カテゴリー「旅行・地域」の記事

2009年10月12日 (月)

ジャック・クールの道

投稿者:「りゅーらる」そうりん亭ジャーナル:http:www.sorintei.com

Sgienchateau1 フランス第一の河川ロワールの川沿いにジアンという町がある。英国人が始めたこの町の陶器は最近は有名になり、ニューヨークの5番街にもショーウインドウを出したという。狩猟博物館になっているレンガ造りの長方形の城が高台からロワール河を見下している。

十数年前、この町の外れに日本の資生堂が工場を建てた。化粧品大国フランスへの大胆な進出だ。

このジアンに発して、ベリイ地方、シェール県の首府ブルジュを通り、キュランという町まで、途中16のシャトーを結ぶ道をジャック・クールの道と人々は呼んでいる。

フランスのルネッサンス期15世紀に一介の町人から大富豪、貴族へ、さらに大蔵卿Jq1 でなりながらそのあまりの豊かさの為に周囲から嫉妬を買い裁判で有罪宣告を受け、投獄、脱獄、亡命生活の晩年を送り、最後はエーゲ海のキオス島で寂しく没したジャック・クールにちなんで命名された。

地中海貿易で富を築いたジャック・クールは最盛期20以上のシャトーを所有していた。パリに二つ。サンセール、モンペリエ、リヨン、そして筆者が住むこのサンファルジョーのシャトーもジャック・クールが所有していた。

フランスに在ったジャック・クールの全ての城は断罪とともに没収された。驚くことに、このサンファルジョーのシャトーはジャック・クールに有罪を言い渡した裁判官、アントワンヌ・ド・シャバンヌその人が手に入れたのだった。

今日から数回に分けて、この近世の曙の時代を象徴するかのような大商人ジャック・クールの生涯について記事をお届けしたいと思います。

まず、ベリイ地方について。フランスのほぼ中央部に位置し、現在も農業と牧畜が主要産業の田園地帯。

日本では、ショパンの恋人で有名な19世紀のロマン派の女流作家G_sand ジョルジュ・サンドの故郷であり、彼女の館が今日文学館として開放されている。

美術では、「べりー公のとても豊かな日々」という題の非常に美しいミニチュア画が有名。

ベリイ地方、シェール県の県庁所在地ブルジュは、英仏百年戦争の時代、パリを逃げ出したフランス国王、シャルル7世が亡命政権を維持していた街。

Chrl72 この王様はジャンヌダルクに導かれてランスで戴冠式を挙げるまでは自分がフランスの正統な国王であるとの自覚がなかったダラシない国王だった。

Bourges_maison

ブルジュの町は今もこの時代の漆喰壁に木の柱が露出した古い民家が残ってい る。

Bourge_cat_jardin ブルジュのカテドラル(大聖堂)はユネスコ世界遺産指定の建築。

さて、この町の中心部にジャックークールの館が在る。

左右の翼を配したこの壮大な私邸は後期ゴシック建築の代表例とされ、至る所に施されたレリーフの装飾は商人として富を築いた主人の繊細な趣味を現している。Palais_de_j_coeur

中でも最も興味深いのは、その浴室で、50m2以上はあろう四囲を全て石で覆われた部屋にスチームが通り、温水、冷水の浴場もあり、ローマ風呂を個人の館に取り入れた技術に感心する。

だが、ジャッククールはこの館の完成とほぼ同時に断罪され、ここに住むことなく投獄された。

では、あす以降のこの悲劇の大商人の伝記をお楽しみに。

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2009年6月 9日 (火)

デジブック:ヨンヌ河畔、ヴェズレイの丘、フォントネイの風景です

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

北ブルゴーニュ風景の抜粋です。ノワイエ・シュル・スラン、ヨンヌ河畔、ヴェズレイの丘、フォントネイ修道院など7枚の写真をお届けします。

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デジブック:サンファルジョーの町とシャトーの紹介

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

サンファルジョーの町とシャトー、特に夏のフェステイバルのスナップをご覧ください。

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2009年6月 5日 (金)

アーサー王伝説-その1

アーサー王伝説中央アジア起源説に触れる前に、そもそも既存の伝説がいかなるものか概略を記しておきたい。むろん読者の中には筆者よりずっと詳しい方もおらArthure3 れるだろうが、おさらいの意味で、我慢を頂き、暫くお付き合い願いたい。

古典的な出版物として日本で最も古く出されたものに、ブルフィンチ(Thomas Bulfinch 1796-1867)著「中世騎士物語」野上弥生子訳(岩波文庫1942年)がある。さらに、夏目漱石が短編「薤露(かいろ)行」をテニスン 「シャロットの女」と「ランスロットとエレイン」を基にして書いている。

