カテゴリー「心と体」の記事

2009年4月12日 (日)

二人の太郎

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

太郎という名はとても日本的だ。現職の日本国首相の名前も太郎だが、ここで触れるのは違う二人の太郎。ともに思春期の僕にある深い感銘を与え、その後の生き方に係わりを生んでいる。

ひとりは、山本太郎。なんだか日本の男を代表するような姓名で、おとぎ話めいて可笑しくさえある。最近活躍中の若いタレントさんに同姓同名が居るのを知ったが、もちろん関係ない。

僕の山本太郎は詩人である。画家の山本鼎を父に、北原白秋の妹を母に1925年に生まれた。注記すべきこと。この詩人は、第二次大戦末期、二十歳になるかならぬやで、魚雷艇特攻隊員として死に直面している。彼の詩は飾りが無く、素朴直截で生の根源的なことを簡潔に唄いあげているので、好きだった。

思春期の目覚めたばかりの自意識が不安で一杯だった頃、少年は「何故こんな時に、こんなところに、こんなふうに、生まれたんだ」と思い悩んでいた。そこへ飛び込んできたのが、山本太郎の詩の次の一行だった。

     I was born さ! 生まれさせられたんだな。

なにも好き好んで、こんなふうに生まれたんじゃない。受験競争に勝ち抜かねばならず、平和憲法がありながら自衛隊を持ち、日米安保条約で核兵器が持ち込まれ、いざという時には核攻撃で東京上空で核爆弾が炸裂しないともかぎらない。この上なく可愛いと感じる意中の娘には、鏡を見て自分の顔が、団子鼻、乱杭歯、八の字眉と、およそ美とは正反対の要素ばかりが並んでるのを自覚すると、容易に近づけず、「なんだって、こんな風に生まれたんだ!!!」と親へ怨念を向けかけていた時期、「生まれさせられた」と何者かの意思を感じさせ受動態を強調することで、「このようにある」しか仕方がない、宿命を背負って生きるしかないのだと軽快にクールに囁いてくれ、もやもやが少しは晴れ、なにかさっぱりした気持になったものだった。

後年、サルトルの師であるハイデッガーを齧り読みしたときに、この哲学者が、人間はみな人生のある時期に、このような「問い」に捉われる瞬間があり、その時こそが、本来的自己を取り戻す絶好の機会なのだ、と言っているのを知った。

過去のあの時でなく今。未来のある時でなく今。なぜ、この今生まれて在るのか。誰も答えられないが厳としてある問い。人間はそうした現存在(Da-sein)であり、このような存在( So-sein)として被投された。いつかは死すべき運命を持って生まれた人間は与えられた制約条件を宿命として引き受け、限られた条件のなかから最適な道に向け、いつか必ず訪れる死の瞬間まで未来に向かって投企してゆくべきであり、限られた時間のなかで本来的な生き方を見つけて生きるべきだ。

拾い読みだから雑な理解で、専門家から叱られるかもしれないが、ざっとこんな理解をした。このような「問い」、なぜこのように生まれ、このような者として在る私-moiとはなにか、そして限られた条件から選ばねばならない、選択、それに伴う不安といった命題は、パスカル、キエルケゴールに始まり、第一次大戦の惨禍を体験した後とりわけ、ヨーロッパ文明に危機意識が生まれ、17世紀デカルトが生んだ近代合理主義の見直しとして実存主義と呼ばれる思想潮流が生まれた。

もうひとりの太郎は、いわずとしれた岡本太郎である。
1970年の大阪万博に太陽の塔を設計し現在も残っている。その写真がフランスのTaro6 ネット(Orange )の公開imagesリストにみつかったので、まずそれを転載します。

なぜ岡本太郎かというと、高2の時偶然手にした新書版の本が衝撃的だったからである。子供にもわかる芸術論をと光文社の神吉一郎社長の依頼で画家が書いた一連の本の一冊で、芸術とは呪術である、とか沖縄発見とか縄文土器に日本人の原初的創造性を見るなど太郎の民俗学的な視点が盛り込まれていた。

一見「醜」と見えるものにこそ美が隠されているのであって醜の中に美を探らねばならないという主張も当時の僕には衝撃的だったが、いっそう腹の底にズシンときたのは、前述の受身形の哲学的苦悩を覆す野獣的ともいえる原初的な生命肯定の生き方だった。

人間は断じて「生まれさせられた」のではない。各人まぎれもない「自分の意志で生まれてきたのだ」という宣言だった。この世に生まれたくて自分の意志で出てきたんだから、一生、力いっぱい、生き続け、生きるについての欲望を主張し続けるべきだ、というのである。

Taro2 自己省察を知り、限られた選択肢から選ばなくてはと解ってはいても、何が僕の本来的な生き方かが判らずに悩み続けていた少年に、「なにをフニャけたことを。インテリゲンチャのゲチャゲチャもいいかげんにしろ!」とビンタを食らわせられた気がした。

岡本太郎は画家としてはシュール・レアリスムから出発した。パリ滞在中に描いた「痛ましき腕」はアンドレ・ブルトンの激賞を得た。この絵は空襲で焼失してしまい、後に再制作された。写真で見たことがあるが悲痛な緊張感が漲るいい絵だ。

