カテゴリー「自然」の記事

2009年6月 7日 (日)

あじさいの色

投稿者:「叢林亭」改め「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

前々回のデジブック「ばらのシーズン開幕」に付録として「あじさい」の色と土壌の酸性度について書いた。取りあえずのつなぎとして確認もせず、うっかり「アジサイ」は土の酸性度を測るリトマス試験紙と書いてしまった。

北フランスの車工場でお互い通訳として知り合いになり、ボクが定年退職した後も、なにかと大変お世話になっている「ていこ」さんは、パリにお住まいであるが、さっそく「アジサイ」と「リトマス」試験紙は反応後出てくる色が逆ですとお叱りを受けてしまった。

リトマス試験紙は中学の理科の実験で教わったきり50年以上も見ておらず、PH<4.5の酸性では赤、  PH>8.3のアルカリ性では青く呈色することなど、すっかり忘れてしまっていた。とにかく酸性度によって色が青とか赤に変わるんだから似たようなもんだわいと雑な思いつきで書いてしまった。

技術翻訳家としても活躍されている「ていこ」さんにとっては、このような雑な認識は許しがたいことであろう。ボク自身40代までは、そのような反応をした。こうした指摘をしてくれる友人を持つということは有難いことだ。

知人の「お叱り」によって眠りかけていた探求心がちっとばかり目覚めた。いったい何故アジサイの花の色が変わるんだろう?ボクが調べられる範囲はWikipediaを覗くぐらいに限られるが、それでも十分なだけの知識が得られた。有難い世の中になったものだ。

「リトマス紙」と「あじさい」についての調査報告の前に、写真をご覧ください。昨年うちの庭(フランスのピュイゼ地区)に咲いたHortensia (Hidrangea)です。いつもコメントをくださるkozouさんへの、これはプレゼントです。葉っぱも見えるように2枚載せます。

S3ortansia まず、リトマス紙。リトマス苔という天然の地衣類から採れる染料で作るなんて知らなかった。発見者は1300年ころスペインの化学者デ・ビウノバ。リトマス紙は酸性かアルカリ性か、およその判定しかできず精度に限界があるので中学生向きということか。

PH度をも少し正確に測るには、万能試験紙(PH1 〜11), BTB溶液、紫キャベツ液などがある。アルカリ性で赤になるのはフェノールフタレイン溶液。

つぎに、あじさいについて。上の写真は一般に「アジサイ」という名で普及しているが、正式には「セイヨウアジサイ」というらしい。もとは日本原産の「ガク(萼)アジサイ」を改良し、このようにこんもりした形になった。

花弁に見えるのは本当はガク(萼)で、すべてが装飾花に変化したものという。

ところで、いよいよ花の色と酸性度だが、「土壌のPH(酸性度)が青紫から赤紫へと変化する花の色を決定するのではない」と知って、驚き、認識を改めることができました。前々号で、浅はかさを露呈したことをお詫びして訂正させていただきます。

決定要因は「アルミニウムイオン量」なんだそうである。土壌のPHは花色を決定する要因の一つに過ぎず、「花弁に含まれる補助色素」によっては、いくら酸性土壌でも青色になり得ない、なり難いものがある。

仮に酸性土壌でも、地中のアルミニウムの量が少なければ花は青色にはならない。「PHは地中のアルミニウムがイオン化する量を左右する要因に過ぎない。」
これが本日得た貴重な結論です。

Sortansia2

「アジサイ」の学名はHydrangea で「水の容器」の意味。日本語の「あじさい」の語源は藍色が集まったもの「集 真藍」(あづさい)がなまったものだという。

「紫陽花」の字が当てられるが、これは唐の詩人白居易が多分ライラックに名づけたものを日本の学者が誤用してから流行ったそうだ。

フランス語の通俗名は「オルタンシア(Hortensia)」で花の名前としてはボクは一番好きだ。フランス語を習い始めた頃使ったテキストに、「怪盗ルパン」でおなじみのモーリス・ルブランが書いた「八点鐘」という短編に「オルタンス」という名の女性が出てくる。

もっとも有名なオルタンスという名の女性はHortense de Beauharnaisで、かのナポレオン1世の最初のお妃ジョセフィーヌの連れ子だった娘 。オランダ王ルイ・ボナパルトと結婚しナポレオン3世の母となった人である。

