カテゴリー「文化・芸術」の記事

2009年12月14日 (月)

加藤周一をめぐる講演会

Photo_2 加藤周一が昨年他界したことを知らなかった。

パリの日本文化会館で講演があることをオブニーで知り、しかもパネラーのひとりの石田教授に30年以上前、パリの友達の家で会ったことがあるので、遠路を厭わず出かけた。

思春期と青春期のはざまで内的外的要因でウダウダと悩んでいた頃、加藤周一の本を読んで勇気づけられた。そのシンプルで明快な文体。飾らず論理に情が籠った地味だが独特の魅力を持った文体に惹かれ「羊の歌」とか「海辺の町にて」とかを読んだ。

「知」への勧誘というか、外国語を学ぶ勇気、中国や日本の古典文学、建築、歴史、社会学、ありとあらゆる学問知識の世界に好奇心をもって飛び込んでゆくことの喜びと勇気をこの古今稀な知識人から与えられた。

血液学が専門の医者ということは早くから知っていたが、原爆投下直後の広島に調査団の一員として滞在したことは今回はじめて講演で知った。

Spanelersc クローデルとラシーヌの研究家で知られ演出家でもある渡邊守章教授がやはり青春時代、加藤周一の文でクローデルにつき触発を受けたとお話をされた。

現東大教授の石田英敬氏は30年以上前、筆者が」若い盛りに、パリで知り合った、Koji とMichelleの家に画家の友達と半ばミシェルが作ってくれるポー・ト・フーなどの家庭料理をたかりに押しかけていってるうちに出会った。

Ssishidamichelec 哲学に詳しいミシェルと石田さんはフーコーについて議論を交わしていたが、専門外の私は入り込めなかった。

東大に新しく出来た学部の学部長になられて、執筆するために買った別荘にも忙しくて行けないとこぼしているよと画家のKoji 氏は語った。

パリの東の郊外、モントルイユにアトリエを構えてシルクスクリーンの制作にいそしむKoji を10月の半ばに訪ねたが、画風が尾形光琳ばりの純日本風な美学に回帰しているのを見て驚いた。

講演会の後半、第二セッションのモデレーターを務められたセシル・阪井さんのお母様にSskojiishida1c 日仏学院でカミユの「異邦人」などを習った遠い昔を思い出す。

その日仏学院で、筆者がまだ学生の頃、加藤周一が中国の文化大革命について講演をしたのを聴いた。加藤周一は中国の若い学生たちが文化大革命で農村へ送られ、数学など理科系の学問で若い頃にやらなければ業績が出ない学問がこの世代だけぷっつりと断絶してしまうことを危惧していると語られたのを覚えている。

加藤周一が88歳という高齢にもかかわらず、「九条の会」を作り、大江健三郎などとともに平和憲法擁護の為に行動したということも今回の講演で知った。

石田教授の発表にもあったように加藤周一は福沢諭吉、丸山真夫などの「啓蒙思想家」の系列に並ぶ知識人だったと思うし、カントが言ったように理性の自立を目指し、どこまでも「普遍的な」立場から世相を批評した。その奥底にあったのは、加藤周一が若い頃、シャルトルのステンドグラスの美しさに感動して書いた「西洋賛美」があったに違いないと私は思う。

死の2週間前、カトリックの洗礼を受けたということだが、NHK 研究主幹の桜井均氏によると加藤周一はこのことに触れると「この世の事はニュートンの物理学があれば全ては説明できる。でも判らない世界には別の杖が必要だろう」と語ったという。

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2009年11月17日 (火)

菊についての展示会と講演

投稿者:「りゅーらる」そうりん亭ジャーナル:http://www.sorintei.com

かつての職場の同僚で日本の植物の紹介をしているソフィー・ベールさんが「菊」についてKashikata_3 講演をするという記事をブログで見つけたので聴きに行った。

11月8日(日)の午後。会場はセーヌ・マルヌ県とヨンヌ県の県境、かつてローマとブリテン島を結ぶ街道の聖地プロヴァンに近いサヴァン(Savins)という小村。

 

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展示会と講演が開かれたのは市役所に隣接する公民館。


Sentreec

会場の入り口は、フランスの「菊園」経営者寄贈の菊馬車が飾られている。

展示会は中国原産の菊が日本に入り観賞用の花として品種改良が重ねられ、皇室の御紋章のみならず文学、衣類、食器など庶民の文化に深く根を下ろし親しまれてきた様子をパネルで説明し、さらにフランスにどのように導入されたかを追っていた。

Soriginechinec 中国では菊はダンドランテマ(Dendranthema) というカモミーユ( Camomille jaune)の一種の薬草として珍重され観賞用の花ではなかった。

今日でも菊の葉は煎じてハーブ茶として飲用されているし、天ぷらにも用いられる。花によっては刺身に添えられてもいる。

 

フランスでは11月1日の万聖節 ( Toussant )、日本のお彼岸に当たる日 のお墓参りに墓前に供える習わしがあり、大抵のフランス人は「菊」というとまずお墓を連想する。

ソフィーとそのお友達はそうしたフランスの因習を打ち破りたく、菊は観賞用の花としてもっとフランス人に親しまれて欲しいという願いを籠めてこの展示会と講演を企画したようSkimonoc_2 だった。入口を入ると正面に菊の模様の赤い豪華な着物が展示してあり眼を惹いた。

展示場の方々に配置された菊の花も日本人とはまた違ったセンスを感じさせる。
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フランスでは19世紀の中頃、日本の浮世絵が火付け役となって「ジャポニスム」が流行した。

印象派の画家の巨匠、モネが1850年に最初の浮世絵を見つけ購入したと展示写真にあった。Smonetc

後期印象派とされるゴッホも広重や北斎の浮世絵の構図から学んだ。

「ジャポニスム」の創始者はフィリップ・バーテ

Sburtyc

 

フランスでもやがて陶器の模様に菊が使われるところまでになった。だがまだ少数派。

ロワール河沿いのオルレアンの上流にある陶器の町ジアンは今日ようやく世界的にも有名になったが、ジャポニズムやアールヌーボーとも関係がある。当時の菊模様のお皿。Sgienc_2

 

Photo_3 アール・ヌーボーの指導者ガレの著作本。

 



マルセル・プルーストも印象派とジャポニスムの流行と無縁ではなかった。Sproust2c_3

展示をゆっくり見終わる頃、ソフィーさんの講演が始まった。

会場には約100人ほどの聴衆が。やはりお年寄りが多い。

 

ソフィーさんは10月の末に2週間四国を中心に日本を訪れたばかりとのことだった。

 

3_2

 

日本の菊栽培に関し、その種類、仕立て方について日本人よりも詳しい知識で紹介をするソフィーさん。

 

東京の表参道にある大田美術館で手に入れたという菊を使った浮世絵のページをナイフで切り取ってスキャンしスライドに入れたという。

最後に日本で手に入れた人形やお菓子の型を見せ熱の籠ったプレゼンを終えた。

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2009年9月28日 (月)

博物館の所蔵品は誰のものか?