太郎の父親の岡本一平は夏目漱石の薦めで朝日新聞社に入社し、時事風刺の漫画を描いた。宰相の名は知らなくても一平の名は知ってると言われたほど人気があった。宵越しの金は持たない、江戸っ子気質の見本みたいな男で、報酬はみな友達と飲むのに使い家計はいつもすっからかんだったという。

いっぽうの母親「かの子」はお嬢さん育ちの作家で、子育て家事は一切できず、幼い太郎がかまってもらいたくて執筆中の母親に近づくと、うるさがって兵児帯で箪笥に太郎を括りつけたという。

慶応の幼稚舎から高校に進んだが勉強は苦手で52人中52番、最下位だったというから、学校の成績など当てにならないもんだね、と高校の「三ケツ」-豪傑のケツでなくビリッケツのケツの三人が集まるごとに太郎を引き合いに出して慰める。

親子三人で長期外遊を企て、船でヨーロッパへ渡り、太郎はそのままパリに残る。1930年のことである。フランス語を習得し、ソルボンヌにも学び、マルセル・モースのもとで哲学、社会学、精神病理学、民族学を学んだというから、後年の著作に現れた主張はこの頃培われたといえる。

岡本太郎は、1940年、ドイツ軍のパリ侵攻に伴い日本へ帰国するまで10年間をパリで暮らした。32歳で兵役で中国戦線へ送られ1年間の捕虜生活を経験する。

戦後の岡本太郎の活躍ぶりは日本の読者の方が良くご存じだからここには書かない。ひとつだけ、僕のパリ滞在中に岡本太郎のフランスのラジオ番組の録音に立ち会った時のエピソードを記す。

Taro3 1976年だったと思うが、パリの某ホテルに壁画を依頼され来仏した画家が、養女となった平野敏子さんに連れ添われ、パリの道を気取りも気負いも感じさせず静かに散歩する姿を見かけた。

その頃、僕はラジオフランス(国営放送局)の斜め前の屋根裏部屋に住んでいたので岡本太郎を囲むデベートの録音があるのを知って聴きに行った。前衛絵画と古典絵画について、ちょっとした論争になり、フランス人の老紳士が、どんなに前衛的な絵でも良い絵には必ずエキリーブル(均衡)がある、と主張したに対して、太郎は両腕を高くあげ、片脚を椅子に座ったまま挙げ軽業のような格好をしてみせ、こんな恰好でもエキリーブルですかね?と皮肉ってみせた。

そして突然「ちょっと待って・・・」と司会者に注文をつけた。一瞬、緊張が走り、なんだろうと皆が注目する中、「オシッコ」と老画家は子供のように言うなり、席を立ってしまった。出演者は唖然としていたが、束の間の中断の後、無事録音は続けられた。

かの子の小説は読んでいないが、偶然仏教についての本を手に入れたので読んだTaro7 ことがある。日蓮宗だったのか法華経を通じての仏教の解説をしていたが、そこでかの子は久遠仏と称される宇宙の永遠の生命というのが仏教の究極の教えで、仏道を修業することにより前世の業により与えられた宿命を脱し、無常というすべての生命が持つ輪廻転生の業を断ち切り、久遠仏と一体になって永遠の生命を得る(いわゆる成仏する)のだと説いていたのを覚えている。画家の太郎の生命観も母親ゆずりだったかと思う。

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2009年4月 3日 (金)

夢その3:地震

投稿者: 叢林亭:http://www.sorintei.com

引っかけた獲物に触れるのは気味が悪かったが、運の悪さを呪いながらも最後までやろうと僕は心に決めた。引き寄せておいて一気に水から引き抜いた。怪獣は床の上でバタバタと強烈に暴れ、釣り糸が絡まないよう竿を操らねばならなかった。

抵抗が治まって怪獣が力尽きたのを見計らい、僕は靴の底で棘だらけの体を押さえつけ、恐る恐る腹に刺さったハリを外した。こんな珍しい生物は標本としてどこかの水族館に持って行くべきかとも考えたが、なに、このデパートの地下の釣り堀そのものが水族館なのだと気がついた。

Kがどこからか手に入れてきたボロ布を渡してくれ、僕は棘だらけの怪獣の体をそれで包んでから、水に放り入れた。気味の悪い怪獣を釣り上げたことで、釣りの情熱はいちどに消え失せてしまった。それでも僕は名残惜しげに水の中を覗きこんだ。すると淀んだ池の底には泥に隠れてナマズが潜んでいるのが見え、石の間には、黄色い肌に黒い斑点の浮いたイモリが、じっと息を潜めて何かを待つ様子が見えるのだった。

そろそろ帰ろうかと言うと、Kは頷き、歩き出した僕についてきた。そこはデパートの地下の食品売り場で、両側のウインドーに色とりどりの食料品が並んでいた。通路はだんだんに狭くなり、木箱やダンボール箱が積み上げられ、白服をはおった店員達が忙しげに働いていた。そのうちの一人の女店員が「あっちへ回った方がいいですよ」と教えてくれた。僕らは教えられた方向へ歩いていった。すると、そこは、婦人物の帽子やバッグや化粧品や宝石類が飾り立てられたデパートの一階の売り場なのだった。

