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2010年1月19日 (火)

ジャック・クールの生涯-その7、日いずる国への旅

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

                                         Galere1

ブルジュでの人々から注がれる視線が厳しくなったと感じ、息苦しさから逃げ出したくなったのか?

ジャック・クールは、この時代としては世界の果て、地中海を中心とした地図の外れ、朝日が昇るオリエント、ルヴァン、レバノンまで船旅に出かけた。1432年のことである。

ロワール河畔のシュリイ城の壁には世界史年表が掲げてあって、そこには中世と近世を別つ事件としてコロンブスの航海を挙げている。

コロンブスがスペインのイザベル1世とフェルデイナンド5世の援助を獲得し、インドを目指しながら第一回の大西洋航路でカリブ海へ達し、キューバやサン・サルバドル島を発見したのは1492年の10月のことである。

また、マジェラン自身はフィリピンのマクタン島でラブ・ラブ王の家臣との戦闘で戦死してしまうが、艦隊の残りの18名がポルトガルの出港地へ帰りつき世界一周航海を成し遂げて地球が丸いことを実証したのが1522年だった。

それまで、西欧世界の人々は台地は平らであると信じていた。例外はマケドニアのアレクサンダー大王で、エジプト、バビロニアを征服し、インドへ攻め入った時、疲れ果てて不平を並べる部下に対し、「もう少し進めば海へでる、この海はナイル河と繋がっているから、それを下ってエジプトへ戻ろう」と鼓舞した様子が映画に出てくる。

地球が球体をしているらしいと新しい知識を信じ初めたのは、まだほんの一部の人でしかなかった。コロンブスのキャラベル船の艦隊の乗組員のなかにも、いつ果てるともない航海に不安を抱き、大洋の果ては滝となって冥界へ落ちると信じていたものも少なからず居た。あと1日でも島の発見が遅かったら船員の反乱は避けられない状況だった。

最近になって、モ・イ・トンの複写地図などからコロンブスに遡る75年以上前、明朝の永楽帝の治世にイスラム教徒にして宦官、大提督「鄭和」はアメリカ大陸に渡っていたという説や、白人でアメリカ大陸に最初に達したのはバイキングと言う説などが出始めて面白い。

ともあれ、ジャック・クールの時代、世界はもっと広いらしい。手つかずの地へ行って交易権を独り占めにしようという期待は既に勃然と沸き起こっていたに違いない。それでも、ジャック・クールが、ナルボンヌの船主の船で地中海を縦断し、東の果てのレバノンに足を踏み入れるには、相当な冒険心を要しただろうことは想像に難くない。

ヨーロッパ人にとって地中海の東の果ては、そこから朝日が昇る(le soleil levant )地だった。 この呼称からレバノンという地名が出る。ちなみに日本は「日の出ずる国」といわれたように中国にとっては日の本(ジーベン)だった。今でも、フランスでときたま、日出る国としてレバノンと同じ le soleil levant と言い、比喩的に日本を差すことがある。

さて、ジャック・クールの視野はフランス国内に留まってはいなかった。

1432年南仏ナルボンヌの商船に乗り込み、中東のレバノンとシリアへ旅立つ。

レバノンとシリアへ行った目的ははっきりとしていない。ベイルートやダマスへ将来のビジネスの下地を作りに行ったのか?布地や香料の貿易を考えていたの か?しかし、ジャック・クールが後に地中海を股にかけた交易で莫大な財産を築いた、そのビジネスの中心はやはり両替だったといわれている。

中東では金と銀との交換価値がほぼ同等だった。現代からみれば信じがたいことだが、これは日本でも幕末から開国当初までは、似たような状況だったらしい。欧米人は銀を持ちこみ、同量の金と交換して本国へ持ち帰り莫大な利益をあげていた。

金の為替レートを米国政府とのネゴによって国際レベルまでに引き上げさせたのは咸臨丸に乗り米国へ渡った幕府の小栗上野介の功績という。

ところで、ジャック・クールの乗った船はレバノンからの帰途、難破してコルシカ島のカルビへ漂着した。船長以下乗り組んだ全員が捕虜になり海賊に会ったように身ぐるみ剥がれ裸にされたうえ、身代金を要求され、大金を支払いようやく釈放された。後に、彼らは罪もなにもないと認められ身代金は返済された、という記録が残っている。

その記録によると、ナルボンヌの商船の持ち主、ジャン・ヴィダルが14カ月禁固の後に800デカの金貨と交換に釈放。シカールという団長は100デカ。ところがジャック・クールはたったの27リーヴルだった。

このことは、ジャック・クールがまだ小者としか見做されていなかったことを物語っている。(続く)

 

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2010年1月 5日 (火)

ジャック・クールの生涯-その6

鋳造通貨は古代ギリシャに既にあったが、長い間、取引の支払いに使われていた金や銀のツブや塊は目方で価値が計量されていた。しかし、いちいちの取引に目方を計るのは面倒であり、鋳造貨幣が普及するようになった。

Euro1 貨幣鋳造は現代では国家大権のひとつになっている。ヨーロッパ統合で二十数ケ国が同じユーロという統一通貨を使用することになったのは誠に歴史的な大事件だが、紙幣は別にしてもコインの鋳造は各国で行う。

コインの表は統一ユーロのデザインだが裏面は各国によりデザインがEuroesp 違う。これが面白いのでユーロのコインはコレクションの対象として人気がある。

Eurod

国家が通貨鋳造の大権を独占するようになったのは16世紀から18世紀にかけてだという。それまでは貴族や地方の有力者(土豪)が鋳造する場合も少なくなかった。

鋳造通貨は初め実質価値と額面価値とが一致した本位貨幣だった。つまり1ポンドの銀貨は鋳つぶしても1ポンドの価値を持つ銀のツブとなった。実際、長い間鋳造通貨を鋳つぶして金や銀の塊や装飾品に造りかえることが許されていた。

ユーロのコインは実質価値の伴わない額面価値だけの補助貨幣である。英国の通貨単位のポンドはかつて実質価値を持った1ポンドの銀から鋳造された銀貨に起源がある。英国は金銀複本位制度から1816年のジョージ3世の時代に金本位制度一本にした。通貨単位のポンドは銀の目方とは関係なく残った。

英国が初めて金本位制度を採用した国となったが、それまでほとんどの国は銀本位制度をとっていた。銀鉱山があちこちで発見開発され銀の価値が下がるに及んで、貴金属の中で最も価値の安定した金が本位制度の中心として採用されるに至った。

国家が通貨鋳造を独占することを「造幣大権」と呼ぶ。贋金つくりは造幣大権への侵犯であり国家権力への反逆である。

さて、1427年のフランス、ブルジュへ戻ると、ジャック・クールが共同経営で手を染めていた金貨鋳造に関し、ちゃんとした規定があった。国王の指令では1マール(当時の重量単位)の金(18カラット:純金が4分の3)から70枚の金貨を造ることと規定されていた。

