林亭 http://www.sorintei.com

屋根工事のあいだ出来なかった門の工事に6月に入るとすぐにとりかかりました。

前の家主が残して行った錆だらけの鉄柵をT字型鋼の鉄柱に取り付けただけの出入り口を、すこしは見栄えのする門にしたい。そして開け閉めを自動にしたいとの意図のもとに計画を1年ほど前から練り、市役所経由で建築許可も取ってありました。

道路と敷地の境界線の確認に来た建設局の役人は、門を敷地内に3m引っ込めて造るといいと推奨して帰りましたが、隣人の工業専門高校の先生が前の年にやはり門を造ったので訊いてみると、境界線以内はあんたの自由だから、役人の言うことなど聴く必要はないよと教えてくれました。彼は境界線ぎりぎりに門扉を据え、自動開閉にしました。

役人が3m引っ込めなさいと言ったのには訳があります。敷地と向かいの公園の間を走っている県道はオーセールとオルレアンを結ぶ幹線道路でトラックがよく通ります。
夏の農繁期になると耕運機や大型の容器などを積んだ特別輸送車が通ります。道に車を置いて門の開け閉めをしていると時に迷惑を掛けるので、それは避けたい。

妥協策として門を敷地内に1mだけ引っ込めて造り、左右の通行を確認してから道に出る。開け閉めを自動にしておけば故障の時を除きリモコンで走りながらでも開閉できるから交通障害にはなりません。

門扉と留め具、自動開閉のアームとモーターは建具の大手チェーン店でフランスを代表するガラス会社サンゴバンの子会社で購入してありました。ここは見積り金額も納期もはっきりしていて入荷すると電話で連絡をくれました。リヤカーに約300kgの門扉大小を積んで50キロの道のりを家まで走りました。

右下の写真は半ば完成した門を向かいの公園から撮ったものです。

Porteface2_2

やさし砂 鎌いらず

下の写真は工事前の出入り口の状態です。

Avant2_2

業者に頼めば楽だけれど、いつ来てくれるかわからない。ほぼ一方的に業者の意思に振り回される。予算もないし、いっそのこと自分でやろうと意思を固めたのは、いつまで待っても一向に来てくれない屋根職人に業を煮やし始めた頃でした。屋根だけは一歩踏み外せば命にかかわるとあってじっと我慢するほかありませんでしたが、門ならば土方工事が多少キツク、コンクリート練りが大変でも転んで命を落とすことはないし、安全具を着け用心してやれば怪我くらいで済む。次に買ったのはツルハシとコンクリートミキサーでした。

そうして五月中に設計に入り、材料の購買と基礎工事の穴掘りを始めました。

工事現場の写真です。

やさし砂 鎌いらず

Chantier1

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2008年6月10日 (火)

記憶の中の家

投稿者「叢林亭」: http://www.sorintei.com

6月7日の土曜のことでした。買い物に出かけようと門を開け、車の向きを変えていると猫背の老人が傘をさし夢遊病者のような仕草で家の中を覗き込んでいるではありませんか。「また道に迷った老人か・・・。」と一瞬憂鬱になりかけました。というのも時々アルツハイマーかと思われる年寄りに訳のわからないことを言われからみつかれることがあったからです。

さいわい戸締りを終えた家内が降りて来たのを見て老人は庭の中によろよろと入り込んできました。家内をつかまえ興奮ぎみの口調で何か話しています。ウインドウを下すと「ワシはむかしここに住んでたのじゃ・・・。」という言葉が耳に飛び込んできました。

奥さんと見られる夫人も現れ迷惑になるからと連れ戻そうとしました。世にも稀な人の偶然の訪れに僕も家内も興味をそそられてどうぞと二人を家に招き入れました。

「ここには昔三本の杉の木があった。なくなってるな。」一本だけ残っている木を指すと「この木はずっと小さかった。木の幹に小屋をこしらえて近所の子供も来て一緒に遊んだものじゃ。」二本の杉の木は前の家主の若い夫婦が傾斜地だった庭にブルドーザーを入れ二段の庭に改造したとき引き抜いてしまったのでした。

Mpetitgens1copy 付属の小屋を見て「ここにはワシの叔母が住んどった。」と言います。家内は今は物置に使っている小屋を恥ずかしそうに見せ、掃除したとき出てきた1863年の日付のある手紙の話をしました。