ワーグナー作曲の「トリスタンとイゾルデ」はフランス語の古典文学作品がもとにあるが、アーサー王伝説の中のエピソードとして取り込まれた悲恋物語。文献を遡ってゆけば、9世紀前半の僧ネンニウスが著した「ブリトン人史」をもって嚆矢とする。最初に「聖杯」が現れるのもこの書。

以来この伝説はヨーロッパ中どこへいっても知らない者はいないというくらい民衆に広まった。様々の異説、ヴァリアントがあり、細部になると多少の違いがあるものの全体の話の筋、テーマは一緒。現代に至るまで、映画、ミュージカル、アニメに格好の材料を与え続けている。

アーサーという賢王による理想の王国の建設。理想の王国が達成し、国土と領民に平和と豊饒が続くかと見えたのも束の間、アーサーの出生そのものが抱える宿命 と、敵の謀略からグイネヴィア王妃を救い出した騎士ランスロットと王妃の間の禁断の恋。

慕いあいながらも不倫だけは避けている二人の関係を、周囲の騎士たちが猜疑のTable_ronde1 目で見始める。理想の王国はアーサーが望んだ円卓の騎士団の、王国への忠誠と騎士相互の団結、上下の位階を取り払った衆議による統治も、いちど蝕まれた猜疑心は悲劇を迎えなければ覚めることはない。王国は、崩壊への道を転落してゆく。国は戦によって荒廃し、不作と疫病の流行で民は塗炭の苦しみを味わう。

そこかLancelot12ら騎士たちの聖杯探求が始まる。荒廃した国土に、ふたたび平和を取り戻すには聖杯を見つけ出す必要がある。しかし、あてどもない探求に大方の騎士たちは途中で疲れ果て命を落とす。最後にもっとも貧しく敬虔な円卓の騎士パーシバルだけが聖杯のイメージを見る。

このように、結婚外の恋こそがほんとうの愛とする騎士道物語に共通の宮廷風恋愛。禁断の恋。不倫への猜疑心。自身の潔白を証すために貴婦人に名誉と命を捧Chevalier2 げる騎士同士の馬上槍試合。そして聖なる理想の永遠の探求といった重要なテーマが全体を貫いている。

フランスのブルターニュ半島を旅行すると、主要な観光地には必ずアーサー王伝説関連のグッズを売る店がある。アーサー王伝説はケルト人の英雄譚をベースに様々の民間伝承が付け加わって作られている。全体を包む雰囲気にブルターニュとブリテン島の深い霧がある。幻想的な霧の中から王や后や騎士たちや魔女や魔法使いが現れてくる。

ブルターニュには先史時代からドルメンやメンヒルといった巨石文化の遺跡が随所にあり、イングランド南部と共通の文化圏だったことを示している。巨大な石の柱が円を描いて立ち並ぶ場所は教会か神殿か、なにかの神聖な祭事が催された場所だったのだろう。ドルイドと呼ばれる聖職者は、医者、薬剤師、預言者であり、超能力の保持者として王のアドバイザーだった。また民族の「語り部」として重要な役割を担っていた。

Merlin1 アーサー王は、こうしたドルイド、Merlin (フランスではメルラン、英語ではマーリン)に育てられた。アーサー王の出自に入る前にブルターニュと聖杯(グラアル)について触れておこう。グラアルという言葉はもともとフランス語、というよりラテン語でcratalis(壺)を意味する言葉が起源だという。ラングドックには今もgragalというテリーヌが残っている。

9世紀後半にネンニウスが書くずっと前からブルターニュには伝説として、汲めども尽きない泉、いくら食べても中身がなくならない鍋とか、無限にイドロメル(ゴロワ人の典型アステリックスが主人公の漫画にも魔法の飲み物として出てくる)を出す甕だとかがあり、グラアルの原型だともいわれている。Graal1

現にブルターニュ半島の付け根、この地方の首府に当たるRenne の近くにはメルランの森と涸れない泉が現在もある。一見なんの変哲もない普通の森なのだが、知り合いのフランス人はここを訪れて道に迷ったと言う。彼の友達のほとんどが泉を見に行った帰り道に迷ったという。

異教の伝説にあった魔法の食器がだんだんキリスト教化されてグラアルに変わっていった。キリストの最後の晩餐で使われた杯だとか、十字架にかけられたキリストの血を受けた器だとか。キリスト教の聖なる器としてイメージづけられてゆく。

十字軍が東方遠征から持ち帰った聖人の遺骨だとか、キリストの血だとか、十字架だとか、イエスを刺した槍だとか、中世に盛んにキリストと関係ある聖なる異物がヨーロッパに運ばれたことと関係があるだろう。

どの国の神話にもあることだけど、英国王アンリ二世がプランタジネット王朝の正当Henri23 性を強調しようという政治的な意図のもとにアーサー王伝説と聖杯伝説をキリスト教的に結び付けて、神秘的な土台を築くことで、大陸でのブリテン島王朝への忠誠心を高めようとしたということもできる。

