ヨンヌ川が緩やかにカーヴし、対岸の樹木の茂みが曲った川の先を隠してしまう。川沿いに数軒の家が並んでいる。その光景を見たとき、僕は「これは、どこかで見たことのある風景だ・・・」と思いました。
デジャ・ヴュというのはシュールレアリストたちが広めた言葉でしょうか。ある光景を見たとき、これはいつか、どこかでみたことがあるという印象を抱く。そういった心理現象をデジャ・ヴュと呼んだ。その光景を過去世で見たことがるからで、どこかで見た印象を持つのは、過去世の記憶が甦っているのだ、と輪廻転生に関係づける議論を読んだこともあります。過去世のことゆえ、いつ、どこでだったかは思い出せない。ただ既視感だけを抱くのだ・・・と。
ヨンヌ川を見てデジャ・ヴュの印象を抱いたのは、過去世においてではなく、れっきとした現世で見た記憶が甦ったからでした。その記憶はすでに半世紀を隔て、半ば過去世の記憶になりかけていたとも言いうるのですが。
駅から「別所」と呼ばれていた川っぷちの小さな家まで馬が曳く馬力に乗って行ったのを覚えています。四歳の時の事ですが今でも荷台に揺られながら見たその時の光景は心の底にしっかりと残っています。でこぼこした白っぽい土の細長い道が曲がりながら畑の斜面に消えている。
その家は小川の淵に建っており、川の上に張り出した縁側から、対岸の土手、その向こうに広がる畑や田んぼ、そして眼路の果てに低い山並みが青くかすんで見えました。六畳か八畳一間に台所と風呂場だけの小屋のような家に祖母とふたりきりで二年間暮らしたのでした。
東京のそれも新宿は花園神社の向かいの病院で生まれた僕が何故こんな田舎で暮らしたのでしょうか?それはやはり戦争のお陰と言わねばなりません。終戦の一年前に生まれた次男の僕は、戦後の食糧難の時代でもあり、すぐ後に生まれた妹ふたりを抱えた母親の手に余ったのでしょう。兵庫県の姫路から、日本海側の山奥へ入った八鹿という田舎に預けられたのでした。
家の前の小川は岸辺を熊笹やネコヤナギに覆われ、緩やかな弧を描いて目路の果てへ消えてゆく。ヨンヌ川と規模こそ違え、同じ光景が記憶の底に刻まれていたのです。
小川の土手には春先になるとネコヤナギが銀色のニコ毛に蔽われた芽をふくらませ、蕗のとうが顔を出しました。蕗のとうの後にはツクシを摘みました。祖母は蕗のとうもツクシも煮て食しました。ほろ苦い味を覚えています。ほかに土手に生える細い竹を切り、村の少年が作った杉鉄砲も覚えています。杉の小さな実を詰めピストンを押すと、ポンと音がして杉の実が飛び出しました。
それは、「ふるさと」の歌詞のとおり、夢は今もめぐる、忘れがたきふるさとです。しかし、今はもう失われた、僕の記憶にだけ留まる日本の原風景です。
「ふるさと」想い涙ぐむ。犀川をこよなく愛した室生犀星は、なぜ「ふるさとは帰るところにあるまじき」と詠ったのでしょうか?数年前、帰京した折、日本のふる里に行ってみたくなりました。変わり果てたふるさとを見れば幻滅を味わうだけだよと人にも諭され、幼年時の故郷はやめて犀星の故郷、金沢を訪れました。帰途、白川郷へ寄りました。そこには、まぎれもない日本人のふるさとがありました。同じ宿にアメリカ人が居て、ご主人がもてなしに焚いてくれた囲炉裏の火を煙たがり目をこすりながら部屋を出て行ってしまうなどのハプニングもありましたが。土と木と水の棲家、深い落着きと安らぎを味わうことができました。
よしや、うらぶれて、異土のかたひとなるとても、帰るところにあるまじき。
