カテゴリー「経済・政治・国際」の記事

2010年5月27日 (木)

ギリシャの財政危機 -その2:不労所得の夢

ギリシャの公務員の数は100万人。人口が1千万強なので10人に一人が公務員になる。

公務員は数々の特権を享受しているという。表向きの収入の2倍から3倍も収入が在るという説もある。休暇が多い上、ほとんどが勤務時間に遅刻してくる。遅刻せず出勤した者に手当てが付くというからあきれる。

勤勉で名高いドイツ人が、援助を渋るはずだ。20年我慢して刻苦精励して東西統一後の経済的困難を乗り越えたのに、こんなぐうたらばかりに易々と金出してやれるか。援助に反対していたエンゲラ・メルケル首相は、ユーロが崩壊してもいいのかと最後は脅しに押された形で同意したが、直後の選挙で重要な協力者2人を失ってしまった。

労働基準法に違反してまでも、責任感からか、残業し、規制を超えた時間を申告せずに働きぶりを見せる日本人の涙ぐましいまでの「働く」ことへの倫理観と比べると別世界の感じがする。

ギリシャの余波を受けて、フランスでも昨日政府が緊縮財政を打ちだした。役人、警察官、予審判事、裁判所、教員、看護士・・・等々の数を減らす政策は批判を受けながら着々と進められて来た。そのうえまたかと批判再燃。

行革の言葉ばかり横行し実態が伴わない日本はやはり役人天国だと思う。

既得権を失いたくないのはギリシャのお役人に限った事ではない。

働かなくても収入があり、リッチに暮らせたら・・・金利生活者の夢は、昔から人間の懶惰な心を誘惑して止まない。

MLMとかネットワークビジネスはこの金利生活者の夢が、実現するような言葉を誘い文句に使う。「権利収入」「不労所得」・・・。

一時的に、今、死に物狂いで働いておけば、将来働かず、ほったらかしで収入が入り続け、裕福な、余裕のある、悠々自適な生活が実現します。ほんとかもしれない。そういう身分になりたいなと夢に誘われる。

20世紀の初頭、ヨーロッパからアメリカに移民がぞくぞくと押し寄せたのも、アメリカには、自由があり、意志と能力とチャンスさえあれば富豪になれる夢に促されてのことだった。

そんなアメリカで生まれたMLMというビジネス・スタイルは、この人間の権利収入、金利生活、不労所得への夢をうまく利用している。非常に革命的なビジネス形態といえる。

かのマルクスでさえ、「働かなくても金が入ってくる社会」が実現するなどと言っていない。
「好きな時に、好きなだけ働いて応分の暮らしをする」と言っただけだった。にもかかわらず、搾取され続けていた労働者には、「天国が地上に実現」するかのような革命的な宣言として受け取られた。

Drkarlmarx

実際、革命政権が権力を握ると資本家よりさらに激しい搾取をされ、少しでも批判すれば強制収容所へ入れられてしまう。党官僚がのさばる体制を作ってしまった。

ギリシャのお役人たちは、共産党宣言の夢を先取りしてしたのか?ソ連も東欧の社会主義圏の国々も個人の自由が抑圧されていた社会を変えるために、もう一度革命をやった。

印税や著作権など権利収入で豊かに暮らせる人は、ごく一部に限られているだろう。それを目指して日々ビジネスに打ちこむには不労所得への欲望と執念がよほど強くなければなられない。

Michelange2

キリスト教の最後の審判でも、天国へ行ける人は、一握りに限られてる。「力を尽くして狭き門より入れ」と聖書も言ってるではないか。

作家や作曲家、歌手の方々も、本が売れない、不法ダウンロードが絶えずCDが売れないなど現実は甘くない。

MLMをやってる人の中には、1個数十万円もするソフトを不法ダウンロードして仲間に配り、人助けだと自慢する人もいる。

江戸時代に義賊といって、金持ちの家に懲らしめに忍び入って財宝を盗み、貧しい人々に別け与える盗賊がいた。

代表が「鼠小僧次郎吉」である。

「ねずみ小僧」の名前を思い出した時、どっからともなく声が聞こえて来た。

その声は、「ゾなしだぞなもし・・・」と言った。「はて?・・・ぞナシとはなんだ?ぞなもし?」

やがて「コゾウ」からゾをとると、あるぜんぜん別の意味を持つ言葉になるとわかった。

       「ネズミ講」!!

これこそ「不労所得」の夢を実現する最高の仕組み。

しかし、法律で禁じられているからやってはいけない。

講の会員になっただけで処罰される。

だれの心の底にも不労所得、年金生活への憧れがあることは否定できない。

その夢と憧れに促され、限られた貴重な人生を棒に振るか、執念深く最後までやり続けるかは各人の価値判断の問題である。

「成功するまでやり続ける者が成功する」。

論理学的にいえばトートロジーであるこの定言を信じてビジネスをやり続けられる人は、「信じる者のみが天国へゆける」宗教の信者と共通の心を持っている。

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2010年5月 7日 (金)

ギリシャの財政危機 -その1

永らくお休みしていました。5月から復帰です。

ジャック・クールがレバノンへ船旅をした帰り難破してコルシカ島に辿りつき身ぐるみ剥がれた上に身代金を要求されたところまで書きました。

この時のジャック・クールの身代金が微々たるもので彼が小者だった事を示していると・・・。

大事なのは彼がヨーロッパと中東との金銀の為替レートの違いを利用して金儲けを企んでいたらしい事です。今の時代とほとんど変わってないな~あ、と思います。

先月からギリシャの財政破綻にどう対処するかでユーロ圏の国々がもめました。

スペイン、イタリア、フランスなど南の諸国は次は我が身という危機感もあって援助の手を差し伸べるべきだと主張し続けました。

最後まで、反対もしくは援助はしたくない意向を表明続けたのはドイツと英国でした。

ドイツは、東西統一以来20年間、国民がサラリーの据え置きや緊縮財政に耐えた末、やっと勝ち取った繁栄です。国の指導者がずさんな経営をした結果、財政危機を迎えたからって簡単に援助してくれなど言うべきでないと感情的反発もあったでしょう。

イタリー、スペイン、フランスなどラテン諸国は政治家、高級官僚の汚職腐敗が激しい。袖の下(フランスではテーブルの下から渡すらしい。大抵はワインを飲みながらの賄賂なのでポ・ド・ヴァンとも言います)が横行してます。

社会党時代の石油会社エルフの汚職(これはミッテランがコールを助けた。そのお陰でEUとユーロが実現したことは今では良く知られています)。台湾にフリゲート艦を売った時の不正コミッションを巡り、先週からまたマスコミがで取り上げています。

一時期、ギリシャがユーロ圏を脱退して元のドラクマに戻ったらという意見と仮説が賑わいました。ドラクマに戻せばギリシャ通貨の為替レートが下がり輸出競争力がついてギリシャ経済は活気を取り戻せるという議論でした。

しかしユーロ圏に参入する時の規定はあっても脱退する時の規定がないとか、危機を切り抜けるためにユーロで借金しなければならず、ドラクマに戻っても対ユーロ為替レートはユーロ高になり、返済はユーロでしなければならないから結局はギリシャ経済を救う事にならない。

ギリシャの次はポルトガル、スペインだと既に株式市場は二国の関連株を大量に手放しリスボン、マドリッドの市場は暴落しました。次はイタリー、そしてフランスにも及ぶと戦々恐々です。

アテネの民衆は5月5日、数万人がデモし、国会に押しかけ、最終的にドイツも援助に回った、EUとIMFの援助を受け入れるにあたり首相が約束した緊縮財政法案の国会通過を阻止しようとしました。

Demoathene3

まるで1960年と70年の安保改定反対の国会デモのようですね。民主主義の発祥地のギリシャの民衆は、危機の一線を越えていたにもかかわらず政治家が国民にウソを吐き、放漫財政を続けたツケをなんでオレタチが払わねばならんのだと怒りをぶつけました。

公務員のサラリー1~2か月分のボーナス廃止、加えて、20%を超える消費税の上昇、タバコ、アルコール、ガソリン税の値上げ、老人は年金が貰えなくなる・・・。緊縮財政は真っ先に国民を襲います。私企業のサラリーマンも一社では暮らしてゆけず、副業をこなしている人が多い。

ユーロという統一通貨の導入を決めた時、すでに国により経済状況が違うのに人工的に決めた通貨を画一的に適合させるのはおかしいという議論が出ていました。

ギリシャの経済危機はユーロという通貨全体の危機として、さらにユーロが崩壊すれば、ドルの危機につながるとフランスの経済専門家の中には危惧する人もいます。

アテネの民衆は金融機関が先物相場で為替取引に失敗した結果、金融危機を招いたとして、敵は銀行だと火炎瓶を市中銀行に投げ込みました。火事で3人の若い行員(内一人は妊娠していた30代の女性)が逃げ場を失って死亡しました。

 

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この為、デモは一時的に静まりましたが、危機が収まったわけではありません。EUとIMFの援助金はギリシャが必要とする金額に足りないのです。

ところで国庫が抱えている財政赤字が最大の国はどこでしょう?
アメリカは凄いです。でも世界一の財政赤字国は実は日本なのです。
日本の皆さん、ギリシャは遠い地中海の国。
昼寝ばかりして働かない国民。だから財政破綻を迎えても当然さ、などと、あなどらないでください。火が、そのうち、日本にまで振りかかって来ない保証はどこにもないのです。

         

            

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2009年4月27日 (月)

三人の美智子-その4

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

濡れ鼠の学生たちに混じって僕らも駅のホームに上がった。
「つかれた、ここでひと休みしようか。」
傷ついた学生たちで混み合うホームの中ほどに奇跡のように誰もいないベンチを見つけ、小池君は真っ先に腰をおろした。
「ちょっとばかり遅かった。残骸だもんな、見られたのは。」
さきほどまでの興奮はどこへいったという顔で小池君は力なくつぶやいた。眼をあちこちの学生に向け誰かを探しているふうでもあった。
「やっぱり権力のカベはあつい。・・・警察のうしろには自衛隊もいることだし。」
苦笑を交えて小池君はこれもつぶやくように言った。