しかるに、ジャック・クールとその共同者は常時75枚、14か15カラット(純金が3分の2)の粗悪な合金から80枚、時に89枚もの金貨を鋳造していた。

別の言い方をすれば、純金1マールから造れる金貨の許容されていた枚数93~94枚に対し、120~142枚の金貨を造っていたことになる。

Gold3copy こうして、1マール当たり、20~30エキューの利益を引き出していた。

「わが王国の公的事業にたずさわりながら贋金造りの犯罪を犯していた」と古文書は記録している。

両替商や会計院の役人などが金貨の目方を計れば容易に粗悪貨幣は明るみに出てしまう。

こうしてジャック・クール一味は重罪の判決を受け、不当に得た利益を没収された。

ところが、じきに1429年12月6日、シャルル7世から「赦免状」が出される。

裁判官も「国家理由」をもって免罪にせよという国王の命令の前にそれ以上の追求は控えねばならなかった。1431年にラヴァン・ル・ダノワは「フランス造幣局長」となり死ぬまでその地位に留まる。

しかし、この時に広まった悪い評判、ジャック・クールは公的立場を利用し懐を肥やす「汚職」をしたと言う評判は、多くの敵を作り、後にジャック・クールがさらに財産を増やし大富豪になった時に、もはや国王シャルル7世の庇護を受けることもならず投獄と国外逃亡の運命へと導いてゆく伏線となった。(続く)

      

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2010年1月 2日 (土)

ジャック・クールの生涯-その5

新年明けましておめでとうございます。

この記事でちょうど100回目の投稿となりました。2010年元旦に、なにやらお目出度いような気分です。長い間、かわらずご贔屓くださいました読者の皆様に厚く御礼を申し上げます。また、今年は一層の熱意で当ブログに力を注ぐ所存ですので何卒変わらぬご支援をお願い申し上げます。

さて、昨年は新しく始めたネット・ビジネスが面白くて?いや、慣れないこともあって手が離せず、ジャック・クールさんとも一時的に疎遠になってしまいました。せっかく出来かけた良縁を今年は一気に取り戻す存念でおります。

まずは、手始めに、お正月の初夢で見た、縁起の良い金塊の写真でGold20barscopy新年をスタートです。

さて、1418年にマセ・ド・レオデパールを嫁に娶ったジャック・クールは、マセの祖父、ルサールの引きを得てブルジュの街の造幣業に手を染めます。

1427年にはブルジュの貨幣鋳造所を買い取ります。

しかし、貨幣の鋳造にはそれなりの経験が必要で20代の若造が独りで仕事をこなせるわけがなく、ジャック・クールはその道のベテランと手を組みます。

一人は、共同出資者のピエール・ゴダールという男。もう一人は、ルーアン出身で、ルーアンの街が英国軍に占領された時、ブルージュに逃げてきた、ラヴァン・ル・ダノワという男。この3人が共同で貨幣鋳造の事業を進めます。

時代は、北フランスを英国が支配し、パリは英国と同盟を結んだブルゴーニュ派が支配するところとなり、後のシャルル7世が王太子でパリに居た時に、王家を支持するアルマニャック派とブルゴーニュ派とが武力衝突し数万の死者が出る市民戦争に発展したことは前回簡単に述べました。

シャルル王太子は戦乱の中を命からがらムランに、そしてブルジュに亡命したのでした。

このアルマニャック派とブルゴーニュ派の市民戦争は1789年のフランス大革命以前に起きたフランスにおける君主政治のありかたをめぐる二つの流れの対立が浮き彫りにされた歴史的事件で、英仏の百年戦争の中の一騒動として片付けられている嫌いがありますが、実は非常に重大な体制の危機、その現れとしての市民戦争でした。

パリでは英国とブルゴーニュ派が悪質な貨幣をどんどん鋳造していました。

悪貨を鋳造して儲けるには、含有する金や銀の量を減らして、質を落とすか、コインの目方を減らしてしまうと二つの方法があります。

ジャック・クールと2人の共同事業者がやったことは、まさに悪貨を鋳造することだった。

いわば、危ない橋を渡って、へたにちょっとでも転んだら危うく命取りになりかねない事をやってのけて、懐を肥やしたのです。

時代が時代、ジャンヌ・ダルクが現れて危機的状況にあったフランスを英国の支配から取り戻します。戦をやるには軍資金が要ります。英国軍は質の悪い貨幣をどんどん使う。同じ金額で質の良い貨幣を使っていたのでは、王国が疲弊してしまう。

ジャック・クールとその一味は、王国の為にやむなく悪貨を鋳造した、とシャルル7世の特免状を頂くことで危うく罪人になるところを罰金だけで免れます。どころか、共同経営者のラヴァン・ル・ダノワは後(1431年)にフランス国の造幣局長に出世してしまうのだから、戦国時代というのは、正義なんというものがどっちにでも転んでしまう時代なんでしょう。

ちょうど、日本でも、江戸幕府が財政困難に陥った時代に「貨幣改鋳」をやって切り抜けたという記事がメルマガが送られてきたので、引用させていただくことにします。

東西の歴史に精通し非常に興味深い記事を毎日送ってくださる陳さんへのお礼を籠めて「貨幣改鋳」という記事の締めくくりの部分を引用させて頂きます。

「荻原重秀は、この『貨幣改鋳』をフルに活用して、幕府財政をすくうとともに、自分の『ふところ』も救っていたといわれています。

これに対して、幕府の儒学者・新井白石は、六代将軍・家宣に何度も建言を行い、ついに罷免させたのです。

しかし、白石に財政赤字を解消する明確なプランはありませんでした。

将軍・ 家宣は『才ある者(荻原重秀)は徳がなく、徳ある者(新井白石)は才がない』と憂えたといわれています。」

ジャック・クールが行ったこと、それによってジャンヌダルク率いるフランス軍がオルレアンから、ついでノルマンデイーから英国軍を追い払い、アザンクールの闘いの仇を討つことが出来た。状況は、どうやら荻原重秀と似ていたと言う事ができましょう。(続く)

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2009年11月10日 (火)

ジャック・クールの生涯-その4

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

前回お話ししたように、パリと北フランスは英国とブルゴーニュ勢に支配されていた。

フランスの王位継承者シャルル王太子, シャルルを神のお告げと説いて戴冠式を挙げさせたジャンヌ・ダルクも、そしてジャンヌ・ダルク率いる軍に軍資金を提供したジャック・クールも、そうしたフランスが危機的状況にあった中で歴史に登場する。

Hunburg_hanse ジャック・クールの父親ピエールは毛皮商で中部ヨーロッパ、ドイツのハンザ同盟の街、スカンジナビア、はてはロシアから、テンなどの高級毛皮を輸入し加工して宮廷や裕福層に納めていた。

この時代、フランスでも商人は組合に所属し、それぞれの義務を果たさなければ商売が出来なかった。左の絵はハンブルグのハンザ同盟を描いたもの。

また毛皮のテンは肌触りが良く、最高級品だった。現在も水彩の絵Martre5 筆の最高級品はテンの毛を使ったものとされている。

ジャックの父親ピエールは肉屋のジャン・バクリエの寡婦(未亡人)と結婚しジャックをもうけた。

ピエール・クールの家の向かいにレオデパール家があり、ランベール・レオデパールはブルジュの地方行政官でベリー公の宮廷と聖職者の間に係累が多かった。ランベールの妻ジャンヌはルサール家の出で、父のルサールは貨幣鋳造所の所長を務めていた。