「ワシはここに寝とったんじゃ。ここにおもちゃ箱が置いてあった。」玄関を入ってすぐ老人は傘で差しながら叫ぶように言いました。興奮が高まった瞬間です。

「このドアはむかしのままだ。ここは食堂だった。」こんどは書斎に使っている部屋を覗いて言いました。

「この壁のところにドアがあって台所とつながっていた。」そのドアは塞いでいまは食器棚になっています。

「ワシはこの家に三歳から十七歳まで暮らした。ワシのオヤジはサボを作る器械をMpetitgen3copy 発明したんじゃ。それであの小屋で木靴を作っていた。」庭に隣接したトタン屋根の小屋のような家のことらしい。

「ルルーさんがオヤジの友達でな。大家だったがトッシーに住んでいた。ワシはオルムソン公爵夫人が開いたカトリックの自由学校に通った。」

老人は名前をフランソワ・プテイ・ジャンといい、現在はボルドーの近郊に住んでいることがわかりました。週末に息子の運転する車で昔懐かしい家の記憶を確かめに来たのでした。息子夫婦を待たせてあるからと言って夫人は一旦姿を消し、戻ってくるとまだ興奮気味にいろいろ話を続けたがる老人を迷惑になるから帰りましょうと引き立てるように出てゆきました。門のところには息子夫婦が待っていて、われわれ夫婦も挨拶を交わし、住所と電話番号を交換しました。

今年の正月に一週間だけ東京に帰郷した折に、僕も青春時代を過ごした新宿区西大久保の町を見に行きました。33年ぶりのことでした。昔住んでいた家は既に無く、周辺は面影すらも残らず完全に変貌していました。兄夫婦が一緒に歩いてくれなければ昔家があった場所さえ見分けられなかったでしょう。僅かに原形を留めていると認められたのは金網で囲まれてしまった裏の公園の砂場と小学校の周りだけでした。

Mpetitgen4copy 僕が住んでいた家も町も今は記憶の中にしか存在しません。プテイ・ジャンさんがこの家に住んだのは3歳 から17歳までで現在83歳ということですから今から80年から 66年昔ということになります。

家というのは、そこで寝食をするほかに喜怒哀楽の感情とともに生活する場所です。とりわけ思春期は感情の起伏が激しく、悩んだり不安や希望を抱いたりします。

プテイ・ジャンさんは家のあちこちを見ながら遠い記憶を探っているようでした。住まいは細部に至るまで感情と記憶の襞に刻み込まれ人間の生と密接な関係を持っています。

プテイ・ジャンさんは「すっかり変ってしまった。」と溜息のようなつぶやきを漏らして帰ってゆきましたが、僕はその背中に向ってひとりごちました。「ぼくの住んでいた日本の家とその周辺の変わりように比べれば、フランスは変りかたがゆっくりですよ・・・」と。

この記事はゲストハウス「叢林亭」に関するものです。http://www.sorintei.com

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2008年5月30日 (金)

工事完了

投稿者「叢林亭」:http://www.sorintei.com

ルルー氏がおよそ120年ほど前に、あつらえで据え付けた出窓の枠は、外してみると相当傷んでいることがわかりました。

「オレはピューリストだ・・・。」と自慢げに言う親方のお奨めは、同じスタイルのものをアトリエであつらえさせることでしたが、なにせすべて亜鉛板を手作りで形作ってゆくので一個につき数千ユーロかかる話でした。

2lucarnescopy 限られた予算で、それは到底ムリなので、傷んだ個所を鉛の板で補強し、防錆剤とペイントを塗り直し、元のものを据え直すことにしました。

リュシアンが理解を示してくれ、手間のかかる修理を面倒がらずやってくれたのが助かりました。

屋根と壁の境にはシェノーと呼ばれる内樋があって、ここに長年の間、家のすぐ横に生えている大きなアトラス杉の葉が落ちて溜まり亜鉛の板を腐らせていたのでしTrouzinc1_2 た。径が1cm以上もある穴が2箇所あいていて、そこから雨水が壁を伝わり部屋にまで侵入していたのでした。

亜鉛板の細工は長さが3mほどもあるカッターを使って切ったり折り曲げたりするのですが、主に親方の息子が来てやりました。

内樋を支える軒の石が一部欠け落ちていて、最初はこれは石工の仕事だと言ってToiture2copy いたリュシアンも方々手配しても来てくれるマッソンがいないとわかると、ロマンに命じ、欠けた部分を漆喰と石膏を使って上手に修復してくれました。

最後に頂上の風見のオオカミを載せ、7週間に渡るスレートの葺き替え工事は無事Lelou_2 終了しました。

おもしろかったのは親方に内緒で、といいながら余った200枚近いスレートを置いて行ってくれたことです。現場主任のリュシアンは自分の権限を最大限発揮して客に 心尽しをしてくれたのでした。

この記事はゲストハウス「叢林亭」に関するものです。http://www.sorintei.com をご覧ください。

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2008年5月20日 (火)