「あのさ。ゼンガクレンの主流、半主流って、どうちがうの?」
ちょっとの間流れた沈黙を破ってケン坊が小池君の横顔を見ながら訊いた。
休みかけていた小池君はケン坊に重い質問をぶつけられ息詰ったように顔を上げ一瞬言葉を探してから言った。
「ひとくちで言えば・・・現状分析のちがいだな。」
「ゲンジョウブンセキ?」
電車がホームに入り学生たちは吸い込まれてゆき、ホームの人混みに隙間ができた。「終電に乗ればいいよね。」電車を見送りながら小池君は話を続けた。
「いまの社会が資本主義社会だってことは知ってるね?」ケン坊に家庭教師みたいな口調で話すのがおかしかった。
「日本の資本主義が成熟しきっていずアメリカに従属するものだって分析するのが反主流派。だからまずアメ帝を追い出して民族独立を勝ち取るのが社会主義革命への第一段階だって位置づけるのさ。日本人の民族主義感情に訴え、広範な大衆の支持を求めてゆこうとする平和革命路線だよ。」
ケン坊は汗に埃がこびりつき薄汚れてはいるが精悍な顔をし、聞き耳をたてて小池君の話を聴いていた。
「これに対して主流派のゼンエイ的学生、インテリはも少し国際派で、日本の独占資本主義、ブルジョワジーは立派に独立しているし、アメリカと協調しながらも利害が対立するときは利益を引き出しながら資本と権力の拡大を図っていると分析するんだ。
こっちの分析の方がぼくは正しいとおもうよ。だって太平洋戦争は中国の利権をめぐって日本とアメリカが対立したことが原因なんだからね。」

「ふうん。ぜんぶはよくわかんないけど、今日の集まっただけで何もしなかったのが反主流派で、国会に突入したのが主流派だってことはわかった。」ケン坊が小池君を尊敬するような眼差しで見ながら言った。
「でも、くわしいんですね。小池さんって・・・。」
Marx5 「ちょっとはね。ジャーナリストになるために勉強したさ。それに・・・、ぼくの兄が主流派で、きょうも来てんじゃないかな・・・。」小池君があちこち眼を配ってる理由が呑み込めた。兄さんを探しているのだ。
「どっちもマルクスなんでしょう?その思想って真理なの?」
ケン坊がまた素朴な質問を発した。
「ニュートンの万有引力の法則みたいな意味での真理とはいえないな。イデオロギーだからね。」

僕が普段から気にかけていたことに触れたので口をはさんだ。
「資本主義から社会主義への発展は歴史的必然だっていうマルクスとレーニンの歴Lenin2 史観ね。レーニンは資本主義が発展すると帝国主義になり、とくに銀行資本が支配する金融資本主義社会になる。そして金融資本主義社会はそれが抱える内部矛盾によって崩壊するっていうでしょう。ぼくが疑問に思うのは、もしそれが客観的、歴史的必然なら、人間が何もしなくても、自然そういう社会に移行するってことじゃないのか。行動しなければならない理由はどこにあるんだろうって?」
「主体性の問題だな。ぼくは歴史は人間が作るもんだと思うよ。客観的認識と主体性の問題は、ぼくも深く掘り下げて考えてはいないけど・・・。」

終電のひとつ前の電車で僕らは小池君と別れ家に帰った。
翌朝の新聞に樺美智子さんの死が大きく報道された。デモ側の親しい人たちは「警棒で腹を突かれ内臓出血で死亡」を主張していた。むろん警察側は、彼女が押し合いの中に倒れてデモ隊に踏まれて死亡したと発表した。

最後のデモに参加したのは確か日曜だった。衆院通過から一カ月期限の最後の日だった。その日もデモは三宅坂の国立劇場建設予定地の集会に合流した。集会に集まった群衆はなすすべもなく、午前零時を迎え、岸首相の思惑通り改定安保は批准された。

けれども樺美智子さんの死は国民大衆の広範な怒りを呼び、史上空前の大衆行動は、あわや革命寸前のところまでゆき政府を震撼させたのだ。政府首脳は自衛隊 Eiku4_2 の出動を要請した。けれども防衛庁長官赤城宗徳は拒否した。日米修好百周年を記念して来日する予定だったアメリカのアイゼンハワー大統領も訪日を取り止めた。岸首相は五百万人を超える参加者を見たゼネストなど社会不安を引き起こした責任をとって退陣した。岸首相が退陣したために国民の抗議行動の攻撃の対象がなくなり運動は急速に消滅していった。安保は批准されてしまったので、デモに参加した級友たちは、あんなに騒いでも結局は無駄だったという虚脱感と敗北感に陥ったまま夏休みを迎えた。小池君は「なるようにしかならない。」とうそぶいていた。

ソ連ではフルシチョフがスターリン批判の演説をし、恐怖政治と強制収容所の残虐性が暴露された。その後、中国では老いた毛沢東とその妻江青ら四人組との内輪もめがMao1 原因で文化大革命が起こり、数千万という目も眩むような犠牲者を出したことが少しずつ知られるようになった。政治というものが時に残虐な爪を剥くということ。建て前がどんなに立派で、人類の永久の平和と平等と理想を掲げながら、建前とは裏腹に、しかもその理想の名において人間が悪魔より恐ろしい残虐なことをやってのけるということも歳をとるにつれ僕は知るようになった。デモに参加した頃の僕たちの年齢では、複雑な国際政治のありようや、経済の仕組みは理解できなかった。単純に少年らしい正義感、素朴な民族感情と父親への理由のない反抗心とで国会デモへ参加したのだった。 (小説はこれで終ります。)

上の写真4枚はフランスのprovider: Orange の公開イメージから拝借したものです。

(注1) Wikipedia の岸信介によると 「警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断した岸首相は、児玉誉士夫を頼り、自民党の橋本登美三郎を使者に立て、暗黒街の親分衆の会合に派遣。錦政会会長稲川角二、住吉会会長蹟上義光やテキヤ大連合のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに三つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。・・・最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。かれらは政府提供のヘリコプター、セスナ機、トラック、車両、食糧、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円の活動資金が支給されていた。(ファーイースタン・エコノミック・レビュー)

トラックは約100メートル突っ走り、デモ隊にとめられ転覆させられた。大型トラックの後を追うように、小型宣伝カーが走った。これはジグザグに走り、ハンドルを切りそこねて、参議院常任委員会庁舎の歩道の並木にぶつかり、ひっくりかえった。
これに続いて、維新行動隊の10人ほどがプラカードの柄(板を外し釘が出たままの)をふるってデモ隊に襲いかかった。この時の彼らは主に婦人をねらってなぐった。「殺してやる」「たたき殺せ」と口々にさけんでいた。
新劇人会議の女優さんたちが、血まみれになって逃げ惑った。・・・右往左往し、足をとられてころび、後頭部をはげしくたたかれた。頭からも胸からも血が滴り落ちて、白いブラウスを赤くそめた。(自由のための「不定期便」昭和の抵抗権行使運動(47):ドキュメント 6・15国会流血)に詳しくこの時の状況が報告されている。
http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-1152.html

(注2)五十嵐武士著:「戦後日米関係の形成」(講談社学術文庫)からの引用を許して頂ければ、
「日本国内には保守と革新との補完的な側面であり、そのまず初めに単独講和論が国際情勢に対応して日本の独立を回復するために選択された現実の政策であったのに対して、全面講和論は日本国憲法の理念に即して、日本を国際的に平和国家として自立させようとする国家的存立の主張だったことがあげられる。つまり、対日講和の締結をめぐる論議は単に政策的な次元にとどまるものでなく、外交政策の主体たるべき国家としての日本の精神的な基盤にかかわる深みにまでわたっていた。その意味で、日本の国際社会への出発に際して、政策と理念との機能的な分担を単独講和論と全面講和論が担っていたとみることもできる。」

(注3)と(注4)吉田茂 :1878(明治11年)神田駿河台に生まれる。坂本竜馬、ジョン万次郎、板垣退助などを生んだ高知県出身の自由民権運動の闘士、竹内綱の五男。
尊皇家であり、敗戦後、昭和天皇が戦争責任をとって退位を申し出た時も、吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという。

やはり上に引用させていただいた五十嵐武士著:「戦後日米関係の形成」によれば
1951年、平和、安全保障条約の調印を終えて帰国した後、吉田首相は家人に「あれで良かったな」としきりに念を押したという。
「吉田は他にやりようがあったのではないかという疑念を払拭できなかったのにちがいない。」
この本は著者が独自にアメリカ国立公文書館で発見した歴史的資料と日米双方の外交文書や文献をもとに幅広い視野で書かれている。冷戦終焉後の新たな日米関係と今後の日本の国際社会における日本のあり方を問う上で大変ためになる本なので是非一読をお薦めします。

(注5) 高杉晋作: いわゆる功山寺の挙兵。1864年の禁門の変の後、幕府による第一次長州征伐で俗論派が台頭し正義派家老を倒すなどして保守化してゆく中、晋作は奇兵隊を創設し、伊藤俊輔率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊に呼びかけ、わずか80人で挙兵。その後の長州藩を倒幕の中心へ導いた。
なお、岸信介、佐藤栄作兄弟も山口県(かつての長州藩)の出身。さらに帝国陸軍の元老、山県有朋は奇兵隊の一兵卒であった。

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2009年4月25日 (土)

三人の美智子-その3

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

小説の続き

後年、僕が知ったことだが、戦後すぐ、平和問題懇談会だったか談話会だったか、日Macarthur7 本のそうそうたる学者、知識人の集まりが日本の国際社会への復帰についてなんども声明をだし、日本の中立と全面講和を主張した。日本は今後、中立国たるべきだという主張は、日本は東洋のスイスたれ、と言っていたマッカーサーの考えとも一致するものだった。日本はアメリカとソ連・中共のイデオロギー的対立の橋渡しをして、インドのように第三の道を歩み、積極的に世界平和に貢献すべきだと知識人たちは主張を繰り返した。ところが朝鮮戦争が勃発し、北鮮が三十八度Guerredecoree2 線を越えて攻め込んだことが明らかになると、平和懇談会の知識人たちは動揺した。アメリカを中心とする国連軍は最初攻勢に立つが、そのうち中国軍が介入し、朝鮮戦争はソ連と中共が連携した国際共産主義の拡大路線の具体化だということが明瞭になった。

