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2009年5月 4日 (月)

三人の美智子-その5「友への手紙」

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

わが友「畑和秋」へ

君が北米インデイアンと白人の混血「メチス」の子供たちの学校の設計でカナダ建築賞を受賞したと知った時、すぐお祝いに駆けつけたいと思った。日本に住む坂井とフランスに住む僕とが太平洋と大西洋を飛び越え、ロッキー山脈の麓のエドモントンに住む君の家で落ち合う。

高校時代の悪友三人が連絡を取り合い、この地球規模の再会を果たそうと胸をおどらせた。結局は多忙な社長職の坂井がスケジュール調整がつかず「キャンセル」と電話してきて、この夢は実現せず、ぼく一人が君の家を訪ねたのだった。

Rocky8 君のジープにテントを積み、カナデイアン・ロッキーをキャンプして回り、山の湖で鱒釣りをしたあの日々のことは今も忘れない。君の無償の友情にどんなに感謝してることだろう。

受賞の弁に君はインデイアンと白人の「メチス=混血」の子供たちの学校に設計のモチベーションを感じたと書いていた。

君は中学二年の時に僕と同じ中学に転校してきた。制服の詰襟のホックを外したまま、荒っぽい声を挙げて喚いたあと、肩をゆすって、大股に走ったりする君の姿を見て、すこし「不良」っぽい少年だと僕は思ったものだった。

その年の正月が過ぎたばかりのまだうすら寒い頃、「小松川高校殺人事件」が起きて世間を騒がせた。東京地裁は逮捕された十八歳の少年、李珍宇に対し「死刑」を言い渡した。李珍宇がまだ未成年だったことが「死刑」の記事を読んだ僕を強く印象づけた。

李少年は亀戸の朝鮮人部落で生まれ、極貧の家庭に育ち、教科書も買えず、手で書き写して勉強していたが、知能指数が135もある頭脳明晰な子で、中学では生徒会長をしていたという。僕は中二の時、人気投票で生徒会長になったことから、李珍宇に関するこの記事を読んだ時に、他人ごととは思えない感じがした。

ちょうど君が転校してきた頃、李珍宇自身は嫌がった控訴を、家族が行ったが、東京地裁が控訴を棄却したという記事が新聞に載った。少年法の適用外とされ「死刑」の判決を受けた李珍宇を救おうという運動が有名作家を交えた少数の文化人の間に起こり、運動の主導者である女性と李珍宇との往復書簡が新書版で出版され、高校生になっていた僕は小遣いをはたいて買って読んだ。

李珍宇の父親は、大正7年(1918年)に、造船所で働いてくれという言葉を信じて日本へ渡ってきたが、実際は炭鉱に送られた。戦後、日雇いをしていたが、稼ぐ金はすべてアルコールに費やされたという。李珍宇は小学5年の時に、近所の2歳ほど年上の少女と性的関係を持ったというから、ずいぶん早熟だなと僕は思った。

理数系の成績は良くなかったが、国語と社会が得意だった。彼が愛したのがドストDosto2 エフスキーだったと知って僕はこのロシアの文豪の小説を読み始めたのだった。あとで、ソーニャの愛に導かれ、広場で殺人の自白をするラスコルニコフと従容として死刑を受け入れた李珍宇の心理とはどこかで通じるところがあると思った。

中学を卒業した李珍宇は家が貧しかったので働かねばならず、日立製作所、精工舎などを希望したが、韓国籍のために就職できず、町工場を転々とした。月々貰う給料はすべて家に入れていたという。事件当時は自転車のベルを作る工場に勤めながら、小松川高校の夜間部(定時制)に通っていた。

李珍宇は四月に、23歳の工場賄婦S子さんを強姦致死に追いやり、さらにその年の8月に18歳のY子さんを殺害した。

S子さんは、男のような服装をして自転車に乗っていたので李は後を追いかけ、道路わきの田んぼに押し倒して首を絞め、気を失ったところを姦淫したが、S子さんが意識をもどしたので再び首を絞めて殺害した。