10年保証

投稿者:ゲストハウス「叢林亭」http://www.sorintei.com

フランスには10 年保証という法律があり建設業者は施工後10年間、工事の保証をしなければなりません。

リュシアンは若い二人、時に三人を上手に使いながら黙々と仕事を続けてゆきました。

Sommet4 瓦屋根の工事が5日で済んだのを見て、スレート部分は面積が約2.5倍だし、技術的に少し難しそうだから、工事期間は瓦屋根の3倍と見ていました。ところが実際は7倍かかりました。予算はこれだけと親方に頼み、見積も瓦屋根の3倍弱でしたから、7倍の時間を掛けたスレート工事の利益は相当薄くなるだろうと余計な心配までしました。

リュシアンは決して急ごうとはせず、若い衆を叱ったりもせず、自分が手本を示しながら丁寧な仕事を続けました。

瓦屋根の時は、欠けたり傷んだ瓦を取り換えましたが、3分の2は元の古い瓦をそのまま使ったので材料費は僅かで済みました。その冬で一番寒かった週だったので現場主任のマルセルは親方に通勤手当を要求すると言いましたが、最終日に親方が現場の確認と請求書を手渡しに来た時の、現場の三人の様子から親方は要求を容れなかったと判断できました。

Detailtuile マルセルは親方に内緒でと言いながら余った材料と引換に何がしかの飲み代を請求しました。きっちり三等分するのだとも言いました。50キロほどもある鉛の板のロールや5mの垂木など乗用車では運びにくくて欲しかった材料が手に入るので、もともと多少の志をあげる積りだったので喜んで取引に応じました。

親方の見積もりはかなりどんぶり勘定で余った材料の処分は現場主任に任されている。現場の三人は自分らのサラリーと比べて親方は相当に儲けていると知ってるので特別手当を要求したり、要求が容れられなかった仕返しに余った材料で僅かばかりの小遣い稼ぎをしたのだろうと推察しました。

2pic1copy マルセルと違ってリュシアンは自分に厳しい職人気質に見えました。リヨン地方の訛りのある話し方で時に息子には親父の権威をみせる言い方をして息子が反抗するようでした。親父の跡を継ぐのかと訊くとメカが好きらしく建機の運転手になるのだと答えました。

手間が掛っても丁寧な仕事をする。リュシアンはそれを職人の誇りとしているようでした。工事の進捗状況からの納期管理も現場主任の判断に任せているようでした。親方は本来、コストと品質の管理の他に納期も管理しなければいけない筈ですが、この親方は町の名士と狩猟に行くなどして仕事を取ってくる。もっぱら営業活動を親方の職分と定め、納期に関しては、いい加減。だから、1年以上客を待たせて現場は計画通り行かないとか、平然と言うわけです。

2000年の突風で沢山の屋根がやられ職人が引っ張りだこ。完全な売り手市場でした。1年以上待ったのだから、こちらも時間をかけて丁寧な仕事をしてくれた方がありがたい。施工後10年間は保証を義務付けられているのだから手抜きはできない。週35時間労働という社会党政権時代に北の工業地帯の中心リールの市長も務めるオブリー女史が作った法律も遵守しなければならない。フランスはやはり顧客主体よりも働く者中心の社会なのだと納得させられました。

Tetelou 1889年にこの家をルペルチェ侯爵未亡人から購入したヴィクトール・フレデリック・ルルー(狼)氏は屋根に風見の雄鶏の代わりにオオカミの頭を載せました。錆や汚れを落とし、塗装しなおして葺き替えが終わった屋根の頂上に据えつけました。最後に出窓の修理をして工事は完了しました。

この記事はゲストハウス「叢林亭」http://www.sorintei.comに関するものです。

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2008年5月17日 (土)

屋根職人の道具

投稿者:フランス、ヨンヌ県のゲストハウス「叢林亭」 http://www.sorintei.com

リュシアンたちが仕事を始めてからというものは、空が毎日晴れわたり、雨漏りの水をバケツに3杯も4杯も降ろしたことなど嘘のようでした。4月下旬の週末に1回雨が降ったきりで、5月16日に工事を終えて帰るまでの7週間は奇跡のように晴天が続きました。

ロマンは雨降りの翌日に近所の川で大きな川カマス(ブロッシェ)を4匹も釣り上げたとリュシアンの息子と話していたので、僕も会話に加わりました。その頃になると朝と昼に出すコーヒーのたびに少しずつ会話が交わせるようになっていました。

屋根の上での作業は日差しがもろに当たって暑いのでロマンは上半身裸で働いていました。降りてきたロマンに「スモウ」というと「寄り」のジェスチュアが返ってきました。テレビ・コマーシャルで「スモウ」はすっかり有名になってしまったのです。

