カテゴリー「宗教」の記事

2017年6月 4日 (日)

「怖れ」について

生きるとはどういうことかは30歳を過ぎる頃にはだいたい分かってしまうので倦怠を感じることはあっても怖れや不安はなくなるでしょう。

多少の不安を覚えるのはむしろ「死」のほうで、これは死ぬこと自体よりも「死んだあとどうなるのか?」が分からない、未知のことに対する不安が主だと思います。

人間だれしも苦しみながら死ぬのは嫌だ、できたら来世を夢見て安穏に死にたいと思います。

瞬間的に苦しむ余裕もなく死んでしまうのがいちばんでしょうが、どうなるかは本人の意志で決定できるものでもありません。

未知のこと、どうなるか分からない、ことを少しでも分かろうとしたのが青春時代に悩んだごとの多くでした。

魂や霊といったものがほんとうにあるのか? 精神や魂は脳や神経の働きで、究極的には物質なのだ。死とは物質の働きの終焉で、死んでしまえば魂も一緒に活動を止め消えてしまう。唯物論的な考えに一度は納得した時期もありましたが、それだけでは心が満たされない。


精神とか霊魂とかがあって肉体が死んだ後も生き残り天国へ行く。そう考えられればいちばん死を恐れず安心して死を迎えることができます。世界のほとんどの宗教はおそらくそうした理由から天国とか西方浄土とか極楽とかが考えられたのでしょう。

ラ・フォンテーヌの寓話「野兎と蛙」は巣穴をでれば常に危険が待ち構えているため野兎は不安を抱え鬱病に罹ったようなありさま。ところが池の端を通っただけで野兎に恐怖を感じて水に跳びこむ蛙を見て、おれよりも怖がりがいる、と野兎は臆病にもランキングがあると悟ります。


死を恐れない人もいるでしょう。死の原因になる災害や、戦争やテロや洪水や地震や津波に対する怖れ方も人により程度の違いがあるでしょう。めのおは思春期の頃、核戦争がどうしても怖かった。病気の一歩手前に居たと思います。


臆病にランキングがあるとか、戦争や自然災害に対する怖れ方に程度のさがあるだろう、と書いたのは、「恐れ」というものが理性的に論理の働きによって感得されるものではなかろう、と思うからです。「恐れ」は感覚的、直感的、感情的なものだ。

それは「非合理な」情動や潜在意識に根差している。なにかに怯えている人間に「怖くないんだよ」とか理屈で納得させようとしても効果は期待できません。それは潜在意識が感じ取っている非理性的な情動に基づく感情だからです。非理性的な不条理なものだからといって怖れている人を「間違っている」とは言えません。

地球温暖化により水没する島や地域や都市がある。集中豪雨や水害が近年世界中で頻繁に起こっている。近い将来、そうした災害が現実になる、と恐れを感じる人と、そんなことに怖がってられるか、仕事があり金を稼いで暮らして行くことの方が大切だ、という人もいます。

原発と核の問題も同じだとめのおは考えます。

原発賛成派の人は反対派のひとたちが「不合理な感情によって」反対するのはよくないと批判していました。

反対派の人々の「恐れ」が現実になったことは福島第一の惨劇で明らかになりました。


 (つづく)


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2009年5月17日 (日)

カタリ派について-その3

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

さて前回ちらと触れた女性、フォワ公爵レイモン・ロジェの妹でジュルダン侯の未亡人 エスクラルモンドについて。彼女はカタリに入信し、カトリックならば不可能な女性でありながら高位の聖職者つまり完徳者として按手も授け、最後は火刑台に身を躍らせた。そのため悲劇のヒロインとして伝説的存在となる。

Escla2 19世紀のフランスの作曲家マスネーにはエロデイアード、マノン、ル・シッド、ウエルテル、サッフォーなどの文学・歴史的人物を扱ったオペラがある。中にあまり知られていない「エスクラルモンド」がある。バビロンの王女に同名の女性がいるので、マスネのこの作品がモンセギュールで火刑台に上った女性と同人物かは確認を要する。