書簡集には、そのときの様子がありありと書かれていて、僕は読みながら心臓の鼓動が高まるのを抑えることができなかった。李少年の文通の相手は2歳ほど年上の女性で、李が「わたしは死刑に値する極悪人で、死刑は当然だ。早く死の償いをしたい」と周囲の人々に言い、カトリックに帰依して熱心に聖書を読み、すでに改心しているのをみて、上告すべきだと勧める。書簡の大半は李が読んだ聖書の話と、どうにか上告して命を永らえるよう説得する女性とのやりとりだった。

Y子さんを夏休みの小松川高校の屋上で殺害し、死体を屋上の鉄管暗渠に隠した。そして、証拠不十分で迷宮入りをしかけていたS子さんの事件も、おれがやったと新聞社に何度も犯行声明の電話をするのである。

一度は新聞社が警察へ届けるが「いたづら電話」と片付けられてしまう。再度新聞社に電話が掛り、その時は記者が「声がちがう。偽者だろう。」と断定すると、むきになって殺人の詳細を30分にもわたり語った。電話の逆探知をするが僅差で間に合わず、犯人は取り逃がす。しかし、公衆電話で電話していた姿が目撃され、複数の証人が出て、犯人逮捕に至った。

犯人の異常な心理を問題視する前に、これはやはり、日本に生まれながら国籍は韓国のまま在日朝鮮人として扱われ、家が貧しいゆえに、頭脳明晰なのに普通校へ行けず、韓国籍のために大企業に就職できなくて、町工場ではたらきながら定時制へ通い勉強していた。不遇な青春を送らざるを得ず、無言のまま社会の片隅に見捨てられ、年老いてゆく。そうした不条理に李珍宇がもはや耐えられない、という状況にあったのだろうと僕は想像した。

死を覚悟して、日本人社会を糾弾するために犯罪を犯し、自ら犯人はオレだと名乗り出た。「罪と罰」のラスコルニコフが広場に跪いて告白し、シベリアに送られると同じ心境で死刑を受け入れた。新聞社への犯行声明は、少年が日本人社会に抱いていた「怨念」を日本人にぶつけ、あからさまにしたい。迷宮入りなどにはさせない。在日朝鮮人のオレがやったことを日本の世間へぶちまけて曝したい。そういう表示欲にいたたまれなくなったのだろう。李少年は、自殺志向に駆られ、自ら新聞社に通報し、逮捕させるよう仕向けたのに違いないと僕は思った。

君は、色白で形の良い鼻をしていた。僕と同じ高校へ入学し、同じクラブへ入った。バスケの練習が終わり、その日は僕と君が当番だったので部室に残り、片づけて掃除したあと、座り込んでボールに保革油を塗っていた。部室の壁に掛けられたランニング・シャツからはすえた汗の臭いが発散し部屋中に籠っていた。

「おれはな、子供の時に小児麻痺やって、右足がちょっとみじかいんよ。」
君はボールを放り出して床に横向きに寝そべり、右腕を肘枕にして頭を支え、僕を見て、けだるそうな声で言った。

「それに、おれはなあ、日本人やないんよ・・・。宋いうてな、パスポートも韓国のままなんや。」
僕はそのとき、李珍宇とその父親のことを思い出した。日本が韓国を統治していた戦前や戦争中、不足した労働力を補うために、韓国の男たちを強制的に日本へ連れて来て働かせた。そう、本で読んだことがある。畑の父親も若い頃、トラックに無理やり乗せられて連れてこられたのか?僕は、ほんのりと黄色味がかった宋の白い肌から、うっすらと匂う大蒜の臭いを嗅いだ。

Heine3 宋の姉は日本人の男性と結婚していて、宋はふたりのアパートに置いてもらっていた。兄さんの影響か、宋は詩や小説をよく読んでいて、いつだったかハイネの「歌の本」という詩集を貸してくれたことがあった。

「君は花のように・・・」という詩をどんなに胸をときめかせ書き写して暗誦したものか。後年知ったことだが、ハインリッヒ・ハイネはデュッセルドルフ生まれのユダヤ人で、若き日のマルクスとも親交があり、やがてはライン河を越え、パリに移り住み、サン・シモンなど空想的社会主義者たちと交友を結び、最後はパリで死んだ。