アメリカは日本から駐留軍が撤退すれば日本は数週間でソ連に占領されると脅した。日本は再軍備して自力で国を守るか、アメリカに基地を提供して、Syoshida 守ってもらうかの選択に迫られ、時の吉田首相は後者を選んだ。吉田首相はアメリカの再軍備要請をかわすのに、日本の国内情勢、つまり社会党や共産党、労働者、知識人、学生など平和憲法の理念を守ろうとする革新陣営の無視しえない力を利用した。この情勢下に日本が再軍備に税金を注げば国民は今後も長い間貧困から抜け出せず、そんな状態は共産主義者に絶好の口実を与えるだけだとアメリカに対して主張し要求を退けた。経済的自立を最優先とし軍備に金を注ぐかわりに経済再建に全力を集中し、一方で防衛に関しては、サンフランシスコで講和条約に署名した同じ日の夕刻、同行の池田勇人など全権員に「きみはついてくるな」と言い残し、吉田首相個人が単独で全責任を負うという形で、それまで秘密裏に準備が進められていた日米安全保障条約に署名した。後日の反対を恐れ、他のメンバーを守るためだったという。(注4)

日米安保条約は軍事同盟だから日本の平和憲法に抵触する。だから秘密外交が行われた。この吉田首相のやり方を岸首相が受け継いだ。東條内閣の商工大臣を務めA級戦犯容疑で巣鴨刑務所に拘留されていた岸信介はアメリカの政策転換で無罪とされ出獄した。1960年1月に訪米しアイゼンハワー大統領と面談、それまでの日本側に不利な条項を改めた改正安保条約に署名した。5月の条約の批准の為の国会審議では、条約そのものの破棄を主張する社会党の反対に会い、社会党議員を議場に入れさせず強行採決し、また国会の会期延長に際しては、議場入口に座り込んだ社会党議員を警官隊を入れゴボウ抜きにして排除し、怒号の中を議員に担がれた清瀬衆議院議長がマイクを掴むや延長を叫ぶなど、およそ民主主義とは相容れない形だけの審議で条約の批准を図った。国民の多くは、こういう強引なやり方に戦前の軍部の独裁政治のイメージを重ね合わせ、その復活を怖れ、怒りとともに国会に押し掛けたのだった。

「ほかにデモを組織するグループを知らないってこともあるけど、伊藤たち日共系、全学連じゃ反主流派だけど、かれらの平和と民主主義ってスローガンはぼくも賛成だから、ひとまずかれらのデモに加わるよ。ただし、最後まで行動をともにしないかもしれない。途中で抜け出すかもしれない。これは見捨てておけないって状況に出会ったら、ジャーナリストの卵の面目にかけてすっとんでく。」
そういって小池君はひとまず息を継いだ。
「ゼンガクレン主流派は、いますぐ日本の権力打倒をめざすべきだって過激な突撃Zengakurenn1 をくりかえしている。ブルジョワの跳ねっかえりのおぼっちゃんたちだ。極左冒険主義だって批判されてるけど、変革にはいつも少数の前衛が必要だからね。ちょうど明治維新の高杉晋作(注5)みたいに突出した人間がね。」

ややあって小池君は僕をみながら言葉を継いだ。
「チョウさん・・・。しってるかな?・・・ぼくらのこの高校は戦時中、陸軍幼年学校だったてこと。」
小池君はまたひと呼吸いれ、黙って細長い校舎の屋根をみつめた。
「甘粕大尉や東條英機はぼくらの大先輩にあたるんだ。甘粕大尉、しってる?・・・大逆事件で捕まった幸徳秋水を拷問で殺した男。満州事変でしきりに陰謀を画策したといわれている。」
「そうかあ。幼年学校だったって話は聞いたけど、東條英機がね・・・。」
「この細長いウナギの寝どこみたいな校舎は陸軍の厩舎だったんだ。春には砂埃が舞い上がるこの校庭で、十五年くらい前までは突撃の訓練なんか繰りかえしてたんだなんて思うとへんだよな。いまは男と女の生徒が手をつないでフォークダンスおどってんだもんな。」
小池君は鉄の柵に胸を凭せ掛け、ふたたび細長い校舎の屋根と眼の下の広い校庭を眺め渡した。こんどは僕もそれにならって横に立った。屋上にはあいかわらず初夏の微風が吹きわたり、強い日差しが照りつけていた。校庭の奥では昼休みを惜しむように野球部、サッカー部、ラグビー部、アメフトなどの連中がランニングをしたりパスの練習をしていて、遠くまで掛け声が聞こえた。近くのテニスコートで撃ち合うボールの響きがこだましている。

  ***        ***    中略    ***       ***

その日、僕は小池君はじめ数人の級友と門を出、近くの集合場所でデモの参加者と落ち合い、リーダーの指示に従って、隊列を組んで行進を開始した。僕らのグループのリーダーは連日のデモで顔が農夫のように日に焼け、引き締まった全身の筋肉を躍動させてデモを導いていった。時折、顔の筋肉が浮いて見えるくらいに大きく口をあけ、シュプレヒコールを叫んだり、携帯マイクを口に当て、「わあれらのおーゆうじょうわあーげんばくあーるもたあたれずうー」と歌ったりした。
彼が張り上げる声に合わせ、僕も胸いっぱいに吸い込んだ息を吐き出しながら、その場で覚えた歌詞を叫ぶと、ふだん寂しさに紛れ忘れていた友情というものが湧きあがってくるのだった。そして、夏祭りの御輿を担ぐときのリズムで「アンポ・フンサイ」と掛け声をかけ、スクラムを組んで走ると、右隣の小池君や、左の見知らぬ青年との間にも連帯の感情で結ばれる気がした。行列に加わった人々には一様にある種の解放感があって、それがデモの雰囲気を夏祭りに似たものにしていたが、歩道の上を見え隠れしながら絶えず追尾してくる私服刑事の存在が行列の参加者に祭りとは違った緊張感を与えていた。

やがて国会議事堂が見える広場に出た。周辺には何十万という群衆の巨大な隊列Annpo5 が幾重にも重なって動いていた。人々はほとんどが白シャツ姿のため、その幾重にも重なる人の列は白い波のように見え、絶えず押し寄せてくる巨大な白い潮が議事堂前の広場で渦を巻き、波が引くように退いていった。

僕はその巨大な群衆の動きを眺めながら隊列の動くままに議事堂の脇を通り抜けていった。隊列は三宅坂に向かい、まだ広大な空き地だった国立劇場建設予定地に集合していたさらに巨大な群衆に合流したのだった。僕らはそこでなにかを待ったまま夕闇があたりを覆うまで過ごした。四日後の十九日午前零時には条約は自動承認されるのだ。

べつにこれといった集会が始まるわけでもなく、また誰かが演説したとしても会場は広すぎて話が届く状況にはなかった。こんなふうに日本の民衆が「人民」という意識を持って集まり、大きな潮を作って国会に押し寄せ取り巻いた。僕もその潮の中の一滴として政治行動に参加している。ただそれだけでも意味があるという自己満足に僕は浸っていた。十五や十七のものごごろついたばかりの少年が、よくもあんな行動に出たなという、いくぶん誇らしげな感慨を、半世紀が経とうとしているいまでも持つことがある。
群衆を眺めるにも飽き、当面なにをするあてもなく手持無沙汰な時間が過ぎていった。ふとケン坊はどうしてるだろうとの思いがよぎった。この会場にいるにちがいないのだが十万は居ると思われる大群衆の中で、一人の少年を見つけることは、ほとんど不可能だった。それでも時間潰しになるからと小池君も言い、ふたりして人ごみをかき分けながら、高校生の集団を目当てに探しはじめた。しばらく行ったところで向こうから一人の少年がやってきて僕らを見ると遠くからも笑顔とわかるくらい喜びを露わにして進んできた。「やっぱり、会えるとおもったよ。」ケン坊は子犬が飼い主に尻尾を振るみたいにして近づいてきた。
「これ、おとうとのケン坊。小池君だよ。」
ふたりはおたがい簡単に挨拶を交わした。ケン坊は、午後のホコリと夕方になってからの
雨で顔にいくつもの土色の斑点を浮かべていたが、表情にはなんとなく張りがあり、自分で決心してデモに加わったことに満足げな様子だった。
「ねえ。これだけおおぜいのアンポ反対のひとがいるのに、なにもしないで自然承認を待ってるだけなんて、なんかへんな気がする。もったいないよ。」
ケン坊は僕にでも小池君に向けてでもなく、なかば独り言のように言った。
「だろ。きみもそうおもうだろ。まったく、だよな。」
小池君は得たりとばかりケン坊に相槌を打ち、何もしないデモの指導者への、不満を露わにした。