僕らはじきに表に出た。すると、さっきまで確かにKだった僕の連れはTなのだった。僕らはデパートの外に並んで立って、眼の前の教会を眺めた。教会の脇には四角い石造りの時計塔が空に向かってくっきりと聳え立っていた。

そのとき、なにか地鳴りのようなゴーという響きが聞こえ、地面も建物もこまかに震動し始めた。僕はどこか近くで工事でもしているのだろうと思ったが、その震動は次第に激しく、地鳴りの音も不気味にすさまじさを増してくるのだった。

僕は傍らの黄色い石の柱に顔をよせてみた。耳を当てて、音を聴こうと支えの手を伸ばしたのだが、まるでその手が、柱が帯びた電磁波に弾き返されるように、ビリビリと激しい震動を感じ取り、近づけることができないのだった。

僕は異常な気配に恐ろしくなって、その場を、おずおずと立ち去りかけた。すると、眼の前の教会の脇に聳え立つ時計塔が、グラグラと揺れはじめ、その中央部が、飴が曲がる時のようにふくらみ、皺ができるのが見えた。

Tはすでに駈け出していたが、僕も、あぶないぞーと叫びながら、駈け出した。息が続く限り走ったあと、振り向くと、ちょうど時計塔の中央から上の部分が、大きくかしいで、崩れ落ちてゆくところだった。僕は恐怖に揺り動かされながら、なおも危険な建物の間を一目散に駈け続けるのだった。 (夢:おわり)

Photo

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2009年3月29日 (日)

夢その2 : 山の釣堀

投稿者 : 叢林亭 :http://www.sorintei.com

今週は、開店以来、友達の紹介を介さず、弊 Web Site をご覧下さり、ご自分でレンタカーを運転され来て下さったはじめてのお客様のお相手をし、さらに八か月間行方不明で、もう死んだかと思っていた「トラジ」が奇跡のように戻ってきたので、対応に追われ、夢の続きの文と挿絵を描くのが遅れました。

お待たせしました。では、夢の「つづき」です。

「宿を発って、どこかへ歩くあいだも間断なく雪は降り続いていた。これじゃ春の雪解けの時は大変だねと僕は土地の子供に言った。子供は軽蔑の混じった表情で、たいしたことないというふうなことを言った。

仲間と連れ立って山を降り、もう雪のなごりも無く、夏のように、強い陽が射している道ばたで僕らは休憩した。すると、岩だらけの道を降りたところに釣堀があり、人が群がって釣りをしているのだった。

僕は釣堀を見に降りて行った。そこの混みようは人の背中をかきわけてやっと堀がのぞけるくらいで、近所の子供や山へ静養に来た大人たちでいっぱいだった。澄んだ水の中を大小のマスが泳ぐのが見えた。

みんなが釣りをしている様子を、しばらく眺めていると、釣り方に二通りあることがわかった。子どもたちは普通の浮きのついた仕掛けにエサをつけて釣っていた。たいていの大人たちは、エサをつけず、大きな錘と三つ又のハリがいくつかついた仕掛けを水に入れ、ぐいっーと引っぱって泳ぎまわる魚の腹に引っ掛けて釣りあげるのだった。

白い腹に赤や緑の斑点の浮いたみごとな鱒が身を躍らせて釣りあげられるのを見ているうちワクワクと釣りの本能が掻き立てられた。「しばらく、ここで釣りをしていこうじゃないか。」僕は仲間を誘いに岩だらけの道を登っていった。

ところが、一行はすでに発っていて、Kだけが、ぼんやり、人待ち顔をして岩の上に腰をおろしているのだった。僕はKと連れ立って、釣堀へ降りて行った。

釣堀は、たしかに最初見たとおり、野外の石で囲まれた生け簀で、鱒ばかりが泳いでいるマス釣り場だったのだが、三つ又のハリと錘のついた仕掛けを手に取って、針先を指の腹に当て砥ぎ具合を試したりし、いよいよ水に入れようという段になると、釣堀は、もう野外の日の光の下ではなく、デパートの人混みのする売場の中の蛍光灯の下にあるのだった。

それでも僕は胸をときめかせて仕掛けを入れ、適度な深さに沈んだところで竿を思い切りよく引いてみた。錘が水の中でぶるぶると震えて回転するのがわかった。何度かそうやって仕掛けを引きまわしたり、水から上げ、また遠くへ投げいれたりを繰り返すうち、ずしっと岩にでも掛かったかと思うほどの重みで竿がしなった。

やがて仕掛け全体がゆっくりと動き出した。ハリに獲物が掛かったのは間違いなかった。それにしてもすごい重量と抵抗だった。鱒という魚にこんな力があったのかと不思議に思いながら糸を切らぬよう、慎重にリールを巻いていった。

とうとう獲物が水面に顔を出した。それを見たとたん、僕は怖ろしさに顔が引き攣るのを感じた。奇怪な、魚類図鑑でも見たことがないような、蝦とオコゼの交配種みたいな、そのくせ腹は白くぶよぶよした感じで、三つ又針のひとつがそこに刺さり、黒い、どぶ泥のような液体が、裂けた皮膚から染み出しているのだった。(つづく )

Cadre 

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2009年3月16日 (月)