アンリ二世は僧院と語らってアーサー王の墓まででっちあげた。

ブルトン人の伝説では、アーサー王は542年にカムランの戦いで傷つき、救われてアヴァロン島へ運ばれ、ウエールズのカエレオンで円卓の騎士団を創る。ブルトン人はいつかはアーサー王が帰ってくるはずと待っていたのだが、アンリ二世はこのブルトン人の期待を砕いてしまうことをやる。アーサー王から超自然と不死の伝説を消して、自分の先祖で実在の王だったことを証明するために、グラッドストンベリーの僧と結託し、1193年にアーサー王とグウイネヴィア妃の墓が発見されたなどと、まことしやかなウソを作り上げた。つまり伝説のアヴァロン島は実際はグラッドストンベリーだったとするわけだ。

伝説の面白いところは、まったくのフィクションじゃなくて、現実の裏づけがどっかにあるはずだとみんなが探し回ることだろう。アーサー王の墓が発見された。そらみGraal4 ろ。実在の人物だった。聖杯伝説のグラアルも、それが隠されている城が実際どこかにあるはずだと探し始めた。聖杯をその目で見たとされているパーシバルやガラハットに続くグラアルの探求者がぞくぞくと出てくる。コーンウオール、グラッドストンベリー、ドイツのウイルデンベルグだとか、フランスのカステル・デ・モンテだとか、カトリックの聖地ルルドとか、レンス・ル・シャトーだとか。そして、ピレネーのモンレアル・ド・ソスとモンセギュールが主要な候補地となった。さらに中世のドイツの詩人ウオルフラム・フォン・エッシェンバッハがパーツイヴァルを書いたのがきっかけでグラアルの詩はドイツをはじめヨーロッパ中で流行する。その上に、シトー派の神秘主義がグラアルを聖餐の聖杯と恩寵と光明の探求に結び付けた。(つづく)

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2009年5月21日 (木)

デジブック第2号です

デジブック第2号です。サンファルジョーと周辺の風景写真がご覧になれます。

ゲストハウス叢林亭:http://www.sorintei.com

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2009年5月14日 (木)

ベルベルの民話

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

パリの北端、クリニャンクールの「蚤の市」にアンテイークの店に囲まれて一軒の本屋Clignancourt1 さんがあるのをご存じだろうか?

古本屋さんではないのだが非常にユニークな本屋さんで、世界でも珍しいベルベールに関する本だけを売っている。

ベルベール(Berberes)は北アフリカの先住民で,その人口はモロッコに約400万人、アルジェリアに約200万人、他に砂漠の覆面の騎士トウアレグが約50万人と、少数民族なのだが、先史時代から地中海沿岸と山岳部に住み、紀元7世 紀に左手にコーラン、右手に剣を持って侵入してきた征服民族のアラブ人とは違う言語、文化、宗教を持つ。Berb10lettre

戦後フランス文学をサルトルと並んで代表する作家アルベール・カミユはアルジェリア生まれのジャーナリストだったので、「異邦人」「ペスト」などの作品と並んで、山岳部のカビリ地方に住むベルベールの抑圧された生活についてルポルタージュを幾つか書いている。

7世紀にアラブ人に征服される前は、ローマの文化圏であり、キリスト教に入信するベルベールも居た。ローマ・カトリックの教会神学の基礎を築いた聖アウグスチヌスStaug5bon はベルベールの出身である。しかし、そのアウグスチヌスも若いころは東洋のペルシャや中国に淵源を発すると思われるマニ教の信者だった。

古代ローマと張り合うぐらいの勢力のあったカルタゴは、フェニキアの商業とギリシャ文化を継承し、当時地中海沿岸の商業・政治・文化の中心だった。カルタゴは現在チュニジアに在るが、その隣のヒッポンヌという町はアウグスチヌスの時代、キリスト教の僧院があAnnaba1_2 り、現在はアルジェリアのAnnabaという町になっている。アウグスチヌスはこの土地で歿した。

筆者はもう10年以上も前、このクリニャンクールの書店でベルベールに関する珍しい本を何冊か見つけ、それらを参考に、アイテ・ムホクという人物を創造し長編小説を書いた。いつかは発表したいと思っているが、今読み返してみると不備が目立つので書きなおしたいと思っている。

この本屋さんを偶然発見し、興味に惹かれて入ったのだが、店の若いベルベールBerb4 の主人は僕を日本人と見て、嬉しげに話しかけてきたのだった。

「あんた日本人か?日本はキリスト教やイスラムの一神教とちがって多神教だろ。うちらベルベルも多神教なんだよ。おたがい似たような神話を持ってるてことだね。」

そうして教えてくれたのが、ベルベールの民話。まあ、風土記、古事記に当たるような素朴なお話を集めた本だった。幸いにして、それはベルベルの文字ではなくフランス語で書かれていたので僕にも読めた。