1418年、ジャックは18歳の時に、このランベールとジャンヌの娘、マセ・ド・レオデパールを妻に娶る。そして、マセの母方の祖父の職業をジャックも継ぐことになる。

20歳でジャックはブルジュの12あった両替所のひとつを経営していた。

しかし、初めは父親の商売を見習い宮廷に毛皮や高級調度品を納める商人として出入りしたようである。記録には、綴りが違うがほぼジャック・クールと思われる名の人物が1421年に王太子に一対の拍車を納めたとある。

この時代、シャルル王太子は金が無く、商人たちは、宮廷に出入りする権利だけを目当てに、「ツケ」で物を納め、代金が支払われるのは数年後、甚だしくは10年以上経ってからやっと支払われることも珍しくはなかった。

Orfevr2 宮廷出入りの商人は毛織物や、平織物、テーブルクロスなどを納める業者、錫の壺や銅の鍋釜類、鍛冶屋、金銀細工師、指物師、ワイン仲買業者などが常時出入りした。

商人は、たんに利益を得るだけでなく、宮廷を、ある意味で支えていたのであり、銀行家の役割も果たしていた。


1427年、ジャックはブルジュの貨幣鋳造所を買い取り、この街の硬貨 製造所の責任者Ecu_2 となった。

この時代の貨幣鋳造は、金銀の含有量を決める一応の規定はあるものの、製造所によってバラツキがあり品質が一定ではなかった。

シャルル6世の時代には、デイジョン、トロワ、シャロンに鋳造所があったが、同一金額の硬貨でも重量が違い、貴金属の含有量が一定ではなかった。

ことに、パリを中心に北フランスでは、英国は質の悪い貨幣を流通させていた。

これに対し、ベリー公が治めていたブルジュでは貨幣の質が高く良貨だった。

「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則がある。

これを地Frappe_de_monnaies1で行ったのが当時の通貨戦争だった。

北の商人は南で売った商品の代金を良質の貨幣で受け取る。この良貨を北に持ち帰り、鋳造し直して、3割ほども多い悪貨を手に入れる。

金銀の含有量が少なくても、同じ金額の貨幣として通用するのだから、だれもが悪貨に流れるのは自然だった。このため、ロワール以南でもついに良貨が稀少になってしまった。

(続く)



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2009年11月 4日 (水)

ジャック・クールの生涯-その3

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

アザンクールの戦いがあった1415年はまだ、シャルル6世の治世だった。

英国に大敗を喫したシャルル6世はなんと敵将であるヘンリー5世に娘のカトリーヌを嫁がせる。

シャルル6世と息子のシャルルはまだパリに居たのだが、王妃のエリザベス(通称イザIsabeau2 ボー)・ド・バビエール(ミラノ公の娘:タデ・ヴィスコンテの娘)がブルゴーニュ公ジャン・サン・プール(無畏公と訳されている:怖いもの知らずのジャン)と結託し、夫の出自であるアルマニャック派と対立させたため、パリではブルゴーニュ人による反乱、市街戦が起こる。

1418年5月28日から29日にかけての夜、大規模な反乱が、さらに8月20日には、乞食、ヤクザ者、アウトローなどを操ったブルゴーニュ派がアルマニャック派を襲撃し、バスチーユの監獄を襲い、女子供も含め約2万人が殺害された。

身の危険を感じたシャルル王太子(後のシャルル7世)は少数の護衛に守られ、パリを脱出、50km南のムラン(Melun:現在はセーヌ・マルヌ県の県庁所在地) に落ちのびる。さらにロワール河を超え、ブルジュに亡命した。

1419年9月10日、ムランの近く、セーヌ河と支流ヨンヌ川の合流地点にある街モントローSans_peur4 で和平会議を開かれるが、ブルゴーニュ公ジャン・サン・プール(無畏公)は暗殺される。

シャルル6世とヘンリー5世はほぼ同時期に他界する。

シャルル6世には12人の子供がいたが多くは早死にし、2人だけ残っていた息子も兄が1417年に病死したため、11番目の子供であったシャルルが正統な王位継承権を得て王子となった。ジャンヌダルクに導かれて、シャルルがランスで戴冠式を挙げ正式にフランス国王となるのは1429年7月17日のことである。

この時代、ペストが流行り、パリはブルゴーニュ公と結んだ英国のベッドフォード公の支配下に落ち、財産を持った商人や金貸しのフランス人はパリを逃げ出し、荒れ放題となった。

ブルジュに落ちのびたシャルル王太子は、ベリー公の支持者だった人々に迎えられ、彼らの協力を得て堅固な行政府を作ってゆき、敵方から、「ブルジュ王」と呼ばれるようになる。

J_de_berry2 ベリー公ジャン(1340~1416)はシャルル6世の父、シャルル5世の弟で、シャルル王太子(7世)にとって大伯父(従祖父:おおおじ)にあたる。ベリー地方の首都だったブルジュは当時、フランスの宗教界で重要な地位を占め, また商工業が盛んだった。

ベリー公ジャンは芸術愛好家で、いわゆるパトロン、フィレンツエのメデイチ家のようなメッセナの役を果たしていた。そのためブルジュにはヨーロッパ中から芸術家が集まり活動していた。

「ベリー公の小時禱書」の挿絵装飾画はフランドルの写本装飾家リンブルグ(またはランブール)兄弟の手になる当時の国際ゴシック様式を代表する、青などの色彩鮮やかな美しいミニチュア画。Berry6

リンブルグ兄弟は最初、ブルゴーニュのフィリップ大胆公に仕えていたが、やがてベリー公のために、これらの後世に残る写本画を作った。この時禱書の絵は当時の宮廷のみならず農民や町人の服装、生活スタイルを見せてくれる貴重な資料だ。

ベリー公が作らせた時禱書は現存するものだけで6種類もある。

有名なものだけ挙げると。

1)「いとも豪華なる時禱書」
  (シャンテイイ城内、コンデ美術館蔵)Très Riches Heures du Duc de Berry

2)「いとも美しき時禱書」(パリ国立図書館蔵)
  Très Belles Heures du Duc de Berry

3)「美しき時禱書」(ニューヨーク・メトロポリタン美術館蔵)
  Belles Heures du Duc de Berry

Limb3  この時禱書の挿絵に出てくる絵をご覧いただきたい。当時の宮廷人は、こんな服装をしていた。ベリー公の肖像もそうだが従者たちも重そうな布地のマントを着て、帽子を被り、襟飾り、袖の先に毛皮の装飾が付いている。

シャルル7世のな肖像画にはもっとはっきりと毛皮の Chrl72使用が

認められる。

ジャック・クールの父親の職業はこの毛皮商だった。ベリー公とさらに シャルル王太子の宮廷に出入りする「宮廷御用達」の毛皮商人として財をなした。

(続く)

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2009年11月 1日 (日)

ジャック・クールの生涯-その2

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

ジャック・クールが15歳の時、すなわち1415年10月25日にアザンクールの闘いが起こった。英仏百年戦争の数々の戦闘のうちで最も英軍の勝利、仏軍の敗北が極端だった戦闘である。

Henriv2 ノルマンデイーのアラスの近くの小高い丘に、ヘンリー5世率いる英軍が1万2千人。

対する仏軍は重装騎兵を含め5万人の兵士で迎え撃った。


アザンクール(Azincourt, Agincourt)は小高い丘で両側に森がある。英軍は丘の上に陣を張った。斜面の下方に陣取った仏軍は、初めから戦術を誤っていた。