ちなみに、hortensia は古典ラテン語の庭を意味するhortus の女性形で、ラテン語では「あじさい」は「庭」そのものだったのである。日本や中国の庭にアジサイが広く植えられていたことからきたという。

園芸の分野では東洋(日本と中国)がどれほど西洋のこの世界で重要度を占めているか、これ一つをとっても伺い知ることができる。今日は、思わぬところまでお勉強ができました。ていこさんありがとう。

最後に、昨夜、ホームページのトップページを全面的に更新しました。タイトルを「叢林亭」から「りゅーらる」と変えました。URLは今までどおりです。ゲストハウスを後退させ、地域の紹介を主体とするグラフィック・マガジンへとシフトしました。日本とフランスはまだ遠いです。


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2009年3月 8日 (日)

茜空の欅

投稿者: 叢林亭: http://www.sorintei.com

東京都内に「箱根山」があるのをご存じだろうか ? 新宿と池袋の間、明治通りの東側にある。最近、新しい地下鉄が開通して便利になった。JR 山手線でいえば新大久保と高田馬場の間、早稲田や女子学習院へ行く方向にある。一帯は大きな窪地になっていて、その中にある小高い丘が「箱根山」と呼ばれている。

筆者は2007年の暮れにここを再訪した。実に 45 年ぶりのことである。記憶に残る武蔵野の面影を残した少しうら寂しい野山とはまったく変わり、常緑の広葉樹がうっそうと茂り、桜の大木が視野を覆って重厚な公園の雰囲気を醸し出していた。

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筆者にとりこの地は青春と深いかかわりがある。十五と十六の歳の悩みに打ちひしがれていた思春期の日々、ここに逃れてきては束の間の安らぎを得ていたからである。それを小説風に書くと以下のようになる。

 「冬の空に網目模様に枯れ枝を広げている欅を見るのが少年は好きだった。この公園の中にある小高い丘へ来るまでの道にそうした欅が見られるのを知ってから少年は煩瑣にここへ来るようになった。はじめは学校が退けてから寄るだけだったが、やがてほとんど毎日、それも授業をさぼって来るようになった。

 ここで独りでいる方が学校でみんなに囲まれているより孤独を感じずにすむ。孤独にはちがいないが、ここには欅や枯れ草などがあって少しは自然らしさが残っている。それを眺めているだけで心が落ち着くのだ。自然に囲まれて独りでいるほうが、傍若無人な同級生に囲まれて感じる孤独よりずっといい。それに、丘の頂上には、まるで模型みたいにちっぽけな赤い屋根のチャペルがあって、どことなく西洋の雰囲気が漂っている。

 今日はまだ日が高いうちに学校を脱け出して図書室で借りた本を一冊持ってきた。冬の図書室の書庫にはガスストーヴが焚かれ、その熱気が紙の湿りを放出させて独特な匂いが漂っていた。

 少年は、冬の陽を浴び銀色の艶を帯びて見える枯草を踏みしだき、丘の中腹の陽だまりに座り心地のよさそうな一株の草の根を見つけて、そこへ腰をおろした。

 若いくせに老人のように廊下や部屋に射し込む小春日和の陽にあたるのが少年は好きなのだ。

 図書室から借りだした本は、淡いベージュの手触りが柔らかな紙のカバーの、ところどころに繊細な模様が赤や青で施され、少年の眼を惹いた。表紙を繰ると目次には『放蕩息子の帰宅』『エル・ハジ』『縛られたプロメテ』など少年が今まで手に取った本には見たことの無い言葉が並んでいた。そうした珍しい文字を表紙の装丁の中に見るだけで、少年の胸に、なにかそこはかとない異郷への憧憬といったものが湧き上がってくるのだった。」

小説はまだ続くのだが、後のお楽しみとして、要はこの少年は「登校拒否生徒」のはしりだったのだ。学校をさぼってはこの丘に登り憂愁や不安や恐れや恥や自己嫌悪や憧れや恋心などが、入り混じって抑えようのない、もやもや、ぐちゃぐちゃした苛立ちを慰めていたのである。