カタリに入信したエスクラルモンドは、幾つかの誓いをたてる。魚と油は採っても肉、卵、チーズは食べない。むやみに主君へ忠誠を誓ったりしない。嘘はつかない。嘘は人間の犯す最も重大な罪のひとつだから、嘘をつくより沈黙を守った方が良いという戒があった。そして入信後はいっさい肉の交わを持たない。

エスクラルモンドは大勢の男の聖職者に混じって教義について発言したり男と同等に活躍した女性だった。しかし、彼女でさえ、男の司祭から黙って引っこんでなさいと言われている。女はカタリの聖職者の最高位にはつけなかった。だいいち、輪廻にしてから、転生の最後は男もしくは牡に生まれるとされていた。

最高位にはつけなくても、女も聖職者になれ、コンソラメントムを授けることができた点は、カトリックと比べれば、遥かに女性が認められていたといえる。

エスクラルモンドは入信に際して肉の交わりを一生断つという誓いを立てた。
まだうら若い身でありながら、セックスの喜びを断つなんて
もったいないと思う方も沢山おられよう。
禁欲はカタリに大切な行だったのだろうか?  

カタリの普通の信者は、結婚し、子供をもうけ、肉食し、敵と戦って斃すことを許されていた。完徳者たちは厳格な禁欲の戒律に従って、結婚を否定し、肉の交わりを断った。

完徳者にとって肉の愛は、悪魔的な誘惑だが、普通の信徒には自然の誘惑だった。エロス的誘惑は再生の第一原因だから、結婚や同棲で縛られた普通の信者の性的行為は寛大にあつかわれた。

しかし、一方で肉体はサタンが支配する物質だし、エロチズムに関係する想像力も悪しきものに他ならないから、その誘惑に負けることは悪魔に負けることだという性一般にたいする断罪がある。

Denis1 筆者が最初にカタリの名を見たのは、フランスの詩人ドニ・ド・ルージュモンが書いた「エロスとアガペー:西洋の愛について」を青春時代に読んだ時だった。

「アガペー」とは神あるいは至高のものに対する人間の敬虔な愛を指す。ルージュモンはこの著でフランスの中世から近世へかけての詩と文学の伝統の継承を担った吟遊詩人、トルバドールをとりあげている。

彼らはリュートなどの楽器を片手に、宮廷から宮廷へ、貴婦人の館の窓辺に立ち、多くは愛の詩を弾き語りしながら南から北へと旅して歩いた。彼らによって結婚に縛られ、子孫を残すことのみに重点がおかれていた夫婦関係の外、つまり夫以外の男性と愛を語らうところにのみ真の愛があるとする「宮廷風恋愛」の伝統が生まれRougemont2 た。

騎士たちが馬上試合をする際にも、命を捧げる貴婦人を選んだ。それはエロスとは違った愛の形だった。彼らは民間に伝わる伝承を歌に取り入れ、また彼らによって刺激された文人たちが英雄譚などを下敷きに物語を作った。「トリスタンとイゾルデ」の悲恋物語、クレチアン・ド・トロワの「ランスロット」。ブリタニアの英雄譚とブルターニュ半島の民話とが合体し、それにグラアル・聖杯伝説が加わって「アーサー王伝説」へと発展してゆく。それについては次回からに譲ることにし、もうしばらく「カタリ」とお付き合いしよう。

カタリの悲劇は民間伝承として吟遊詩人たちに語り継がれcoldsweats01モンセギュール絶滅の後も各地に残っていた「隠れカタリ」の間で、信仰を確認し合うために吟遊詩人の口ずさむ歌詞の中にカタリだけが解るコード(暗号)を盛り込んだ、とルージュモンは言う。余談だが、吟遊詩人は現代フランスのシャンソン歌手の原型である。

カタリの完徳者は肉体を悪魔の創造物だと主張して、肉体と生殖、そして結婚を呪ったわけであるが、逆説的に言うと、それによって教会の肉体擁護が生まれ、男女の合意による結婚に秘蹟を与えるようになる。また結婚は男女の肉体の結合がなければ無効とされた。