    ***      ***   中略   ***    ***

僕は視線を巡らせ、国会議事堂の上空とおぼしきあたりを眺めた。すると、そこだけ空にかかった雲よりも遥かに低い位置に、濃いグレーの、靄とも雲ともいいがたい、大きな綿の固まりが浮いていて、その薄黒い下部が赤みを帯びた光に照り映えているのだった。薄暗い空に浮いた、青い痣にどす黒い血が滲んだような綿の固まりは、なにか不吉な事件がそこに凝結しているように見え、禍々しい予感に僕は襲われた。
僕がその不吉な雲へ視線を集中しているのに、小池君も気がついたらしく、同じようにそれを見つめていたが、ふいに僕に顔を向けると興奮した声で言った。
「チョウさん。あれはやっぱり下でなにかが起こってるんだ。こんなところでボンヤリしてるまに、高杉晋作たちが決起したらしい。行ってみよう。」
綿の固まりの底辺が赤く照り映えているのは、警官隊の焚く照明灯の明るみが、議事堂の上空へ霧のように昇った催涙ガスに反映したものか。しかしなぜ赤いのかとちらと不審が僕の頭をかすめた。
その時、インテリのサラリーマン風の若い男が、小池君の放った「ケッキ」という言葉に耳をとめ、重要な情報を僕らに伝えたいと思ったらしく、小池君に近寄り、耳打ちするように上体を傾け、低い声で言ったのだった。
「ゼンガクレン主流派の学生が国会構内に突入した。警官隊とぶつかって死者が三人出た。うち、ひとりは女子学生だそうだ。」
死者という言葉に僕らは緊張し顔を見合わせた。
一瞬の沈黙を破って小池君は言った。
「しまった。チョウさん。日本の歴史の大転換かもしれない。見逃せない。いちだいじだ。いこう。」
言い放つなり、小池君はもうどんどんと、なにかに憑かれたような勢いで、国会の方向へ進み始めた。僕はケン坊と一緒にあとを追った。
国会へ近づくと路上に焼け爛れたトラックの残骸が横たわっていた。綿の固まりの赤い色はトラックが燃え上がる炎の反映だったのだ。
議事堂周辺は、装甲車とヘルメットに楯で身を固めた警官隊員にがっちり守られていて、入り込む余地はなかった。路面は放水で濡れ、催涙ガスの臭いが漂って空気は緊迫していた。
国会の構内から警官隊に追われ、ずぶぬれになった学生たちが群れをなして有楽町の方へ移動していた。僕らはしばらくそこへ佇んで濡れ鼠になった学生たちの群れと警官隊の防壁とを見比べていた。とくに賢二は、黙って議事堂の四角錘の頭の方へ顔を向けたまま、なにごとか考えに気をとられている様子だった。
「どうした。なに考えてんだよ。」心配になって僕は声を掛けた。
「かりに、警官隊の包囲網を突破して、国会を占拠できたとして、そのあと、どうするんだろう?」
横で聞いていた小池君が言った。
「マスコミが同じような理由でキャンペーンを張ったじゃないか。暴力反対。議会制民主主義を守れって。」
「とつげーっき。」
とつぜん、賢二は叫び、右腕を高々と挙げ、刀を振り下ろすように前に突き出すと、その場で足踏みしながら、警官隊の壁に向かって突き進む格好をした。
「やめとけ、やめとけ。逮捕されるぞ。」
少年の急進性を理解はできるけどねというように笑いながら小池君が止めた。
賢二はきまりわるげに笑って力を抜くと、まわれ右をして警官隊に背を向け、学生たちの群れに加わって歩き始めた。僕と小池君も群れに加わった。眼鏡を壊され顔から血を流している者や、靴をなくし片足が素足の学生もいた。学生の群れは朝日新聞社の前の救護班で手当てを受け、それから有楽町のホームにあがって三々五々散っていった。 (つづく)
  この項、上の四枚のカラー写真はフランスのOrangeに公開されているイメージから借用したものです。

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三人の美智子-その2

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

Kannba3 樺美智子:1937年11月8日生まれ-1960年6月15日国会南通用門付近で死亡。父はカール・マンハイムの翻訳を行った社会学者の樺俊雄(中央大、東京外語大教授)。美智子は1957年東京大学文科二類(日本史学)入学。1958年12月10日東大駒場にブント(共産主義者同盟)が結成されると同時に参加、同大文学部学友会副委員長として安保闘争をリードした。

1960年6月15日、日米安全保障条約の強行採決に反対して国会南通用門付近に居た全学連主流派約8千人は、午後5時20分頃、右翼の児玉誉士夫が率いる維新行動隊(注1)が参院第二通用門付近に居た全学連反主流派、新劇人のデモ隊の主に女性の隊列に殴り込んだと聞き、5時50分、国会に突入を開始、一旦は警官隊に排除されるが、7時10分再度約4000人が突入した。この時の警官隊との衝突の中で樺美智子さんは死亡した。

樺美智子さんについて、これ以上詳しいことを知らない筆者は、ただ思春期に彼女の死が与えた衝撃が大きく、それを機に、社会意識に目覚め、歴史と哲学を真面目に学ぶようになったとだけ記しておく。

来年(2010年)は60年安保からちょうど50年目に当たる。歴史は移ろい、世界の政治は変わり、日本を取り巻く情勢も、日本の国内の政治・経済情勢も大きく変わった。当時15歳で高校へ入学したばかりの僕は、20歳を過ぎたばかりの女学生が日本の変革のため、理想と信念のためにうら若い命を捧げた事実に、灼熱した鋼鉄を見るような眩しさとある種の怖ろしさを伴った感動で打たれた。当時の若者がどのようなことを感じ考えて行動したか。わかりやすく読んで頂けるよう、小説仕立てとし、三人の高校生に登場してもらった。筆者はチョウさんと呼ばれる17歳、その弟の賢二(ケンボウ)、それとジャーナリスト志望で社会情勢に広い知識を持つ、チョウさんの同級生、小池君である。

以下は小説からの抜粋。最後に補足的情報を注として掲げた。

***        ***      ***     ***      ***

朝、校門をくぐると、体育館の脇で三十人ばかりの生徒が輪になって何事かに注意を集中していた。好奇心から、僕は近づいて肩越しに人垣の中を覗き込んだ。輪の中心に色の白い伊藤が立ち、まわりに何事か訴えかけていた。僕は伊藤を挟んで向こう側の輪の前列に小池君の姿を見た。そして小池君の三人置いて右に賢二が立っているのを見つけた。賢二はやや青ざめた顔で伊藤の話に耳を傾けていた。

「岸内閣は改定安保条約を強行採決し強引に衆議院を通過させました。参議員で審議されなくても、あと一か月、ほおっておけば、日米安保条約は、自動承認され、批准されてしまいます。日本は今後さらに、アメリカの軍事同盟国として従属することになるのです。ぼくたちは、岸首相をはじめとする権力者たちが民主主義をふみKishi2 にじることを断じて許してはならない。日本の民主主義の将来のためにも、いま、立ち上がらなければならないと思います。」

伊藤は輪郭のくっきりした口に笑みを浮かべて言うと、みんなを見まわした。
「日本に核兵器は無いことに表向きはなっているが、じっさいは米軍が日本にある基地にかならず核兵器を持ちこんでいるはずです。米中戦争というような事態になったばあい、日本が核攻撃の危険にさらされるのです。・・・」

伊藤の顔から微笑が消え、真顔になって正面を見つめたまま、しばらく沈黙した。
「非武装中立をうたっている日本国憲法はわれわれ国民の手で守らなければならない。戦後十五年たったいま、安保条約は国民の大衆的な運動で破棄に持ち込むべきであり、国民の総意の表現として国会周辺へ大規模なデモをかけ、日本の政治にぼくらの平和の願いを反映させよう。こんどの全国統一行動へむけて、みんなも立ち上がり、デモに参加してください。」

色白で美顔の伊藤は、生徒会執行委員で、話術に優れ、その訴えには説得力があった。賢二がいつのまにか横に来ていた。
「ぼくも、デモに行ったほうがいいんじゃないかな。」
賢二にはまだ、政治のことは難しすぎるだろうと思ったので僕は言い返した。
「ケン坊にはまだちょっと早いんじゃないか。デモに行くのは。」
僕にはその時、弟にそれ以上どう言うべきか準備ができていなかったので、授業が始まるのをさいわい、そのまま別れた。

           ***     途中略    ***

伊藤の話は僕に日本にはまだ米軍の基地があちこちにあるのだという現実を思い起こさせた。講和条約(注2)で独立を果たしたとはいえ軍事的にはアメリカに従属した立場にあるという日本が置かれた現状に否応なく眼を向けさせた。それは遡れば僕が話できいたことしかない、親から上の世代の日本人が、世界の大部分を敵に回してやった戦争という大規模な歴史的事件に繋がっていた。その戦争の話を聴いても、なにか遠い昔のおとぎ話を聴く時のような印象しか僕は持てないのだったが、実際は僕が歩き始めた頃は、まだ出征する兵士が大通りを行進していたのだし、弟が生まれた年には東京大空襲が始まって、戦争の真っ只中だったのだ。幼すぎて記憶に残っていないというにすぎない。わずかに記憶にあるのは、花園神社の隣にあった幼稚園の前の明治通りを米軍の戦車が何台も轟音をどどろかせて走りすぎてゆく場面くらいのものだ。
僕は潮時と考えて、小池君にアンポについてどうするつもりか訊いた。
「ところでけさの伊藤君の話、どうする?」
「全国統一行動ね。いくよ。ぼくは。」
小池君はいとも簡単にそう答えたのだが、その表情が急に引き締まったように見えた。
「国会は審議をつくす場なのに岸内閣は強行採決したろ。あれはゆるせない。六月二十二日の日米修好百周年を記念してアイゼンハワー大統領が日本へ来ることになってる。それに日程あわせしたアメリカへのおもねりだね。国民の理解を得ることなんかどうでもいいっていうような、なんか戦前の軍部の独裁政治をひきずったような、権威主義的やりかただろ。アンポそのものの詳しい内容はしらないよ。僕はソ連や中共の肩入れをするわけじゃないから、ひょっとしたらアンポは日本にとっていいことかもしれない。でも、やりかたがまずい。これじゃまるで国民大衆の反発をあおって、せっかくのアイク訪日もおじゃんにしてくれってなもんじゃない。もう、アイク訪日阻止の、スローガンもかかげられたし、アンポ反対のデモが毎日のように国会に押し寄せているじゃないか。
Annpo2 あと一か月で自然成立。いよいよ大詰めだね。社会党も労組も全学連もだまっちゃいない。こないだのゼネストの参加者は五百万人だ。こんどの統一行動には、日本全国、津づ浦うらからわんさと人があつまってくるよ。戦後類をみないデモになる。ぜったい見逃せない。日本の歴史が変わるかどうかって日になるね。
ぼくもジャーナリストのタマゴとして、野次馬根性を最大限発揮して、またとない歴史的事件をこの眼でしっかり見ておきたいからね。」