この日の夕焼けは空を真っ赤に染めて、その茜色を背景に欅の網目模様が投網を打ったように広がり、忘れようのないイメージとなって筆者の心に焼きついた。以下がその絵です。

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2009年3月 2日 (月)

月光、UFO or 天変地異

投稿者: 叢林亭: http://www.sorintei.com

その家は小川の畔にあった。南向きの縁側が小川に張り出していて、そこに立つと小川の流れと、土手の向こうの田んぼと地平線の低い山並が見渡せた。

廊下の右端には水屋と風呂場があった。左端には厠があり、扉なしの小便所と扉で仕切られた大便所があった。小川の水の流れに直接落とす仕掛けになっていたのである。

祖母は大柄な肉付きの良い女性だったが、いつも廊下の端で、着物の裾を端折り、小便器に尻を向けて小用を足した。幼い僕は常に彼女にまとわりついていたから、そういう時も並んで立ち、露わになった彼女の太腿に手を当てていた。色の白い、多少ぶよぶよしたその肉の感触を今でも思い出すことができる。

成長したのち、数人の異性に想いを寄せたが、すべて丸顔の肉付きの良い女性だったことを思えば、幼児のこの記憶との繋がりが見えて愕然とする。エロスは柔らかなものに宿るとはよくも言ったものだ。

その家は八畳一間だけの小さな小屋みたいなものだった。隣に二階建ての大きな家があった。ひとびとはここを「べっしょ」と呼んでいた。幼い耳に変った音として記録された言葉は、後年、「杉風が別墅に移る」と奥の細道に書かれているのに出会った時、別荘を意味すると知った。

奇妙なことに、僕の記憶では、この二軒の家は地下道で繋がっているのだった。地下室など無かったことを思えば、地下道などある筈がなく、どうせ少年時代に読んだ冒険小説や映画のシーンなどが混ざり合ったのだろうが、蘇る記憶では、その地下道を通って隣の家に上がり、二階の廊下で年上の少年とカレイドスコープを覗くのだった。

この二軒は恐らく地方の素封家の別荘だったのだろう。付属の小屋を祖父が借りていたに違いない。姫路の駅前でしがない果物屋を営んでいた祖父に別荘を持つ余裕などある筈がないからである。

祖母がどこで買い物をし、二人でどんな物を食べていたかの記憶は一切無い。しかし、田舎の自然の中で、祖母と二人きりで過ごした二年間は、僕の人生の中で最も充足した時間だったという全体的な記憶がある。

子供の遊び道具としてのおもちゃは、「ベテイさん」の四角い顔を取り囲んだ十五ばかりの多様な形の積木が入った箱ひとつだった。

部屋の隅には茶箪笥があり、ガラス戸を通して梅干しの甕やらっきょうの入ったガラスの壺が見えた。もうひとつの家具だったちゃぶ台に祖母は紙とクレヨンを置き、頭の頂が赤い丹頂ヅルの描き方を教えてくれた。

真冬の寒い日、竹に結んだヒモの先に「ダシジャコ」をくくりつけ、小川の階段を降りて行った。「べっしょ」の奥さんとすれ違うと、「おやマア。さかなつりかいね。」と声を掛けてくれた。

雪解けのぬかるみに足をつっこみながら、近所の子供たちと雪玉をぶつけあって遊んだ。

春先には、土手のネコヤナギが銀色の芽を吹いた。
蕗のトウを摘んで苦い佃煮を祖母は作った。

風呂の焚き口の薪の燃やし方を教えてくれたのも祖母だった。

土の道には側溝があり澄んだ水が流れていた。笹舟を浮かべたり、タニシを採って遊んだ。

そうしたある晩、ひとりで小用に立った僕は、廊下から不思議な光景を見た。
川を挟んで向こうの田んぼと地平線の山並みが、強烈な光に照らされ、真昼のように明るく見えたのだった。

恐らくは満月の光に照らされていたのだろうが、幼い僕に、この光景は、真夜中なのに真昼のような明るさが何か人工的な、UFOが降りてきた時の光のようにも感じられ、また何かの天変地異の予兆のように、異様な感覚とともに視覚の底に焼き付けられたのだった。

いつかは、それを絵にしたいと思うまま六十年が過ぎ去った。以下がその絵です。

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