これまた、非常に逆説的な言い方だが、現代人は肉体謳歌の遠い淵源をカタリに負っていると言えなくもない。

聖霊によって照らされた完徳者は肉の行為を拒み、性的欲望を払いのけてしまうことができたひとたちで、ふつうは死後に解放されて魂が精神に従うところを、この地上で聖的状態を見出す。完徳者ほど信仰がすすんでなく、肉の歓びからも解放されていないふつうの信者が、自然の欲望に従って結婚と結婚外の性的行為にふけることは重要な罪ではなかったらしい。

自然の欲望に従うことは、精神の光明に悪い影響は与えない、罪を犯しても、その後精進に励めば、いずれは完徳者とおなじ光明がえられると考えられていたらしい。なぜなら、いちど結婚した人が、証人の前で厳粛に、婚姻関係を破棄する宣言をして完徳者に叙品されることがしばしばあったから。

完徳者たちは、物質、つまり肉体の原理に支配される女性は、より悪魔に近い存在だとみなしたのだろうか?

女性の聖職者も沢山いたことをみれば、そんなことはない。肉体は魂を閉じ込める牢屋だけど、それが魂に従属しているかぎり、魂の状態を忠実に映し出す鏡になるから、美徳を備えた人間の肉体は美しいとも見られていた。

キリスト教には、アウグスチヌスいらい肉体と精神は別のものという考えがある。カタリの二元論もどうやら、そういうことで、心身一如という言葉があるように、われわれ東洋人は肉体と精神は一体ではないかと考えるので、どうにもなじみにくい。Laozi2

易経に「太極別れて両義あり。」という言葉がある。宇宙の本質は物質でも精神でもない。その両方が渾然一体となった状態だというわけだろう。しかし、別れて陰と陽になるというのだから、相対的二元論ということになる。

人間のタマシイには陰と陽がある。易経は人間の陽の精気が魂で精神作用を司り、死後天に昇る。陰の精気が「魄」と書いて肉体を司り、死後も地上に留まるとする。

Taikyokunoirblanc東洋の 物心一体という考えは、より物質に近い女性が別視されるTaikyokuken1 とかいうことはなくて、肉体の享楽も自然の欲望や生命の歓喜につながるとして西洋とは逆に肯定的に捉えて生殖に励んだからインドや中国みたいに人口が天文学的数字で増えてしまった。東洋では性行為が罪の感覚なく受け入れられていると言おうとしたのだが、よけいなことかもしれない。易経も、死によって「魂魄」が分離すると教えているところは西洋の二元論と同じことになる。

カタリの時代に、生殖を拒否したり、隠者や異端者となって険しい山の上や人里離れた森の中で苦行した人たちがいたってことは、キリスト生誕からちょうど千年経って、世界の終末論がはやり、終末の予感に打震えていた人たちがいたということが言える。世界の終末の恐怖を子に味あわせたくないと、核戦争の恐怖に怯える現代人とどこか通じるところがあったのではないかと想像してしまう。

さて、やっと宝物の話ができる。

全員が火刑台の炎に身を躍らせたと書いたが、実は、秘密の地下室に隠れて生き残った四人の完徳者がいた。この四人は、砦の明け渡しの翌日、3月16日の夜、砦の西側の100メートルはある一番高い絶壁に垂らした綱を伝って命がけで、何かを砦から持ち出した。

火あぶりになった完徳者の全員から託された、ある使命を遂行するためだったにちがいない。領主の家族のひとりで生き残った、アルノー・ロジェ・ド・ミルポワが後に証言したところによると、砦に残されていたカタリの宝を運び出したという。

だが、宝物の大部分は、落城前に持ち出されている。金銀財宝を担いで百メートルもある断崖を縄一本頼りに降りられはしないから、この四人は物質として価値がある何かではなく、他教に渡してはならない聖なる秘宝を持ち出したと考えられる。

3月14日はキリスト教の復活祭にあたる日だった。なお、カタリはイエスの十字架を疑うので、復活祭は重要な意味をもたない。3月のこの日、休戦明けの前日、砦の中で祭りが行われたという。

残された食糧をみんなで分け合って食べた、いわば最後の晩餐だったという人もいる。この祭りの終りに6人の女性と14人の男性が新たな完徳者の序列に加わった。この神聖な祭りと持ち出された神秘な何かとが関係がある。人々は各人各様に推理を働かせ、カタリの秘宝の伝説がこうして生まれた。