今日はまず手始めにムホクが語る人間の起源についての民話をご紹介します。

交代に出たムホクは自作の曲を数曲歌ったあと、ベルベルの民話を語り始めた。
「ベルベルは、世界は神様が創ったなどとは言わない。世界は自然に出来たんだ。自然の中に神様がたくさんいる。多神教のアニミスムの世界だからね。
最初に人間の親がふたりいた。ふたりはそれぞれが男と女だってことを知らなかった。最初の人間はベルベルの神話では地面の中、地底に住んでたんだ。

ある日、喉が渇いたので泉をみつけたふたりは水を飲もうとした。女が先に飲もうとしたのを男がオレが先に飲むって突きとばした。女が転んで股が露出し服が裂けて胸も露わになった。

男はそれまで見たことがなかった女の裸を見た。はじめて男は女の体が自分と違うことに眼を見張った。胸に、もっこり柔らかそうな、大きな果物みたいな肉がふたつ盛り上がっている。それに、下の股には長いものと袋がぶらさがっていない。その代わり穴があいているのをみつけるんだ。

Berb8 男はこの穴はなんだろうと思って、そこに指を突っ込むと女は気持よがって暴れるのを止めた。すると男の股にぶらさがってるものがふくらんでむっくり立ち上がり固くなった。自然に導かれるままに、固くなったものを穴に挿しこんだ。

(ほーっとムホクは溜め息をついた。観客からも溜息が漏れた。)なんて気持ちいいんだろう。男と女はそうやってまぐわったまま三日三晩寝続けた。男が起き上がったのは、やっと四日目の朝になってからだった。

それから九か月たって女は五人の娘を産んだ。五人だよ。それからまた九か月たって、また五人の娘を産んだ。それからまた九か月たって、また五人の娘を産んだ。そのたびにふたりはいい気持を味わった。そうしてまた九か月経ってこんどは五人の男の子を産んだ。また九か月経ってまた五人の男の子を産んだ。こうして女はちょうど五十人の娘と五十人の男の子を産むんだ。

五十人の娘と五十人の男の子は大きくなって両親のもとを離れ、地底を旅に出かける。ある日、割れ目から光が射し込むのを見つけそこから地上に出るんだ。地上に出た男の子たちは地面に寝るのがいやになり、石を積み上げて家を作った。そして川を見つけて水を飲みそこで泳ぐことを覚える。

ある日、川で男の子たちが泳いでいるのを見て娘たちは体が自分たちと違うのを知Berb6 る。裸を見ると心臓がドキドキし、抱きしめたくなるって知るんだな。近づき過ぎた女の子を男の子が見つけて追い駆け、女の子は悲鳴をあげて逃げる。ほかの男たちも追い駆け、ほかの女の子たちが逃げる女の子の悲鳴を聞いて助けに駆けつける。

こうして五十人の男の子と五十人の女の子がぶつかりあうんだ。一組ずつ互いに相手を見つけて取っ組み合いをするうちに男の子の股のものが膨らんで固くなり、女の子の胸の膨らみも固くなり下の裂け目がうるおって、自然、でっぱりがひっこみに収まった。こうして人間が増えていったというわけだ。

Amazone6belle ベルベルの神話でははじめは女のほうが男より強かった。つまりアマゾンの世界だったんだな。ある日、男たちは集まって相談した。いままで女たちが上になって愛しあったけど、これからはオレたちが上になって男のほうが偉いんだってことを示そう。そして、それからは、現在のベルベルがみんなそうであるように男上位の世界になったっていうことだ。どうかね。みなさんのウチは男上位かね?それとも女上位かね?」

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2009年1月11日 (日)

変貌を遂げた東京

千葉さんはパリへ着いたばかりのころ知り合った日本人のひとりである。オペラ通りの屋根裏の僕の下宿があまりに貧しくひどいのに同情してくれ、エッフェル塔が天窓から見える下宿を世話してくれた。それが縁になって今も親しくしている安田君という画家の友達ができ、彼が縁結びとなって、しばしば寄食させてもらった師井夫妻宅で家内と出会い結婚した。いわば千葉さんは僕の人生の岐路で舵取りをしてくれた人なのである。

千葉さんにはその後も大変お世話になっている。東京へ帰ると超多忙の合間を縫って会ってくれる。今回は「Roppongi Hills」だった。20年以上昔Vancennes の病院で産まれた娘さんが、ここの有名なビルのオフィスで仕事をしているというではないか。まったく予想外のことだったが彼女が招待券をオフィスから取ってきてくれて屋上へ上がることができた。