夢その1:雪山の朝

投稿者:叢林亭: http://www.sorintei.com

「ホメオスタシス」という言葉がある。アメリカの生理学者キャノン( Walter Bradford Cannon 1871 - 1945 ) が「生活体の体内均衡維持説」の中で用いた。筆者は思春期を振り返る時いつもこの言葉を思い出す。

15歳の少年が登校拒否症に罹り学校をさぼって文学書ばかり読んでいたのは何故か?いくつもの理由が挙げられるが、主なひとつに、思春期の身体と心の変化がいっぺんに襲い掛かり、心理的生理的バランスを失ったことがある。

複数の原因が重なって作用し、内省や自己分析の経験がなかった少年に問題解決の手がかりが与えられぬまま、不安と焦燥に駆られ、自閉症じみてゆき、導きを文学書に求めていった。

心理的生理的バランスを崩したことの直接的な原因は、15歳からバスケットを始め、1年間で10センチも身長が伸びたことがひとつ。

さらに、甲状腺とか胸腺などによるホルモン分泌が盛んになり、異性に恋心を抱いて学校の勉強に集中できなくなったことがふたつ。

中学校までは先生の言うことに疑いを差し挟むことを一切せず、無邪気に学期ごとのテストに良い成績を取ることで満足していた。自我の目覚めとともに、そうした少年期の自身の姿に嫌悪感を抱くようになった。同時に学校の教師、社会環境、政治状況といったものに疑問を抱くようになった。

その直接のきっかけとなったのが、高校へ入学して最初の幾何の授業で出てきた、「公理」に抱いた疑問だった。「点」と「直線」の公理が理解できず、「決めごと」に対して差し挟んでも仕方のない「疑問」を抱いたのだった。

「大きさのない点」、「太さの無い直線」などというものが実在するだろうか?

大きさがなければ空間に位置を占めることなどできないではないか。
太さが無ければ空であり虚無なのだから、いくらイデアの中に存在する、そうするものとせよと「決め」られても、そんなもの想像することすらできないではないか。

授業中、少年が発した質問は、このように明確な形を取っていなかったに違いない。そのために数学教師は「それは君・・・愚問だよ。」と答えたのかもしれなかった。

しかし、生徒の持つ「問い」に対して、もう少し、注意深い教師ならば、根源的なことに疑問を発した少年を、愚問と切り捨てるよりは、問うこと自体を勇気づける方向へ導けた筈である。少なくとも「問い」に明確な形を与え、疑問に光を当てることが出来た筈だ・・・と、無いものねだりをしてみたくなる。

「愚問」と言われたことが侮蔑的に作用し、少年は教師を憎み、学校への不信を生み、受験制度そのものを憎悪し反抗するようになった。身体の極度の成長の早さからくる怠惰への傾斜へ「反抗」「ひねくれ」が理由を与えたのだった。

平和憲法を掲げながら自衛隊があるのは何故か?
日本は独立国なのにアメリカ軍の基地が方々に在るのは何故か?
核は持ち込まないことになっているが、実際はアメリカの空母は核を積んだまま入港する筈であり、中国とソ連を仮想敵国とし、もし戦争が起こったら日本は核攻撃される恐れがあるのだ・・・。そういう説を聴かされると、その恐れがゼロではない限り無視することはできなかった。

時代は二極体制の真っただ中にあり、少年は核爆発の恐怖に捕えられていったのだった。

そういう中でも、少年は「夢」を見続けた。ここでいう「夢」には三つの意味がある。

1)睡眠中に見る「夢」
2)将来の希望、期待という意味での「夢」
3)想像力、イマジネーションを働かせるという位の意味での「夢」

いずれも切り離しがたく、それぞれが繋がっていると筆者は考えている。

少年は授業を抜け出し、厭な環境から逃避して「箱根山」に逃れては、遠い外国を夢見ていた。やがて、その夢は、現実に期待できる計画となり、十数年後に実行に移すことになった。

「過去」についてばかり語っているようだが、筆者にとって「未来」とは、「夢」と切り離して考えることはできない。何も夢を見なくても、時間がたてば未来は来る、今現在が過去となり、未来が現在となって未来が物理的に来るということはできる。だが、人間にとって、それは意味のある未来ではない。

夢を見ることができない社会は人間にとって息苦しく良い社会とは言えない。
ナチス政権下のドイツがそうであり、スターリン政権下のソ連がそうだったように、「夢」と「自由」、「夢」と「未来」とは関係があり、人間は、これなしでは生きることができない。

フロイトの「欲望」、「慾動」を持ち出すまでもなく、「夢」は人間を行動へと駆り立てる原動力である。

共産社会のユートピアも夢であるし、起業家になり億万長者になりたいと欲望するのも夢である。

青春時代のモアトリアムはいつまでも夢を見続けていたい欲求であり、「夢」の中では、すべてが可能だ。同時に「夢」を他人に伝えることには困難が伴う。自閉症の子供は夢を見続けることを妨げられると暴力に訴えてでも夢を守ろうとする。

1)の「夢」の中では、社会的、理性的な論理が無視され、物理的、科学的にはあり得ないことが、夢を見ている当事者には極く自然に起こり得ることとして進行する。そこには非論理的なことが、論理の枠を超え、当事者の心に、物語性を持った必然として受け容れられる。