投稿者:「りゅーらる」そうりん亭ジャーナル:http://www.sorintei.com

2008年6月1日、フランスのファッション界を代表する、イヴ・サンローランが他界した。享年71歳。死因はガンだった。

Stlaurent1 ココ・シャネル、クリスチン・デオールの後を継ぎ、斜陽のフランス・ファッション界を支えた最後の巨匠だった。モードの帝王とさえ呼ばれた。

クリステーズで彼の遺品のオークションが開かれ、総額463億円(3億7349万6500ユーロ)という個人の所蔵品オークションでは史上最高額を記録したというニュースが世界中に流された。

それから数週間後、このオークションにからむ、奇妙なニュースが報道された。
競売に掛けられ39億円で落札された清朝時代のネズミと兎のブロンズ像の代金を、落札者が支払わないと公表したというニュースだった。

落札者は某中国名を名乗る人で「オークションで私は落札したが、この像は本来、中国国民の所有になるもので、盗品を私は取り戻しただけだから、代金を支払う理由は無い。」とコミュニケを発表したという。

これに対し、すかさず、サン・ローランの友人(2人はホモの関係にあったという)で競売実行者のピエール・ベルジェは「中国政府が基本的人権を認め、チベットの民衆の弾圧を即座に停止し、ダライラマ14世を認めるなら、寄贈してもいい。そうでない限り、どこまでも代金請求を続ける。」という声明をだした。

ちょうど、同じころ、ギリシャが英国に対し、大英博物館所蔵のパルテノン神殿のレリーフが施された梁や破風などの石材は、ギリシャに所属するものだからと返還を要求しているというニュースが流れた。

どちらも、その後の推移がどうなったかについては耳にしていないが、西欧の先進国が所蔵する美術品に関し、埋もれていた所有権問題が、やはり噴出し始めたかという感慨を禁じえなかった。

筆者が若い頃、フランスを代表する作家の一人に、アンドレ・マルローがいた。スペイン内戦が勃発するとフランコに抗して闘う人Maruro6 民戦線に加担し、ヘミングウエイなどとともに参戦。辛亥革命の折には中国に渡り「人間の条件」という代表作を書いた、行動派の文学者である。

美術への造詣が深く、その著「空想の美術館」では世界の一級美術品を選んで注釈を寄せている。日本を代表する絵として「頼朝像」を揚げているのが興味深い。

彼は戦後ド・ゴール大統領の側近の形で文化相を務めた。現在のパリが、建物の外観が明るい「華のパリ」として蘇ったのは、マルロー文化大臣が「外壁を10年に一回洗うべし」という法律を作り、都市美の保存を強制したためである。

そのマルローは若い頃、カンボジアに滞在したことがある。「王道」という小説も書いている。カンボジアのアンコールワットはジャングルの中で傷み放題だった遺跡で、近年、日本からもボランテイアと資金がでて、奇跡的な修復保存がなされた。

マルローには、世界が注目する前のカンボジアの美術品をこっそり国外に持ち出そうとし逮捕された経歴がある。

私であってこそ美術品の価値を理解し、人類の遺産を破壊と散逸から保護できる。そういう自己肯定的信念と文化財保護という名目のもとに先進(文明)国の人間が、低開発国もしくは発展途上国の、埋もれたままだったり、風化や盗難や損傷されるままだった美術品を持ち出して自国の美術館や博物館の所蔵となす。実際、彼らのお陰で人類の遺産が救われた、ということは認めねばならない。かれらの本音が所有欲にあったとしてもである。

18・19世紀の植民地帝国主義の延長上に先進国の美術館、博物館が築かれた、ということも事実だからである。

エジプトの遺跡はフランスとイギリスが争い、大英博物館とルーブルが今日も分け持っている。ロンドンやパリを訪れる外国からの観光客は、まず大英博物館とルーブルを訪れる。

幕末から明治維新にかけて日本からも大量の美術品が海外に運び出された。おそらく二束三文で買い取られ、西洋に渡ったのだろう。ボストンには浮世絵の膨大なコレクションがある。

パリのギメ美術館には、カンボジアの仏像と並んで数体の日本の仏像が展示されている。

日本語でボル、ボラれたと言えば、法外な値段で騙し取る、あるいはふんだくられたことを意味する。語源はフランス語の「Voler= 盗む」から来ていると思う。

Prudon所有とは盗み(vol )である。」と宣言したのはフランスの近代アナーキズムの創始者プルードンである。彼は1871年のパリ・コミューンの時にヴァンドーム広場のナポレオンの像を引きずり落とした罪で監獄に入れられたが、写実派の巨匠クールベにより、その肖像画が不朽の名作となって世に残った。

また世界で最初に著作権を主張したのは、やはりフランスのレチフ・ド・ラ・ブRetif1ルトンヌ(1734-1806)という作家で、印刷工として働きながら膨大な数の本を書いた。

筆者が住むヨンヌ県の県庁所在地オークセール市には、このユートピア作家が働いていた印刷所だった家に銘版が貼られ、 その着色像が市の中心部の時計台通Retif2 りにある。

このように「所有権」の明確な主張は西洋人に始まる。

所有とは盗みである。」と宣言したプルードンはナポレオンに始まる自国の帝国主義の性質を見抜き、断罪したと言えるだろう。

著作権にからんで、最近しばしば軽い感嘆とともに著者が経験するのはインターネット上の無料ソフトとの出会いだ。実に便利な、それによって一歩も先へ進めずにいた難問が、一挙に解決できたという有り難いソフトが無料というのに出会う毎に、多少のとまどいと驚きが伴う。

些細なことで儲けるより、他でがっつり儲けてるから心配いらないと言われているようでもあり、最初は無料で使っているうちにもっと便利なものが欲しくなり、将来確実に購入と結びつくから今は遠慮せず無料で使っていていいんだよ、と言われているようにも感じる。

中には技術好きの人が自分で開発したソフトを沢山のひとが使って喜んで貰えればいいからと純粋に無報酬で公開しているものもある。こういうのに出会うと、ふーむ、さすがインターネットと感動してしまう。

インターネットで音楽などが手軽にダウンロードされてしまい、売り上げが激減して被害を受けているのはミュージシャン、作曲家、CDエデイターである。無法ダウンロードを監視して、罰金、ネットの使用禁止など罰則を科す法律がフランスでも国会に提出されたが、現実にどこまで監視し規制ができるか疑問視する声が強い。

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2009年8月23日 (日)

Ratilly の城で水彩画教室

Sratillymatin2 ふつう城砦というものは高みに在って周囲を睥睨するとか側面を河や池に守られているなど、攻めるに難しい位置にあるものだが、ラテイの城は余程そばへ近寄らなければ見過ごしてしまうほどひっそりと森に隠れている

ここには、10世紀頃から砦が在り、1270年にマチュー・ド・ラテイが領主間の戦争で破壊された砦を改築し現在の姿にしたと記録にある。

隠し砦と呼ぶに相応しいこの城は、城というには余りに小さく、かといって貴族の館と呼ぶには余りに質朴だ。

1950年に陶芸家のノルベール・ピエルロがこの城を発見した時は、全くの偶然で、森を散歩中だった。そういうエピソードも隠し砦に相応しくうなづける話ではないか。二階の部屋に、司祭が独り住んでいただけで城は廃墟同然だったという。

16世紀、宗教戦争の時代にはユグノーを匿ったり、17世紀には、ルイ14世から禁止されたカトリックの原理派、ジャンセニスト(パンセで有名なパスカルや劇作家のラシーヌもジャンセニストだった)が住んでいたという歴史を持つ。