Tokyotourbay冬の関東地方は晴天が多く気持ちが良い。曇り続きの北ブルゴーニュとは打って変わって眩しく陽光が射し気温が18℃と春の陽気だった。この日も晴天で四方が良く見渡せた。

「摩天楼」とニューヨークに林立する超高層ビルのことを昔呼んだ。フランス語でも天を掻く( Gratte -ciel ) という。それが何十と聳えている。東京タワーが低く見える。

東京は変わってしまった。昨年の秋ル・コルビジェの「伽藍は白かった」を読み始めたのだが、高校の頃、兄がロンシャンの教会堂の話を熱心に語っていたので、ずっと違った思想とスタイルを目指した建築家とばかり思い込んでいた。読み始めて彼がニューヨークの超高層ビルに対し讃辞を呈しているのを見て驚いた。

前川国男氏がコルビジェの弟子で、そのまた弟子に都庁を設計された高名な建築家が居られ、パリにも「私はその名高い建築家と兄弟弟子なのよ」といわれる方が活躍されている。変わり果てた眼下の東京を見渡しながら思ったのはそのことだった。

夜中にはっと眼が醒める。床が揺れている。緊張感で体が硬くなる。若いころは地震恐怖症だった。千葉さんによれば、これらの超高層ビルは新規に建設される場合3分の1は住居に充てなければならない、というから随分沢山の人が高い所に暮らしているわけだ。日本の建築界は地震を克服する技術を開発したのだ。

しかし僕は変貌した東京をもはや自分の故郷とは感じなくなっている。僕の情感の奥深く記憶とともに眠る幼少から親しんだ東京の片隅の光景は跡形もなく消滅してしまったからだ。

2007年の暮れには、生まれてから20歳まで過ごした西大久保の土地と大久保小学校周辺を訪ねた。どこにも昔の面影は残らず全く違う町に変貌してしまっていた。

この日、千葉さん夫妻と別れたあと、新宿中学校と名を変えた、かつての大久保中学を訪ねた。毎朝登校時そこを駆け上った西向天神の階段はそのまま残っていた。校舎は立派になり鉄の柵と門が閉じていて近寄りがたい感じがした。学校の裏側一帯の住宅地が昔と変わらず地味な落ち着きを保っていたのが僅かな慰めだった。

小学校も中学も、いまや木造校舎からピアノの音が漏れ、「仰げば尊し」の合唱が聞こえてくる・・・映画にあったようなイメージとは全くかけ離れた姿になってしまった。

外国に暮らし歳を重ねるにつけ記憶にのこる歌や童謡が自然口をついてくる。僕は、そうした歌を戯れにフルートで吹いてみたのだが、和楽器で吹いてみたくなった。篠笛をこれから作る。ドレミの音階が出せるように指孔を開けるつもり。

横笛もいいが僕の口には縦笛の方が合っていそうな気がする。それでリコーダーを始めた。いずれはこんど新木場で買ってきた楓や桂やサクラの木で作るつもり。

本当はオーボエの音に魅せられている。いつぞや母校のオーケストラがシャンゼリゼ劇場で公演した時。最後にひとりのオーボエ奏者が静寂のなかを「荒城の月」を吹いてくれた。それは本当に涙がでるほど心に沁み入る演奏で、隣の席に居た僕よりフランス生活が長い女性など静かに頬を拭っていたほどだ。

今の東京には住みたいと思わない。僕は64歳になるが、もっと年老いて、もし日本へ帰ることがあり住めるとしたら日当たりの良い房総のどこか田園と海が見える場所がいいなどど夢見ることがある。

60年代から70年代の初め変貌し始めていた東京にすでに暮らしてゆけない不適合な自分を感じて逃げだしてきた。小学校や中学の遠足で行った多摩丘陵など雑木林に囲まれた畑の中に農家がぽつんと一軒だけ建っている、そうした武蔵野の面影を残した風景をいいなとそのころから感じていた。今の東京には稀になってしまったが、フランスにはそうした風景と通じ合うところが今も残っている。シスレーやピサロが描いたパリの郊外は今は変貌してしまったが、フォンテンヌブローとヌムールのあいだには、かつての多摩丘陵に感じたと同じ情感を湧かせてくれる田園風景が残っている。それらの風景がいいのは、都市と農村のはざまで、自然を征服しつくしていず、自然の営みに合わせて暮らす人間というものを感じさせてくれるからではないかと思う。

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2009年1月 8日 (木)

ブログ再開

長い間更新をしなかった。門柱の化粧タイルを注文したが店員が発注を忘れ、入荷までに6週間も待たされ、しかも手が足りないとかで止む無く自分でリヤカーを牽いて工場まで取りに行った。そのことについて書こうと思っていた。その逸話をきっかけにフランス人のサービス意識の低さ、テーラー方式に対する反発と抵抗、さらにフランスでは品質、価格、納期のうち特に納期に関しての意識が遅れ、プロセス毎のチェックをないがしろにしているためにデリバリーにミスが多く、そのため最終消費者たる市民がどれだけ迷惑しているかを書く積もりだった。