「君は花のように・・・」という小恋愛詩は人々に愛され、シューマン、リストなどが曲をつけて歌われている。

君は僕によく「早くおれはこういう苦しみから脱けられるようになりたい。」と言った。上級生の美人の慶子さんを恋してしまったのだ。一日の授業が終わり、掃除当番が教室を箒で掃いているあいだ、窓の框に腰かけていた君は、慶子さんが俯きがちに、早足で校門へ向かうのを見届けると、鞄をとり、さっと窓から飛び降りて、慶子さんの後を追いかけていった。

数日後、僕が君のアパートを訪れると、「ああ。長嶋。オマエか・・・。ちょうど、ええとこ、来てくれたワ。ひとりで、くさっとったとこやったから。」君は部屋の隅に丸まって寝転がっていたと見えて、ふたつに折り畳んだ座布団や雑誌が散らかったまま置いてあった。まぶたがはれぼったいような、頬がすこしむくんだような表情だったが、もしかしたら不貞寝どころか泣き寝入りをしていたのかもしれなかった。

「きのお、慶子さんを追っかけていってな。つきおうてくれ、いうて頼んだんやけど、断られたワ。お友達としてならいいけど、恋人にはなれません。もう決めたヒトがおるんや。いうてな。」

愛というのは残酷なものだと僕は今でも思う。恋しい相手が、想いに応えてくれるのは稀で、ほとんどが悲恋と失恋ばかりだ。
「プラトンの饗宴。あん中で、アリストパネスがいうやろが。アンドロギュロスて。男とAmour9 女はもと背中合わせの一体だったゆうて。それと、ソクラテスがデイオテマの口をかりて言うでしょう。エロスいうもんは美とゆう徳を希求する欲求やゆうて。おれのイデアゆもんが、前にイデアの世界にいたことがあって、そのときの記憶が、いまのオレに慶子さんが理想の女や、いうてる気がするんや。」

僕は、その後もずっと君が慶子さんを恋し続けていたことを知っている。高校を卒業して5年も経った頃だったか、君が働いていた建設現場へ僕が遊びに行き、その晩、仮設ハウスに泊まった。君が慶子さんへの切ない想いにうなされ七転八倒する姿を僕はこの眼で見ている。

そして、なおも人生の不思議を感じさせることが起こった。僕がフランス語圏のプロジェクトの入札書類を作りに日本に帰った数カ月の間に、ひょんなきっかけから、君の慶子さんの結婚相手が、なんと僕の勤務している会社の課長だったと知った時の驚き。僕は、このことを君に伝えるために君に会いにエドモントンヘ行ったのだ。

Stendahl1 僕は、君の恋はスタンダールの言う情熱的恋愛かと思っていたが、いまでは、むしろ、もっと北方のドイツ的な、たとえばゲーテの「若きウェルテル」のシャルロッテに対する恋と似ていると思う。

僕らの思春期の胸の思いというのは、どちらかというとドイツ的なGeoethe1 ものらしく、君も成人してから後も、長くこの胸の高まり、魂の昂揚を持っていたし、青春とは年齢と関係なく、いつまでも高い理想を胸に抱き続けることだと、いつだったか年賀状に書いてくれた。

カナダから帰った君は50に手が届く年齢で、もういちど数学をやり直し、みごと一級建築士の試験に合格した。久しぶりに帰京した僕に、前年100年記念とかで幹事役になった君達が同窓生名簿を編纂したが、僕の意中の人は行方不明だと君は告げた。「キミのミチコさんなあ・・・。ゆくえがわからんぞ。」

美智子は当時20倍ほどもの競争をはねのけて、男ばかりの中の紅一点、ストレートで東工大の建築学科に入った。立派な建築家になって、君と同じほどの業績を残しているだろうと想像する。

なぜ美智子をあんなにまで愛したか?今になって考えると、やはりそれは、彼女の知性に惹かれたのだと思う。美智子はつねに数学の成績が一番だった。中間試験、期末試験ごとに、数学の教師は答案を成績順に返したが、美智子がいつも真っ先に呼ばれた。数学はいつもゼロに近い点数だった僕はみじめな思いにうちひしがれたものだった。