ジャンセニストが作った日時計が今も二つ屋根の煙突に残っている。

ノルベール・ピエルロがこの城を発見した時の感動はいかばかりだったろうか。魂を奪われ、雷に打たれたような運命的な出会いを感じたに違いない。その場で購入を決意し、翌1951年1月には購入手続きを終えた。パリで長年夢見てきた、自分のアトリエと窯を持ち、陶芸の創作活動が存分にできる理想的な場所を手に入れたのだった。

ジャンヌとノルベール・ピエルロ夫妻は旺盛な陶芸活動を開始し、財政難と闘いながら夫妻の弛まぬ努力によって城は徐々に修復され、アトリエには若い陶芸家たちが技術を習得に住みこむようになった。「ラテイ」の名は世界に知られ始め、著名なアーテイスト達が訪れ、個展を開くようになった。

1963年、日本の人間国宝第一号、「民芸」運動で有名な陶芸家濱田庄司はバーナード・リーチとともにSchateau1 、この城に滞在し制作をしている。やがて「ラテイ友の会」が結成され、コンサートや美術展など支援活動が活発に行われ、国からの援助も得られるようになった。

現在、ナタリー・ピエルロが陶芸を受け継ぎ、ジャン・ピエルロは音楽を受け持っている。毎年夏になると、音楽と美術のマスターズが開かれる。

特記すべきはピエルロ家の一人一人が進んで雑用を行うことで、そこには「お城の主」といった気配は微塵もない。骨身を惜しまず雑用をこなす姿にはみんな打たれる。

そこには家庭的な雰囲気が自然と醸し出され、そのため若い人から年寄りまで幅広い層の人が遠方から泊りがけで参加する。4階ある城には広い個室が沢山あって、最大30人まで宿泊できる。講習の合間の食事の時間には、次女のクレールさん手作りの料理を囲み、うちとけて、お喋りに興じながら、他ではちょっと味わうことができない楽しいものがある。

今年は8月13日から20日まで水彩画教室があると知り、参加を希望していたが、サンファルジョーから車で15分で行き来できる距離なので、宿泊抜きで参加できるかをジャンに問い合わせていた。

冬の間、大抵は夜家に入って寝る二匹の猫も、夏の間は夕方になると野ネズミや蛙を狩りに出てゆき、夜通し動き回ったうえ、朝帰りして昼間一日中寝ていることが多い。そんな田舎の家に夜独り寝るのが怖いというカミサンの為にも晩は家に帰りたいと言った。

先生は英国の美術大学を出てイタリーで教えているアレッサンドラ・ブリュノさんでトリノに住むイタリア女性。連絡が取れたのは講習会前日の夜だった。

Satelierc グランド・ピアノが置いてある東側のサロンがアトリエに使われた。

生徒は僕を加え全部で6人というこじんまりとした教室となった。一番若いマリー・アントワネットが45歳で、あとは50歳過ぎの熟年ばかりというシニア・マスターズとなった。



毎日、午前中は野外で風景を見ながら習作した。 Slavoir3c









午後はアトリエで作業を続ける。

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夕方それぞれの作品を見せ合って先生が批評し討論する。

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デイデイエはドクターで医学部教授。日本で二回講演をしたという。3人の娘さんは皆日本語を話せるという。現代芸術の造詣が深い。

ジャクリーヌは美術関係で仕事をしていたセミ・プロ。

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アメリカ人と結婚し世界中を旅行して何でも知っているマリー・アントワネットは大のおどけ者。ジョークを連発してみんなを笑わせる。

日本へも二回滞在したことがある。日本の友達の家へ電話をすると年寄りの婦人が出て、「もしもし。わたしはマリー・アントワネットともうしますが・・・」と言うと、婦人は「はいはい。わたしはナポレオンですが・・」と応えたという。皆はネネットと彼女を呼ぶ。

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自然に囲まれたシャトーでの一週間は他ではできない貴重な体験となるだろう。費用は宿泊・食事・授業料ぜんぶ込みで7万5千円弱と極めて良心的。英語、フランス語、イタリア語が理解できる方に是非お薦めしたい夏のスタージュ(講習)です。

 

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2009年6月21日 (日)

Ratilly の城で夏至祭り

投稿者: そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

6月20日、ラテイのお城で夏至祭り (Fête de solstice) が開かれた。
一年で最も日が長い日。秋冬は暗く寒い日が続き家に閉じ込められていた人々は、夏、いっせいに戸外で活動を開始する。

夏至の時期、朝は4時半ごろ夜が明け、夜は11時近くまで空にほんのりと薄明かりが残る。昨日まで25・6℃の気温で、やっと夏が来たと喜んだのも束の間、今日は時雨が走り、日中でも14℃と寒い。

Shoumenn ラテイのお城は、ここサンファルジョーから15km離れた山の中にあり、ブルドン湖の脇を抜けた向こう側の、森と牧場に囲まれた美しい田園の中にある。

この地に城の基礎が築かれたのは11世紀のことで、中世から連綿と守られてきた。小さく素朴だが、味わいのあるお城。石は鉄分を多く含み褐色で、漆喰は、この土地のオーカー色を呈している。

現在の城主はピエルロ(Pierlot)一家で、陶芸家ノルベール・ピエルロとジャンヌが1950年にこの城を購入。ふたりのあいだの娘のナタリー
さんは両親の後を継いで陶芸家。息子のジャンとリュックは音楽家になった。毎年夏になると、美術と音楽のstage 研修会が開かれる。尺八のマスターズも開かれた。
Urajoumenn
分厚い樫の扉の入り口から入るとすぐに中庭に出る。お城には珍しく芝が植わっている。城というよ りマノワール(貴族の館)と呼んだ方がいい。

今年の夏至祭りは、写真家ハンス・シルベスターの写真展と夜10時からのフラメンコが呼び物。午後7時のヴェルニッサージュは敬遠し、遅れて8時に着くと、はや中庭は人々がワイン・グラス片手に歓談の花を咲かせていた。

Uekara パリから180kmとあって車で2時間かからずに来れ、いまだ都市開発とはまったく無縁の田園風景に囲まれた田舎だが、住民は、昔ながらの農家と都会を避けて移り住んだ人と半々ぐらいだろうか?雑木林に囲まれた農家風の家がぽつりぽつり建っている。

それらの家は、ほとんどがパリの住民か、オランダ、ベルギー、英国などの国籍の人が別荘として改造し、夏のヴァカンスや週末を過ごすために使っている。

この日も城の周りの泥道に停められた車の3割はパリナンバーのプレートを付けていた。

つい数ヶ月前から、車のナンバープレートの表示法が変わり、新車は、不思議なことに自由に県の番号を選べるというのだが、法律が発効する前の車は、かつてのとおり、下2けたの番号が所有者の現住所の県を示すのですぐと判るのだ。パリならば75で、ここヨンヌ県は89というぐあいに。

Scourtotal1c3s
田舎のお祭りのつもりで来てみたが、洒脱なパリの人が多いのでびっくり。土曜日ということもあって子供や若者も結構来ていたが、やはりお年寄りが多い。それも、 なんとなくアーチストが多いのは城主とその子供たち(といっても、もう中年の方たちだ)が芸術家だから当然なのだが。

不況の中で、芸術活動は様々な困難を克服しなければ継続できない。
「ラテ
友の会」というNPOを組織して会費で細々と支えられている。遅まきながら筆者も会員に加えていただいた。

今年はこれまでの活動をHamadaまとめた本を出版したが、そこに寄せられた文の書き手を見ると、イヴ・ボンヌフォワ(詩人)、ガエタン・ピコン(文学者)など名だたる人々。

