カテゴリー「芸能・アイドル」の記事

2009年4月21日 (火)

三人の美智子-その1

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

日本女性の名前のうち美智子という名は1931-1947年、1952-1959年の間連続してベストテンに入っているという(フリー百科事典ウキペデアによる)。中でも1959(昭和34年)の今上天皇(皇太子明仁親王)と皇后陛下(正田美智子さま)とのご成婚の折は、ミッチー・ブームとして流行した。

6 1959年4月10日のご成婚パレードはテレビで放映され、家にもやっと入ったばかりの白黒テレビで観た。当時、僕は満14歳と6カ月で中学3年だった。西洋風の無蓋馬車に乗られたお二人が沿道の観衆に向かって手を振るお姿は少年の脳裏にくっきりと刻まれた。途中一人の青年が飛び出し、あやうく馬車に触れるところまで近づき取り押さえられた映像とともに。

東京大空襲で焼け出され、新たに別に貰った土地に、親父が隣に越してきた同郷の若い衆の手を借りて、焼けぼっくい、焼けトタンで建てた掘立小屋に、小学校から中学2年まで住んでいた僕は、自分たちとは違った世界、皇室を中心とする上流社会というものが日本にもあることを、皇太子ご成婚によってまざまざと知らされた。

「テニスコートの出会い」という言葉が流行語になったが、お二人が軽井沢会のトーナAlbert_monaco_tennis メントで出会われ、皇室の反対を押し切って明治以来初めての民間出身の女性を妃殿下として迎えられたということも少年の耳に新鮮に聞こえた。

正田美智子様は1957年、ミッションスクールの聖心女子大学外国文学部(英文学)を首席で卒業された。在学中はプレジデント(全学自治会の会長)として活動された。プレジデントとなった学生にはキリスト教の洗礼が推奨されるが美智子様は洗礼を受けなかった。

僕はものごころついてからというもの共和制に心惹かれていたので、皇室に係る様々な話題には無関心でいた。今上天皇皇后両陛下の間には徳仁親王、文仁親王がおられ、ともに旧皇族、旧華族以外から雅子様と紀子様を迎えられ、宮中という日本の中で最も古く閉ざされ、伝統と権威が支配する世界に新風が吹き込まれたのは良いことだと思う。

かつて、軍国主義を許し、開戦の詔勅を発し、天皇の名のもとに膨大な数の国民と周辺の民族に、おぞましい死と残虐な犠牲を強いた戦争の最高責任者として昭和天皇が責任をとらないのはおかしいと考えたが、歴史を読むにつれ、こうなったことがかえって良かったと思うようになった。

僕の住むサン・ファルジョーという小さな町には古い城があり、フランス大革命時の城主はルペルチエという20歳そこそこで裁判官になった天才的司法官だった。国民議会でルイ16世の処刑に投票し、たったの一票差で断頭台に送ることが議決された。ルイ16世の甥のフィリップ・ドルレアンとルペルチエが処刑に賛成票を投じたために一票差で過半数となり国王処刑が決まったのである。投票のその晩ルペルチエは王の護衛パリスによって暗殺されている。

王政の廃止と共和政は、国民自身が自らの責任と引き換えに決めたことである。

日本は大東和戦争、太平洋戦争と呼称はさまざまだが、戦争に負け、無条件降伏をした。それまでは天皇を現人神と担ぎあげていた。アメリカを主体とする連合国に占領され、その最高責任者が、マッカーサーだった。昭和天皇がマッカーサーの許に赴き、私の身はどうなってもよいから国民を頼む、と無私の御心を示されたことにマッカーサーは感動し、東京裁判でもオーストラリアはじめ天皇の責任を追及すべきだとの主張を抑えて、責任は問わないとしたのだった。

敵将によって敗戦国の最高責任者であるはずの天皇は日本国民の象徴とされ、皇室は温存された。敗戦日本を廃墟から立ち直らせ同盟国として取り込むことが極東の平和に必要という地政学的判断が働いたとともに、ふたりの元帥のあいだに流れた人間的な心の交流が無視できない。マッカーサーはフリーメイソンだったという説もある。朝鮮半島の危機が高まるにつれ日本の再軍備がアメリカによって要請されマッカーサーは更迭された。

憲法だとか国体だとかは国民自身が決める性質のものである。外国の力によって押しつけられた、などということ自体恥ずべきことだと認識しなければならない。たとえ現状と同じ結果が出たとしても僕は、立憲君主制か共和制か、自衛のための軍備は持つと憲法に明記して、あまりにも現状との乖離があきらかで矛盾をさらし続けることは、国民のモラルのためにも良くないので、いい加減止めるべきであり、近年中に日本国民は自分らの手で世界の現状と自国の将来を見極めた上で憲法を定め直し、体制を選ぶべきだと信じる。もし現状と同じ結果が出るのならば、それは喜ばしいことではないか。自国の憲法を定められない国は独立国とは言えない。