僕は小池君を尊敬していたし、なによりも友情をだいじにしたかったから小池君が行くなら僕もデモに行こうと思っていた。
「ぼくは、きみとの友情をだいじにしたいから、行動をともにするつもりだ。」
「ちょっとまてよ。理論も理由もなく友情から行動をともにする?それじゃ付和雷同じゃないか。なぜ反対か?まず、そこから、きちんとしとかなきゃ。」
「そりゃ、そうだけど、めんどうな話をとびこえて結論をいそいだのさ。」
「問答無用はむかしから日本の民主化をはばむ欠点さ。なにごとも、じゅうぶん、なっとくゆくまで話してから行動しましょ。それが民主主義だよ。チョウさん。」
小池君は僕の姓の長嶋の嶋の字を省いて僕のことをいつもチョウさんと呼んだ。
それから、この日、いまでも忘れない、小池君の長いレクチャーが始まった。

「安保の問題って、日本の敗戦と、平和憲法の制定と、戦後の二極体制と、切り離せないよね。憲法第九条が武力放棄をうたってるからアンポが必要だって関係になる。
逆説的だけど、いまの日本国憲法みたいに、高邁かつ空想的な平和憲法が、いままで守れたのは、ほんとうは日本に米軍が駐留してたからなんだ。
戦争で苦渋をなめさせられ、地獄を味わった日本の国民が、二度と戦争はしたくないって心底思い、戦争放棄の理想を歓迎したのは自然だよね。だれでも戦争をしないで済むなら、そのほうがいいもんね。ただ困るのは、正義や平等の理想をかかげて武力で他国を侵略する国が、現実には存在するし、日本がその対象にならない保証はない。その場合に、わが国は戦争は放棄してますって言ったってなんか意味がある?侵略してくる奴らは、なんにも抵抗がなけりゃ、はい、ありがとうって植民地にしちゃうよね。
Yoshida3 アメリカは朝鮮戦争が勃発するとすぐ、日本に再軍備を要請した。でも、日本は経済的自立を優先したんだ。吉田首相が、日本の基地を提供する条件で、アメリカに軍事的に日本を守ってもらう安全保障条約に調印した。一九五一年のことさ。サンフランシスコ単独講和条約と同じ日に、吉田首相はただ一人の責任で調印したんだ(注3)。
その前に日本はポツダム宣言を受諾して、連合国司令長官マッカーサーの指揮のもと、アメリカは占領政策を実施していった。いまの憲法もさいしょ大日本帝国憲法を改正したものを出したら、はねつけられて、GHQの草案を押しつけられたそうなんだ。」
「うっ、それ、ほんと?ぼくはてっきり、幣原内閣がつくったんだと思ってた。」
「教科書ではそういうことになってる。けど、じっさいはそうじゃないんだ。日本人が作った草案ははねられてしまうんだ。
第九条で日本は永久に戦争を放棄することを謳うよね。軍備をもたない。交戦権ももたない。つまり自衛のための戦争すらできないって宣言だよ。幣原首相はこれを見てびっくりした。けど、占領下でアメリカのいうことをすすんできいてしまうんだ。
いってみれば、アメリカに、コレされちゃったわけだよ。」
小池君は右手で手刀を作り、股の前で振り下ろして男根を切り取る仕草をした。
(つづく)

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2009年2月 8日 (日)

時間研究 -最終回

投稿者 : 叢林亭 : http://www.sorintei.com

2月 5日の投稿記事:「二宮尊徳とジョルジュベス」の中で、ドアガラスのサプライヤー、 サンゴバンが順立をやっているかのように書いてしまったが、これは筆者の間違いで、後に北フランスにあるトヨタの工場の組立ラインで仕事で得た知識との混同だった。

15年前のルノーでしかもサプライヤーが天と地を逆さまにしたままガラスを納め、ラインの車の流れ通りに部品を並べる順立をする筈がなかった。前の記事のそこだけを直しては、既に読んだ方に申し訳が立たないので、項を改めて書くことにする。他にも言い足りないところが相当あるので、この際まとめて最終回としたい。

改善結果がデイレクターが出した30%に達せず15%に終わった理由には、主に以下の点があげられる。

* WF を適用できれば、理論的には速さに違いの25%の改善ができるはずだが、組合は最後まで、WFの適用を拒んだ。ルノーの工場には会社側が厳しい速度の作業を一方的に押し付けるのを防ぐ意味で組合側にも時間研究の専門家が居る。妥協案としてWFではなく、MODAPS というオーストラリア で開発された比較的新しいPTS法の採用が提案された。

* 日本人コンサルタントが提案し、従業員にも喜ばれたのは、作業改善よりもむしろロジステイックの改善だった。ライン脇の部品の置き方が、水平方向に広がり、オペレーターがパーツを取りに行くための移動距離が長く時間が掛る。作業分析をして無駄を見つけるのだが、「移動のロス」というのは一番大きくこれを短縮するだけでもかなりの改善効果が得られる。パーツラックの改善をし、水平方向から垂直方向に発想を転換して、オペレーターが歩く距離を縮め、ともすると二人のオペレーターの動線が交差してぶつかり合うことさえ生じていたので、一人のオペレーターの作業間口を狭くし、ドアと一緒にラインを遡って作業をすることを原則禁じた。

2ドア用、4ドア用のウインドウが巾数メートルに渡って床にじかにパレットに立てて、しかも天地が逆さまに置かれていたので、まず天地を普通の置き方にして納めるようサプライヤーに要求し、それからライン脇で、車の流れの順番通り、部品を並べる「順立て」をしてはどうですかとアドバイスをした。

トヨタではほとんどの部品が、このようにライン脇で「順立て」され、オペレーターは一番手前に置いてあるパーツを順に取ればよく、探さなくても良いようになっている。

* 日本ではWFの速度で作業していた日産の社長のカルロス・ゴーン氏が社長を兼ねている現在のルノーでは、どんな作業時間の決め方をし、どんな標準を使ってるのか興味あるところである。

* ルノーの改善プロジェクトに参加していた間に、僕は個人的にあるエンジニアと話をする機会を得た。彼は長年ルノーに勤務し、テーラーに発し、アメリカで発達したさまざまな生産技術 (ここでは全部をまとめて IE と呼んでしまおう)の手法にも通じていたが、その年にはもう定年退職するという、いわば老境にあった。彼が漏らしたのは、標準化に対する批判的な意見だった。

* オペレーター各人が自らの身体的特徴を把握した上で最もやり易いと感じる動作で作業をした方が、標準作業というようなお手本を決め、作業手順や動作までを強制されてやるよりも速くできる、とその老エンジニアは長年の経験から導き出した結論のように言った。

* 個人主義が発達し、「自由」という概念が、歴史的、社会的に根付き、重要度を占めている西欧の社会では、個人の身体の動かし方まで(会社が)介入するのは「人権」にも触れるデリケートな問題であること。

* 産業革命と資本主義が遅れて発達したロシアと中国に共産主義革命が起こり、ドイツ、イタリア、日本にはファシズムが起こった。いずれも全体主義社会で個人がその所属する国家なり会社なりに犠牲を払うことが要求され、個我を滅却できる者が英雄視されるという風潮を生んだ。

* 東洋的な職人芸、名人の仕事のやり方の伝統があって、工場でも「カンとコツ」に頼り、言葉やデーターとして客観化されていない、いわば神秘のベールに包まれた技術の世界と労働組織に、西洋合理主義の光を当てた。日本における初期の「改善」と「合理化」には肯定すべき功績があった。

* しかし合理主義が行き過ぎては、弊害が起こる。「これ。君の仕事。僕の仕事じゃない。」分業が行きすぎると官僚主義の弊害が起こる。「隣の人が困ってたら助ける。」「同僚に迷惑をかけたくない。」狭い土地に人間がひしめき合う日本の地理的社会的条件から本能のように自然身につけた叡智が職場倫理と結びつき、「分業のカベを破れ」とかIEの手法としてスローガンに掲げられることが比較的楽に抵抗なく受け入れられる。日本企業の生産性の高さは、こういったところにもよるのではないか。

* 話を「時間研究」に戻そう。動作分析は作業を観察するところから始める。人間の眼というのは不思議なもので、同じ運動を繰り返し見ていると、はじめは速すぎて細部がわからなかった動作がゆっくり見えてくる。

そう、高速度カメラで撮影するのと同じだ。ゼノンの「飛んでいる矢」もゴルフのショットのヘッドがボールに当たる瞬間を超高速度カメラで捉えた映像も、猛烈なスピードで移動している物も停って見える。

* トヨタの名古屋から指導に来た人に作業研究のやり方を訊いたことがあるが、動作分析はヴィデオで撮影しストップウオッチなど使わないという返事だった。ヴィデオには各映像にコンマ何秒の単位で時間が表示されるものがある。

* 「アキレスと亀」: 理詰めでは誤謬のないように見えるゼノンの論理も良く読んでみれば誤りがみつかる。「パラドックス」と呼ばれる所以は、そもそも結論が現実と合わないからである。ゼノンは、おかしいのは前提においた「一ではなく多である」というピタゴラス派の仮定の方だと言いたかった。前提が間違っているから結論がおかしくなる、と逆説を使った。空間は多ではなく分割できない「一」であるとしなければこのようなおかしなことが起こると言いたかった。

* だれもがゼノンの「パラドックス」の結論を聞いて「おかしい」と思う。現実と合わない。だが同時に、だから前提である「一ではなく多である」という説が間違っているとまでは感じられない。ゼノンの論理にも無理と飛躍があるのではないかと感じる。