また、これまでに出展したアーチストには、バルチュス、ダ・シルバ、コルビ ジェ、カルダー、クレーなどがいて質の高さが窺われる。

そして日本から濱田庄司が1963年に
バーナード・リーチとともに、この城に滞在し焼物を作っている。

さらに1996年には備前の陶芸家、山本氏がここで制作展示をしている。

ふたりの日本の陶芸家は、いずれもこの土地で採れる粘土を使い、この城に据えられた、大きな電気炉で焼いた。Kama

夏なのに日中で14℃。遠くからもお城の煙突から煙が昇るのを見て、ああ暖炉に火が焚かれてるなと安心した。

建物の内部の壁は厚く、窓は小さい。
部屋と部屋を繋ぐ扉は小さく頭がつかえそう。
夜の10時にフラメンコが始まる予定だったが、急遽変更され、最初にワインと生野菜とポテトのサラダ、山羊のチーズなど田舎料理が出る。

Mados





城主の一家のナタリーさんもリュックもジャンも台所から両手一杯Dannroにサラダとポテトが入った大皿やパンの入った籠を運び給仕に息も継げない忙しさだ。近所の村の若い男女がボランテイアで給仕を手伝っている。

8月の水彩画の研修会に参加したいのだが、先生も生徒も泊りがけ3食付きで来るので、ボクは近所に住み、夜はカミサンが怖がりなので帰ってもいいか?と訊きたかったのだが、大忙しな様子をみると、お邪魔できなかった。いずれ電話かメールで問い合わせよう。

火を求めて暖炉の周りはすぐに人で一杯になった。
子供たちは、新しい友達ができ、
中庭をはしゃぎ回る。写真展の部屋に来た女の子ふたりを写真に撮る。
Kodomo


最後にノルベール・ピエルロ(ナタリーさんの父親で1950年にこの城を購入し、窯を設置した陶芸家)の作品が窓の窪みに展示してあるのを見つけカメラに収めた。




Oeuvre



フラメンコを楽しみにカミサンと出かけた昨夜だったが、なかなか始まらず、ついに寒さに耐えかねて、帰りが混雑しないうちに引き上げた。

 

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2009年2月20日 (金)

エコール・ド・パリ - その4

投稿者: 叢林亭:http://www.sorintei.com

エコール・ド・パリに属するのか定かではないけれども、パリを描いた画家としてユトリロと佐伯祐三の名が自然と浮かんでくる。

ユトリロはアルコール依存症から脱け出させるために母親が絵を描かせたという変わった動機で画家となった。もう半世紀も前、銀座で初めてユトリロの絵を見た時、「じつにいい。なんと心に沁みる色だ。」と思った。「パリがこんなに味わい深く、情緒に満ちた街なら是非行ってみたい。」と誘惑に駆られたものだった。

Utrillo3 それはユトリロのアルコールで濁った眼が捉えたパリの古壁や石畳や教会の屋根や街路樹などの深みのある色と、やはり酒のせいで動かなくなった手が風景の中に描き込んだ、不器用な人物の後姿だったりしたが、どれも、このうえなく哀愁を帯び、郷愁に満ちた風景を作りだして、思春期の鬱病に沈んだ心にじんと沁み入った。

京都や奈良、ローマなど栄枯盛衰を嘗めつくした古い町には、長い歴史のシミが町の壁にも染み込んでいる。華やかな商業主義のパリでなく、人間の悲哀と喜びが古い壁に沁み込み、喜怒哀楽を包み込んでくれる街。

佐伯祐三もそういうパリを描いた。なんでもない道に開いた建物のの扉、広告塔、エSaeki6 スカルゴと呼ばれていた公衆トイレ。パリの街のどこにもある、ありふれた物を対象に、深い色彩と、奔放かつ洗練された筆致で味わい深い絵を沢山描いた。

若い命をひたすら美の女神に捧げ、身も心も燃焼し尽くして死んだ。僅か30歳。パリ滞在期間は二回を合計して二年半だけだった。それだけの間に、あんなにも沢山の傑作を残した。佐伯祐三も、ゴッホ、モジリアニと並んで、自らの美の創造に命を賭け、途中で病に倒れた悲劇の芸術家のひとりである。

Saekiverdin  「僕は純粋か?」と佐伯はよく友達に訊いたそうだ。パリで知り合った畏友「祐造」は、字こそ違うものの、同じ「ゆうぞう」の名を持つこともあり、佐伯祐三を崇敬していた。一日野外で立ちっぱなしで絵を描いて疲れた身体を、屋根裏部屋の板張りの床に敷いた布団に寝転んで休めながら、佐伯祐三の伝記を取りだしては、僕に向かって、よくこの夭折した画家のことを語った。

佐伯が最初のパリ滞在で住んでいたというモンパルナスの裏道にも行ってみた。二年2 間の滞在中に佐伯は「郵便配達夫」や「ロシアの少女」などの人物画も残す。

1 二年滞在した後、佐伯は健康上の理由で家族に説得され、日本へ帰る。落合と目白の間に住みアトリエも造るが、日本の風景は絵にならないと、ふたたび、家族を連れ、パリに戻る。

そして、それからの僅か半年ばかりの間、ほとんど毎日大きなキャンバス一枚を描き上げるといった激しさで、憑かれたように絵を描き続けた。すでに結核を病んでいたので、このような心身の酷使に耐えられる筈がなく、結核菌が脳に昇って精神に変調をきたし、森の入口で首を吊ろうとして倒れているところを友人に発見される。ほどなく、パリの北東の郊外にある、ヴィル・エヴラール精神病院に収容され、そこで息をひきとるのである。

佐伯と家族が最後に暮らしたアトリエがまだ残っているかもしれない。探しに行こう。ある日、祐造が言いだして、秋の日和に二人してクラマールを訪れた。京都や奈良を思わせる古い土塀に脇を挟まれた坂道を下ると、果たして、祐造の記憶する番地には草茫々の荒れ果てた廃墟が残っていた。

僅かに開いた門を押しあけ雑草が生い茂った庭に入ってみると、敷地の奥に写真で見たとおりの平屋の小さな家が廃屋になって立っているではないか。扉も窓も朽ちて崩れ落ち、床にはガラスの破片や塵芥が積もっているが、まぎれもなく、佐伯祐三がアトリエ兼住まいとして使った家だ。

1975年のことだから、それより47年前に佐伯はここに住み、アトリエに座り人形やSaekicaferesto 野外で描き切れなかった絵の仕上げをしたのだ。むろん家具調度など跡形もないが、建物は、ほとんどそのままの姿で残っていた。床に立ち、庭の木の間に射す陽の光が下草を照らし出す様を眺めながら、半世紀前の画家の息遣いが、そこここの壁の内から聞こえてくるような気配を感じていた。夭折した画家が、まぎれもなく、ここに暮らした。その過ぎ去った時間と画家の不幸な最後に想いを馳せ、言葉も無く僕らは呆然としていた。

家の軒には木を彫りぬいた軒飾りが並んでいた。僕はとっさの判断で、やがてこの家は壊されるだろう。家主にとって、日本人の夭折した画家が住んでいたことなど、感慨を誘うほどの重要さを持つまい。ましてや、腐りかけた軒飾りなど。記念に一枚貰っておいたところで責められはすまい。佐伯祐三という画家を愛する人たちが持っていてこそ、この板切れが意味を生じるのだ。そう考えて、一枚を剥がし持って帰った。