内容について突き詰めてゆくうち、だんだん書くのが嫌になった。そういうところに住んでいるのも自分の選択だし、そういう結果を招いたのも結局は自分の責任だからである。お客がどれだけ大切か、納期を守ることがいかに大切か、ましてや買うといって来たお客の注文を忘れちゃったなどとプロ意識の無さも甚だしいと立腹したり、それじゃいかんじゃないかと、ミスを犯して謝りもしないフランス人に、教えを垂れたくなったのだが、その必要もないか。垂れたところですぐには彼らは変わらないだろうし、変わらなくて困るのは結果が返ってくる自分なのだから。いずれは自分で悟るであろう、と達観することに決めた。それというのも、かく言う自分は、納期だコストだと気に掛けず泰然としているこの国の風土に魅力を感じているからこそ、フランスに住んでいるのではないか、と正直に考えたからである。

とりわけ、ここの田舎、ピュイゼには陶芸家や彫刻家、民芸品を作り青空市で売って生計を立ててる人など職人さんが沢山住んでいる。彼らは一様に工場で生産された物、工場の生産方式が嫌いなのだ。つまり規格品が嫌いで規格品を造るための規格化された仕事が嫌いなのである。

自動車の組立ラインでは作業者の足の位置を床にペンキで印して繰り返し作業にバラつきが出ないようにしている、などと聞いただけで彼らは嫌悪感に顔を歪めるだろう。

僕とて彼らの思いが解らないわけではない。それどころか、アーチスト、それが叶わなければせめて職人になりたいと夢見た青春時代。その想いが根底にあったからこそ、こんなフランスの田舎くんだりに住んでいるのではないか。もう生計を立てるために自己を犠牲にすることは止めよう。貧乏さえ覚悟できれば暮してゆけるのだ。僕も自分で物を作ろう。さしあたっては版画を作り、余暇に竹と木で笛を作る。

インターネットのサイトに笛作りを公開している人が日本には何人か居る。その誠実かつ謙虚な笛づくりの情熱には胸を打たれるだけでなく楽しさが伝わってきて自分でもやってみたくなってしまうのだ。リコーダーやバロックフルートなど洋楽器をミニ旋盤で硬い木を削って作っておられる人の博学には実に頭が下がる。篠笛、尺八の作り方を公開されている方々も皆さん洋楽の経験のある方で、笛作りの難しいところ、調律をしながら指孔を少しずつ広げてゆくなど、素人の僕には、そこを教えてもらうことがどんなに有難いかという急所を外さず懇切に解説されている。そういったブログを発見すると、日本って素晴らしいなあ・・・と素直に感じ入ってしまうのだ。文化や教養や余暇が確かに成熟してるなと感じる。

尺八に関してだけでも、今まで製管師の経験と勘だけに頼り、門外不出とされていたの内径の微妙な変化の付け方を、だれにもできるような方法を考案し、公開している方がすくなくとも三人おられる。

僕はそれを読んで、これならおれにもできるとたちまち尺八づくりの情熱をかきたてられてしまった。冬は竹刈りに絶好のシーズンだというし、房総の竹藪へ行って真竹堀りからやりたくなった。年末、いてもたってもいられず、というのはああいう思いを言うのだろう。思い立ったが吉日と東京へ帰った。埼玉県で工場経営をしながら尺八づくりをされ教室も開いてるMTさんのところへお邪魔をし、手作りの中から手頃なものを選んで貰い買って帰った。

1

いきなり尺八は無理なので、まず篠笛から手掛けることに決め、材料の竹と道具を蔵前と浅草橋で買った。

そして運の良いことに、新宿西戸山の「横笛研究会」の昨年最後の月例会に見学者として一日参加させて貰うことができた。この会の人たちは皆自分で篠笛に始まって能管、龍笛を手作りでこしらえて吹き年に何回かは能楽堂などを借りて演奏会を開いている。上の写真は遠方に住む会員が郵送してきた製作過程の能管を見ながらコメントを与える砂川氏とそれを囲むメンバー。左の黄色いシャツを着て腕組みをした方が一番古い会員で27年続けておられるという。この日は最後にこの方の叩く太鼓に合わせ「おひゅあーひゅう・・・おひゃあひい・・・」と能管演奏に必要な暗譜の稽古をした。春の演奏会に向けての準備と見うけた。