モンセギュールにまつわる様々な伝説や民話がいまも民間に伝わっている。あれほど最後まで抵抗した上で、二百人がひとり残らず火あぶりになったというカタリの悲劇と、一人の棄教者も出さなかった彼らの信念の強さ、純粋さにひとは打たれるのだろう。

最後に持ち出された秘宝が何かをめぐっていろんな説が出回るのだが、主なのはGraal2 やはり、グラアル=聖杯なのだ。

山の中には城とつながる秘密の地下道があったとか、そこにカタリの宝物や聖典やキリストの生誕をつげたベツレヘムの隕石がかくされているとか、いう話を実際に検証しようとした人々が現われて、発掘をはじめた。

そのたびに、不思議な力が働いて発掘を中止せざるを得なくなったという話が伝わっている。ダイナマイトの導火線の火が何度やり直しても途中で消えてしまうとか、岩の空洞をさぐるため差し込んだ鉄棒が途中で抜き差しならなくなったとか。

カタリの生き残った信者は遠く追われて最後はチベットまで逃げ、ラマ僧になったとか。ベルベルに混じって北アフリカの山岳地帯に隠れたとか、とにかくオカルトの材料にこと欠かない。(カタリ派についてはこれで終わり、次からは多少の関係があるアーサー王伝説について書きたいと思います。)

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2009年5月15日 (金)

カタリ派について-その2

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

モンセギュールはフランスとスペインを分かつピレネー山脈のフランス側にある。トウールーズからカルカソンヌ、つまり地中海側へ約20km、さらにスペインの方向に約60km行くと山に囲まれたフォワ(Foix)という町に出る。アンドラが近くにある。

Pog1 モンセギュールはフォワからさらに約20km東に向かって山道を登ったところにある。麓までは車で行ける。山々に挟まれて忽然と紡錘形の岩山が現れる。山の上にボコンと釣鐘を載せた感じ。ポグと呼ばれているこの岩山は標高1207mで、頂上に城砦がある。普通の攻め方ならまず落ちようがない難攻不落の城砦だろう。

砦はカタリ派の信者が逃げ込む前からあった。フォワの公爵、レイモン・ロジェと妹のエスクラルモンドはカタリに入信し、完徳者として按手を授けることができた。カタリはフォワ公爵の保護を得てこの砦に逃げ込んだようである。

非常に興味深いのは、この砦の設計。モンセギュールは太陽の神殿という説もあるくらい、砦の城壁の角度と塔の窓と狭間胸壁の開いている角度と太陽との関係が、ある意図を持って緻密に計算された設計図に基づいて造られていることだ。Segurplan 天文台だったという説もある。

つまり冬至の太陽が昇る地点を向いて四つの窓や壁に隙が開けられており、それらの隙と太陽を結ぶと四本の完全な平行線が引け、その線によって砦全体の向きが決められている。

城壁のある角とある角を結ぶ線は春分と秋分点で、その時期の日の出の地点を向いている。さらに、城の門や角を結ぶ線は、それぞれ、この線は1月21日の水瓶座、これは11月22日の射手座、これは2月19日の魚座、これは10月23日のさそり座、ここは牡牛座、ここは乙女座・・・とすべて黄道十二宮と対応するように造ってある。

確かにマニ教では太陽は主要なシンボルだったが、カタリ派は太陽信仰は持たなかったといわれている。

こうした建物を建てた当時の石工とフリーメーソンの関係を言うひともいるし、太陽光と完全と調和のシンボルのミトラやピタゴラス学派、死海の近くのエッセネ派、ウエールズ地方のドルイド教やゾロアスター教とカタリの関係など、いろんな宗派の共通点を取り上げる人もいる。カタリの自己放棄が仏教徒のそれに似ていることもそのひとつ。

しかし、ちゃんとした学者が言っていることだが、カタリは新約聖書を重んじた福音主義者たちで、とりわけヨハネによる福音書を重視した教義を持ち、どこまでもキリスト教徒だった。カタリを特徴づける二元論はマニ教とは関係がない。カタリのどんな聖典にもマネスの名前はでてこない。カタリの起源をたどるなら、むしろ9世紀のブルガリアのボゴミル、神の友集団にあるという。