数年後、独りでこの場所を訪ねたが、廃墟は跡形もなく姿を消し、敷地一杯にコンクリート製のマンションが建っていた。

畏友祐造は日本に帰り、幾つか転勤を重ねて苦労していたが、今は札幌の某私大の美術部の学部長になり、忙し過ぎて自分の絵を描く時間が無いとこぼしている。二年前、この北ブルゴーニュに夫人と遊びに来たので、引越し荷物の間から見つけ出した佐伯の最後のアトリエの軒飾りをお土産に渡した。日本に在ってこそ意味があるのだし、佐伯祐三という画家をこよなく愛す者が持っていてこそ意味があるのだから。

日本人にはファンの多い佐伯祐三がフランス人にはほとんど知られていないのは何Saekipub故かと考える。いろいろ理由はあるだろうが、ひとつは佐伯のスタイルが伝統的な洋画とは相当離れているからだろうと思う。

Fujita はギリシャ以来の裸体画を描いた。ちょうど佐伯がエヴラール精神病院で死んだ頃、藤田は得意の白い肌をした裸婦像を沢山描いていた。ふたりの画家の間に交流はなかったらしい。

佐伯はパリに着いたばかりの頃、里見勝三に連れられてヴラマンクに会 ったが、野獣派の巨匠から「アカデミック !」と一喝されショックを受けた。以来、佐伯のスタイルは変わってゆくのだが、晩年の絵は、早描きのせいもあるが、奔放な筆遣いがそのまま残る、色とテクスチャーが美しい、カリグラフィーのようになってゆく。

Saeki8

ボリュームや立体感を追及する西洋絵画の伝統から外れている。だが二次元の平面に三次元の立体感を感じさせる技法を追及してきた西洋絵画は現代になって方向を転じる。従来の手法を想像世界に押し詰めたのが、ダリのような超現実主義。フランスの国境に近いスペインの港町カダケスに隠遁したダリは愛妻の絵とキリストの超リアルな三次元の世界を幻想させる絵を描いた。僕は藤田の晩年の宗教画は、ダリと共通したところがあると思っている。ヴィリエ・ル・バクルに終の棲家を見つけた藤田も君代夫人との静かな晩年を半ば幻想の世界に過ごした。

麦畑にカラスの群れが舞う、ゴッホの最後の絵は小林秀雄の文とともに有名だが、ピストル自殺を計った画家は死の直前、やはり「彼岸」を見てしまったのだろうか?

佐伯祐三の晩年の絵は、ポラックなど戦後のアメリカの現代画家に通じるところがあるし、現代絵画は、フォーヴ以後、マチス、クレー、ミロ、カンジンスキーなど三次元に見せかける努力を放棄して、いちようにグラフィックな色彩と形の追及に進む。

ゴッホが「彼岸」を見たとしたら、佐伯の末期の眼は禅画のような肉を削がれた精神という本質だけの人間の姿を捉えているように感じる。

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2009年2月17日 (火)

エコール・ド・パリ - その3

投稿者: 叢林亭 : http://www.sorintei.com

思春期に見た映画が、その後の人生を決めるということがある。

僕にとってそれは、「モンパルナスの灯」だった。

モジリアニの晩年を描いた、ジャック・ベッケル監督の映画で、悲劇の画家を、ジェラール・フィリップが演じた。僕が見たのは高一の時だから1960年のことだ。ジェラール・フィリップが映画よりも、むしろ舞台俳優として、当時のフランス演劇界を代表する不世出の名優だったということは後で知った。コメディー・フランセーズでコルネイユの「ル・シッド」を演じた時のLPレコードを買って大事にしていた。3

Jphilippe2 映画の原題は「Montparnasse 19」で1958年の製作だ。白黒のこの作品をヴィデオやDVDで探したが、フランスでは絶版で入手が難しい。昨年、日本でDVD が出た。

さっそく買おうとしたが、まてよ、いま見直したら失望するに違いない。そう思い直して見送っている。 DVDで見直さなくても、主要な画面は今でもありありと思いだすことができる。白黒の靄がかかったような画面が却って記憶の中から湧き出たようで郷愁をそそるのだ。

Hastings2 愛人の英国人ジャーナリスト、リリー・パルマーが演じるベアトリス・ハスチングスのところにしけ込み、「濡れ事」(この言葉がナニを意味するということもこの映画で知り、初心な僕の心臓は高鳴った)の後、酔っぱらいの画家がクダを巻くシーンがある。ジェラール・フィリップの鼻にかかったダミ声が、いまでもはっきりと甦る。

今は再開発されてビルが建て混んだモンパルナス駅の南側や東側は、かつては庶民的な丈の低い建物が並んでいた界隈で、二十世紀の初頭、モンマルトルから移り住んできたピカソはじめ、世界各地から集まった芸術家たちがアトリエを構えた。

Falguiere3 Fujita も、シテ・ファルギエール( Cite Falguiere ) というアトリエ兼安下宿に、モジリアニ、スーチン、それに献身的な画商のズボロスキーと隣り合わせて住んでいた。ベッケルの映画には藤田は名前すら出てこない。近藤史人氏の本「藤田嗣治」で、1918年にみんなで南仏に旅行したと初めて知ったのだった。

若い画学生に交じってモジリアニはデッサン教室に通う。国立のボザール(芸大)でAnoul_aimee2はなくモンパルナス界隈に今もあるカンパーニュ・プルミエールだとか、グランド・ショーミエールだとかの私立の絵画学校だろう。売れはしないながら、いっちようまえの画家であるモジリアニには先生も一目置いている。習うというより、モデル を雇う金が無いから教室にデッサンしに来るのだ。そこで出会ったのが清純なジャンヌ・エビュテルヌ。アヌーク・エーメが演じている。

ふたりに恋が芽生え、まだ二十歳そこそこのジャンヌは両親と住んでいて、その建物の入口で最初の抱擁を交わすが、官吏の父親は、貧乏絵描きとの結婚を許さない。

Roronde1 絵に激しい情熱を燃やしながらアルコールにも溺れるモジリアニは既に健康を著しく害している。結核だった。ドイツとの間に戦端が開かれ、絵描きの他にも、ヘミングウェイなどの作家、レーニンなどの革命家もカフェ・ドーム、ロトンド、セレクトなどのカフェに夜ごとたむろし、芸術や文学の革命論議に熱を上げていた時代だった。アンドレ・ブルトンの「シュールレアリズム宣言」も出た。

画家の健康を気遣うズボロスキーの世話で南仏(映画ではカンヌ) に旅行する。両親の制止を振り切って、家出同然に恋人を追いかけてきたジャンヌ。束の間の幸福をふたりは味わう。やがて、パリへ戻り、ふたたび創作と貧乏との闘いが始まる。

やはり、ズボロスキーの努力が実り、モジリアニの初めての個展がパリの画廊で開催された。歩道に開かれた大きなウィンドウを飾る裸体画を覗き見て、「うっ」と声を挙げ、スキャンダルーと喚きだすパリのブルジョワ婦人たち。やがて警官が来て、即日展示会を閉めるよう言い渡す。

Jeanne_hebuterne4 貧乏と孤独に耐えながら、恋人のジャンヌをモデルに絵を描き続けるモジリアニ。

アメリカの富豪がモジリアニの絵を買い上げるというニュースを持ってズボロスキーが飛び込んでくる。二人して絵を何枚か抱え、富豪が泊まっている豪華ホテルの部屋を訪ねる。