運悪く、戦闘の前夜は一晩中土砂降りだった。兵士たちは10月の
体の芯まで凍えるような冷たいにずぶ濡れになり震えながら夜明けを待った。

フランス側の武装は伝統的な甲冑を着けた
騎士が中心で、武器はアルバレット。ウイリArbalete アムテルが息子の頭に乗せたリンゴを射止めるのに使った,あの半分銃のような鋼鉄製の弓の弦を引き金に止め、水平に構えて撃つ弓。漢字で弩と書く。

弩は雨に濡れて使い物にならなかったという。

Longbow これに対し英軍は 長弓(long bows) 隊を戦術的に使って多大な効果を上げた。

長弓は100m先の鎧を貫くという。

わずか数時間の戦闘でフランス側は6000の騎士を失い多数の捕虜を出した。オルレアン公シャルルもその一人。公爵5人。男爵90人が命を落し、フランスの政治体制は甚大な打撃を被り、弱体化した。

これに反して英軍は失った騎士の数がたったの13人という、まるで奇跡のような戦闘だった。英国側は長弓隊を組織的に使った事でも判るように全体として統率が行き届き、指揮命令系統がはっきりし整然と行動した。

これに対しフランス側は、騎士がまだ中世の一騎打ちの戦闘意識から抜け出ず、数Az6 は4倍以上だったにもかかわらず、個人個人バラバラの統率が無く、組織的に動かなかったがために数において劣勢だった英軍に信じがたい無残な敗北を喫した。

夜通しの雨で地面は泥濘になり、馬は脚を採られ滑っては味方同士がぶつかり合う。森を背中に長弓隊は一分に10本の矢を雨のごとく降らせてくる。アルバレットは乾いた時でも1分に2本しか矢を放てない。

アザンクールの闘いは、この闘い以降、中世の騎士が戦場で活躍できなくなった、時代の移り目を示す画期的な戦闘として歴史に名を残す。英国はこの完全勝利を栄光として讃えシェークスピアはこの戦いを題材に劇を作った。

この戦闘以降、英国はノルマンデイからロワール以北を支配下に置き、パリを支配するブルゴーニュSanspeur3 公ジャン・サン・プール(怖いもの知らずのジャン)と手を結んで、実質的に北フランスを支配する。

フランスの皇太子であるシャルル7世はブルゴーニュ公ジャンにパリを追われてブルジュに亡命したのだった。

(続く)


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2009年10月24日 (土)

ジャック・クールの生涯-その1

投稿者:そうりん亭ジャーナル 「りゅーらる」;http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog/

Coeur_et_st_jacque ブルジュのジャック・クールの館には至る所「帆立貝」と「ハート」の浮き彫りが施してある。これはジャック・クールの家紋なのだろう。帆立貝はコキーユ・サン・ジャック、ハートはフランス語で「クールなのだから。

ジャック・クールのことを御存じの方は多くない。歴史の教科書1 にも出ていないし、フ ランスを旅行してもブルジュまで行ったり、ベリー地方の案内を読んだりする人は少ないからである。

しかし、ジャック・クールは意外とわれわれの身近なところに、その痕跡を残している。

トランプで遊んだことのない人がいるとしても、見たことがない人はいないだろうし、トランプのスート(絵柄マーク)が4種類あるのを知らない人はいないだろう。

スペード、ハート、クラブ、ダイヤの4種類。トランプの歴史を探ってみると、とても面白い。ヨーロッパにトランプが伝わった頃、スペードは「剣」だった。イタリア語でspadaの複数形がスペードなのだ。

1_2 クラブは農民を象徴する「棍棒」だった。三つ葉のクローバと関係はない。ダイヤは丸い貨幣だったという。そしてハートは、なんと、このブログで何度もとりあげている「聖杯」だったのだ。

それが現在のハートになったのは何故か?
ここに
ジャック・クールが関係してくる。

ヨーロッパにトランプが最初に伝わったのは14世紀前半のイタリア説が有力だがスペイン説もある。インド起源説、中国起源説といろいろだが、ヨーロッパへは聖地奪回を計って中東へ遠征した十字軍が持ち帰ったという説に説得力を感じる。

ともあれ、フランスでは地中海貿易で巨万の富を築いたジャック・クールはトランプの普及に熱心だった。彼はトランプ流行の火付け役だったので、その功績をたたえ、もとは「聖杯」だったスート(絵柄マーク)がハート(クール に変えられ現在にいたっているという。

15世紀の初頭に当時フランスの首都だったブルジュにゴシック、フラン・ボワイヤン様式の壮大な邸宅を建て、外壁内壁の至る所に、象徴的な浮き彫りを施させたジャック・クールに錬金術師の面影を見ることはさほど突飛なことではなかろう。だが、その方面の探究は今は置いておこう。

ここでは、ごくありふれた町人として生まれたジャック・クールの生まれから辿ることにする。

ジャック・クールは1400年ブルジュに生まれた。父は有力な毛皮商人でバクJq2 リエと いう肉屋の寡婦と結婚し長男のジャックをもうけた。母親の名前は肉屋のバクリエ夫人とだけしか伝わっていない。

肉屋といっても、中世の西欧では、エタ・非人などとは正反対で、肉屋のギルドは力を持ち、町人の中でも有力者が多かったという。

しかも、母方の祖父が造幣所長だったことがジャックの生涯を決定づけることになる。

ジャックは勉強嫌いで、街へ出てガキ大将として遊ぶ方が好きだったようだ。大学へは行かず、若いうちから父親の商売や祖父の貨幣鋳造や金銀細工の仕事を継ぐ積りで徒弟奉公に出ていたといわれる。

(続く)

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2009年9月13日 (日)

アーサー王伝説-最終回

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

御精読頂いている読者には大変永い間お待たせし申し訳ない結果となりましたが、5回に渡って連載した「アーサー王伝説」も、いよいよこれで最終回が書けることになりました

最初の投稿でお約束した「アーサー王伝説」と黒沢明の「七人の侍」の関係はいったいどうなったんだ?回り道ばかりして本題にちっとも触れないのはなんでですかね?