Platon1 僕は入学早々、算数から数学への突然の飛躍についてゆけず、自分の怠惰を幾何の公理の表現のまずさのせいにして、以後三年間数学は落第点ばかり、お情けで進学させて貰ったひとりだった。だが中学までは算数と理科が得意科目だった僕は、いつも数学がトップの美智子に精神的に惹かれていたのだと思う。心の内で彼女を慕いながらも現実には近寄りがたい存在として、崇敬の念が湧きあがるごとに、かなわぬ恋の絶望に突き落とされ、受験前の悩ましい時期に一層の悩みを重ねた。

生徒会執行委員長だった丹羽が僕にミンセイに入れと勧誘に来た。僕は唯物論を信じる確信が持てなかったのでどうにかその場をやり過ごして逃れたが、唯物論か唯心論かの問題はその時から、ずっと尾を引いている。

親の家を出て新聞配達をしてでも信念を貫くべきだという丹羽の主張は受け入れ難かった。それを言う丹羽本人は、大脳生理学をやるんだと自分の進学と受験勉強を正当化していた。

確かに人間の精神と心の働きの大部分は大脳が司っている。精神は脳細胞とニューロンとシナプス回路という物質構造の機能・作用と言い切る人もいる。ただ、僕は、高三の時、美智子さんへの悩ましい想いでいっぱいの自意識で頭がヘンになりそうだと感じながら、観察者と観察の対象の関係ということを考えたのだった。

受験まであと数か月という時、僕は新宿の大ガードの下でバイクが倒れ、警官に囲まれて地面に一人の男が横たわっているのを見た。遠くからも倒れた男の頭の付近が濡れ、アスファルトに割れた男の頭蓋から脳漿が流れ出て、脳の一部がはみ出しているのが認められた。

その時、僕が考えたのは、「あの、表にはみ出てアスファルトに触れている脳は自分が死につつあるということを自覚するのだろうか?」ということだった。

自意識過剰に僕は取り憑かれていた。受験の一か月ほど前、健康診断にクラスの全員で学外の診療所に行った。待合室に20人ほどの級友が座り、その中に美智子も居た。僕は、膨らんでゆく自意識が部屋全体を覆い、彼女の頭脳にも確実に僕の意識が伝わっていると信じこもうとしていた。もとより、それは根も葉もないことで、その両極の間を自意識が揺れ動き、壁に頭をぶつけ、物質のもつ固さを借りて確かさを確認していた。気違いと紙ひとえのところに居たと今も思う。

前回、新宿で会った時は、坂井がワザと盛った新潟のなんとかいう「足をとる酒」がSocrate1_2 効いて、僕は酩酊し、君ともどこでどう別れたか、まったく記憶がない。坂井が、例によって、行きつけのバーに連れて行ってくれ、眼の前に、マダムの白い顔がほころびるのを覚えているだけ。後は、前後不覚、気がついたら、小田急に乗っていて、二駅乗り過ごしていた。あわてて降りて、ホームを替わる時に、エスカレターで転び、後ろの子供づれの婦人が「あぶない」と声を挙げたのを覚えている。それからは、ほうほうの体で、どうやら親の家に辿り着き、ひと眠りし、5時前に起きて、成田行きの電車に乗った。

「これが、今生の別れになるかもしれんで・・・。」
二年前に会った時も坂井はそう言ったが、その後ますます盛んで、社長業の傍ら仏道修業して、めでたく得度式をあげたんだから、たいしたもんだと感心する。あいつも一度、生死の境目を彷徨う目にあってから、考えるところがあったのだろう。学徒動員で、お袋さんのお腹にいる間に、お父さんは戦死し、父親の顔を見ていない坂井は早熟だったし、人生の裏表を見尽くした感じで、僧職に答えを見つけたのかと思う。昔から達筆だったが、毛筆で得度式を迎えたいきさつを書き送ってくれた。

なにを隠そう、坂井に関心を持ったのは、彼が僕の初恋の彼女と同じ中学の出身だったからだ。三人で飲んだ時、その話へ水を向けたが、邪魔が入って触れずじまいだった。いづれにせよ、僕が恋した日本の女性はすべて、ソクラテスみたいに醜男の「あなたには関心がないのね」と僕を振ったヤツばかりなものだから、僕は、こないだの晩と同じように、こけつ、まろびつしながら故郷を抜け出したのだった。
(三人の美智子をこれで終わります。)

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