記憶の中の家
投稿者「叢林亭」: http://www.sorintei.com
6月7日の土曜のことでした。買い物に出かけようと門を開け、車の向きを変えていると猫背の老人が傘をさし夢遊病者のような仕草で家の中を覗き込んでいるではありませんか。「また道に迷った老人か・・・。」と一瞬憂鬱になりかけました。というのも時々アルツハイマーかと思われる年寄りに訳のわからないことを言われからみつかれることがあったからです。
さいわい戸締りを終えた家内が降りて来たのを見て老人は庭の中によろよろと入り込んできました。家内をつかまえ興奮ぎみの口調で何か話しています。ウインドウを下すと「ワシはむかしここに住んでたのじゃ・・・。」という言葉が耳に飛び込んできました。
奥さんと見られる夫人も現れ迷惑になるからと連れ戻そうとしました。世にも稀な人の偶然の訪れに僕も家内も興味をそそられてどうぞと二人を家に招き入れました。
「ここには昔三本の杉の木があった。なくなってるな。」一本だけ残っている木を指すと「この木はずっと小さかった。木の幹に小屋をこしらえて近所の子供も来て一緒に遊んだものじゃ。」二本の杉の木は前の家主の若い夫婦が傾斜地だった庭にブルドーザーを入れ二段の庭に改造したとき引き抜いてしまったのでした。
付属の小屋を見て「ここにはワシの叔母が住んどった。」と言います。家内は今は物置に使っている小屋を恥ずかしそうに見せ、掃除したとき出てきた1863年の日付のある手紙の話をしました。
「ワシはここに寝とったんじゃ。ここにおもちゃ箱が置いてあった。」玄関を入ってすぐ老人は傘で差しながら叫ぶように言いました。興奮が高まった瞬間です。
「このドアはむかしのままだ。ここは食堂だった。」こんどは書斎に使っている部屋を覗いて言いました。
「この壁のところにドアがあって台所とつながっていた。」そのドアは塞いでいまは食器棚になっています。
「ワシはこの家に三歳から十七歳まで暮らした。ワシのオヤジはサボを作る器械を
発明したんじゃ。それであの小屋で木靴を作っていた。」庭に隣接したトタン屋根の小屋のような家のことらしい。
「ルルーさんがオヤジの友達でな。大家だったがトッシーに住んでいた。ワシはオルムソン公爵夫人が開いたカトリックの自由学校に通った。」
老人は名前をフランソワ・プテイ・ジャンといい、現在はボルドーの近郊に住んでいることがわかりました。週末に息子の運転する車で昔懐かしい家の記憶を確かめに来たのでした。息子夫婦を待たせてあるからと言って夫人は一旦姿を消し、戻ってくるとまだ興奮気味にいろいろ話を続けたがる老人を迷惑になるから帰りましょうと引き立てるように出てゆきました。門のところには息子夫婦が待っていて、われわれ夫婦も挨拶を交わし、住所と電話番号を交換しました。
今年の正月に一週間だけ東京に帰郷した折に、僕も青春時代を過ごした新宿区西大久保の町を見に行きました。33年ぶりのことでした。昔住んでいた家は既に無く、周辺は面影すらも残らず完全に変貌していました。兄夫婦が一緒に歩いてくれなければ昔家があった場所さえ見分けられなかったでしょう。僅かに原形を留めていると認められたのは金網で囲まれてしまった裏の公園の砂場と小学校の周りだけでした。
僕が住んでいた家も町も今は記憶の中にしか存在しません。プテイ・ジャンさんがこの家に住んだのは3歳 から17歳までで現在83歳ということですから今から80年から 66年昔ということになります。
家というのは、そこで寝食をするほかに喜怒哀楽の感情とともに生活する場所です。とりわけ思春期は感情の起伏が激しく、悩んだり不安や希望を抱いたりします。
プテイ・ジャンさんは家のあちこちを見ながら遠い記憶を探っているようでした。住まいは細部に至るまで感情と記憶の襞に刻み込まれ人間の生と密接な関係を持っています。
プテイ・ジャンさんは「すっかり変ってしまった。」と溜息のようなつぶやきを漏らして帰ってゆきましたが、僕はその背中に向ってひとりごちました。「ぼくの住んでいた日本の家とその周辺の変わりように比べれば、フランスは変りかたがゆっくりですよ・・・」と。
この記事はゲストハウス「叢林亭」に関するものです。http://www.sorintei.com
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