* 単純に、われわれが知覚をとおして日常的経験から得られる「アキレスと亀」の競争のイメージを記述するとこうなる。

亀は重たい甲羅を背負いながら、甲羅の端から得た出た短いヒレのような平たい足でえっちら、おっちら、少しずつ進んで行く。一方のアキレスはトロイ戦争に出陣するPhoto_3 や一気にギリシャを優勢に導くほどの不死身で俊足の英雄である。トロイ軍の豪傑ヘクトルを斃すが、パリスの放った矢が唯一の急所、脚の腱に刺さり、アキレス腱の名を残して死んでしまう。亀と競争した時はまだ無事だったらしい。

俊足の英雄の走る速さは、100メートルを9.69秒で世界新を出したウサイン・ボルトと競争しても勝つほどではないか。オリンピックもギリシャが起源だから英雄に華を持たせよう。

* ゼノンの論理には誤りがある。「アキレスが亀に追いつくには・・・亀の出発点に達しなければならず、達した時には亀は先に進んでいるから、さらに先の亀の出発点に到達しなければならない。以下同様にアキレスが通過しなければならない点は無限にあり、有限の時間内に無限に触れることは不可能。だから亀に追いつけもしなければ追い越すこともできない。」

ここは無限回の論理操作と時間的な無限との混同がある。論理操作:「考えをいくらでも続けることができる」ということから時間的な無限:「いつまでたっても追いつけない」という結論に飛躍がある。

数学的にも有限の項を無限に集めた級数の和は有限に収まることがあるそうだ。アキレスが亀の居た地点に達するまでの時間は何度繰り返しても有限であり、これらをすべて合計してもやはり有限の時間しか経過しない。

イメージに戻ろう。運動というのは高速度カメラで撮った「飛んでる矢」が瞬間的にある位置を占めているように見えるから飛ばないと言うだけで、実際は各瞬間も矢は移動を続けている。

アキレスは亀に追いつくまではもちろん追い越せはしないが、無限に分割し得る空間を「あっ」と言う間に飛び越え、追いついた瞬間、もう追い越している。 革ヒモつきのサンダルを履いたスマートな脚は、よちよち歩きの亀を瞬時に跨ぎ越してしまう。

Copy グラフを使って考えても明らかだ。縦軸に距離、横軸に時間をとって、亀とアキレスの出発点に差をつけておく。アキレスはスタート後猛烈な勢いで加速しカーヴは亀に追いつく直前で急角度に上昇する。このカーヴは亀の斜線より急勾配だから、二本の線はある点で交じわる。すなわちアキレスは亀に追いつき追い越す。

「追いつくためには途中の通過点に達しなければならない。」このテーゼも間違っている。追い越すという行為は、目標である亀の現在の位置こそが対象であり、そこへ一秒でも早く到達することが問題であり、途中の通過点などどうでもよい、結果的に、何秒でこれらの通過点を過ぎましたなどと、あと追い越すために何キロあるとかの目安、手段として利用するにすぎない。脱水症状を起こさないようコップで水を補給するなどといった場合のみに通過点が問題にされるだけである。マラソンの全コースの長さに比してコップの大きさは点とみなし得るが、実際のコップには大きさがある。掴みそこねたら給水もできない。

線は無限の点に分割できるのか?ユークリッド幾何学の点と線の「公理」が高校へ入ったばかりの数学の最初の時間に出てきて、「学校とは真理を教えるもの」「真理とは現実のありのままの姿」だとばかり思い込んでいた少年は、「疑ってはならない公理」が現実と違うことに衝撃を受け、そんな「ありもしない架空の決めごとを出発点にして成り立っている幾何学」、その兄弟の代数、微分、積分学というものとの関係を完全に断ってしまった。

つい先日、レオナルド・ダ・ヴィンチが「点とはありうるかぎりのものよりさらに小さいものであり、線はその点の運動によって作られる。線の極限は点である。」とその手記に書いていたことを知って「さすが」と思った。ユークリッドの「公理」が「点とは位置だけあって大きさのないもの」だとか「線」は点と点を繋ぐ「距離だけあって幅がないもの」などと、「無」であることが存在することなど、どう想像力を働かせても理解できない定義をして平然としていることと比べて、ダ・ヴィンチはしっかり現実と概念の違いを把握した定義をしているわいと感心した。

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2009年2月 5日 (木)

二宮尊徳とジョルジュ・ベス

投稿者 叢林亭 : http://www.sorintei.com

かれこれ15年も昔の話である。

ルノーのサンドヴィル工場といえば、つい最近、1000人の人員削減が報道されたから、名前を耳にした方もおられるだろう。Le_havre_2

セーヌ川の河口と、ル・アーヴルという港町の間の平坦な地に広大な工業団地があ る。サンドヴィル工場はその中にある。

ドア・ラインの改善を依頼されたのはこの工場だった。当時で既に工員の平均年齢が43 歳。ルノーの中で一番生産性の低い工場と担当の女性ディレクターは言った。

日本に招かれ日産の社長となって建て直しをしたゴーン氏はシュバイツァー社長を引き継ぎ、今やルノーと日産の社長を兼任している。

「とうとうやるか・・・。」日産に凄腕を振ったゴーン氏のことである。一番生産性の低い工場を放っておくわけがないな・・・、とニュースを見て思った。

ドアラインは組立工場の中にあり、メインラインに付属するサブラインの中でも一番大きい。全長が30mほどある。床と天井の間を走る直線状のコンベアに固定されたハンガーの左右両側にドアが吊り下がっている。

ドアが流れてくる順番は、メインラインの車の流れと同期化されている。塗装工場でボデーと一緒に塗装された車は一旦ドアだけ分離されドアラインに流される。部品が全て組みつけられてから再びメインラインに送られボデーと合体される。

車種はラグナだったが、大きく3ドアか5ドアか、ウインドーの開閉が自動か手動か、などが記された指示票を、まずオペエーターは見て、新たに入ってきたドアに取り付けるべき部品を知る。3ドアなら大きな2枚が左右両側に下げられ、5ドアならフロントとリアの4枚のドアが2つのハンガーに左右二枚づつ下げられて入ってくる。メインラインのスピードとドアラインは差があり、バッファーがその間の調整をする。

Photo_2 ラインの中央は1.5m位の幅のコンベアがハンガーと等速で移動している。オペレーターはコンベアに乗ればドアと一緒に移動する。パーツを取りに行くときはコンベアから外れ、固定床の廊下を横切り、ラインに沿って並んでいるラックの所へ行く。必要なパーツを手に取ったら、またコンベアに乗りドアと移動しながら組み付ける。その作業を繰り返す。

一人のオペレーターはパネル、ガラス、ドア・ミラーなどの大物はそれ一つだけ、細かい部品ならば平均3つほどのパーツを組み付ける。一つのハンガーの両側に一人ずつオペレーターが付き、一直で30人ほどが作業をする。

ルノーのプロジェクトの最高責任者は、まだ40歳になるかならないかの若い美人の女性デイレクターだった。ポリテクニック出身のエリート・エンジニアで、生産技術、ロジスティックなど幾つかの部長を兼任し、取締役候補だった。言い忘れたが、生産技術はフランス語で、メトッド(methode)、デカルトの「方法叙説」( Discours de la methode)と同じ、「方法」、つまり「作り方」のことである。

彼女は、この工場は伝統的にCGT, CFDT など組合が強く、はじめは工場長も、このプロジェクトには反対で説得に数年を要した。やっと合意を取り付けたが、いくつかの条件付きで改善をやって欲しい、と言った。

① 組合との合意でラインで作業するオペレーターをヴィデオで撮影しない。
② 現状のラインは直30人もオペレーターが居て過剰である。人員の30%削減を目標にして欲しい。

ルノーは本社から改善チームに5人出してくれた。日本側のコンサルタントは、もと日産で、この分野で仕事をしてきた二人のエンジニアだった。二人は、前もって、改善によりラインを外されたオペレーターには必ず他のポストに就かせ、決して解雇はしない、と全員に約束して欲しいとデイレクターに頼んだ。

ヴィデオで撮影ができないために、古典的な作業観察から始め、要素作業に分解し、ストップウオッチで時間計測をし、動作分析をし、ムダを見つけ、改善を施し、それぞれの動作に WFの時間を当て嵌め、タクトタイムに余裕が生じたら、他の作業を持ってきて組み入れ、全体の作業を編成しなおした。実行可能かラインで検証したのち標準作業とした。

結果は15% の改善しかできなかった。デイレクターは失望と困惑を隠さなかった。部下から、彼女の「お勉強」のために無駄な時間と金をたくさん使ったと非難された様子だった。

この時代すでに、ルノーの取締りに日産出身の日本人が居るという話を聞いた。Kaizen2 「Kaizen」という標語は工場のあちこちに貼ってあり、その成果の報酬を個人やグループに与えるためのルノー独自の計算式まで持っていた。

結果として4.5人を減らすだけに終わったが、動作改善だけでなく、ライン脇のパーツの置き方、ロジステイック面で、オペレーターがより楽に作業できるように改善をやった。

例えば、ドアガラスはライン脇の床の上に、どういうわけか、すべて天地が逆さまに、パレットに並べられていた。オペレーターは、ガラスを取り出すために、毎回、腰をかがめ、運びながら天地をひっくり返す作業をしなかればならなかった。

パレットを腰の高さの台に乗せ、せっかく順立てされ、並べられたガラスを、そのまま運んでドアに組み入れられるよう、天地を普通の置き方に変えて欲しい。そうサプライヤーい注文し、変えさせたらどうかとアドバイスした。

ロジステイック担当は、ガラスはサンゴバンから買っているが、大会社なので、うちの言うことをすぐには聞いてくれないとこぼしていたが、相当粘って、最終的には要求を容れてもらった。

改善の話が長くなったが、具体的に書かなければ解りにくいだろうと思ったからで、本当は、時間研究と動作研究についてもっと具体的に書こうとしたのだが、15年以上昔のことであり、資料はとってあるのだが探し出すには時間がかかり、記憶が曖昧になってしまって正確を期しえない。

改善はオペレーターが毎日そこで仕事をし、一番良く知っている職場を、楽に楽しく仕事をしながら効率が上がるように、作りかえることでもある。それぞれが気づいたことを持ち寄って、発案し、作り変えることに意味がある。