赤い山が突然白い雪を被った山になり、翼も無いのに空を飛んだりも出来るのだ。
ダヴィンチが空を飛ぶ鳥を観察しながら飛行機の前身を夢想したことを思うと、科学技術の進歩と夢とは無関係ではないのである。

今日は、その「夢」の第一回、「雪の山」の絵と文を掲載します。

Resized

「山の宿の窓から、えんじの溶岩の肌と、黒いカラマツが神秘な青空に迫って聳えるのが見えた。宿はどこか学校の教室のようで、先生に僕は指名され、黒板に山をチョークで描いていった。うしろを振り返り、窓の外の山の景色を見やっては、僕は黒板いっぱいに山の稜線を描いてゆく。山の輪郭が出来上がったとき、僕は教師の顔を見て、空を塗った方が良いか、山を塗った方が良いか尋ねる。どちらでも好きなように、と教師が答え、僕は山の方をチョークで塗りつぶしてゆく。

振り向いて、もういちど、山を見上げると、山には雪がかぶり、神秘めいた深い紺青の空の色を吸った山の稜線が、青白い不思議な光をはなって輝いていた。

雪は次第に降り積もって、とうとう山も教室の屋根も厚ぼったく覆われてしまった。僕は宿の窓から顔を、あおむけて出して、傾斜の急な屋根に厚く雪が乗り、餅の耳の形をした雪の端がいまにも滑り落ちそうな具合に垂れかかってきているのを見て、恐ろしくなって首を引く。 (つづく)」

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2009年2月23日 (月)

タイムカプセル

投稿者: 叢林亭: http://www.sorintei.com

「光陰矢の如し」という言葉がある。光は日、陰は月。時間は矢の飛ぶごとく早く、いったん過ぎ去った月日は二度と戻ってこない。ということの譬えである。

「日月は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり。」芭蕉は奥の細道をこの見事な言葉で始めた。

英語にもTime has wings. とか  Time flies like an arrow. とかの似たような表現がある。

60歳を過ぎると誰しもこのような感慨を抱くらしい。高校時代からの畏友は年賀状に「時間」についての言葉を送ってきた。

時間というものが在るとして、人間は一様に直線的に飛び去る矢とか、旅人とか水の流れとか、とにかく移りゆくもの、流れて去ってゆくもの、と感じている。

「現在」というのは確実に感じられる。「過去」はそれよりもっとぼやっとした霧に包まれたようなもの。「未来」となるともっと不確実なものと感じる。未来はひょっとして無いかもしれないが過去は確実にあった。

ふつう現在が飛び去って過去になると感じられ、上の矢の譬えのように今から過去に向かって飛び去る。しかし、確実に感じられる今から見ると過去の方から現在に向って飛んできたと言った方が良いように思う。飛んできた矢:「私」は過去には無く今確実にここにある。「私」は母親の胎内で受精した瞬間から現在の方向に飛んできて今ここに居る。その間、飛んでいた60年の時間と空間は失われ戻ってこない。

タイム・カプセルに乗ると時間を過去に遡ることができる、という。昔、私がそこに居た時間と空間に戻ることがほんとうに出来るであろうか?できるとすれば時間というのは他の物質と同じように物理的な実体といえるが、そのような時間は存在しない。過ぎ去った時間は永久に失われたのである。

前回、佐伯祐三の最後のアトリエをクラマールに訪ねたことを書いた。このアトリエの建物:空間はその時確かに在った。が、佐伯祐三とその家族は無く、僕と友人の祐造が居ただけであった。祐三がそこで絵を描いた時間は失われた。

そのアトリエも壊されて今は無く、僕と祐造の記憶の中にだけ在る。ここで言う記憶とは脳細胞に残された物質的な記憶だけのことでは無い。祐造も僕もその場に身体ごと居た。佐伯祐三が居た建物の中に佇んで、祐三が絵に命を捧げて死んだという事実を想い呆然とした。記憶は三次元の身体の中にも残っている。身体ごと、その時間と空間を生きた。それは今ある僕の身体の一部になっている。

「三つ子の魂、百まで」という諺がある。幼少期に習い覚えた事、癖は死ぬまで変わらない。僕は四歳と五歳の二年間を祖母とふたりきりで田舎に暮らした。65歳になろうとする今でも、その時の経験が今の生き方を左右している。

僕は六十年前にその時を生きた。だから、それは脳細胞の記憶だけでなく、身体中に刻印された生の一部だ。すべての生物の細胞は生きながら入れ替わるから、身体に感覚や体験として刻まれた記憶はなんらかの形で継承されるらしい。

僕の幼児期の記憶はすべて視覚的なものばかりだ。聴覚に残っているものはごくわずかに祖母の特徴のある声だけだ。二年間ふたりきりで暮らすうち、祖母は丹頂鶴の描き方を教えてくれた。頭のてっぺんが赤い図形化された鶴の絵だが、それを繰り返し描いた。絵を描く楽しさを祖母から教わった。

人間の記憶は、ある場面の中に居た筈の自分を客観化して第三者として見ることができる。今も、幼児期に暮らした家の様子を覚えているし、その六畳ばかりの狭い部屋に祖母とともに居る幼児の自分を想い描くことができる。