広いスゥィートに大きなトランクを幾つも並べ、帰り支度に大わらわの太ったアメリカ人が出てくる。芸術を理解してなさそうに見える実業家と言葉を交わすうち、画家は、こいつはコマーシャルの図案に自分の絵を使いたいのだと悟る。ズボロスキーが止めるのも聞かず、モジリアニは捨て台詞を残し、部屋を飛び出してしまう。通りがかったテーブルの皿の中の角砂糖かボンボンを腹の足しになると言いながら掴み取りポケットに入れる仕草が、腹は減ってもプライドは捨てぬ貧乏画家の根性を表わしていて良かった。

ジャンヌは妊娠する。お腹の子供に栄養を与えたいにも、晩飯を誂えるお金が無い。画家はデッサンを掻き集めて近所のカフェーに売りに行く。「デッサンいかがですか・・・デッサン。」

Cafe_dome4nuit 夜も客で混み合うドームあたりのカフェの椅子の間を縫いながら、デッサンを売り歩く画家の額は汗で濡れ、声は熱で擦れている。一枚も売れず仕方なく霧にかすみ、濡れた敷石道を疲労困憊しふらふらした足取りで家へ向かう。その画家のうしろを密かにつける男がいる。Lino_ventura4_2 

男は手にしたステッキで自分の肩をトントンと叩き、何事か待ちあぐねている様子である。が狙いは外さないと自分にその仕草で言いきかせているようでもある。目つきは獲物に狙いを定めたジャッカルのように鋭い。クールな利に敏い画商モレルを演じたのは、ギャング映画でお馴染みのリノ・ヴァンチュラだった。やがて、画商が狙ったとおり、熱でフラフラのモジリアニは路上に倒れる。

画商はすかさず画家のアトリエに駆けつけ、ドアを叩く。「絵を買いたい。売ってくれ。」最愛の伴侶が行き倒れになったのも知らず、ジャンヌは画商の求めるままに次々と絵を出して見せる。「これも買いたい。これも欲しい。これも・・・これも。」

アトリエに在った絵をほとんど残さず買った画商にジャンヌは感激して言う。「あの人が知ったら、どんなに喜ぶでしょう。ほんとに長い間・・・ながい、長いあいだ、認められなかったのですから・・・。」

翌朝、愛人が警察病院で行路病者として死んだことを知ったジャンヌは両親の家の6階の窓から身を投げ自殺する。

映画と実際とが錯綜したが、Jeanne_hebuterne1最後に、本物のジャンヌ・ユビュテルヌとモジリアニの写真が見つかったので載せておこう。Jphilippe1 どちらも俳優に勝るとも劣らない美人と美男である。

モジリアニの葬儀はモンパルナス墓地で行われた。「プリンスの様に埋葬してほしい」というイタリアの家族の意思で立派なものだったという。葬列に加わった藤田嗣治は、画家の死を見届けるやアトリエに殺到した画商たちが、ひとりとして葬儀に出席していないことに憤慨したという。

ふたりはモンパルナスの墓地に仲良く並んで眠っている。

映画「モンパルナスの灯」は最初、マックス・オフェルス監督のメガフォンで撮影が開始された。しかし、オフェルスの急死により、「現金に手をだすな」の監督、ジャック・ベッケルに引き継がれた。ベッケルは脚本の大幅な変更を迫り、怒った脚本家が自ら名前を削ってしまった。

元の脚本がどんな筋書きだったか、今は知る由もないが、僕はベッケルの作った映画に文字通り身も心も揺さぶられた。15歳の思春期、自我に目覚めたばかりである。人生が始まったばっかりで、世の中がどんな仕組みになっているかなど皆目わかっていない、純情ひとすじの少年が、こういう映画を見るとひとたまりもない。

少年は、そして日本人は悲劇が大好きであり、悲劇に弱いのだ。ころりと、いってしまうのである。生前はまったく世に容れられず、死んだ途端、名声と値段がはねあがる。ゴッホが最も極端な例だが、モジリアニの作品を見る時も、画家の悲劇的な生涯に想いを馳せ、絵の中に感情を投入してしまう。この画家がポピュラーな人気を保つ理由のひとつはそこにあろう。Film_modig2

数年前、同じモジリアニの晩年をテーマに、新作映画が出た。DVD を買って観たが感動はひとつも沸かなかった。霧がかかった半世紀前の白黒の作品の方が貧しい芸術家が美の創造に情熱を傾け、命を懸けた純粋さが感じられて遥かに優れていると思った。

十五歳の感受性ばかりで生きていたような少年は、ベッケルの「モンパルナスの灯」を見て、「いつか必ずパリへ行こう」と密かに心に決めたのだった。そして新宿の街を興奮冷めやらぬ脚を運びながら、「フランスへ行って街頭画家になろう。モジリアニのように行き倒れになってもいい。しかし、(モレルのような)画商だけには絶対になるまい」と心に誓ったのだった。

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エコール・ド・パリ - その2

投稿者: 叢林亭 :http://www.sorintei.com

モジリアニは好んで人物を描いた。すべて身の回りの普通の人。

Beatrice_hastings3 友人、隣人、愛人(左ベアトリス・ハスチングス)・・・。

いや、普通より貧しい人を沢山描いた。掃除の少女。Modigliani5jpg ジプシーの少女。画家のスーチン。生活を助けてくれ自らも窮死した画商のズボロフスキー。これらの絵を見ていると、画家が絵筆を進めながらモデルと交わした話し声が聞こえてくるようである。

それらの人間はすべて、一個の控えめな、富と名声とは無縁な、一見寂しそうにさえ見える、が、それぞれが深い情感を湛えた表情をもって描かれている。例外的にポンパドール夫人とか有名人の肖像もあるが、ほとんどは肖像を残したいなどとは思いもよらなかったに違いない無名の人々である。画家の方がある情感を掻き立てられ、それをモチーフとして人物を描いたという感じがする。

モジリアニの絵ほど見る者が感情移入をそそられる絵は他に無い。人物画というわれわれが親しみやすいモチーフということもあるが、絵の中の人物は眼を青く塗りつぶされ、こちらを見てはいず、見るひとであるこちらが絵の中に入り込んで行く誘惑にそそられる。

独特な形と色が一層見る者に、深い情感を掻き立てる。茶色がかったオレンジや深い緑や青の混色や黒が多いが、ゴッホやセザンヌの描いた人物像と違って、どれもわれわれの心の奥深くにある情に直接訴えかけ瞬時に沁み入る。

黄色い肌の藤田が「偉大な乳白色」を駆使して透き通るような白い肌の裸婦を描いたModigliani6jpg のと対照的にモジリアニの描いた裸婦はみんな茶色がかったオレンジ色の肌をしている。ズボロフスキーの骨折りでやっと実現した初の個展も、裸婦が猥褻であるとして当局から即日閉会させられた。初期立体派の影響を受けたモジリアニの裸婦像は、しかし猥褻というような生臭さとはほど遠い、健康な人体の温かみを感じさせながらも形象化が行き届いた裸体画である。

前回、1918年4月からズボロフスキーの世話でモジリアニが藤田やスーチンとともに南仏のカーニュヘ旅行したと書いた。近藤史人氏の「藤田嗣治ー異邦人の生涯」によれば、この時、画家たちは晩年のルノワールのアトリエを訪れる機会を得た。