坂本竜馬にしろ北一輝にしろ、日本の革命に「天皇」を担ぎあげることが必須と考えた。フランスでさえたったの一票差で王制廃止、共和制が決められた。地球はひとつになっても、それぞれの地にはその土地に特有な伝統があり最適な統治の形態がある。ラストエンペラーで皆様ご存じの清国の皇帝溥儀に革命軍は、庶民の生活を知るよう質素な生活をさせ首を刎ねたりはしなかった。

Gracekellyandprincereignierswe ご成婚から話が大きく跳んでしまったが、ヨーロッパの王室では民間から妃を迎えることは昔から珍しいことではなかった。やはり僕が中学生の頃、グレース・ケリーがモナコのレニエ皇太子妃に迎えられた。結婚式の写真をみると皇太子は軍服姿。上の写真のテニスを楽しむのは二人の間にできた現アルベール公。

グレース・ケリーが女優時代にゲリークーパー主演の「真昼の決闘(High noon)」に退職したばかりの保安官の花嫁役として出演している。スタンレー・クレーマー監督のこの映画は赤狩りのマッカーシー旋風が吹き荒れる最中に作られ、映画作りの手法、特に音楽と時間の扱いが傑出しているので何度も見た。グレース・ケリー演ずる花嫁はクエーカー教徒。殺人や戦争を拒否する絶対平和主義が信条のプロテスタントの一派。ちなみに若くして死んだ永遠のスター、ジェームス・デイーンもクエーカー教徒だった。映画は、保安官が現役時代に逮捕し死刑の判決を受けたかつての町の顔役が恩赦で出所し保安官に復讐するため町へ戻ってくる。助っとに三人の悪党が駅に出迎えるところから始まる。

お前はもう引退したのだから早く逃げろという裁判官と町長の助言を聞いて一旦はGrace_kelly6 花嫁と街を馬車で去るのだが、義をみてせざるは勇なきなり、敵に背中を見せては男がすたる。今逃げてもどこまでも追いかけてくると引き返す。退役保安官は町の住民に加勢を訴えるが結局だれひとりとして加勢してくれず、一対四人で対決を強いられる。クエーカー教徒の花嫁は信条により新郎を見捨てて汽車に乗る。が、最初の銃声を聞くや、いたたまれず汽車を降り決闘の現場に駆け付ける。殺人は禁じられている筈の新婦も夫が絶体絶命に陥ったのを見て、ついに銃をとり一人を倒すのである。最後、親玉の顔役にグレースケリーは掴まり、あわやふたりの命は露と消えるかと息を呑む瞬間、花嫁は悪党の顔を引っ掻いてもがき、身を振りほどく。すかさず保安官の拳銃が火を吹き悪漢全員を倒すのだ。

悪党が居た時の方が街が栄えて良かったとか、町の利益と利己主義から自分を見捨てた住民が悪漢の全員が倒れたのを見て走り出てくるが、保安官は黙ってバッジを地面に捨て、花嫁と馬車に乗って町を出てゆく。

Grace_kelly4なぜ、この映画を持ち出したかというと、非暴力、紛争の解決に武力を用いないことを宗教的信条とするクエーカー教徒の花嫁が、土壇場で銃を取り、悪漢を殺すからである。これについては次回の「三人の美智子」でもう一度触れたい。すでにお察しの方もおられるかもしれないが、二人目の美智子は60年、安保条約改定に反対し国会に南通用門から突入して死んだ樺美智子さんについて。

旧東欧は別とするとヨーロッパには立憲君主制の国の方が共和制より多い。なかでも国家元首としていまなお君臨の座を示してはばからないのは英国のエリザベス二世女王。先日のG20でも各国首脳を迎え、ご高齢にも拘わらず、しっかりと存在感を示した。Elisabeth_ii2jpg

美智子妃殿下は日本のファーストレデイーとして、伝統と格式を守らねばならない中で、阪神大震災の折には現地へ出向いて被災者を抱き締め、自ら布団を敷かれるなど、ご慈愛を示され、周囲の陰湿なイジメにも耐えぬかれ、ご自身の信じるところを貫かれておられるのは崇敬に値する。願わくば、アメリカのオバマ大統領夫人のように、物おじせず、エリザベス女王の肩にも、気軽に手を掛けたりして、リラックスしたお姿を時々は示してほしい。

Elisabeth_iimariage 幕末にフランスは幕府を支持し、英国は薩長を支持して倒幕の後押しをし、以来日英同盟を解消するまで英国と深い関係を結んできた。明仁親王・美智子妃殿下のご成婚のパレードも英国女王のご成婚パレードと馬車も同じかと見まがうほど似ている。

パレードは洋式でも、日本の御婚礼の式典の装束は、古式ゆか5しく、日本の王朝文化の連綿たる継承を示すものでした。

明仁皇太子殿下の束帯は大宝元年(701年)制定の「皇太子礼服」に基く「黄丹の 御袍」で昇りゆく朝日の色。美智子皇太子妃殿下は、紫色亀甲を地紋とし、白いクチナシの花をあしらった唐衣。紅色で入子菱を地文とし白の八葉菊を上文とした表着。それに萌黄の重ねという十二単でした。

(三人の美智子、つづく)

| | コメント (1) | トラックバック (0)