ずっと気になりながらも書けなかったのは、肝心の結論の部分が、やはり自分の思い過ごしだったか。この結論では読者を失望させることになるな。
突飛な思い付きを書いてしまったと後悔し始めていたからでもあった。

Excali3 ところが今日、筆者のイメージの結合が必ずしも空想過多や、こじつけや、牽強付会とは限らないかもしれない。かすかな希望を持たせてくれるテキストにぶつかったのである。

少し長いですが、まずはそのテキストの引用から。出典はインターネットの百科事典「ウイキペデイア」。


=== 以下引用 =====

オセット人は、スキタイサルマタイアラン人などの古代の黒海北岸一帯で活動したイラン系民族の後裔と考えられている。彼らは諸民族と混交を重ねていく中で、アス人と自称したオセット人の先祖がハザールの解体後、カフカス山脈北麓の低地地帯に王国を形成し、カフカス先住諸民族の強い影響を受けた独自の文化を発展させた。

13世紀前半、アス人の王国はモンゴル帝国によって征服され、首都マガスを始めとする諸都市は壊滅的な打撃を受けた。これ以来アス人はモンゴルの支配下に入り、モンゴルの支配を嫌って逃亡した若干のアス人はハンガリーに逃げ込んで同地でヤース人と呼ばれる民族集団になった。ヤース人はその後ハンガリー人への同化が進み、現在はハンガリー人の一部と考えられている。

また、アス人の一部は降伏してモンゴル軍に加えられるとそのまま中国に移住し、に仕えるアスト人親衛軍を構成した。「アスト」は「アス」のモンゴル語による複数形である。メルキト部出身のモンゴル人将軍バヤンに率いられたアスト人親衛軍は元朝治下のモンゴル高原で行われた数多くの戦争で大きな戦果をあげ、14世紀前半に頻発した後継者争いを巡る政変において重要な役割を負うことになる。こうして中国でモンゴル人の遊牧民と同化していったアストの人々は1368に元が中国を放棄してモンゴル高原に帰るとこれに従って高原の遊牧民の一集団となり、長らくモンゴル民族の中の部族名としてアストの名が残った。例えば、15世紀前半にモンゴルのハーンを擁立してオイラトと熾烈な争いを繰り広げた有力部族長として、アスト部族のアルクタイという者の名が伝わっている。

一方、カフカス北麓の低地に残っていたアス人も、良質な草原地帯であるこの地方へと遊牧を広げようとするジョチ・ウルステュルク 遊牧民の圧迫を受けてカフカスの山岳地帯へと南下を余儀なくされ、現在の北オセチアに移住して4つの部族集団からなる部族連合を形成した。また、一部のア ス人(オセット人)はカフカス山脈を越えて南下し、南オセチアの領域に入って群小村落共同体を立てた。山岳地帯に入った彼らは民族統一国家を打ち立てるこ とはなく、北オセチアのオセット人は西方のカバルダ人、南オセチアのオセット人は南方のグルジア人の支配下に入る。

17世紀に入るとロシア帝国北カフカースへの進出が進み、18世紀末から19世紀初頭にかけて、オセチアの一帯はロシアによって併合された。

==== 引用終わり =====

Skythaichizu 結論を急ぐ形になり読者には何のことか解らないかもしれない。ここで重要なのはオセット人とモンゴルの関係である。

オセット人とは現在のオセチア。そう、昨年の北京オリンピックの真っ最中にロシアの戦車が侵入してグルジアと戦火を交えた、あSennsha の戦場になったオセチア。

オセチアは現存するオセット人(アラン人)の最後の居住地とされており、この種族が持っていた伝説が「アーサー王伝説」の起源だと主張する新説が近年出版された。

Gennsho
副題を「スキタイからキャメロットへ」とし、C. スコット・リトルトンとリンダ・A・マルカーの共著。原書の写真がOrange の写真サイトで見つかった。

「アーサー王伝説の起源」という題で、日本訳が1998年に辺見葉子、吉田瑞穂訳で青土社から出版されている。

この書の中で、著者はアーサー王伝説の中心を形作る様々のエピソードと道具立て、聖剣エクスカリバーや荷馬車に乗ってグイネヴィア姫の救出に赴く騎士ランスロット、などがアラン族の風習と伝説とパラレルの関係にあることを詳細に明かしている。

そして、なにあろう「アラン族」はローマ人が植民地として征服したゴロワ(ガリア)、南ブリテン島、南ゲルマニアの広大な領土を支配、管理するために雇った、いわば地頭、代官あるいはその下で働いた管理職として西ヨーロッパの地で活躍した民族だというのである。

「アラン族」の痕跡は、例えばフランスのブルターニュやノルマンデイー地方に地名として現在も残っている。アランヴィル、アランソンなど。さらにアランを姓と名前に持つ人も多い。

13日に投稿した後、ひとつ大事なことを忘れたと気が付いた。アーサー王と並んで伝説のヒーロー、ランスロット(Lancelot)である。この本の著者は、西洋の騎士の模範となったランスロットの名前そのものをアランと関係づけるのである。

すなわち、フランスの南西部に現在ロット県というのがあるが、ロットのアラン(Alain de Lot) がランスロットの名前の由来だとしている。(この節のみ14日追加)

ローマは植民地支配の為に地方官を派遣し、その下で現地人のゴロワ人やケルト人を管理能力あるアラン人を使ったという。そしてアラン人の中に英雄的な長が実在し、民間伝説となってペン・ドラゴンとかアーサー王のモデルとなった。

伝説のバリアントには強大になったアーサー王は軍を率いてローマに攻め昇り皇帝となったというのまである。

アラン人は西シベリアからカスピ海、黒海に居住し、世界最古の遊牧騎馬民族国家を築いた民族で、古代ギリシャの歴史家ヘロトドスも記述を残している。カザフスタンなど現在のイランの北方を中心に毛皮の交易などで生計を立てていた。

インド・イラン系の言語をもち、BC3世紀にはサルマタイ人の圧力により衰退しクリミCarte_georgie ヤ半島に逃げた。

「アーサー王伝説の起源」の著者は、アラン族はモンゴル系のフン族とは関係が無いと書いている。

筆者が黒沢の「七人の侍」の最後の場面、野盗に襲われる農民に加担して死んだ侍の墓、土饅頭に突きたてられた刀のイメージと岩に突き刺さったエクスカリバーのイメージとで、この二つはもしかして関連があるかもしれないと考えたことは、このシリーズの初回に書いた。

今日発見したウイキペデイアのテキストは、アラン族の一部はモンゴルまで行き、モンゴル族と同化し、15世紀には有力部族長まで出現し名前を留めたと書いている。

日本の武士の起源には諸説があるようだが、モンゴルの遊牧騎馬民族と、どこかで繋がっている筈と考えても、まったく突飛な連想として排除はされないだろう。
アラン人の中にモンゴル人と同化した人間がいれば、アラン人の風習がモンゴルにも伝わったと仮定しても否定はできない。

「アーサー王伝説の起源」の著者は、墓に剣を突き立てるのは、アラン族の長を埋Excalibur2 葬する時の「しきたり」だったと書いている。

さらに、ランスロットが荷馬車でグイネヴィア姫を救出に向かうのも、西欧では荷馬車は囚人が刑場へ引き出される時に乗せられる乗り物だが、遊牧民族のアラン人にとっては日常の乗り物だったから不思議はない

どこにも忌まわしいイメージは無い筈だというのだが、剣の道を乗り越えて無事グイネヴィア姫が囚われていた岬の城に辿り着き姫を救出したランスロットに姫は、荷馬車が現れた時、一瞬ランスロットが乗るのを躊躇したと非難する。

姫がなぜランスロットが荷車に乗るのをためらったことを非難したのか意味はよくわからないが、筆者には、そんな詮索よりも「アーサー王伝説」が包含する、われわれ現代人の心をも魅了する幾つかの主要なテーマに注目した方が良いと思う。古今東西の、文学、演劇、映画に尽きない主題を提供しているからである。

主君に対する忠誠心。日本では義経・弁慶の主従関係が歌舞伎と映画に繰り返しとりあげられる。そして忠臣蔵を日本人は涙を誘われながら見続けるであろう。

騎士に課せられる「試練」。困難に挑戦する勇気を讃え、困難をを乗り越えた先に得られる報酬。これは現代でも受験の「狭き門」、企業で盛んに奨励されるチャレンジ精神と起源を一つにする。