大成した老画家はモデルと画家を乗せた床全体が太陽の動きに合わせて回転するような豪華なアトリエでリュウマチで動かなくなった手に絵筆を括りつけて仕事をしていたが、モジリアニに向って「君は絵を描いている時は幸福かね ?」となんども訊いたという。しまいにモジリアニは腹を立て、「キレイなケツはきらいだ」と言い捨てると、ドアを激しく閉めて出て行ったという。

「人間臭さ」、「人間の真実」を描こうとしたモジリアニにとって、「絵に描いたような」ブルジョワ家庭の、幸福ではちきれんばかりの少女達を描いて社会的に成功したルノワールの言う安っぽい「幸福」などという言葉が受け入れられる筈がなかった。

人間の悲惨、栄光、歓喜、哀愁、孤独、愛、嫉妬、憎しみ、死・・・西洋の絵には、こうした人間のさまざまな魂の状態が描かれていて、やはり「人間臭い」と感じる。

人間は自然の一部という認識が東洋人には知らずしらずのうちにあって、人物をこのような魂の状態とともに表現することは得意ではない。人物や裸婦を描いて独自の世界を作り上げることができた日本の洋画家は、藤田を除いて、僕が知る限りでは宮本三郎くらいしかいない。

ピカソの初期の絵には、上にあげた人間の様々な魂の状態が素朴に捉えられ表現されている。モンパルナスでは、モジリアニはピカソと出会うたびに強烈なライバル意識を燃やしたらしい。

モジリアニの人間臭さを考えるにつけ、最近は、やはりこの画家がイタリアの出身であること。さらにユダヤ家系で遠い祖先には、「エチカ」で有名な哲学者・スピノザがいるということと関係があるのかと思う。倫理学は哲学の中で最も人間臭い学問ではないか。

東洋には無い、あくなき人間の追及という流れが、ユダヤ・キリスト文明の根底にあるのだろう。人間の追及は「神」の追及に通じる。なぜなら、神さまは土塊で人を形どり、鼻の穴に命の息を吹き込み、「其像(そのかたち)の如くに人を創造(つくり)たまへり。」と創世記にはあるからである。

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2009年2月16日 (月)

エコール・ド・パリ - その1

投稿者 : 叢林亭 :http://www.sorintei.com

Boiteverti 上野の「藤田嗣治展」でかわいい小箱を売っていたので道具箱にする積りで買って帰った。藤田が即興的に蓋に女の子の絵を描いた青い箱である。晩年の画家はこれに糸や針を入れ針箱として愛用したという。

「偉大なる乳白色」を発明し、それを用いた「裸婦像」によって一躍パリ画壇の寵児となった藤田は、仕事師であり、絶えず手を動かして物を作っていなければ気のすまない homo faber だった。

認められるまでの八年間、明日のパンを買う金もない赤貧洗うがごとくの貧乏生活をしていた時代もあった。トレードマークのおかっぱ頭は床屋代を節約するため邪Fujita4 魔な前髪を自分で切って生まれたものだし、洋服を仕立てればプロはだしだったという。

ミシンを前にご満悦の写真もある。晩年に見つけ終の棲家としたヴイリエ・ル・バクルの家は内装といい調度品といい、すべて画家自身のデザインと手製だった。パリに残したアトリエのミニチュアも作ったし、三階のアトリエではライフワークとなったランスの教会堂を飾るフレスコ画の習作を続けた。

昨年暮れの東京滞在中、誘惑を感じた美術展を沢山やっていた。箱根で「佐伯祐三展」。上野では「フェルメール展」と「藤田嗣治展」。渋谷で「アンドリュー・ワイエス展」。千葉で「雪舟展」をやっていた。結局、藤田とワイエスしか見られなかった。

上野公園に着くと「フェルメール展」の方に人気があり行列ができていた。暫く迷った末、「藤田嗣治展」へ入った。フェルメールより藤田に僕の人生との深い関わりを感じたからである。パリで成功を収めた唯一の日本人画家。フランスに帰化し、カトリックの洗礼を受け、フランスに骨を埋めた人。名前ばかりが有名で実は余り知らなかったこの画家の作品と生涯、特に晩年の姿を、この展覧会は見せてくれた。

行方不明とされていた四枚の大作が修復され世界で初めて公開された。それを見たことも良かったが、個人的に僕は以下のことをこの展示で知ることができた。

① 藤田は天性のデッサンの才能の持主だったこと。有名な「輪郭線」について藤田はこう語っている。「絵を描く前に、物体と自分と一体になって ----直観で描いてゆく。つまり、訂正したり、思考したりした線でなく、直観から生まれた線の方が的確にして無限に深い。そして観者の心に訴えるところが多いと思う。」

Van_dongen2 カジノ・ド・パリでヴァン・ドンゲンと準備も無く舞台に立ち、観客の前で、ドンゲンが裸婦を藤田が猫を描いて見せ、15分で同時に終わり喝采を浴びた話もある。

藤田の少女像にしろ、裸婦にしろ、「うむ、たしかに、こういう表情をしたフランス女性がいる。」と感じ入らせるだけの的確さをもった線で表現されている。線ひとつで人物や猫を表現することがどれだけ難しいか、少しでも絵を描いたことのある人なら知っていFujita3 る。ほんの0.5mm の線でも、引き方ひとつで、表情ががらっと変わってしまう。

レンブラントのエッチングを僕は若いころ日本で見て、やはり天才だと思った。一筆書きのような線で人物やライオンを、しかも版画だから左右反対に描いたのである。

レンブラントの人物は描線ひとつとっても、あくまで人間的という感じがする。ユーモラスであり温かみがあり、しかも堂々としている。一方、藤田のデッサンは勝るとも劣らないが、やはり、どこか東洋的である。阿修羅像や如意輪観音といった日本の仏像を思わせる線が出ている。

上の①に書いたようなデッサン論を実行できた画家はフランスではドガくらいではないか。マネは古典的だし、モネはもっと不器用だ。藤田が尊敬したダ・ヴィンチも一筆書きはあまりしていない。対象をやはりマッスとして捉えようとするから何本も線を引く。

ランスにシャペルを作ると決まった時、藤田は建築家の仕事もした。全体のコンセプトに始まり、細部の詳細設計まで画家自身がやったとは知らなかった。「偉大」のひとことに尽きると思った。若いころのヒョウキンさばかりが人々の記憶に刻まれているこの画家の誠実、絵に生涯を掛けた生きざまを知り、脱帽。尊敬する。

そして、最後まで日本人であろうとし続けたことも。戦争画を描いて戦後、責任をとらされそうになったが、外国で暮らした人間なら誰でも持つ、普通の愛国心の発露だったと僕は、藤田の感情をとても良く理解できる。自分が出来る絵をもって祖国の危機に供した。

藤田が祖国の人々から誤解され裏切られたと感じたことが祖国を捨てフランスに骨を埋める原因になったに違いないが、この問題は、今後も僕の中で自問が繰り返されるだろう。ただひとつ言えることは、幾多の戦争協力画家よりも、遥かに優れて阿鼻叫喚の地獄絵を表現する力をこの画家は持っていた。闘争や死を見つめたことは晩年の宗教画に深みを与えている。

Modigliani2_2 もひとつ、こんど新たに知ったことは、藤田がモジリアニと親しく付き合っていたということだった。パリに着いたばかりの頃の藤田の習作にはモジリアニの影響が見える。