尺八と横笛についてはまた別の機会に書く。

フランスへ帰った日のこと。Gien と Parisを結ぶ電車の本数が減らされるという噂は出かける前に聞いていた。Lyon 駅に夕方の5時に着き、両手に28キロと15キロの荷物に加え、入りきらない冬物ジャケットと空港で買った土産物の袋を抱え、身動きとれないまま9時までGien に停まるはずのNevers 行きの電車を待った。少なくとも3本はあった筈がいつまで待っても一本も表示が出ない。

背中に Informations と染め抜いたシャツを着たお兄さんが二人、クリスマス客でごったがえす地下の通路でサービスに勤めていた。Nevers 行きの電車は今晩ありますか? 訊いてみたがだめだった。上の階にInformations があるからそこで訊けという返事。荷物があって身動きできないんだ。ちょっとのあいだ見ててくれる? ダメもとで訊くとニベもない返事。荷物を放っとくと危険物として爆破されてしまうよとぬかしやがる。結局、9時発のMontargis 行きの電車に乗り、終点で運良く来たタクシーを捉まえ50キロ走ってGien駅前に残してきたマイカーまで辿り着いた。

1週間後、電車でパリまで行き初めて解った。電車の発着の駅が Gare de Lyon から Paris Gare de Bercyに変っていたのである。Lyon 駅でいくら待っても電車が無かったわけだ。発着の駅そのものが変わってしまうなど想像を超えていたのだ。

それにしても・・・、とまた、無駄と知りつつ思う。日本だったら、これだけの変化を利用客に周知してもらうため数ヶ月前からポスターなど駅に貼って広報に努める筈だ。変わったのが12月の14日からで、僕が出かけたのが12月5日だったから、たったの9日前。窓口の駅員さんは知っていた筈だが、発着駅が変わるなど匂わせもしなかった。

法律や政令などもそうだが、変わることについて知るべく努力しなければならないのは市民の方であって、なにごとにつけお上がすることを市民が右往左往、八方手を尽くして知っておくよう努めねばならないのである。

日本もかつて国鉄の時代はそうだったのかもしれない。民営化がなって市民へのサービスは良くなったのだろう。それにしても、東京の地下鉄のホームの清潔なことよ。どこもピカピカと光り、塵一つ落ちていないではないか。比べるにRoissy から乗ったRER の車輌の薄汚なさ。落書きだらけで臭いさえするではないか。どうしても嘆かわしい!!! と感じてしまう。こんな時は、独り言で「ラーメン食べるう・・・。」と言うことにしている。 La men table !!!

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2008年6月22日 (日)

音楽の日

投稿者「叢林亭」: http://www.sorintei.com

6月21日は夏至。やっと夏が感じられる一日でした。日陰で30℃、ひなたで35℃でした。

この日は20数回目の音楽の日でもあります。大都市でも田舎の町や村でも、フランスの至る所で、クラシック、ポップス、ジャズ、民謡とあらゆる音楽を室内でも野外でも楽しむ日です。

Fanfare1

サンファルジョーは人口が

3000人に満たない小さな町。

ブラスバンドも中年が少なく

こじんまりしています。


しかし、この町にも市役所に音楽教室があって誰でも無料で楽器やダンスを学べます。


Fetemusique1

今年はヨンヌ県後援の自転車ロードレースを組み合わせました。

表彰式で演奏するブラスバンド。 

Podiumvelo1

ロードレース優勝者の表彰式。市長と県議会議長さんの手からさまざまな色のTシャツが贈られます。

Ballonenair1

子どもたちは名札をつけた風船を青空に放ち、見知らぬ人々との通信を試みます。

Musette4

シャトーの前の広場で愛想をふりまく帝政時代の衣装を着た3人。


サン・ファルジョーの町について詳しくは http://www.sorintei.com をご覧ください。


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2008年4月14日 (月)

パリとフランスの田舎

投稿者: ゲストハウス「叢林亭」: http://www.sorintei.com

Stgermain 都市計画を基に、幾何学的な整然とした街並み。そういうパリの姿に驚嘆を感じるのは、自然を完全に支配してしまった人間の美意識と統制の意志に対する驚きだろうと思います。自然の代表としてセーヌ川をみれば、パリのセーヌ川の護岸工事は、たまに増水で河岸の道路が水を被るくらいで、石とコンクリートで両岸を固め、まるで運河みたいに見えます。

そういうパリの、人工的な都市計画による整然とした美意識が隅々まで行き届いた美だけがパリの魅力だろうか?いや、そうではない、と僕は30年パリとその近郊に住んでみての結論として考えます。逆に、パリが多くの人々に愛されるのは、パリがあちこちにどことなく田舎の風情を漂わせている街だからにほかならないと。