ここで、ひと休み。「ダ Mtsegu ・ヴィンチ・コード」を読んだ読者なら、パリのサン・シュルピス教会に、壁の穴から射し込む太陽光線が春分点なり秋分点なりのある厳密な一瞬に照らす地点に宝物=秘密を解くカギが隠してあると、アルビノ症の狂信者が推理する場面を思い起こされるだろう。

奇しくも今日、全世界同時に、ダン・ブラウン原作の「天使と悪魔」が封切りされるというから、以下に続く聖書の文言解釈に係るやや面倒な話も、西洋人というかキリスト教文化圏の人々が、「善と悪」、「天使と悪魔」を宇宙の起源と結びつけて、どんなに真剣に考えているか推し量って読んで頂きたい。

その前に、上のイラストは拙作のエッチングです。10年ほど前モンセギュールに登った時の印象をもとに作りました。版画に興味をお持ちの方は、このたび「ギャルリーそうりん亭」を立ち上げましたので、どうぞこちらを覧くださいませ。

カタリは結局、カトリックの十字架崇拝と、聖体のパンも水も物質であり、それによる秘蹟(洗礼)を拒否して按手を唯一の秘蹟とし、それが異端の理由のひとつになった。中世の人たちは手、とくに右手に特別な意味を与えていた。手には聖なる力の伝達力があると信じていた。最終的に手は神の手にまで通じているとされていた。

カタリが按手を唯一の秘蹟としたことには、聖体のパンも水も物質であるということと、福音書の「聖霊によるバプテスマ」という言葉に由来している。

「初めに言葉があった。言葉は神と共にあり言葉は神であった」という聖書の、エスプリとしての言葉、精神を肉体と魂よりいちだん高いものとみなした点は、カタリ派はどんな宗派よりも、もっとも純粋なキリスト教徒だった。

カタリがよりどころとしたのはヨハネによる福音書の天地創造に関する句で、そこが異端の異端たる由縁なのだが、そもそもがラテン語の解釈の違いによるものだった。

「すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」という句がヨハネによる福音書の第一節にある。

「主によってつくられないものは何もなかった。」
この「なにもない」という言葉が問題なのだ。
ラテン語では nihil なのだが、カタリの聖典として残っているリヨン聖書では、
「すべてのものはこれによってできた。そしてそれが無いところに虚無が生じた。」となっている。

さらに、そのあとに続く、「光は闇の中に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった」という句もカタリの解釈では「光は闇を輝かせるが、闇は光をすこしも含んでいない。」つまり、闇は神が創られた世界とはぜんぜん別の世界だ、虚無は神の作用の及ばない世界だとする。

ここには、善なる神と悪魔が光と闇を別々に創った、つまり悪の起源をめぐって、宇Ange_et_demon4 宙の創造者がふたつだとするマニ教的な絶対二元論と、全能なる神が創った善良なる天使が堕落して魔王になったという相対二元論との別れ目がある。

カタリの善悪絶対二元論は、異端審問官たちのデッチあげだ。弾圧を正当化し、火あぶりに理由をつけるために、彼らにマニ教徒のレッタルを貼ったんだという説もある。

残念なことにカタリの教理を内部から知る資料がほとんど残っていない。異端審問をした弾圧側の資料によって推測するしかない。審問をしたベネデイクト派の僧侶の残した資料には、アウグスチヌスの教理と比較して、カタリをはっきりとマニ教徒だと断罪している。アウグスチヌスは若いころマニ教の罠にはまって教徒になったことがあった。

北イタリアの僧侶、ドンデンヌ神父が最近、ふたつの原理の書という本を発見して発表したが、これはわずかに残されたカタリの聖典のひとつ。それを見るとまちがいなく二元論だという。マニ教の教祖、マネスもふたつの原理論を書いた。こちらは消失していまはない。

Chute_de_lange2 たいていの宗教は善なる神の対立物として超自然的な悪魔を想定している。ローマ・カトリックは悪の起源を独立した原理とは見ずに、邪悪で常に反抗的な被造物、リュシフェールに想定している。

リュシフェールは初めは善良だった。それが堕落して悪を代表する堕天使となった。悪の起源はリュシフェールの自由意思にあると見る。アウグスチヌスも自由意思という本を残している。