第一次大戦が始まり、ドイツ軍の大砲の音がパリまで聞こえ始め、島崎藤村はリモージュに疎開する。藤田は、1918年4月から、ズボロフスキーZborowski1_2 (右下の絵)の手配で、南仏のカーニュに旅行している。

Jeanne_hebuterne2_2 このときの同行者は、モジリアニと彼の新しい恋人、ジャンヌ・エビュテルヌ(左の絵)、

                  

   スーチン(右下の絵)、Soutine4_2

ズボロフスキー、それに藤田夫人だった。

Kisking モンパルナスでの貧乏生活の時代、余裕のある友達が供する食事の席で、モジリアニはキスリング(左の絵)と決まって喧嘩をし、仲裁に入るのは、いつも藤田であったという。

上の四枚の肖像画はいずれもモジリアニの作。

モジリアニについては、思い入れがあるので次回に書く。

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2009年1月15日 (木)

益子訪問

こんどの帰郷の目的のひとつに陶芸の町、益子の訪問があった。Saint-Fargeau から3キロほどのところにある小さな古城 Ratilly を陶芸家の濱田庄司が訪れたことがあると知ったからである。濱田庄司はバーナード・リーチ、柳宗悦などと民芸運動を起こしたことで有名で、日本の人間国宝第一号でもある。

東大駒場の近くにも民芸館があるが、益子には庄司のアトリエと登り窯、それに地方の民家を移転させた住居が保存されている。博物館といわずに参考館と呼ぶのは庄司の遺志を継いでのことらしい。

Sl

妹ふたりが数年前流行りに乗って数度訪れ詳しいというので連れて行ってもらった。

氷雨の降る寒い日で訪問者もまばらだった。 SL が走っているには驚いた。

展示してある庄司の作品もさることながら建物の床、柱、框などに使ってある木材の、厚みといい艶といい杢目のなんと重厚で美しいことか。

Photo_2

木以外にない、木独特の肌合いと温かさ、落ち着いた質量感。石油製品、プラスチックなどの新建材では持ちようがない味わいだ。

Photo

この茅葺屋根の荘重かつ親しみある味わい。おそらく江戸時代の庄屋の家などを移築したのだろうが、白川郷の合掌造りと並んで日本の民家の代表として大事に保存して欲しいと思う。

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益子の陶芸市の盛況ぶりをインターネットの映像で見たことがある。粘土を捏ねて誰もが割と手軽に作品を作れるところに人気の秘密があるのだろう。しかし、いったん値をつけて売るとなると市場の論理と景気に左右されてしまうのでいつまでも盛況であり続けるわけにはゆかないらしい。

陶芸もそうだが、華道、茶道、書道、日本画、尺八、長唄、三味線など日本には昔から家元があり師匠がおり、お弟子さんが「おっしょさん」について修行するという伝統がある。司馬遼太郎によるとこれらの起源はすべて弘法大師、空海にあるということだが、それはさておいて、師匠の家に女中として住み込みながら芸を盗むといった戦前の芸の伝承の仕方が民主主義の世の中になってから礼金と交換にノウハウを授かるというビジネスに変貌してからも最近は若い人たちに復興の兆しがあり、それどころか欧米をはじめ外国人が日本の伝統芸能に興味を示し、尺八作りでもネプチューンというアメリカ人が日本人に教えている時代である。

Photo_2

工場で作られた規格品にあきたらず自分独自の物を求め、また規格化されえない世界を探している傾向の現れとみている。

一方で一段進んだロボットが日本では作られ始めた。階段の上り下りの補助をしたり人間と会話ができ、言いつけた作業をこなしてくれるロボットが実用化されている。

工場では作業の規格化ということがやかましくいわれるが、これは機械でもできるやり方、ロボットが作業可能なやり方を追求していることに他ならない。

何十万、何百万回と繰り返し作業を飽きずにロボットは続けることができる。定形化された繰り返し作業ほどロボットに向いている。摩耗や汚染による通電不良などを除いてロボットは決められた作業を正確に繰り返す。重量物の運搬や危険を伴う作業をどんどんロボットに替ってもらえば良い。現にボデーの溶接ラインは今ではほとんど自動化されている。

流れ作業の非人間的側面を戯画化したチャップリンのモダンタイムス以来、自動車工場の組立ラインが繰り返し作業による非人間的労働の代表のように見られているが、1時間ごとに持ち場を変わったり、重量物をロボットに運ばせたりして、できる限りの人間的な自動化が進んでいる。自動化が進みすぎると機械につきものの故障が起きた時、ライン全体が停まってしまうので、人間の叡智を備えた自動化という意味で「自働化」という字をあてるのがトヨタ流だが、ロボットの性能が進化すれば組立ラインでも今人間がやっている大部分の作業をロボットがとって替わる時代がくるだろう。ただワイヤー・ハーネスだのゴム・パッキンだのの柔らか物は当分ロボトには無理というのが大方の意見である。

人間の眼、手と指と皮膚が持っている触覚。それらに代わるセンサーの開発がロボットとともに進められている。手工芸家たちは、材料を手で触り、その触覚を頼りに目と記憶を働かせながら、押したり引いたり、まわしたり削ったりを、小刀や道具を使い最適な力加減を加え、経験と相談して按配しながら加工してゆく。

プレス・ショップで働いたことがある。最新の巨大なトランスファー・プレスが稼働するショップに型保全という昔ながらの職人さんたちが重要な役割を担って仕事していることに驚いた。

ブランキング・ラインから出たスチールの板がプレスに入り加工されて出てくる。その平面や曲面の凹凸を掌で撫でて不具合の可否を探る。職人さんの慣れた掌の感触は100分の1ミリほどの凹凸を感知するのである。

型の刃の部分の摩耗や破損の修理にベテランの職人さんの腕が不可欠なのだが、一人前の仕事ができるまでに最低5年は掛るという。日本から出張してきた職人さんが若いフランス人の養成をするのだが、大抵は辛抱が無く、少し仕事を覚えるとより良い条件で他所へ行ってしまうことがかなり深刻な問題だった。そこで若い合理的知性の持ち主のフランス人のエンジニアが、こんな職人作業は時代遅れであり必要ない。三次元をミクロン単位で記憶できるコンピュター付の研削機械に使用前の形状を記憶させておき壊れたり摩耗した部分を肉盛りした後、機械で削れば良いではないか。職人の経験など不要だ、と主張した。

しかし、彼の意見は現場をまったく理解していない頭だけの議論で、材料と型との運動・熱力学の理解を欠いた机上の空論であるとして退けられた。型保全の職人さんたちは依然として小型の研磨器(ベビーサンダー)を手に型の上に数時間しゃがみ込んで、経験とカンを頼りに数十トンある型の保全を続けている。

工場の大部分の故障や不具合は要因が複合的で、パラメーターが多すぎ、コンピューターが処理仕切れない。人間の感覚と経験に基づく判断は、コンピューターを超えている。 ロボットが進化して感情を持つまでになったAI というスピルバーグ監督の映画があった。

名人の筆の動きをロボットに覚えさせ、名人の書と同じように書かせることはできるだろう。チェスのチャンピオンとコンピューターが対戦することがある。ストラデイバリウスのバイオリンをロボットが複製する日が来るかもしれない。だが、それを超える名器を作ることはありえない。またそう思いたくないのが人情だろう。ロボットが人間の技量を超えてしまったら、それは人間の芸というものの終焉を意味するし、悲しいことだ。人間はいつまでも機械よりは優れていると思いたい。

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