たとえばモンマルトルのテルトル広場。あの広場をを囲む家々は田舎風ではありませんか?さらにサンジェルマンデプレの教会の裏の道。もっと言えば、イタリア広場に近いトルビアックの界隈。苔むした屋根や蔦やブドウや藤が這い伝わる壁を持った民家が鉄筋のビルに押しひしがれながら頑張っている。そんなパリの一郭を見るとき、どんなに急いでいても、「おや。これは、いいな」と立ち止まってしまうほどの、なんともいえない親しみと「ここち良さ」を見る者に抱かせる。そういう魅力をそれらの光景が持っている。

牽強付会を恐れずに言うなら、それは、都会に残る田舎の風情がわれわれの心の奥に仕舞われた光景を思い出させ、親しみの感情とともにノスタルジアを抱かせるためではないのか。

とりわけ僕はサンジェルマンデプレの裏道のアベイ通りの光景にこうした魅力を感じました。この道の突き当たりにある画廊のサーモンピンクの壁と茶のヴァリエーションが美しい屋根。素焼の小さな長方形の瓦をぎっしり敷き詰めた屋根は色もさることながら、その勾配とゆるやかな「そり」が僕になんともいわれぬ、そこはかとないノスタルジアを感じさせ、その魅力にとりつかれたのでした。

パリに着いたばかりの頃、道端に立ってここの風景をスケッチし、8号のキャンバスに油絵に描いてみた。この絵は30年たったいまも完成していませんが、この光景を美しいと感じる人は僕だけでなく、沢山いることがわかりました。

この画廊の古い瓦ぶきの屋根が持つ勾配と、その稜線の緩やかな「そり」を何よりも美しいと感じたのですが、それと同じ色と「そり」を持つ屋根が、ブルゴーニュには沢山あると知った時、僕は喜びで胸が満たされました。そうか、あの家は、この地方のスタイルの家だったのだ。それから、僕は、何故こうした古い屋根にノスタルジアと親しみを覚え、美しいと感じるのか考えてみました。

それらのどっしりとした屋根の重みと勾配と「そり」は、なんのことはない、日本の方々にあるお寺の屋根が持つ美しさにほかなりません。そうした屋根を美しいと感じ、その「そり」に親しみを抱く僕は、日本で育ち、物心つく中学生くらいの頃から、修学旅行なんかで、法隆寺だの東大寺だの薬師寺だの、日本の古都の伽藍の屋根がもつ美しさに親しんでいたからだろう、と思います。

パリの魅力が人工の都市空間に自然を完全に取り込んでしまったところにあるとすれば、フランスの田舎の魅力は、平凡ですが、自然に和むように建物があり、人間の生活の営みが自然に従っているところにあるといえましょう。

パリでは、セーヌ川の治水と護岸工事、ブーローニュの森、ヴァンセンヌの森はじめ、至る所にある公園とスクエア、そして言うまでもなく、マロニエやプラタナスやアカシアやトネリコなどの見事な並木道が人工的な石とガラスと金属の町並みにうるおいを与え、人間に親しみやすい景観を与えている。

反対に田舎は、ゆるやかな起伏の大地に、牛や馬や羊が草を食み、谷あいに寄り添うように人家の集落が見え隠れする。こうした風景は、主体はあくまで自然の側にあるということを否応なく呑みこまさせてくれる。

セーヌ川とロワール河を比べてみましょう。セーヌ川は上流に調整池を幾つも持ち、大雨で増水の危険があると他の川に水を流してしまう。そうまでしてパリを守らないと地下鉄が水没したら一大事だからでしょう。石とコンクリートの護岸工事は、これが自然の川かと疑わせるほど、しっかりし過ぎていて、水も運河を流れるように単調均一です。

Photo 一方のロワール河は、フランス第一の大河でありながら調整池やダムを一切持たない。自然のままを保護しようと環境派の市民団体が常に目を光らせています。唯一の例外は流域に幾つもある原子力発電所ですが、もはや家庭電力の七割をこれに頼っているフランスでは環境保護団体も受容せざるを得ないのでしょう。河川敷が広く、護岸工事も土手くらいです。夏の渇水期には水位が下がって川底の砂洲が方々にできます。船は遡れず、そのかわり鮭が上流まで遡ります。そうこの河は、日本の川に似ているのです。幼いころから多摩川に親しんできた僕は、どうしてもロワール河の方に親しみを感じ、この河をみるたびにほっとします。

Sorinteitoit2 ロワール河とブルゴーニュ地方を結ぶ中継点。ピュイゼと呼ばれる、かつてはパリへの木材の供給地であり、セーヌ川の支流、ロワン川とヨンヌ川の水源地でもある地域に、僕は住み、このたび、ゲスト・ハウス「叢林亭」をオープン致しました。

ロワールのお城めぐりにもブルゴーニュのワイン畑巡りにも行きやすい所に位置しています。ぜひ「叢林亭」のホームページ : http://www.sorintei.com をご覧ください。

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