忠臣蔵は困難を乗り越え団結した結果、武士道の義務とされた主君の仇討を成し遂げる
復讐の物語だ。

ランスロットは、主君の妃であるグイネヴィア姫と相愛の恋に陥るが、プラトニックラヴを維持し、不義を避けるために宮廷を離れ森に隠れる。しかし姫が敵に浚われると一人で救出に赴く。途中、荷馬車と小人が出てきて馬を捨て、荷馬車に乗る。

姫が囚われている城は岩だらけの岬の先端にある城で、そこへ渡るには、幾つかの「試練」を経なければならない。ランスロットは一番困難な「刃を上向きに並べた剣の道」を渡ることを選ぶ。剣の道を
無事渡り切り、姫の救出に成功するのである。

このエピソードは通俗化されて西洋の映画や小説に繰り返し使われている。
騎士に救われたいのは女性の潜在的な欲求となり、意中の女性が陥った困難を解決し感謝されたいという秘かな願望を現代の男たちも意識下に抱いている。

求婚する男に試練が課されるのは「かぐや姫」の昔からだが、西洋近代で筆者がすぐに思いつく物語にモーツアルトの「魔笛」がある。

魔笛は随所に和音が3回ずつ打ち鳴らされるが、これは、フリーメーソンだったモーツアルトが秘密組織の入会の儀式に「試練」として乗り越え、通過しなければならない関門ごとに打ち鳴らされる槌の音を入れたという説がある。

このように、同じ「試練」とか「忠義」というテーマにも、西洋と日本とでは違いを見ることが出来る。ランスロットが試練を乗り越えるのはグイネヴィア姫への愛であり、忠臣蔵のように「武士道の義務」からではない。

弁慶が安宅の関で義経を打ちすえるのも、主君を救う為であって、主君の義経が愛した静御前に岡惚れしたからではない。

最後に、アーサー王伝説に現れ、今後も筆者が探究を続けたいテーマは、やはり「聖杯」。

Graal2 漁夫の出身で一番卑しい身分の騎士ペルスヴァルがついに聖杯に出会い、腑抜けになったアーサー王の許へと戻り、杯の聖なる液をアーサーの口に流し込み、アーサーは正常心を取り戻す。

腐敗し崩壊寸前の王国を救うには聖杯しかないとアーサーが円卓の騎士全員に依頼し、探究に出かけるが騎士たちは全員目的を遂げられずに死んでしまう。

聖杯の起源はブルターニュ地方に伝わる汲めども尽きない魔法の鍋の伝説にあるという人もいるが、「ピンチを救ってくれる魔法の飲み物」の伝説と探究も昔から現代まで人間は続けてきたことがわかる。Asterix27



フランスの国民的な漫画に「Asterix」というのがある。

支配者であるローマAsterix 人を追い払うのに、Asterixと力持ちの Obelixは、たびたび、このパワー・ドリンクを呑んでスーパーマン的な力を発揮するのが面白い。

この「魔法の飲み物」 Portion magic を調合できる長老、ちょうどメルランに当たる老人がちゃんと居るのだ。このドリンクを調合する鍋が伝説の汲めども尽きない鍋かもしれない。


途中途切れながらの連載でしたが御精読ありがとうございました。
これで一旦打ち切りますが、また諸説を読み、日本の武士道や西洋の現代に続く風俗習慣で「アーサー王伝説」と関係ありそうだと思われることに出会ったら、続きを書きたいと思います。みなさんも是非、この汲めども尽きない物語の宝庫に探りを入れてみてください。



 



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2009年7月 6日 (月)

アーサー王伝説-その5

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://www.sorintei.com

アーサーは、臣従する騎士たちの協力を得て団結して外敵を追い払い国土に平和が齎された時、自らの発案で「円卓の騎士団」を作る。円卓は上座下座が無く全員が平等の位置につき国事を審議する。アーサーの家臣を重んじそれぞれが対等で議論を尽くして欲しいという意思の表れである。

Tableronde_2 騎士たちが丸く座った「円卓」が実在する。英国のウンチェスター城の大広間の壁に掛けられている。直径5.5m の大きなテーブルで、樫材で作られ13世紀(1250〜1280年の間)に作られたと鑑定されている。

中心部に紋章化された5弁の赤バラと不思議なことに赤バラに重なって白バラが描かれている。英国では周知のとおり赤バラは大貴族ランカスター家の紋章で、白バラはヨーク家の紋章。王位継承をめぐる「ばら戦争」は1455年から1485年の30年間続いた。
ランカスター家のヘンリー7世とヨーク家のエリザベスの結婚により両家の戦いが終わり、ここに示されるように赤バラと白バラが合体した。

円卓は全体が25の放射状に区切られ、交互に緑とベージュに塗られている。上部の区切りの部分に王冠を頂いた王の肖像が描かれ、あとの24の区切りの円周部には、それぞれ円卓の騎士の名前が記されている。

一番目に王国に破滅をもたらすモルドレッドが記されているのはどういうわけだろう?間を省略して8番目にアーサーの乳兄弟で国務長官のケイ。11番目にランスロットの従兄にあたるボールス・ド・ガニス Bors de Ganys。18番目にアーサーの甥のガウェイン。19番目のトリスタンは Tristram Lyens と書かれている。21番目はペルスバルだが Percyvale と書かれている。23番目のランスロットは Lancelot due Lake。そして24番目、アーサー王の左手に座すのはランスロットの息子のガラハットGalahalltだ。

簡潔を期すためにこのブログでは書かなかったが、聖杯の騎士とされているのはペルスバルのほかにガラハットとボールスの三人なのだ。13世紀の作者不詳「ランスロ聖杯物語」では、この三人のうち聖杯の神秘を見たガラハットは恍惚のうちに死んでしまい、ボールスがアーサーの宮殿に報告をもたらす。

この円卓はヘンリー8世の治世の初期、神聖ローマ皇帝カルロス1世(カール5Charlesq2世) 来訪の折、塗りなおされたとされている。紅白のバラが15世紀の「ばら戦争」の終結を示すとすれば、円卓が作られてから250年以上後に描き加えられたと推定できる。

ンチェスター城 とアーサー王伝説のかかわりは深い。というのも、クレテイアン・ド・トロワ以降のこの伝説の文書として残り、しかもアーサー王伝説の集大成ともいうべきトマス・マロリーの「アーサー王の死」の写本が1934年にンチェスターで発見されているからである。

トマス・マロリーはウェールズ出身の騎士で1470年に「アーサー王の死」を書いた。散文ロマンスのこの大作はイギリス最初の出版業者ウイリアム・キャクストンの手で印刷本にされヨーロッパ各地で広く読まれた。

1934年に発見された写本はより原典に近いとされンチェスター本と呼ばれている。

日本では、筑摩書房から2004年から2007年にかけてウイリアム・キャクストン版全5巻が井村君江訳で出版された。トマス・マロリーの「アーサー王の死」ウイリアム・キャクストン版の初の完訳である。

そしてより原典に近いとされるンチェスター写本の完訳も出版の年は定かでないが、最近になって青山社から上下2巻で出た。「完訳アーサー王物語」とタイトルされ、中島邦夫、小川睦子、遠藤幸子の訳。ISBN 4915865622