人は誰しも、他人から強制されてやるよりも自分からやることに喜びを見出すものだ。自分で発案から実現までをやると、職人や芸術家が感じると同じ自分が作った物、すなわち作品に自己を投影でき、喜びが生じる。ナルシシズムと共通なものがあるのだろうが、労働の疎外からの解放に少しは繋がる道が開けるのではないかと思う。だが、改善=「人減らし」という極端な誤解は今でもある。

ベルトコンベアに乗った流れ作業が非人間的だと批判され、労働の疎外からオペレーターの解放を狙って、ボルボが、実験をしたことがあった。4・5人のグループで初めから完成まで車を作る喜びをオペレーターが味わうことのできる島方式の作り方をやった。しかし、採算に合わず、このやり方は放棄された。

労働者の疎外からの解放を掲げたマオイストと無政府主義が合体した極左組織がフランスで活動した時代があった。

サンドヴィルの工場の入り口には、花に囲まれて小さな石碑がある。そこには、Georges Besse (1927 -1986) と刻まれている。フランスに原子力産業を確立し、ルノー公団の総裁を務めたエンジニアの名前だ。

Action_directe4 1986年11月17日、それまでの国営公団ルノーを経営不振から立て直し、民営化に向け献身的な努力を続けていた総裁・ジョルジュ・ベスは、極左組織「アクション・デイレクト」のテロに会い、暗殺されてしまった。

パリのモンパルナス墓地と並行して、とねりこの並木が美しいエドガー・キネ通りがある。その通りの自宅に住んでいたジョルジュ・ベスは、その夜もいつも通り運転手に送って貰ったが、自宅の門の数メートル手前で車を降り歩いたところを、木の影に隠れ待ち伏せしていたテロリストに銃殺されたのであった。撃ったのは女性で、今Louisrenault_2 も獄中にいる。

「フランスで改善をやるのは命がけなんだよ」と冗談混じりに、日産を退職してコンサルタントになった二人に、僕は言った。日本では、社員がもっと素直だし、みんなで改善をやって職場を良くしてゆこうという意識が自然と出てくる。そのような風土があり、職場に倫理観が根付いている気がする。それは、なんなのだろうと昔から考えていたのだったが、近頃、昔のことを思い出すことが多く、小学校の記憶を辿っていてふと気がついた。それは、校庭の隅に「二宮金次郎」の古い石像が立っていたことだった。

戦後間もない頃で、先生方も、「二宮尊徳」のことなど、話題にすることは稀だった。偶に「二宮金次郎」の話を聞いても、子供の僕らは、背中に薪を背負い、本を読みながら歩いてなんかいると、石につまづいて転んじゃうよなどと冷やかし半分の笑いを浮かべながら聞いたものだった。

歳を取ってから知ったが、「二宮尊徳」は江戸時代に活躍した、コンサルタントのはしりのような人で、普段は田舎で百姓をしながら暮らしていたが、たびたび幾つかの藩に嘱望され財政の立て直しをしたのだそうだ。

橋川文三の書いた本(「昭和維新史試論」九、地方改良運動)を学生時代の友人に貰って読んだのだが、戦前の日本には、地方の市町村で自主的な行財政改革の運動があったという。その運動(報徳運動)と日本の方々に「二宮尊徳」の像が建てられたことと関係があるということだった。

これは、現在の日本企業の生産性の高さとも関係する興味ある話なので、もっと調べ考えた上で別の機会に書きたいと思う。

自分で発案し段取りをし、物を作ることがなぜ、人間の喜びとなるのか?

笛を作ったり絵を描いたりしながら、そんなことを考えている。

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ゼノンの逆説 - 時間研究 その3

投稿者 : 叢林亭 : http://www.sorintei.com

PTS法は建設工事の見積りなどにも使われている。自動車の修理や定期点検の料金表を作る時にも、この手法があるから前もって実際と大差のない金額が算定できる。今日の我々は知らず知らず、この手法のお世話になっているのである。

車の5万キロ点検には、オイル交換、ブレーキ点検、フィルター交換など、行うべき作業項目が決められているし、それぞれの作業に、メカニシャンが要する時間が標準時間として決められているから、メカニシャンの人件費+オイル代+諸経費で料金が出せる。

公共事業、ビルの建設工事の入札にも、工事を行う前から、金額が見積もれるのは、建設会社が各種工事の標準を持っているからである。それぞれの作業に要するマンアワーが幾らと、データの蓄積があるから積算ができる。

自動車工場の組立ラインでは、モデルチェンジや増産、減産など生産台数の調整Photo が必要になり、ラインの編成変えをやる時も、現場がもっている標準作業書や標準時間をベースに行われる。

僕は一度だけ、現場でタイムスタディーをやり、PTS法を使った組立ラインの改善プロジェクトに参加した経験がある。その時、作業を観察し時間をストップウォッチで測り、動作を分析し、無駄を排除し、それぞれの細分化した動作にWF の時間を割り当てた後、もう一度、ひとまとまりの連続した作業手順に組み立て直すのだが、それぞれの動作の合計時間、いわば机に座り紙の上で計算で出した標準作業時間が、動いているラインで実際に作業して貰った時間より、ともすると長くなったという予期に反した結果が出ることがあった。

F1renaultcopy 僕は、そのことにひどく興味を持ち、時間や運動を分析して扱うことと、人間が肉体と気を使って、動きながら行う一連の作業、つまり現実の運動のダイナミックスとでは、どこかに違いがあると気づいたのだった。

そして、この問題意識は、西洋では遠く古代ギリシャから、東洋では「心身一如」という言葉として昔から考えられてきたということに思い当たった。

みなさんは、①「飛んでいる矢は停まっている」。②「アキレスは亀を追い越せない」というゼノンのパラドックスをご存じだと思う。紀元前450年頃、ギリシャのエレア派の哲学者が唱えた逆説は、それぞれ以下の論理で成り立っている。

①「飛んでいる矢も各瞬間には一定の位置をしめている。一定の位置を占めているものは、その瞬間停まっている。矢の始点から終点までの時間は、その間の瞬間から合成される。したがって、飛んでいる矢は停まっている。」

②「亀より後の位置から、俊足のアキレスが出発する。アキレスが亀を追い越すには、まず亀の出発点に到達しなければならない。そのとき、いくら足の遅い亀でも、少し先に進んでいる。以下同様にして、アキレスは常に亀の居た位置に到達してからでなければ先を行く亀を追い越せない。アキレスと亀を隔てる距離、直線的空間が分割できるとするならば、この分割は無限に可能な筈だから、有限の時間に無限の点に触れることはできない。よって、アキレスは亀を追い越せない。」

2500年の間、いろいろな哲学者が、この逆説をめぐって頭をひねってきた。この一見、間違っていないように思える論理が現実と大きくかけ離れているのは、前提や論理のどこかに誤りが隠されているからだろうと、懸命になって、ゼノンの詭弁を見抜こうとした。

20世紀初頭のフランスの高踏派の詩人ヴァレリーも魂を悩ませたらしく、アレクサンドラン(12音節の定型詩 )「海辺の墓地」で、こう唄っている。

Zenon ! Cruel Zenon ! Zenon d'Elee !
M'as-tu perce de cette fleche ailee !
Qui vibre, vole, et qui ne vole pas !
Le son m'enfante et la fleche me tue !
Ah ! le soleil...Quelle ombre de tortue
Pour l'ame,
Acille immobil a grand pas !

ゼノンはこの逆説を「真の実在は一でなく、多である」と説いたピタゴラス派に反対し「真の実在は一であって、多ではなく、また分解もし得ない」と説いた師のパルメニデスを弁護するために唱えた。

このゼノンのパラドックスは、時間と運動、有限と無限、直線と点、抽象と具象、概念と知覚、実在と認識など哲学の根本的テーマについて考えることの僕にとっての出発点となった。

いろいろな意見の中で、W. ジェイムズの概念に対する知覚の優位を説く意見と、ヴァレリーと同時代人のフランスの「生の」哲学者ベルグソンの「運動そのものは持続であって分割不能である」という言葉が解りやすくて好きだ。

これひとつだけの例で、西洋の分析的手法、西洋合理主義の終焉を言うには飛躍がありすぎるが、アメリカのビッグ3 が経営破綻に陥ったことと、全くの無関係ではありえないとも考える。

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2009年2月 2日 (月)

動作研究: 時間研究 その2

投稿者: 叢林亭: http://www.sorintei.com

フレデリック・テーラー (Frederick Winslow Taylor , 1856 - 1915) は、ベスレヘムPhoto 製鋼所に職工として働いた時の体験と、職長になった時の責任から、゛一日の公正な作業量゛の必要を痛感し、初めてストップウォッチを工場の作業現場に持ち込み、「ズク運び作業」、「ショベル作業」の研究を行い、ついに1910年「科学的管理法の原理」を出版した。テーラーの行った研究は「時間研究( Time Study )」と呼ばれ今日でも有効なものである。

テーラーとほぼ同時代、レンガ工だったギルブレス( Frank B. Gilbreth 1868-1924)は職人の動作が各人勝手な方法で行われていることに注目し、唯一最Frank_guilbreth 善の方法があるはずだとしてレンガ積みの作業を徹底的に追及し、材料(レンガ、モルタル)、と用具 (鏝、モルタルを入れた箱)、作業位置(ワークと作業者の位置関係)を研究した結果、工法を工夫さえすれば、従来の数倍の速さで楽にレンガが積める事を証明した。彼は研究をさらに推し進め、人間の動作を 17 の「動素」に分け、それに自分の名前を逆に綴ったサーブリック (therblig )と名付けた。ギルブレスは「動作研究」の生みの親である。

ギルブレスはテーラーとも親交を結び、科学的管理法に動作研究を加えた。時間研究と動作研究は、総合され、後のPTS法の発展を促すことになる。

PTS法 ( Predetermined Time Standard System )Cak3yber

1935年頃、クイック ( Quick ) らはラジオ工場で精密時計を用いて極微動作の詳細なデータをとり、運動距離、身体部位、重量の抵抗などの影響を研究し、さらに1939年、RCA の工場で延べ100万人時について実験調査をし、その結果 WF 法( Work Factor System ) を完成した。

いっぽう、メイナードらが、ウェスチングハウスで研究を行い、1948 年、MTM 法( Method-Time Measurement ) として一般に公開した。

MTM 法が一般に公開されたために、アメリカだけでなくヨーロッパ各国にいち早く利用されるに至った。これに対しWF 法は、基礎データが依頼のあった事業所のみに渡されたため普及が遅れた。

ただ日本だけは、特別な好意により、1950 年に日本支部が日本能率協会内に設けられ、欧米に先駆けて文献が公開された。

MTM 法が日本に導入されたのは1956 年のことで早稲田大学にその日本支部が置かれた。

このような歴史的経緯で日本の大部分の事業所はWF 法を採用し現在も使用している。

では、このふたつのメソッドのどこが違うか?