異郷で落ちぶれ果て、乞食になったとしても故郷には帰るべきでない。ここまで唄った犀星は故郷へ帰ってどんな仕打ちを受けたのでしょうか?犀星記念館も訪ねましたがしかと納得がゆきませんでした。生まれ故郷なのだからと期待と甘えを抱いて出版をあてにして帰ったが、待っていたのは冷たいあしらいだけだった。それだけのことだったのでしょうか?同じような失望を味わったことのある僕が理解できたのはそれくらいでした。それだけのことなら、なにもあんなにまで恨むことはなかろうに、とさえ僕には思えたのでした。
祖母の庇護のもと田舎で暮らした僕は充足した幼年時代を過ごせたと思います。一方で、両親から、とりわけ母親から遠く離れて田舎におかれたことは、常にある欠落感を抱くように育ってしまったと思います。常に遠くの母親を恋しく思う。母恋し、女性思慕を常態とする心的形成がなされてしまったと思っています。
祖母は僕に丹頂鶴の描き方や、風呂の罐に薪を焚きつける、薪の燃やし方を教えてくれました。ともあれ、幼児の僕は、祖母と二人きりで過ごしたその田舎の生活を充足し満ち足りた時代として記憶しました。
中学に入る頃まで、新宿の周辺には到る所に空地がありました。東京大空襲の焼け野原の跡で、家がまだ建ってなかったのです。子供のぼくらは、空地を横切って学校へ通い、帰ると夕飯まで、そこで馬跳びや水雷艦長をして遊びました。家の裏には公園があり、地続きの墓地がありました。公園の一角の貯水池には、夏になると銀ヤンマや鬼ヤンマが飛んできました。墓地との境に、ケヤキの大木が五六本立っていて、濃い灰色の肌をした幹に登り油蝉を捕まえました。そんなふうに大都会の中にも自然がありました。
もっと心に残る風景。小学校や中学の遠足で、よく秩父や多摩丘陵に行きました。雑木林に囲まれ、緩やかな傾斜の山里にひっそりと農家が建っている。武蔵野の面影が残るそうした風景を強いノスタルジアとともに僕は愛しました。それはそこはかとないある悲しみを伴ったノスタルジアの感覚なのですが、思春期の僕の心に絶えず甦りました。後年、印象派の絵を見るに及んで、シスレーやピサロが同じような人里と自然の入り混じる郊外の光景を描いているのを知りました。
そうした自然が次第に失われて行く。緑が豊かだった家の周囲もいつのまにか旅館が建ち、アスファルトが土を覆い、鉄筋のビルが空間を埋め尽してゆきました。それは何かの欠落感として僕に他を探し求める。よく言えば「他への憧れ」ですが悪く言えば今ある状況からの逃避の希求となってゆきました。
青春時代のかけがいのない友人に山男がいて、一旦ドロップアウトしながらも力強く意思を貫き、建築家として良い仕事を沢山しています。思春期の頃、同じように街には住めない、と思っていた。都心で生まれながら都会への非適応症となった僕は、東京を脱出し、遠くの異国を放浪して歩く夢を密に抱き始めました。なにをきっかけとしたか、思い出しませんが、フランスで街頭絵描きになり、パリから南へ画架を担ぎながら歩いて旅を続ける夢を見たのです。願望は、まだ漠然としていましたが、パリでまず、テルトル広場などで街頭絵描きになる。それから放浪の旅を始め、南下を開始する。パリから歩くとなると、4・5日歩き続けて、ちょうど、いま住んでいるここらあたりで、ああ疲れた。この辺が限界だ。意気地のない都会生まれは、もうここらに落ち着くか、となってしまったに違いないのです。すると、今、住んでいるここの場所を、15歳の頃、かなり具体的に想念の裏に抱いていたということになります。
人間は深層心理でいつかこうしたいと秘かに念じていることがあり、偶然の積み重ねのようでありながら、知らずしらずその願望を実現する方向を選んでいるのではないか。「ふるさと」を想いながら、最近、そんな感慨を抱いています。
今の僕のふるさとは、フランスはヨンヌ県のピュイゼ地方にあります。詳しくはホームページ:http://www.sorintei.com をご覧ください。