映画では人間の心理は顔の表情や動作、行動で表すしかないが、騎士道物語がわれわれ日本人にとっても興味深いのは「髷物(まげもの)」のちゃんばらが面白いのはもちろんとして、主に対して臣従を誓う家臣たちの心理が興味深い。

Excali アーサー王伝説でも若いアーサーがどのように王権を確立し諸侯の信頼と臣従を獲得しえたかが語られる。ひとつはエクスカリバーという聖なる剣によって。さらにメルランという魔術師に助けられながらではあるが、アーサー自身が王に相応しい英知と深慮、部下と民衆への仁愛の持ち主だったことが強調される。

出生と同時にアーサーは約束によりメルランの手に渡り、メルランは養父としてエクトールに預ける。エクトールには実の息子のケイが居る。アーサーは出生の秘密を知らぬまま成長する。

映画では村祭りに馬上試合をするため諸侯が集まり、エクトールとケイも試合に出場しにやってくる。アーサーは単にふたりのお付き、「お馬番」でしかない。ケイの出場寸前に剣が盗まれてしまう。早く探して来いと養父に言われアーサーはケイの剣を探すが盗人はどこかへ隠れ見つからない。

その時、アーサーは一本の立派な剣が岩に突き立っているのを見つける。手をかけExcali3 てみるとなんなく抜けてしまうのだ。アーサーを探しに来たケイは父親に、自分が抜いたと嘘をつくが、エクトールは事情を察し、もういちど剣を岩に戻してやってみろと命じる。

その頃になるとエクスカリバーを抜いた奴がいると噂がひろまり、大勢が岩の周りに集まってくる。あんな若造が抜いたんなら俺だってと力に自信のある者が次々に試すが誰も抜けない。アーサーはふたたびなんなく抜いてしまう。「王様の誕生だ!!」人々は叫びかわす。

エクスカリバーには「この剣を抜くものこそが真の王位継承者である」と明記されている。エクトールはアーサーに「おまえはイングランドの王ペンドラゴンとイグレーヌのあいだに生れた子だ」と出生の秘密を明かす。

諸侯たちは、「あんなお馬番の若造に臣従ができるか」とか、事情通の者は「あいつは不義の子だ」と反発し王位継承者と認めようとしない。とりわけアーサーの異父姉をそれぞれ妃にもつオークニーとノルガリス侯は他の諸侯を引き連れアーサーに反旗を翻す。

アーサーを素直に国王と認めたのは弱小国のカメリアードと貧しい民衆だけである。アーサーはメルランの助けを借りて隣国カメリアードの危機を救い、その娘グウイネヴィア姫を娶る。

Chevalier1 オークニーとノルガリス侯に率いられた反アーサー軍とアーサー軍全軍が戦場で対峙している。総攻撃になれば双方に多大な死傷者が出るのは必定である。その時、アーサーはエクスカリバーを抜き単身で敵陣へ進み、ノルガリスに向かいエクスカリバーを差出し「私はこの王の印としての剣を授かったが貴公がどうしても臣従しないというならば、この剣で私の首を刎ねるがよい」と首を差し出す。

言われた侯はエクスカリバーを受け取るや、すわ敵将の首をと振りかざすが、その時、異様な力を感じて剣を振り下ろせない。聖剣を実感した侯はアーサーの前に膝まづき、家臣として臣従を誓うのである。「戦争は避けられた!」両軍の兵士全員が歓喜に躍り上がって喜ぶ。

その後、いくつもの試練があり外敵をすべて追い払い、王国に平和が訪れた、その機を逃さず、アーサーは円卓の騎士団の結成を宣言する。「真理と友愛に基づいた王国の建設」。円卓には上座下座の区別がない。円卓を囲んで座る騎士の全員が対等で国事に審議を尽くすというアーサーの理想主義の表現だった。

このように、国王の権威を認めさせる「物」としての剣が重要な役割を果たしている。

ところで日本の熱田神宮にご神体として奉齎されている三種の神器のひとつ「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」は須佐之男命が大蛇を退治たときに、尻尾から出てきたとされ、後に「倭建命(やまとたけるのみこと)」に渡され野火に囲まれた命がこの剣で草を薙いだことから別名「草薙ぎの剣」とも呼ばれている。

アーサー王伝説と「やまとたける」の伝説を学術的に比較研究されている方もおられる。アーサー王伝説研究会日本支部も存在する。

国王の権威と「騎士が潜り抜け、乗り越えなければならない試練」について次回に書きたいと思います。(つづく)


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2009年7月 2日 (木)

アーサー王伝説-その4

投稿者:そうりん亭ジャーナル「りゅーらる」:http://sorintei.cocolog-nifty.com

マジシャン・メルランMerlin に関するストーリーは「メルラン物語」(作者不詳)が下敷きになっているが、アーサー王伝説にランスロ(英語読みでランスロット)Lancelotを登場させたのは、フランスはシャンパーニュ地方の吟遊詩人クレテアン・ド・トロワだった。

Alienor2 クレテアン・ド・トロワは先に触れたフランス王ルイ7世とアリエノール・ダキテンヌAlienor d'Aquitaine の間に出来た娘マリー・ド・シャンパーニュの宮廷に出入りしていた吟遊詩人で、母親譲りで真の恋愛は婚姻外にあると主張しかつ実践もしていたフェミニストの魁(さきがけ)マリーにそそのかされた、というか依頼によって「荷車の騎士ランスロット le chevalier de la charette」他の物語を韻文で書いた。1177年から1181年にかけてとされている。

アーサーArthur に次ぐ第二の英雄、ランスロット Lancelot がフランス出身で、美男の上にこの上な く強く、アーサーと互角の勝負が出来、騎士同士の試合( tournois= トーナメント )では常に優勝者 champion。アーサー王の妃グイネヴィア姫はたちまち恋に陥ってしまう。いかにもフランスに宮廷を置いたマリー・ド・シャンパーニュの意気が通った設定が面白い。トーナメントもチャンピオンも現代のすべてのスポーツに言葉が残っている。

「宮廷風恋愛」は女性中心の宮廷とそこに出入りしていた吟遊詩人たちが生み出し、Troubadour4 ルネッサンスから近代へと続く文学の底流となった。騎士ランスロットは一人の貴婦人に魂を捧げ忠誠を尽くす騎士の典型である。

中世までは女性は婚姻において子孫を残すための牛馬同然の扱いしか受けておらず、人間の証である恋愛は結婚関係の外にしかありえないと主張したのがアリエノールAlienorとマリー母娘。宮廷恋愛の対象となる騎士は自ずと教養と美徳と礼儀を弁えしかも強くなければならない。

この高貴な魂と洗礼された宮廷風恋愛の代表者ランスロットが何故また荷車など野暮の代表みたいな乗り物と結び付くのか?これは、「アーサー王伝説中央アジア起源説」とも関連するので少し触れておく。

Alienor3 アーサーに嫁いですぐグイネヴィア姫は誘拐される。ランスロットが救出にゆくが途中、馬がいなくなり徒歩で森をさまよう。そこへ動物に牽かせた荷車 charetteで小人が通りかかる。「荷車に乗るなら、グイネヴィア姫の許へ連れてってやる」と小人はランスロットにもちかける。荷車は犯罪人が乗るもので恥の象徴でもありランスロットは躊躇するがグイネヴィア姫の許へ行くには他に手段がないのでやむなく受け入れ荷車に乗る。Chrettroyes2