1) WF 法は、MTM 法に比べて作業速度が25% 速い。 WF 法は請負速度(125%)、 MTM 法は常雇い速度(100%)ということである。日本の工場は常雇いが皆請負速度で仕事をしてきたということになる。

2) 分析単位の大きさの違い。MTM 法は大体サーブリック単位なのに対し、WF法は、もっと細かい分析単位。

Standards3 ヨーロッパの工場を訪れると、ゆったりしたリズムで仕事をしている印象を受ける。仕事の速度を決める基準が違うのだから当然なのだ。メートル法とヤード・ポンド法と距離にも違った規格が現在も使われている。

このブログの初めの頃、距離の単位について触れたが(2008/5/01投稿:メートル法、同/5/12: 時間についてをご参照ください)、それはこの「仕事の速度」にも規格があり、日本とフランスでは適用されている規格が違うのだということを言うための伏線だった。やっと、言いたいことの核心へ触れることができてほっとしている。

WF 法もMTM 法も標準時間設定法の二大代表で、既設時間標準法= PTS法 ( Predetermined Time Standard System )といわれる標準である。

PTSは、Predetermined という言葉が示すとおり、「前もって定められた時間 」を、すべての人が行う作業、または作業方法を、それに要すべき基本動作に分析し、各基本動作の性質と条件に応じて、「当て嵌める」方法である。

それは、次のような前提に基づいて築かれている。

「人間の動作は、それが機械その他により、速度が制約されない限り、その作業に習熟した者が、一定の努力で行ったならば、だれが行っても、だいたい、一定の時間で行われる。」

この前提は、なにも恣意的に決められた観念的なものでなく、前出のクイックや メイナードなどの実験に基づいた根拠のあるものなのだ。

皆さんは、「だれが行っても、だいたい、一定の時間で行われる。」というところに同意できるだろうか?

男も女も、若き青年も年寄りも、欧米人も東洋人も、同じ動作なら同じ時間で行われる、というが本当だろうか ?

パリの中華食品店で買い物をすると、フランス人のキャッシャーのスピードというより、のろさに慣れたわれわれは、その迅速さに驚かされる。数倍は早いのである。この違いはどこからくるのか ?

同じ作業に、こうもあからさまな違いを示されると、上のPTSの大前提が、もしや、ユークリッド幾何学における「公理」みたいな、イデアの世界にのみ存在する、ある程度現実とは距離がある仮定ではないかと疑ってみたくなる。

だが、上の定義には、ちゃんと、「一定の努力で行ったならば」という条件がついている。しからば、速度が数倍も早く感じられる、中華食品店のキャッシャーは人並み以上の努力をし、フランスの店のキャッシャーは努力を怠っているということになる。

注記 : この項を書くに当たり次の本に援助を仰ぎました。

 日刊工業新聞社 「作業研究」 通商産業省産業構造審議会、管理部会編

(つづく)

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時間研究

投稿者: 叢林亭: http://www.sorintei.com

生産技術について書いておこう。

アメリカのサブプライムに端を発したウォール街の金融危機は、あれよあれよという間にそこらじゅうに蔓延し、2008 年秋まで好景気だったかに見えた世界が、あっという間に奈落の底に転落してゆくかのようである。

オバマ米新大統領の誕生とともに、世界中の人々が新しい変革の時代の到来を望み、世界が今までとは全く違ったふうに変わろうとしているかの予感を抱いているようだ。どんなふうに変わるか誰にもわからず示されもしないだけに不満と不安が心の底に渦巻きとなって次第に大きくなってゆくようである。木曜にはパリで推定100万人がデモをした。

GM、フォード、クライスラーの ビッグ3が揃って経営破綻に陥り、公的資金の援助を受けた。しかし、この援助は一時凌ぎに過ぎず、根本的な構造改革、体質改善をしない限り、いずれは三社のうちひとつは倒産するだろうという予想もある。

こういった現象を、ある評論家が、フォード式大量生産、すなわちテーラーシステムの時代の終焉だと要約したが、それが僕の注意を惹いた。もし当たっているなら、とても大変なことに感じる。長年、それをめぐって彷徨ってきた、僕の中のひとつの重要なテーマに解答が与えられるかもしれないからである。

ヘンリー・フォードがT型フォードの生産を開始したのは、20世紀初頭の事である。それまで裕福なエリート層の乗り物だった乗用車を大衆も手の届く価格で生産を可能にした。それは全てのパーツの規格化、ロット方式だった生産から、生産工程を細分化し、分業の各工程を水平な一本の連続したラインに効率よく並べて流す、という流れ作業によって可能にした文字通り革命的な生産方式だった。同じ型の車を大量生産することによりコストを大幅に下げることができた。そして、細分化した工程の作業はさほどの熟練を持たない数週間の訓練を経た職工で充分こなされるものとなった。

一方で、チャップリンの「モダンタイムス」に象徴されるように、流れ作業ラインに乗った工員たちが細分化された作業の繰り返しを強いられ、生産現場における労働の疎外という問題の象徴とされ、システムの非人間性が批判の対象にされた。さらに、流れ作業ラインの各行程は標準化され、そこで働く職工は簡単に入れ替えが利く、部品と同じ扱いを受ける脅威にさらされることになった。

1910年代、カリフォルニアのフォード工場を、ふたつの違った国から来た、二人の自動車工場経営者が訪れた。ルイ・ルノーと豊田喜一郎である。ふたりは、どちらも、この革命的な生産ラインに感銘を受けた。しかし、その後の反応はむしろ正反対だった。

Oldrenault1 ルイ・ルノーはフランスに帰るやさっそくフォード生産方式をそのまま適用しようとし、労働者の強固な反対に遭う。ある部分ルイ・ルノーの無理解と、十分な環境整備が出来ていないまま急いで形だけを真似ようとした未成熟が原因だった。

一方、豊田喜一郎は、フォード工場の現場を見て、このような大量生産方式は日本の現状に合わない。日本は市場に合った独自の生産方式を開発しなければならないと考えた。トヨタ生産方式の発想の根源であり、多品種少量生産とかプル方式とか、顧客の嗜好と需要から遡って生産計画を立てるといった欧米とは逆の発想による生産方式の出発点がここにある。それからほぼ百年後、2008年秋にはトヨタはGM を抜いて世界一の自動車会社になった。

ルイ・ルノーがプローニュ・ビヤンクールの工場に取り入れようとしたフォードの生産方式は労働者の反対に遭い、45日間のスト、ロックアウトという歴史的な労働争議に発展した。ルイの権威主義的な態度がますます反感を買い、終いには騎馬警官隊が出動するなどした。

1 時に第一次世界大戦勃発寸前の危機的状況にあり、ドイツとの戦争か平和かをめぐって労組による政治的な対応も加わり争議が増幅されたとも言われている。しかし、最大の原因は、機が熟していない、つまり現在の言葉で言う 「5S」 が出来ていない職場に、いきなり流れ作業のラインを設置し、時間を基準にした能率給を導入しようとしたところにあった。Louis_renault1

「5S」をご存じの方もおられると思う。整理、整頓、清潔、清掃、躾の頭文字のSを取った標語で、生産現場で改善などの生産性向上運動を始める前に絶対必要な基本的環境整備のこと。これをした後でなければ改善もうまくゆかない。

Renault7_2  ラインで働く工員にはそれぞれ各担当工程のパーツと工具が必要だ。必要な物が必要な時に瞬時に手に取れる環境が整備されていることがラインが潤滑に流れる絶対条件なのだ。ルイ・ルノーがフォード生産方式を導入しようとしたプローニュ・ビヤンクールの工場は、それが出来ていなかった。工員さんたちは、工具と部品を取りに行き、探し当てるまでに時間をとられてしまう。家内工業的な職人のアトリエのような職場が、そのうえ乱雑なままだったら、そこで能率給を適用される工員たちこそいい迷惑であり、悲劇である。反対するわけだ。

この時の争議とルイ・ルノーの態度は、その後のフランスの労働界の語り草となってRenault5 引き継がれた。生産性と聞いただけでアレルギー反応を起こしてしまうのが、多くのフランスの労働者たちなのだ。ほぼ一世紀を経た現在でも基本的に変わっていない、というのが僕が現場の経験を通じて実感したところ。

読者は「時間研究」(タイムスタディー )とか、作業研究といった言葉を耳にしたことがおありだろうか。フォードがT型の生産を開始したと同じ時期、1910年にフレデリック・テーラーの「科学的管理法」という著書が刊行された。

テーラーは、それまでの「どんぶり勘定」的な、親方の裁量ひとつで賃金が決められていた単純労働の世界に初めて科学的考えを導入した人である。現代の経営工学( IE )の始祖に当たる人である。

彼は労働という連続した活動も、いくつかのまとまった要素となる作業の集合であり、これらの要素となる作業に、ある一定の時間を割り当てることが出来るのではないかと考えた。要素作業という考えと単位時間という人間の活動に分析的思考を当て嵌める合理的管理法の誕生だった。

このテーラーの考えは、後に時間研究と呼ばれる、さらに精密な方法にまで発展する。 ( つづく )

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