思春期のもやもやした心の悩みは今思い出すことはできない。理想を求め、高みに達したいと希求した胸の高揚や野心や情熱は今はどこへいったやら、少しも蘇ってこない。そんなこともあったなという感慨くらいで再現はできない。それが過去:過ぎ去った時間、失われた時なのだろう。

タイム・カプセルに乗った場面を想像して絵に描いてみたが、青春期の江ノ島らしきTimecapsel 景色が見えたほかは、恋していた彼女が傍に居るくらいで他に何も見えなかった。脚元の波は動いている筈なのに、遠くから見ると停まって見える。飛行機から海岸線を見る時も同じように浜に打ち寄せる波が停まって見える。

タイム・カプセルに乗って時間を遡れば、昔の場面に戻れるというが、僕は信じない。

時間とはそういう実体のあるものではなく、個々人がそれぞれの内面で感じるものでしかない。

物理的な時間があるだろう、という。地球の自転や公転をもとに一日を24時間、1時間を60分・・・と決めた。大昔の中国では水で時間を測ったらしいが、時計というものが発達して、振り子やゼンマイや水晶や原子の振動を利用して時間を計っている。

イスラムの国や中国では今だに太陰暦を保存しているが、グリニッジ標準時間はさすがに世界的になった。どのコンピューターにも時計が組み込まれている。2008年と2009年の境目に1秒だけ天体時間と原子時間のズレができたとか騒いでいた。

時間というものが流体のように途切れなく流れるものというイメージがあるが、実際は時間を計る時計は振子を使った柱時計にせよ、水晶の振動を使ったデジタル時計にしろ、進むと停まるの組み合わせで測っている。

ゼノンの「飛んでいる矢は停まっている」と「アキレスはいつまでもカメを追い越せない」の逆説は、時間と空間を無限に分割するという考えを基にして立てた論法で、ある意味で現在も時計を使って時間を分析しているのだ。

タイム・スタデイで動作を分析し、時間を当て嵌めるやり方は、①持続する運動を分割する。②分析した動作に割り当てる時間は物理的、社会的時間である。というふたつの問題点がある。

上の節に時間は各人が内面で感じるものと書いたが、人間の生物学的、生理的、心理的時間と社会的、物理的時間との違いというものについて人々は早くから気が付いていた。これは「浦島太郎」の話があることからも納得できる。

竜宮城で幸福な時間を過ごした浦島は、せいぜい二三日と信じて陸に戻ると何十年という歳月が経っていた。人間の主観的時間というものと、天体の運動を基にした物理的時間というものが、昔からズレていたのかは疑問だ。農耕牧畜生活をしていた時代は人間の寿命、脈拍、睡眠、食欲、生理と自然の時間とは、そんなに隔たりのあるものではなかったのではないかと想像する。

産業革命以降の現代になって人間社会は夜も生産を続け、人間の生物学的条件に変換を強制するような生活条件を生み出した。生産手段を持たない労働者が直接この変換に適応せざるを得ず、生産手段を私有するパン屋とか家具職人とかはある程度マイペースで仕事ができる。

自由業、芸術家になると更に違ってくる。ピカソは夜寝床に就いてからもデッサンや小品を描き続けたといわれるが、巨匠にとって残業時間がどうのという話は笑止千万だろう。「三度のメシより本が好き」とか「寝食を忘れて」あることに熱中する人は沢山いる。

現代の社会組織は分業を作りだしたし、分業なしでは複雑な工業製品や大規模プロジェクトは実現しえない。しかし、西洋の個人主義を基礎に置く社会組織では、ひとりひとりが分担、掌握する仕事を、ひとつひとつ確実に間違いのないよう片づけてゆくという仕事のやり方が基本となる。すべての人が間違いなく分担をこなせばうまく行くはずの分業社会は実際は間違いだらけで最終消費者たる市民がツケを払わねばならない。それは何故だろうと考えてみた。

西洋の仕組みは、理論的にはうまく行くはず。ひとりひとりが間違いなく仕事ができる、という前提があるために、チェック機構が出来ていない。エラーがあるのではないかと疑うことが人格を傷つけることと混同されている。そのため上流、下流の仕事には口を出さない。チェックをしないという慣例が西洋の組織にできてしまった。

リーマン・ブラザースの破綻は同僚がやってることが危ないと感じながら口出しをしなかった分業の行き過ぎの結果と言うことができる。今回の世紀の金融、経済危機はテーラー主義の終焉というよりは、西洋の近代が生み出した合理主義と、分業という労働組織の欠陥を露呈したと言うことができる。冷泉彰彦氏の「アメリカモデルの終焉」はこの問題についてのより詳細な分析があり深い示唆を与えてくれる。

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2008年5月12日 (月)

時間について

前回は長さの単位について書きました。重量の単位のキログラムはいまだに現物を原器としています。キログラム原器もフランスにあり、日本の筑波にある複製はほんの少しだけ重さが違うらしい。指紋の重さに相当するコンマNミリグラムの誤差があるとのことです。

Peche1
パイプの径やネジ山の他にフランスでポンドを使うのが魚釣りで使う魚の重量です。

釣りの雑誌によく、怪物みたいに大きな鯉だのブロッシェ(川カマス)だのを両腕に抱え満足げな顔のオジサンや少年の写真が載っていますが、釣り上げた魚の重量の表示がリーヴルなのです。ポンドのフランス訳でしょうか。それとも昔の単位を使っているのか?