神がすべてを創り、堕落する前には優れた被造物だったリュシフェールはどうして神にたてつくことができたか?カタリは自由意思が悪を選ぶためには、最初から悪が存在していなければならないと説く。

善なる神がすべてを創りたもうたならば、なぜ悪があり得るのか?
悪の起源に関してカタリがラデイカルに突き付けたこの問題は、善と悪とのみさかいがつかなくなった現代に、より根源的な問題として生きている。

カタリが悪の原理と呼んだものを正確に知ることは難しい。ある学者は彼らは悪を本当の神と同等の力を持つ存在とは考えていなかった。本当の力とさえも考えなかったと言う。マニ教徒たちも、本当の唯一の神しか信じないと繰り返し、悪の原理は無意識的で、しばしば物質と同一視され、病気が病人の健康状態のひとつの形態にすぎないように、悪は神のある状態以上のものではないと考えていたという。

マニ教的な、光と影、真実と虚偽、光の天使と闇の天使という二元論的な考えは、陰と陽、「太極別れて両義あり」という易教の言葉に見られる中国の老壮思想にもあって、グノーシス派やカタリだけに特有のものではないと思う。それがローマ・カトリックに滅ぼしつくさねばならない敵として扱われたことが恐ろしいと思う。

モンセギュールの悲劇はヒトラーやスターリンや中共の全体主義が似たようなことをもっと大規模にやったように、思想の自由の観点からいえば現代も繰り返されうる性質のものだと思う。

最後に、いつも弊ブログにコメントをくださるkozou 氏のブログから、小林誠教授の「消えた反物質」、益川敏英教授の「いま、もう一つの素粒子論入門」という二著で、宇宙の生成が物質と反物質、粒子と反粒子とのぶつかり合いの後、たった何億分の一の差で粒子が残ったために出来たという驚くべき最先端の素粒子論を知ることができた。この場を借りてお礼申し上げます。

科学は倫理を扱わないが、存在と虚無、光と闇、善と悪という人間が古代から抱き続ける哲学と宗教の根源的問題は、科学の探求と無縁ではない。いや、西洋では、神と宇宙の創造、生命と人間の誕生をめぐっての宗教が教えるところを、直感でなく実証的に明らかにしてゆこうとする営みが科学なのだろうと思う。

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2009年5月14日 (木)

カタリ派について-その1

投稿者:叢林亭:http://www.sorintei.com

12世紀から13世紀初頭に、北イタリアから南フランスにかけて、カタリ派と呼ばれるキリスト教の一宗派が急速に広まり、ローマ法王を震撼させた事件がある。ローマ・カトリックはこの宗派を異端として過酷な弾圧を加え撲滅した。「アルビ十字軍」として歴史に記録される事件である。

異端が広まった背景には、社会的、政治的に様々な理由があったが、根源的にはローマ・カトリックの腐敗と堕落が齎したものといえよう。高位聖職者たちの蓄財、贅沢、吝嗇、聖職・聖物売買など、道徳的腐敗が目立ったにもかかわらず、それを認めようとせず仲間内で保護し合って、ついにはそれを批判する聖職者たちを追い出し、弾圧する過程をたどった。

たとえば、ドーフィンヌ県の聖職者、ピエール・ド・ブリュイは福音書の精神に動かされて汚職や腐敗のはびこるカトリック教会を非難する説教を始めるが、20年後には、サン・ジルで火あぶりにされてしまう。カタリではなかったにもかかわらず。

ローマ教会の高位聖職者たちを批判する修道僧たちが出てくると、危機意識から、かれらを異端あつかいした。悪性腫瘍みたいな異端が教会の領地を侵しているとか、異端はペスト菌のようだとか、爬虫類みたいに陰険だとか、まむしやサソリみたいに毒をもってて危険だとか、異端の毒に犯された信徒たちは高利貸しで儲け、窃盗、殺人を平気で犯し、乱交や近親相姦など肉林の喜びを犯しているなどと吹聴し、悪霊つきや魔女扱いをした。