ちょうど、フランスは大統領選の真っ最中で、社会党出身の女性候補、セゴレン・ロワイヤルとリベラルながら大衆路線を標榜するニコラ・サルコジとどちらに共感を寄せるのだろうと水を向けたところ、若いふたりは「どっちが勝っても、おれたちの暮らしに、たいした変わりはないさ・・・。」と政治には無関心のようすでした。

足場は三段に組まれ梯子を伝って最上階へ登ると、町外れの牧場や家並の向こうの城の塔がよく見えました。作業に疲れると時々ロマンは屋根の木組に腰を下し、遠くの丘を眺めたり、向かいの公園のマロニエの樹に棲むミミズクの鳴きまねをしたりしていました。

この際とばかり僕も足場を登り写真を撮りました。

最初の写真は屋根の稜線の部分です。

Cote1_2継ぎ目に隙間があるのに
雨は漏りません。

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2008年5月16日 (金)

工事開始

投稿者「叢林亭」:http://www.sorintei.com

親方が現場主任のリュシアンを連れて挨拶に来たのは、長い冬が明け、雪割草が白い顔をのぞかせた3月も中旬のことでした。「来週から始めるから・・・。」そう言い残して二人は帰ってゆきました。

しかし、リュシアンが実際に二人の若い衆を連れて現われたのは、それから2週間後のことでした。「田舎に用事ができて行かねばならなかったので・・・。」リュシアンは一応言い訳をしました。この際、1・2週間の遅れなど取るに足りない。1年と3か月待ったのだから。

いよいよ、スレート屋根の葺き替え工事です。どうやって葺くのか?シャトーの広大な屋根やノルマンデイー地方の民家で垂直の壁をスレートで葺いてあるのを見るたびに興味をかきたてられました。

Cutter1 最初の2週間は、足場を組み、古いスレートを剝して降ろし、傷んだ垂木を取り換え、小舞を打ち付けて行く準備作業に費やされました。

リュシアンが連れてきた二人の若い衆は、ひとりはずんぐりとお相撲さんのように肥ったロマン、もうひとりはリュシアンの息子でした。後に亜鉛板の加工になると親方の息子が来ましたが、大抵は、初めの三人が朝9時頃やってきて、昼休みを1時間取り、夕方4時には片付けて帰ってゆきました。週35時間の法律を順守しているのです。親方の事務所は同じヨンヌ県でも北の端にあり、60km離れています。「実作業の時間が短くてね・・・。」リュシアンが複雑な笑いを浮かべながら言いました。

スレート(フランス語でアルドワーズ)は天然の粘板岩で、泥土が川底に堆積し圧力を受けて出来た変成岩の一種です。薄板状に割れやすく、昔は子供が筆記用の石盤として学校へ持って通いました。最近では、ちょっと田舎風のレストランが趣を出すのに、その日のメニューをアルドワーズに書いて客に見せます。

リュシアンたちが持ってきたスレートは長方形の規格のサイズに切られたスペイン産の黒味が勝ったものでした。フランスではロワール河の河口近くのアンジェ周辺で採れるアルドワーズが最高級とされ、晴れた夏の日には青灰色の美しい輝きで屋根を際立たせます。しかし、最近は採り尽くしたといわれ、値段が高い。予算に限りがあったけれども、天然産がいいという家内の要求を容れ、親方はスペイン産を購入していたのでした。

「小舞と小舞の間隔は11センチだよ。」最後の日にリュシアンは余った200枚近くのスレートを親方に内緒で譲ってくれ秘法を伝授してくれました。長方形のサイズは32cmX22cmですから縦方向の約3分の1です。

スレートの止め方は2種類あって、上辺近くに穴を開け頭の平たく大きな釘で止めるのと、小舞に打ち込んだピンに下端を引っ掛けて止める方法があります。屋根の稜線部は別ですが長方形のスレートの縦3分の2を重ね、ちょうど魚の鱗のように葺いてゆく。露出して雨を受ける部分は全体の3分の1でしかないのです。接合部から侵入する雨は重ねた下のスレートが受けて流します。

Trapezoidal ようやく3週目に入ってスレート葺が始まりました。まず屋根の稜線部から葺いてゆきます。面と面の接合部で、ここがいちばん難しく、職人の経験と技が求められる作業です。「面と面の接合部が直線である」と単純に言っても現実は曲がったりでこぼこがあり、それを見分けながらカンと経験で雨が浸入しないよう葺かねばなりません。稜線部のスレートは写真のカッターで台形に切り揃えます。これはすべてリュシアンがやりました。

この記事はゲストハウス「叢林亭」に関するものです。http://www.sorintei.com をご覧ください。

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