「マチュー君は奮闘1時間の末、20リーヴルの鯉を釣り上げ、ロワレ県の新記録を達成した。」つまり10キロの鯉なわけです。鱒釣りのフライなど技巧を尊ぶ英国から入ってきたフィッシングの分野ならわかりますが、太いミミズや小魚を餌に釣りあげたブロッシェやペルシュまでもリーヴルで表示するのがおもしろい。

科学研究と違い日常生活での度量衡はおおよその距離や重量がわかれば事足りるので、多少の誤差で騒ぎ立てる必要もないわけですが、話の糸口として、単位を持ち出したので、これから数回に渡り、家の工事とフランスの工場での体験を、お話したいと思います。多分に飛躍に満ちた論法となりますがご容赦願います。

時間について少し。不勉強の僕は世界中で使われ僕らの日常を支配している時間がどうやって定められたのか知識がありません。ここで言う時間は、物理的時間よりむしろ、主観的な時間。内的時間と言ったら良いのか、下世話に言う腹時計のことです。

長年フランスで暮らしてみて、最近はもう、慣れてしまいましたが、初めのころは、いったい、フランス人なるものは、時間の観念を持ってるのだろうか?とよく疑わされました。人を待たせることが平気。約束に遅れても屁とも思わない。例外的な人が居ないことはないが大半のフランス人は他人のために決して急ごうとしない。

いったい、この人たちは、他の国の人々と同じ時間の単位を使ってるのだろうか?だいいち腕時計を身につけて出歩く人が圧倒的に少ない。社会が押し付ける物理的時間にいやいや従ってることが明白です。彼らが本当に従う時間は、自らの内的な時間なのだな、と感じさせられました。幸福とか生甲斐についての表現に、生の流れの赴くままにとか、内的時間の主体的な動きに従う生き方への憧れを見てとることができます。

これから少しビジネスに関わる話をしてゆきます。品質、価格、納期と競争力の三大要素のうち、フランス人には特に納期の観念が欠けていると言わざるを得ないからです。ただ、かくいう僕は、郷に入れば郷に従え。この国で自分一人急いだって仕方がない。今までさんざんひどい目に会った末に、彼らのような生き方ができれば、確かに幸福だろうなと思うようになっています。


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2008年4月28日 (月)

いつか見た風景

ヨンヌ川が緩やかにカーヴし、対岸の樹木の茂みが曲った川の先を隠してしまう。川沿いに数軒の家が並んでいる。その光景を見たとき、僕は「これは、どこかで見たことのある風景だ・・・」と思いました。

デジャ・ヴュというのはシュールレアリストたちが広めた言葉でしょうか。ある光景を見たとき、これはいつか、どこかでみたことがあるという印象を抱く。そういった心理現象をデジャ・ヴュと呼んだ。その光景を過去世で見たことがるからで、どこかで見た印象を持つのは、過去世の記憶が甦っているのだ、と輪廻転生に関係づける議論を読んだこともあります。過去世のことゆえ、いつ、どこでだったかは思い出せない。ただ既視感だけを抱くのだ・・・と。

Yonnecopy ヨンヌ川を見てデジャ・ヴュの印象を抱いたのは、過去世においてではなく、れっきとした現世で見た記憶が甦ったからでした。その記憶はすでに半世紀を隔て、半ば過去世の記憶になりかけていたとも言いうるのですが。

駅から「別所」と呼ばれていた川っぷちの小さな家まで馬が曳く馬力に乗って行ったのを覚えています。四歳の時の事ですが今でも荷台に揺られながら見たその時の光景は心の底にしっかりと残っています。でこぼこした白っぽい土の細長い道が曲がりながら畑の斜面に消えている。

その家は小川の淵に建っており、川の上に張り出した縁側から、対岸の土手、その向こうに広がる畑や田んぼ、そして眼路の果てに低い山並みが青くかすんで見えました。六畳か八畳一間に台所と風呂場だけの小屋のような家に祖母とふたりきりで二年間暮らしたのでした。

東京のそれも新宿は花園神社の向かいの病院で生まれた僕が何故こんな田舎で暮らしたのでしょうか?それはやはり戦争のお陰と言わねばなりません。終戦の一年前に生まれた次男の僕は、戦後の食糧難の時代でもあり、すぐ後に生まれた妹ふたりを抱えた母親の手に余ったのでしょう。兵庫県の姫路から、日本海側の山奥へ入った八鹿という田舎に預けられたのでした。

家の前の小川は岸辺を熊笹やネコヤナギに覆われ、緩やかな弧を描いて目路の果てへ消えてゆく。ヨンヌ川と規模こそ違え、同じ光景が記憶の底に刻まれていたのです。

小川の土手には春先になるとネコヤナギが銀色のニコ毛に蔽われた芽をふくらませ、蕗のとうが顔を出しました。蕗のとうの後にはツクシを摘みました。祖母は蕗のとうもツクシも煮て食しました。ほろ苦い味を覚えています。ほかに土手に生える細い竹を切り、村の少年が作った杉鉄砲も覚えています。杉の小さな実を詰めピストンを押すと、ポンと音がして杉の実が飛び出しました。