カタリの信者はラングドックの職人や商人や貴族たちが多かったが、こういう新興階級が古い教会を離れ、教会の収入が減り、既存の特権階級が利益奪還のために十字軍という聖なる名を借りて戦争を仕掛け、逆らった人たちを皆殺しにした。アルビ十字軍の弾圧がなければカタリは確実にラングドックの主要宗派になっていたろうといわれている。

筆者がカタリに興味を持ったのは、彼らが ①輪廻転生を信じ菜食主義者であり仏教の思想と似た考えをも持っていたということ。さらに ②カタリの起源が、前回触れたアウグスチヌスが若いころその信者であったマニ教にあり、これはペルシャのゾロアスター教、さらには中国の道教の陰と陽の考え、善悪二元説をとっており東洋に淵源がみとめられること、などからである。

カタリは善悪二元説を唱え、さらにカトリックの十字架崇拝と秘蹟を拒否し、ドセテイスム(キリスト仮現説)を採ったがために異端とされ弾圧されたのだが、これについては後ほど触れる。

まず歴史的事実から、「アルビ十字軍」とローマカトリックとフランス国軍によるカタリ弾圧を時系列的にみてゆこう。

1208年、教皇特使のピエール・ド・カステルノーが暗殺され、カタリはこの事件とまったく関係がなかったにもかかわらず、ローマはいい機会とばかりカタリ弾圧の指令を発した。

Monfort1 シモン・ド・モンフォールはアルビ十字軍の指揮官に仕立てられた軍人で、法王やフランス王の期待以上に弾圧を繰り広げて、殺すこと自体に快楽を味わっていたとしか思えないくらい虐殺に血道をあげた。

1209年7月、リヨンに集結した3万の大軍は、シトー派の僧侶に先導され、シモン・ド・モンフォールの指揮のもとに南下を開始した。時の法王インノチェント3世の命令は「皆殺しにせよ」だった。

ヨーロッパで最初のジェノサイドが法王の命令で実行された。トウールーズ、アルCapitol ビ、ベジエ、カルカソンなどラングドックの主要都市がつぎつぎと攻撃され、異教徒の烙印を押された人々が火あぶりで焼き殺さCarcassonne3 れていった。

弾圧は四分の一世紀に渡って続き、犠牲者のなかには、カタリ派の信徒だけでなく、ラングドックに定住していた沢山のユダヤ人がいた。

1243年までに、南フランスの重要拠点はほとんどすべて膝を屈し、カタリ派は根絶やしになった。その中で、ただ一か所、誇り高く、勇気と信念を燃やして、天高くそそり立つ岩の上の砦に立てこもって抵抗を続けた信徒がいた。その岩山をモンセギュールという。弾圧側の人々はこの城砦を魔の砦と呼んだ。

1243年の春、約一万の騎馬兵、フランス軍が砦を包囲した。数か月に渡る包囲にも拘わらず砦は落ちなかった。付近の住民と城砦内部に立てこもっていた信者たちの間で通じあい、水と食料を補遺網を縫って運ぶ込むことができたらしい。

Montsegur11 砦の攻囲は約一年に及んだ。

1244年3月にモンセギュールは陥落し、カタリの異教徒はフランスから公式には姿を消した。

公式には・・・。

あちこちにゲリラが隠れ、秘かに信仰は続けられた。さらに民間伝承を生み、トルバドールなど吟遊詩人を通じて詩の中に巧みにコード(暗号)を盛り込んでメッセージを伝えあった。さらに、伝説では、降服の前夜、城からある宝物が運び出された。その宝物とは、なにを隠そう、かのキリストが最後の晩餐に使い、磔刑の血を受けた「聖杯」だった。

トルバドールは北方の文人に影響を与え、トロワの詩人クレチャン・ド・トロワが騎士道伝説「ランスロット」を書く下地を作った。ランスロットはやがてブルターニュの英雄伝説と合体し、プランタジネット王朝の正統神話である「アーサー王伝説」へと発展してゆく。

1244年3月にモンセギュールは落城した。五百人の餓えた人々のうち、百五十から二百人が完徳者で残りは城の領主、騎士、馬屋番、兵士とその家族だった。

ここで完徳者の説明をしておく。カタリには、結婚し肉食も許される普通の信者と、意識も行いも高く、男はパルフェ(完徳者)、女はパルフェットと呼ばれて、コンソラメントムという按手によるエスプリのバプテスマを受けた人だけがなれる聖職者と、二つの階層があった。按手とは右手を広げ対面者の頭の上にかざす仕草のこと。