フランス人は昔から恋愛が好きだ。浮気、不倫は日常茶飯事。12・3世紀の昔から王さまと王妃様が率先して恋愛に励んでいたのだから、どうしようもない。かくいう日本だって平安貴族は毎日のように恋愛にうつつを抜かしていた。「源氏物語」は「アーサー王伝説」中でも「ランスロット」よりも遥か昔に書かれた。

もうひとつ、この伝説に色濃く流れているアーサーの出自と、近親相姦により生まれたモルドレッドとアーサー王が最後は父子相殺に終わるという悲劇は、アリエノールの二度にわたる婚姻が二度とも近親結婚だったことへの教訓と警告と受け止めることができる。

ランスロットの騎士像そのものはクレテアン・ド・トロワが「荷Lancelot4 車の騎士ランスロット」を書く前からロマンス語で書かれた伝説「湖の騎士ランスロ Lancelot du Lac 」にあった。湖の姫ヴィヴィアンが赤子のランスロを引き取り完璧な騎士として育てる。聖剣エクスカリバーを守り正当な王位継承者に与える役目を持つのが湖の姫ヴィヴィアンとなっている。

クレテアン・ド・トロワはもうひとつ重要な人物と「道具」を導入した。ペルスバル Perceval とグラアル Graal 「聖杯」がそれ。ペルスバル Percevalは1181年に書かれるが完結をみないうちにクレテアン・ド・トロワは死んでしまう。

ランスロとグイネヴィア姫の許されざる恋を円卓の騎士全員の前で騎士ゴーヴァンが暴露し糾弾する。王妃の不倫は国家反逆罪にあたり死刑に値する。窮地に立たされたアーサーは、ゴーヴァンに対してランスロ自らが王妃に命を捧げる騎士として宮廷全員の前で決闘をし、有罪か無罪かを決めると宣言する。国王自身は審判を務めなばならず決闘に参加できない。この時ランスロはグイネヴィア姫との関係が深まるのを怖れ森に隠れているが、自分の影(ドッペルゲンゲル)と闘って脇腹に深手を負っている。この傷は一生治らない不治の病となる。

神が正義を認めた者が勝つと信じられていたため、正義を決めるための決闘はしばしば行われた。決闘の日時が迫ってもランスロは現れない。その時、騎士になりたくてランスロのお付きをしていた農民出身のペルスバルが王の前へ進み出、自分をランスロの代わりに、グイネヴィア姫の無実を証明する騎士としてゴーヴァンに対決させてほしいと申し出る。アーサーはペルスバルの勇気を認め、いまだ騎士の身分でない彼をその場で叙任する。エクスカリバーをペルスバルの左肩ついで右肩に当て、サン・ミシェル Saint-Michel, サン・ジョルジュSaint-George の名において騎士に叙任ずると宣言する。いずれも騎士の守護神である。

ちょうどその時、鎧兜に身を固めたランスロが現れる。脇腹から血が流れ鎧の裾をLancelot5 赤く染めている。騎士の決闘はまず馬に乗ったまま長槍で突き合う。ゴーヴァンはランスロを落馬させるが、ランスロもゴーヴァンを引きずり降ろし、地上で死闘が繰り広げられる。不治の傷を持つランスロは息も絶え絶えながら、ついにゴーヴァンを組み伏せ喉もとに短剣を突き付ける。死を前にゴーヴァンは「王妃は無実だ!!」と叫ぶ。とどめを刺せずにランスロは気を失う。

肉体関係はなかったにせよ、グイネヴィア王妃とランスロの恋愛関係を知り、自らもモルガンと近親相姦の罪を犯してしまったアーサーは雷に打たれ魂が抜け「腑抜け」になる。腑抜けとなったアーサーの前へ近親相姦によってできた息子モルドレッドが現れ、力ずくでお前の王位を奪って見せると宣言する。王国の荒廃を自覚したアーサーは円卓の騎士全員を集め、王国の危機を救うには「聖杯」グラアル Graal を見つけ出す以外Graal4 にないと宣告する。国の隅々、森の奥、世界の果てまでも行き、草の根を分けて「聖杯」を見つけ出すよう全員に懇願する。

こうして円卓の騎士全員が
「聖杯」探究に出発するが、数年の歳月を掛け、地上のあらゆる土地を探したにもかかわらず聖杯を見出すことはできない。のみならず、成長し「悪」を代表するようになったモルドレッドは、母親で魔術師のモルガンと計らい円卓の騎士を次々と殺してしまう。

最後に残ったのが
ペルスバルで、彼は一旦グラアルを見るのだが「漁夫王」に遠慮Chrettroyesgraal してグラアルかと訊きただすのを躊躇する。そのため聖杯を逃してしまうのだがモルドレッドに殺されかけ、朦朧とした意識の中で再度「聖杯」を見、夢の中で聖杯とともにアーサーの許へ行き、腑抜けの王の口へ聖杯を運び中味を飲ませる。

意識を取り戻したアーサーは残った臣下にすぐさま出陣を命じ、鎧兜を着け、白馬にまたがり、幟を棚引かせて「悪」の支配者モルドレッド成敗に進撃する。荒廃し冬景色だった国土にたちまち春が訪れる。

このように、クレテアン・ド・トロワのペルスバルはキリスト教倫理が極めて濃厚に書かれている。

アーサー王が異父姉のモルガンと同褥するのはモルガン(もしくはモーブ)がアーサーに懸けた催眠術によるのだが、同じ伝説中のエピソード、円卓の騎士の一人トリスタンがイゾルデと恋に陥るのは媚薬を飲んだためである。

Amour2 「人は何故恋をするのか?」
筆者は思春期からこう問い続けてきた。

詩人のドニ・ド・ルージュモンが「愛」にはエロスとアガペーの二種類があると書いたことは先にふれたが、騎士道恋愛は極めて人格的愛、プラトニックな恋愛関係を示すことが多い。しかし、伝説の中の恋、なかでもトリスタンとイゾルデの恋は媚薬のせいだとして甚だ唯物的な解釈を示している。

近年英国の心理学者たちが、恋愛感情をもつに至った男性数十人と、その対象となった女性を調査した結果、いずれも女性から発せられたエストラゲン(女性ホルモン)を男性が吸収し、それが脳下垂体まで昇り恋愛感情を喚起したという研究発表をした。これはテレビで放映されたこともあり、かなり一般的なやはり唯物的な解釈の例といえる。

ともあれ、媚薬とか催淫剤とかは昔から存在したようだし、現代では、若者がデスコテックで初対面の相手に催淫剤入りドリンクを飲まされ、そのままベッドインというなど良く聞くし、精神分析医に催眠術を掛けられ淫行に及ばされた女性数人が裁判に訴え出た例さえある。

現代ではランスロのようにアガペーの対象として女性に命を捧げ忠義を尽くす男性を見出すのは至難の技に違いないが、すべての女性の深層にはランスロ希求が眠っていることもまた否めないのではないか。

一生を左右する結婚は重要だから、真面目に婚活に取り組まれることをお薦めする。

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