それは、「ふるさと」の歌詞のとおり、夢は今もめぐる、忘れがたきふるさとです。しかし、今はもう失われた、僕の記憶にだけ留まる日本の原風景です。

「ふるさと」想い涙ぐむ。犀川をこよなく愛した室生犀星は、なぜ「ふるさとは帰るところにあるまじき」と詠ったのでしょうか?数年前、帰京した折、日本のふる里に行ってみたくなりました。変わり果てたふるさとを見れば幻滅を味わうだけだよと人にも諭され、幼年時の故郷はやめて犀星の故郷、金沢を訪れました。帰途、白川郷へ寄りました。そこには、まぎれもない日本人のふるさとがありました。同じ宿にアメリカ人が居て、ご主人がもてなしに焚いてくれた囲炉裏の火を煙たがり目をこすりながら部屋を出て行ってしまうなどのハプニングもありましたが。土と木と水の棲家、深い落着きと安らぎを味わうことができました。

よしや、うらぶれて、異土のかたひとなるとても、帰るところにあるまじき。

異郷で落ちぶれ果て、乞食になったとしても故郷には帰るべきでない。ここまで唄った犀星は故郷へ帰ってどんな仕打ちを受けたのでしょうか?犀星記念館も訪ねましたがしかと納得がゆきませんでした。生まれ故郷なのだからと期待と甘えを抱いて出版をあてにして帰ったが、待っていたのは冷たいあしらいだけだった。それだけのことだったのでしょうか?同じような失望を味わったことのある僕が理解できたのはそれくらいでした。それだけのことなら、なにもあんなにまで恨むことはなかろうに、とさえ僕には思えたのでした。

祖母の庇護のもと田舎で暮らした僕は充足した幼年時代を過ごせたと思います。一方で、両親から、とりわけ母親から遠く離れて田舎におかれたことは、常にある欠落感を抱くように育ってしまったと思います。常に遠くの母親を恋しく思う。母恋し、女性思慕を常態とする心的形成がなされてしまったと思っています。

祖母は僕に丹頂鶴の描き方や、風呂の罐に薪を焚きつける、薪の燃やし方を教えてくれました。ともあれ、幼児の僕は、祖母と二人きりで過ごしたその田舎の生活を充足し満ち足りた時代として記憶しました。

中学に入る頃まで、新宿の周辺には到る所に空地がありました。東京大空襲の焼け野原の跡で、家がまだ建ってなかったのです。子供のぼくらは、空地を横切って学校へ通い、帰ると夕飯まで、そこで馬跳びや水雷艦長をして遊びました。家の裏には公園があり、地続きの墓地がありました。公園の一角の貯水池には、夏になると銀ヤンマや鬼ヤンマが飛んできました。墓地との境に、ケヤキの大木が五六本立っていて、濃い灰色の肌をした幹に登り油蝉を捕まえました。そんなふうに大都会の中にも自然がありました。

もっと心に残る風景。小学校や中学の遠足で、よく秩父や多摩丘陵に行きました。雑木林に囲まれ、緩やかな傾斜の山里にひっそりと農家が建っている。武蔵野の面影が残るそうした風景を強いノスタルジアとともに僕は愛しました。それはそこはかとないある悲しみを伴ったノスタルジアの感覚なのですが、思春期の僕の心に絶えず甦りました。後年、印象派の絵を見るに及んで、シスレーやピサロが同じような人里と自然の入り混じる郊外の光景を描いているのを知りました。

そうした自然が次第に失われて行く。緑が豊かだった家の周囲もいつのまにか旅館が建ち、アスファルトが土を覆い、鉄筋のビルが空間を埋め尽してゆきました。それは何かの欠落感として僕に他を探し求める。よく言えば「他への憧れ」ですが悪く言えば今ある状況からの逃避の希求となってゆきました。

青春時代のかけがいのない友人に山男がいて、一旦ドロップアウトしながらも力強く意思を貫き、建築家として良い仕事を沢山しています。思春期の頃、同じように街には住めない、と思っていた。都心で生まれながら都会への非適応症となった僕は、東京を脱出し、遠くの異国を放浪して歩く夢を密に抱き始めました。なにをきっかけとしたか、思い出しませんが、フランスで街頭絵描きになり、パリから南へ画架を担ぎながら歩いて旅を続ける夢を見たのです。願望は、まだ漠然としていましたが、パリでまず、テルトル広場などで街頭絵描きになる。それから放浪の旅を始め、南下を開始する。パリから歩くとなると、4・5日歩き続けて、ちょうど、いま住んでいるここらあたりで、ああ疲れた。この辺が限界だ。意気地のない都会生まれは、もうここらに落ち着くか、となってしまったに違いないのです。すると、今、住んでいるここの場所を、15歳の頃、かなり具体的に想念の裏に抱いていたということになります。

人間は深層心理でいつかこうしたいと秘かに念じていることがあり、偶然の積み重ねのようでありながら、知らずしらずその願望を実現する方向を選んでいるのではないか。「ふるさと」を想いながら、最近、そんな感慨を抱いています。 今の僕のふるさとは、フランスはヨンヌ県のピュイゼ地方にあります。詳しくはホームページ:http://www.sorintei.com をご覧ください。

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