完徳者の三割はラングドックの貴族階級出身だった。カタリは山に閉じ籠った密教集団のように批判されるが、それはカトリックの火あぶりと血に飢えた狼のような弾圧から逃れるためで、アルビ十字軍が始まるまでは、ふたり一組になった完全者たちが村や町や城などどこへでも出かけて布教していた。

弾圧側は降伏条件はわりと寛大なものだったと言っている。
モンセギュールに立てこもっていた普通の信者たちは過去をすべて改悛すれば許しを与える。兵士たちは武器と荷物をもったまま撤退を許可する。完全者については、異端裁判所に出頭し、罪を告白し、これまでの信仰を宣誓とともに捨てれば、軽い罰だけで自由放免する。それを拒否する者は火あぶりの刑に処すというものだった。

砦のカタリ派から、ピエール・ロジェ・ミルボワ、包囲側から奉行ユーグ・ダルシスが代表として出て交渉がもたれ、カタリ側は15日間の休戦を申し出て、人質と交換に受諾された。人質は逃走の気配を見せ次第ただちに処刑すると脅したが、誰一人逃げようとはしなかった。この15日間は、モンセギュールの信者たちが死ぬ準備をするためだった。

ひとりの棄教者も出ず、完徳者の全員が改宗より殉教を選んだ。さらに、普通の信者から死が待っている完徳者になる人が20人も出て、コンソラメントムを受けた。

3月15日、ひとりも信念を曲げず、二百人の完徳者は全員が火あぶりになることをMontseguillust 選んだ。標高1200メートルの山の三月の冷気のなかを女や年寄りは裸にされ、岩がごろごろした山道を裸足のまま乱暴なあつかいで降ろされていった。その時の苦痛は、あとの火あぶりの苦痛より激しかったかもしれない。

丘の麓に杭を立て、柵をめぐらせ、堆く柴木が積まれて燃え盛っている火刑台に身を躍らせて全員が火あぶりになって死んだ。死体が灰になるまで焼き尽くすよう積み上げられた薪の山から昇る煙で火刑台に上がればすぐに窒息してしまったかもしれない。人間の身体が焦げる臭いがあたりに立ちこめ、夕闇が迫るころには、熾きがくすぶるだけですべてが灰に帰した。

注目すべきは、何か月にも渡る籠城のあいだにひとりも自殺者がでなかったこと。食糧や水が尽きて生きるのが苦しくなった包囲の最終段階では特に。100メートルも切り立った崖の上の城壁から身を投げれば自殺は簡単だったろうが、そういう人はひとりもいなかった。

モンセギュールが二百人と言われているが、他の町、トウルーズやアルビやカルカッソンでの虐殺を加えると二千人以上の死者が出た中で、棄教して転んだのは、たったの一人か二人という。思想信条や宗教弾圧の歴史の中でこれほど棄教者が出なかった集団は稀であり奇跡とまでいわれている。

カタリの信念がそこまで固かったのはなぜか?カタリは現実の物質的な世界よりも精神の高い世界、高みに昇ることこそを修行を通じて目指していたから、肉体が焼かれても彼らの純粋な精神は生き続けると信じたのだと思う。

カタリ派の信者たちは平和主義者で、ファナチックではなく、他人に危害を加えず、簡素な生活を好み、魂の救済に情熱を傾け、福音書の説く宇宙の秘密に霊感を受けたミステイック(神秘主義者)たちだった。旧約聖書のエホバの神は復讐の神で、ほんとうの神ではないと排除し、新約に価値を置いて、福音書のキリストが愛によって人々に与えた教え、神的な愛そのものを信仰の基本においた福音主義者たちだった。

カタリはプロテスタントの先駆けともいえるが、16世紀の宗教戦争の、いわば前哨戦がアルビの十字軍といえないこともない。魂の真の救済を求めて火刑台に上がったカタリの意識を探ることは、権力者とそれに抵抗する人間の自由への意志という問題と繋がり、現代人の意識にも関係する大切な主題だと思う。 (つづく)

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